卓上の戦士
北海ハル
瞬間
数秒の静寂こそ、彼ら選手にとっては心地の良ささえ覚えるものだ。
2人の選手を固唾を呑んで眺める観戦者たちは、この試合の結末が全く予想できていない。
片や、幾度となく全国への切符を得ている社会人の男。この大会も例年通りの結果を迎えるだろうとまで言われていた。
それを阻んだのが、もう片方の相手選手────孝太郎である。
一般参加が可能な今回の大会は、社会人の参加が最も多い。それに比べると、孝太郎のような高校生はその半分程度だ。
その高校生も、ほとんどは高体連などで名を馳せるような選手ばかりである。────孝太郎はその枠にもはまらない存在であった。
高校の強敵は勿論のこと、孝太郎の相手のように何度も全国を経験している選手をも薙ぎ倒して決勝まで上り詰めた孝太郎は、この社会人の男の優勝を揺るがしている。
男自身、勝つ事に越したことはないが、別段拘っているほどでもない。ただ、1対1の『勝負』を楽しみたいのだ。
「サァーッ!!」
会場の静寂が、孝太郎の声で裂かれた。
男もそれに呼応するように、短く叫ぶ。
「サッ!!」
頭上高くサービスが上がる。
投げ上げ?しゃがみ込み?それとも────
あらゆる可能性とコースに思考を張り巡らせ、孝太郎はただ前を見つめる。そして────
ボールは強く台に運ばれた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
約4.17平方メートルの狭き戦場に集う者たちの目には、一般の人間には見えぬ世界が広がっている。
3グラムにも満たず、直径4センチという小さなその白球には、各人の秘めたるエネルギーを放出する力がある。
選手の力が強い時には、初速で時速190キロを放ち、相手を圧倒する事もある。
もちろんそれは選手の力あってこそではあるが、その力に耐え、そのまま前へと飛ばす
もうお分かりだろう。
小さなコートに選手が集い、小さな球を顔ほどの大きさであるラケットで打ち返すスポーツ────卓球だ。
常に思考を巡らせ、如何に相手の隙、弱点に打ち込むかで戦況が変わる。
実に繊細、且つ大胆な、球技上最も細かな配慮が必要なスポーツではないだろうか。
一回戦────
ざわつく会場に響きわたる、選手たちが自身を鼓舞する声。
各校、チームなどの強豪がその強さを見せる中、孝太郎はあるチームの主将と戦っていた。
一回戦からこのような当たりは、正直辛い。
しかも主将は日ペン裏、所謂前陣速攻タイプである。これは孝太郎にとってひどく難儀なものだった。
バックの粒をフォア側に持ち替え、サーブの癖を見抜きつつバックハンドレシーブの用意をする。
点差、セットポイントは10-9、2-2と際どいところだ。このレシーブは入れに行ったほうが良いのでは────と、気持ちが弱まる。
これが卓球では命取りとなるのだ。
常に自分のプレーに自信を持ち、どっしりと構える事が重要となる。
孝太郎は気持ちを落ち着かせ、グリップを握り直す。
主将が回転の少ない、スピードのあるサービスを放った。
孝太郎の見抜いた通り、サービスはバックの奥へと運ばれる。孝太郎は落ち着き払ってバックハンドを振った。
カットマンの孝太郎からは出ないと思われていた攻撃的なレシーブに、相手の主将は思わず「うわっ」と漏らした。
攻守万全の構え。孝太郎はカットマンと言うより、オールラウンダーであった。
二回戦、三回戦、四回戦とかなり順調に駒を進めた孝太郎は、五回戦───準決勝の準備に入る。
人数が絞られてくると、もはや呼ばれる間隔も試合のすぐ後になってくる。
孝太郎は落ち着かない様子でコートに入った。
相手は、シェークハンドの裏表。
異質までではなくとも、やりづらさは充分にある。バックハンドの表をどのタイミングで振ってくるかはリサーチしていなかった。
試合開始直後は、頻繁にバックの表を振る相手に苦戦していた孝太郎だったが、試合が進むにつれてその球質に慣れ、逆に上手く利用する。
表のようなナックル気味のボールを放つラバーは、弱く振れば不安定で取りづらく、強く振れば強力なボールとなって、これまたやりづらい。
だが、慣れてしまえば全く怖くないものである。孝太郎は粒高でありながら浮いたボールを何度もバックハンドで振っていき、孝太郎こそ異質のような存在感を示していた。
相手選手も孝太郎のリサーチはしていたようだが、粒高のボールはどうにも打ちづらく、対応に困っているようだ。
そうしている間にいつしか試合は3-1と、孝太郎が完全に流れを支配する形で終了してしまっていた。
孝太郎の家は代々卓球家族でも何でもない。
ただ、近所の卓球ショップでマンツーマンの指導を受け続けてここまで来たのである。
きっかけはなんて事はなく、ただ「面白そうだからやってみたい」だった。
幼心にも卓球は熱く映ったようで、孝太郎はすぐに熱中した。
大会に出たいとも、強く思うまでになった。しかし、その卓球ショップの店長、兼監督に、ずっと止められていたのである。
店長に「中学でも卓球部には入るな。高校になったらこの地域の大会にエントリーしてやる」と幼い頃から言われ続けて来ており、その真意は中学の2年頃に理解した。
────リサーチがしづらい。
毎年、様々な大会にエントリーしているような選手の情報は監督が仕入れてくれる。
だが、孝太郎の情報はどうだろう?
