第12話 決意

 佳奈子との同居が始まって以来、再発していた優斗の性的な依存行為は全く起こらなくなっていた。同居をしている佳奈子に対して性欲を感じることはもちろん、今まで継続的に性的な関係を持ってきた女性に対してもそうだし、風俗に行こうという気も起きなかった。佳奈子も、栄養のかたよりはあるにせよ、3食ちゃんと食べるようになってきて、食べ吐きをせずに生活できているので、体重は少しずつ増えているように見えた。

 2人は、入院していた時のように、毎日たくさんの話をした。その中で、佳奈子の両親嫌いが、決して佳奈子の思い込みによるものではないこともわかってきた。特に父親が、毎日佳奈子に対して浴びせていた罵詈雑言を聞くと、優斗は佳奈子の心情を察して同情を隠せなくなるのだった。

 「精神的に弱いだけの負け犬」

 「意思が弱い子に育ったのは母親の責任」

 「精神科にかかる医療費は無駄」

 「恥ずかしいから家から出るな」

 それらの言葉を毎日浴びせられた佳奈子が、家にいられずに職探しをして、家を出ようと試みたことがあることも知った。しかし1円の現金も持たせられない佳奈子は、履歴書1枚買うこともできないのでそれも叶わず、しかし佳奈子を家から出したくない両親は、軟禁に近い形で家の中に閉じ込めていたのだった。優斗はそんな話を聞くにつれ、佳奈子と過ごす時間を大切にするようになっていった。

 優斗は仕事もそこそこに、なるべく早く帰宅する毎日を送っていた。もちろん、佳奈子と同居していることは誰にも話していないので、悟られないようにしていく必要があったが、同居を初めて3ヶ月も過ぎた頃になると、すでに今の仕事への情熱も徐々に薄れていくのを自覚していった。きっかけは、やはり佳奈子との話であった。

 「松野さんの仕事って、今、教育なんでしょ?」

 同居を初めて一ヶ月くらい経ったころ、ある土曜日に一緒に夕食を作りながら、唐突に佳奈子が訊いてきたきた。

 「そうだよ。教育って言っても、学校で何かを教えるわけじゃないけどね。学校がよいものになっていくための仕組みを作ったり、先生の能力を上げるための方法を考えたり、子どもの学力を上げるために必要なことを考えたりするのが仕事なんだけどね」

 優斗は、難しい話を嫌う佳奈子にもなるべくわかりやすいように言葉を選んだ。

 「ふうん。じゃあ、実際に子どもに接していないのに、子どものことを考えたりしているわけ?学校の先生は、毎日子どもと会って、その子どもたちのことで色々悩むわけでしょ?でも松野さんは、そんな環境にないのに子どものことを考えられるの、すごいね」

 佳奈子は、目を輝かせて本当に感心しているようである。

 「そうかな?」

 優斗は佳奈子が一体何に感心しているのかわからなかった。

 「つまり、病気の患者さんに接している病院の先生ではなくて、薬を開発したり、新しい病体を発見したり、治療法を研究したり、そういうことをしているってことでしょ?すごいよ」

 佳奈子の例えは何かと病気や病院のことが多く、今回も全く次元が違うと思ったが、一方で、優斗が今まで考えたこともなかった発想で、なかなか上手な例えであるとも思った。

 「でもね、1つ不思議に思うことがあるんだ。訊いてもいい?」

 「何でもどうぞ」

 「じゃあ、実際に悩んでる先生や、頑張ってもテストで点数が取れない子どもたちや、そもそも勉強したくてもできる環境にない子どもたちのことや、学校に不満をもっている親のことや、私がそうだったみたいに学校に居場所がなくて学校に行くこと自体が苦痛な子どものことや、そういうことはどうやって把握するの?」

 優斗は、この質問の答えに窮した。優斗が仕事で相手にしているのは、子どもやその保護者ではなく、教育庁内部の組織や、学校現場というものを背負っている校長たち、それも政治力のある人たちが主である。今まで、その先にいる子どもや保護者のことなど、考えたこともなかった。

 (いや、校長たちの先に子どもたちがいる、という考え方自体が間違っているのかな・・・)

 そんな優斗の考えなど察することもなく、佳奈子はいつものように話を続けるのだった。

 「私、今まで色々な病院に入院してきたでしょ。そこで出会った患者さんたちのほとんどがそうだったし、私自身もそうだったんだけど、障がいや色々な理由で学校に居場所がなかったり、苦手とかじゃなくて勉強が本当にできない子ども、たくさんいるんだよね。そういう子どもたちって、どうなっていくの?」

 佳奈子の質問は、経験に基づくものでリアリティがあるものだった。

 「それは、今の時代は特別支援教育と言って・・・」

 優斗はそこまで言って言葉に詰まった。その先に優斗が言おうとした言葉は、「義務教育課が」とか、「特別支援担当のセクションが」などと言う、行政の縦割りを表す言葉だった。自らが行政の縦割りの考え方を否定しておきながら、都合の悪い時にはそれを盾にしようとしている、そんな思いが去来した。

 「佳奈子ちゃんにそう言われると、俺、そういう子どもたちのことは考えてなかったかな」

 優斗は、一度口から出かけた行政の縦割りを主張する言葉を飲み込んで、自分の気持ちに正直になって言い直すことができた。こんなことを職場の誰かに言われようものなら、まくしたてる様に反論したはずである。自分でも、その素直さに驚いていた。

