第13話 ナナカマドが見えるころ
十三 ナナカマドが見えるころ
9月の定例議会が終わった第2金曜日に、優斗は辞職願を提出した。職場の誰にも伝えていなかったので、周囲の驚きようはすごいものがあったし、今まで何かと因縁をつけて優斗の仕事の邪魔をしようとしていた人たちも本気になって慰留するものだから、優斗はそれを馬鹿げたバラエティ番組でも見るかのような心境になった。。
退職日は9月末として、2週間以上の余裕を持ったから、法的にも就業規則的にも問題がないはずだ。優斗は、退職辞令をもらうためにどうしても出勤しなければならない退職日まで、有給休暇を消化することにしていた。
デスクの私物など、退職日に2時間も作業をすれば片付いてしまう。隣のデスクの美加は、恨む様に優斗を睨みつけていたが、その視線を無視して優斗は事務所を後にした。そしてその足で、道庁の地域政策局の事務所へ向かった。
「佐藤課長、ちょっといいですか?」
事務所に着くと、課長席へ真っ直ぐ向かい、佐藤にそう声をかけた。
「お、珍しいな。10分くらいしか取れないぞ」
「人には聞かせられない話なんですが」
それを聞いた佐藤は、席を立って書庫へと向かった。優斗は懐かしい感覚を噛み締めながら、佐藤の後ろを着いて行く。
「どうした?」
書庫に入ると、佐藤から話を切り出した。
「今月末で退職します。今日、辞職願を出しました」
沈黙が書庫を包む。
「教育庁はそんなに辛いのか?あと2年の我慢で、こっちに戻す約束は、絶対に守るぞ」
佐藤は慰留するつもりだ。教育庁での滑稽なそれとは違い、心からのありがたさに全身が満たされていく。
「違うんです。まあ、教育庁での仕事に何の不満もないと言えば嘘になりますが。実は、入院している時に知り合った女性と、ここ数ヶ月一緒に暮らしていました。ただ、結婚するとか、そういうことではなくて、彼女とよく話し合って、これからの人生、行政職員として制度や仕組みを作っていくよりも、目の前の一人を救えるような仕事をしていきたいと思ったんです。その女性と一緒に、生きずらさを抱えてしまっている子どもたちを支援していけるような組織を作っていこうと決めたんです」
佐藤は黙って優斗の目を見ながら聞いていた。
「その話だけじゃよくわからないが、つまり、道庁にいてはできない仕事をするって決めたってことだな?」
「はい」
「わかった。その決断も、お前らしくていいじゃないか。俺の個人的な気持ちとしてはとても賛成できないが、お前の人生だ。応援はするよ」
佐藤は、そう言って優斗の肩を2度軽く叩いた。
「お世話になりました」
優斗は、溢れてくる涙をこらえてそう言った。
「退職の辞令をもらったら、こっちにも顔だせよ」
優斗の退職の話は、佳奈子と相談をして決めたことだった。いくばくかの退職金も出るはずだ。
これからは、仕事のしがらみや政治的な重圧とは無縁の仕事をしていくことで、佳奈子との生活を最優先にしていきたいということだけが、今の優斗の唯一の望みだった。
「障がいがある子や病気で悩む子を支えられる仕事がいいよね」
退職することを告げた日、ベッドの中でいつものように佳奈子は左手で優斗の右手を握りしめながらそう言った。
「俺もそう思ってるんだ。障がいのある子を支えられるような団体を立ち上げて、それを仕事にしていきたいと思っているよ。幸いにして、仕事でお世話になった人たちはきっとみんな応援してくれると思う。これからは、目の前の一人を救っていける、目の前の一人のために仕事をしているって実感できる仕事がしたい。そしたら佳奈子の経験もきっと役に立つ。収入は安定しないし、今の給料よりもずっと低くなるだろうけど、それでもいいかい?」
優斗がそういうと、佳奈子は「引っ越さなきゃね」とだけ呟いた。
優斗が辞職願を出した翌日から、2人は新しく住む家探しを始めた。優斗は少しでも住み安い場所と、心地よい間取りの家をと思っていたが、佳奈子は最低限の生活ができればよいと、質素で安価な部屋を希望した。
知り合いの不動産屋に頼み、3日間かけて物件を見学して、最終的には、家賃3万円のワンルームのアパートの1階に決めた。
優斗は、今までこだわってきたデザイナーズ物件という洒落たデザインも、ジャグジーバスも、オートロックも全て捨てて、ただ、2人で一緒に生活ができる空間があればいいという佳奈子の思いを優先した。
優斗に退職辞令が発令されるまでの2週間で準備をして、退職のその日に引っ越すことを決めていた。
9月の最終日、退職の辞令を受け取った優斗は、2時間ほどで自分のデスクの私物を整理し、教育庁内の主だった部署に挨拶を済ませた後、地域政策局の佐藤の元へと向かった。佐藤は、「餞別だ」と言って、ラッピングされた小包を手渡した。優斗は丁寧に礼を言って佐藤の席を後にした。
そのままJRに乗り、新たな住まいのアパートがある手稲駅へと向かった。その最中、佐藤が餞別として渡してくれた小包を開けてみた。
モンブランのマイスターシュテックの万年筆だ。以前、佐藤が使っているのを見て優斗が羨ましがっていたのを、佐藤は覚えていたのだろう。
『Y.Matsuno』の刻印もしてあった。
優斗は、一生の宝物として大事に使おうと決め、しまわれていた箱には戻さず、それをスーツのジャケットの内ポケットに忍ばせた。
新たなアパートには、すでに佳奈子が到着していたが、荷物の到着は遅れているようだった。荷物と言っても、優斗の仕事道具は、今まで酷使してきたノートパソコン一台だけであり、2000冊を超える蔵書も全て古本屋に売り、仕事に必要だと思って集めていた資料も文房具も、着るものでさえも必要最低限のもの以外は捨ててきたので、その量は驚くほど少ない。
それでも、優斗は佳奈子と一緒の生活ができるというだけで満たされた気持ちでいっぱいになるのだった。
家具も家電も何もない1階の部屋で荷物の到着を待っている間、1つだけある窓から、2人で外を眺めてみた。
そこからは、うっすらと赤く色づき始めた街路樹が1本見える。
「ねえ、あの木、なんて言う名前?」
佳奈子は、優斗の左手に自らの右手を絡ませながら、そう訪ねた。
「ナナカマド、だよ。」
優斗は短くそう答えた。
「これからもっと赤くなる?」
佳奈子が訊く。
「真っ赤になるよ。あの木の実はね、冬でも赤いままなんだ」
優斗のその言葉を聞くと、佳奈子は満面の笑みを浮かべた。
「楽しみだね」
佳奈子がそう言うと、インターホンが鳴った。驚くほど少なくなった荷物が到着したらしい。
それを聞いた佳奈子が、一目散に玄関へと向かう。
「佳奈子、荷物の受け入れが終わったら、あのナナカマドを見ながら、その辺を散歩しようか?」
優斗のその提案に、佳奈子はうれしそうに「うん」と答えた。
ナナカマドの見えるころ 苅窪ダイスケ @karikubodaisuke
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