ここのショップは別の建物に練習場を持つため、孝太郎のスタイルが漏れることは少ない。
これこそが監督の戦略であった。
あらゆる戦型を網羅した監督に、死角は無い。
若い頃にはオリンピックの代表候補まで名前が挙がったそうだが、なぜ代表になれなかったかは聞いた事がない。
恐らく、これからも聞くことはないだろう。
幼少期、小、中学時代の練習の姿を晒してこなかった孝太郎が高校に入学し、初めての大会が今回であった。
初めてで、決勝まで駒を進める。
地域大会とは言え、こんな高校生は前代未聞だ。
これからも出ることは無いだろう。
靴紐を結び直し、目線を上げる。
屈んだままの目線の先に広がるのは、十年前に見たような高さと変わらない位置にある卓球台だった。
孝太郎は敢えて、首を動かさず足を伸ばす。
ゆっくりと高さを上げる目線には、これまでの軌跡が浮かぶようであった。
と、決勝の相手である社会人が孝太郎に歩み寄る。
「よろしくね。」
その五文字の言葉と、右手が添えられる。
真意を理解するのに、時間など要らなかった。
「────よろしくお願いします。」
礼儀とは、生活の合間に息を潜めて存在するものである。
それを怠る選手は、重要な試合で必ずと言っていいほど
逆に、このように試合前にも礼儀を重んじる選手こそが、強くどこまでも伸びるのだ。
だから────いや、相手への敬意を表して、だ。
孝太郎も相手に倣い、右手を差し出す。
そしてお互いの手を強く握った。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
────放たれたサービスは、孝太郎のミドルに深く突き刺さった。
思わず仰け反る形でレシーブをするが、甘さは見えない。
不意を突かれてもコースは厳しく突く。
上回転のレシーブは、軽い横回転をかけながら相手のバックに入る。
それを返せない相手ではない。ボールが台に付くとほぼ同時にバックハンドを振り、孝太郎に余裕を与えない。
ストレートに厳しく入ったバックドライブは、孝太郎の予想を遥かに上回る回転がかかっていた。
思い切り振り込んだフォアハンドも虚しく、ボールは台からオーバーして飛んだ。
孝太郎は察した。
これは『勝てない』と。
経験値、メンタル、対応力。それらを比較した時に相手の社会人と勝る部分は無い。
全体的なボールの強さはあったとしても、それだけだ。
戦略性やボールの緩急を考えるような事がないと、技術的に伸びは期待出来ない。
熱意と根性だけのスポーツではないのだ。
恐らく監督は分かっていた。
こうなる事は分かっていて、敢えて出したのだ。
孝太郎に、一度『挫折』を知らせるために────
「セイッ!ヨー!!」
相手選手が大きく声を張り上げる。
試合の流れは、悪くない。展開も2-2の6-8と、決して追い付けない点数ではない。
だが、孝太郎は分かっている。
このセットの孝太郎の点数────全てが相手の打ちミスやサーブミスによるものだった。
孝太郎の攻撃やカットが効いて点数になっているわけではない。
相手選手もそれを分かっているからこそ、微調整を加えて強気に攻められるのだ。
さあ────負けるにしてもタダでは負けたくはない。
孝太郎はもう、勝敗よりも『試合』を楽しみ、どう魅せるかを考えていた。
諦めたわけではない。
魅せる中で、相手の隙が見つかるかもしれないと思ったのだ。
魅せるためにはまず────バックの粒を活かす。
カウントは8-10。孝太郎のサーブであり、後の無い状態だ。
ここでふと構えを変え、かなり低い位置まで腰を落とした。
そしてバック側のラバーが相手に見えるように持ち、ボールを高く上げる。
インパクトの瞬間、粒である事を忘れさせるようなスピンを目指して振り込んだ。
相手のコートに付いた瞬間、「ギュッ」と短く音が鳴る。
このサーブがどう響くかは、相手次第だ。
相手選手はフォアに遅く、ただ強い回転を孕んだボールを全力で捌くように振り込む。
───そのボールは、孝太郎側のコートに入───
卓上の戦士 北海ハル @hata
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