 「なに?責めているわけじゃないんだよ。でも、そんなことも考えてくれたら、世の中、もっとよくなるんじゃないかって思っただけ」

 佳奈子はそう言って笑顔を見せた。その笑顔が、優斗には何となく愛おしく思えたのだった。

 この時の会話がきっかけになり、優斗は自分の仕事の意義というものを見出せなくなっていった。自分の仕事は、本当に困っている子どもたちのためになっているのか、学校の現場に必要とされているものなのか、そもそも子どもや保護者が幸せになるための施策になっているのか、そんなことを考え出すと、益々自分の仕事の存在意義というものに疑問を持つ毎日を送ることになっていった。

 それから2ヶ月ほど経ち、優斗と佳奈子が同居を始めて3ヶ月ほど経った頃、季節は夏から秋の気配を見せはじめていた。この頃、優斗の頭の中にはひとつの発想がよぎっていた。

 最近、ほぼ毎日そうであるように定時で退勤して、まっすぐ家に帰った優斗は、リビングで号泣している佳奈子を見て焦った。

 「どうしたの?」

 驚きながらそう訊く優斗に、泣きながら何も言わずに佳奈子は携帯電話を見せた。メールの受信画面になっているその携帯電話は、佐谷幹男、佳奈子の父が発信元になっていた。

 【佳奈子はもういないものだと思っているから、二度と家には帰ってこないこと。親子の縁は切る】

 そこには短くそう書かれていた。以前、同居を始めたころに、親が心配するといけないと考え、友達と一緒に住むから、しばらくは帰らないと佳奈子にメールをさせていた。それに対する返信は一切なく、今日になっていきなりこのメールが来たとのことだった。

 「今まで親らしいことしてくれなかったくせに、いきなりこんなメールしてくるなんてひどいでしょ」

 実家が、いや、親のことが嫌いなのに、改めての絶縁宣告はそれはそれで残酷なものだったのだろう。佳奈子は泣きながらそう言った。

 「ねえ佳奈子ちゃん、少し話する余裕あるかい?」

 優斗はそう言って、泣いてうずくまっている佳奈子の横に座り直した。

 「なに?」

 佳奈子は、顔をあげて腫れた目で優斗の目を見つめている。

 「最近いつも考えていたことなんだけど、このままの中途半端な形はよくないと思うんだ」

 優斗のその言葉を聞いて、佳奈子は不安な表情を浮かべた。

 「松野さんも、この家出て行けって言うの?」

 佳奈子の瞳からは、また涙があふれ出ている。

 「違うよ。ちゃんと一緒に住もう、って言ってるんだ。俺ね、佳奈子ちゃんのこと、好きになってると思うんだ。正直、体の関係がない女性との感情ってよくわからなかったけど、最近実感するんだ。俺は佳奈子ちゃんのことがとても大切に思えるし、少なくても今、一番大切なのは佳奈子ちゃんの存在なんだ。だから、これから、堂々と一緒に住んでいるって思いたいんだ」

 佳奈子は、キョトンとした表情で優斗を見ている。

 「そんなこと言ったって、私、人を好きになったこととか無いし、そもそも人を好きになるって感情がわからないんだよ」

 佳奈子のその反応は、優斗にとっては想定の範囲内だった。むしろ、そう言ってくるであろうことは予想していた。

 「でも少なくても、一緒に住んでいけるでしょ?」

 優斗は、いつも女性にするように勢いで合意を取り付けるのではなく、ゆっくりと話をしていこうとしている。

 「松野さんと一緒にいると、安心できるし、落ち着くし、自分を隠さなくていいし、楽しいし。人と一緒にいて、こんな感覚になるのは初めてだよ」

 「俺も最初は、女性として佳奈子ちゃんを見ていたわけじゃなかったんだ。だけど、一緒に暮らしているうちに、佳奈子ちゃんの笑顔が見られて嬉しいと思うことが増えてきたし、守らなきゃいけないといつも思うようになった。俺、正直、退院してから性嗜好障害がおそらく再発していたし、今までセックス抜きで女の人を大切に思う感情なんて持ったことなかったけど、きっとこれがそうなんだなって、きっとこれが本当に好きってことなんだなって思う様になったんだ。だから、これからも一緒に住んでいきたいって思ってるんだ」

 佳奈子は困った顔をしながら優斗のこの言葉を聞いている。

 「ねえ、今までの生活と、何が変わるの?」

 佳奈子は本当にわからないようだった。

 「何も変わらないよ。だけど、寝る時は一緒に寝たい。体に触れなくてもいい。だけど、佳奈子ちゃんと一緒に生きているって実感がしてくて、佳奈子ちゃんの体温を感じて眠ることができたら、それだけで多分、幸せを感じることができると思うんだ」

 佳奈子は、もう何も言わずに、ただ頷いた。

 そしてその日の夜、一緒に生活を初めて3ヶ月以上経ったこの日に、2人は初めて一緒のベッドに入った。優斗は約束した通り、佳奈子に触れることなく眠りにつこうと思っていたが、佳奈子は右手で優斗の左手を握りしめてきた。いつもであれば、一緒にいる女性とこれから色々な駆け引きをして、セックスにもちこもうとする優斗だったが、そんな気を起こすこともなく、ただ佳奈子の右手を強く握り返した。

 「私も不思議な感情だよ。これが好きって感情かどうかもわからないけど、松野さんと一緒にいたいって、そう思っていることは事実だから」

 そう言うと、佳奈子は寝息を立てて眠りについていた。

 (こんな時も、マイペースなんだな)

 そう思って、優斗も瞳を閉じた。

 

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