06

 イフェリカの背中が見え、そのすぐ向こうにはディサドの顔があった。口から血を吐き、支えをなくしたように倒れる。その背中が真っ赤に染まっている。騎兵の持つ刃には鮮血がついていた。

 騎兵がイフェリカに斬りかかったが、ディサドが身を挺してかばったに違いない。

 ハルダーは雄叫びとともに、騎兵に突撃した。騎兵は血の滴る剣を顔の前に構え、ハルダーの刃を受け止める。打ちつけられた重さに騎兵が顔をしかめる。ハルダーは立て続けに刃を打ち込んだ。一撃を受け止めるたび、騎兵の表情は険しくなり焦りがにじむ。金属のぶつかり合う音が何度も耳を突き抜ける。

 それが何度目なのかハルダーにもわからなくなったとき、受け止める騎兵の剣が折れた。見開いた目と目の間を、ハルダーの切っ先が駆け抜ける。赤い筋が走り、騎兵は悲鳴を上げてのけぞった。後ろへ下がる騎兵に追いすがって距離を詰める。血の流れる顔を片手で押さえ、追い払うように折れた剣を振る。痛みと焦りで本当にただ振り回すだけだった。ハルダーは、剣の平を騎兵の剣を握る手に叩きつけた。金属製の籠手をはめていても、衝撃は殺し切れない。騎兵が剣を取り落とす。ハルダーは素早く右体側を騎兵に向けて、右足を蹴り出した。ちょうど鳩尾に決まる。騎兵は短い悲鳴を上げ、声もなく仰向けに倒れた。

 地面に落ちた折れた剣を遠くへ蹴り飛ばし、騎兵の顔をのぞき込む。意識はないが、息はある。

「ディサド、ディサド! しっかりしてください!」

 うつ伏せに倒れたディサドの傍らに膝をつき、イフェリカはその肩を揺すっていた。

「イフェリカ。あまり動かすな」

 取り乱した彼女の肩を掴む。イフェリカはその手を振り払おうとしたが、ハルダーはぐっと握って、イフェリカをディサドから引き剥がした。

「もっと血が流れる。動かすんじゃない」

「申し訳ありません……気が、動転して……」

 顔は涙で濡れ、目は真っ赤だ。

 ディサドは右肩から左わき腹にかけて切り裂かれていた。出血量はおびただしく、顔は驚くほど白い。

 ハルダーは物入れから札を取り出した。怪我をしたところに貼れば傷を癒せる魔術具だ。ただ、傷の範囲が広く深いから、一枚二枚では足りない。

「……手当てはいい。あんた傭兵なら、わかるだろ……」

 ディサドが細く目を開けた。声はかすれ、弱々しい。札を貼ろうとしたハルダーは、その手を止めた。彼がもう長く持たないのは、傭兵でなくとも明白だった。

「どうして私をかばったのですか。私が、本当なら斬られていたはずなのに……」

「あなたは、イフェリカ王女殿下でしょう……。俺は、ヴェンレイディール人だから」

 痛みがひどいだろうに、ディサドは口の端に笑みを乗せる。イフェリカの目からは新たな涙があふれていた。

「ヴェンレイディールに帰るあなたの、力になりたかったんです……リューアティンから取り戻すため、なのでしょう? あなたの帰りを待っている人はたくさんいます……ヴェンレイディールが、また一つの国になることを望んでいる人が……俺以外にも、たくさん……」

「私には、無理です。できません」

 首を振るイフェリカに、ディサドはなおも笑みを向ける。死の淵にあっても希望を得ているような顔だった。

「そんなこと……ありませんよ。護衛とたった二人で、帰ろうと、している王女様なんですから……」

「でも、無理です。私には、無理なのです」

「どうか……お願いです、王女殿下……こんな俺のために泣いてくださるあなた、なら……」

 最後の方は顔を寄せなければ聞き取れないほどだった。ディサドは口元に小さな笑みを浮かべたまま、それから二度と動かなかった。

「申し訳ありません……申し訳ありません……私は、私には……」

 嗚咽混じりの言葉は、ディサドにはもう届かない。それでもイフェリカは謝り続けていた。

「……イフェリカ。もうすぐ警備隊がここに来る。その前に逃げよう」

「ディサドは……」

 ハルダーは首を横に振った。

「このままにしておくしかない。時間がないんだ」

「でも」

 家族の墓参りをしたいと望んでいる彼女にとって、自分をかばって死んだディサドの亡骸をこのままにしておくのは耐え難いことだろう。

「ディサドは、イフェリカを守るために身を挺したんだ。彼の意志を無駄にしたくなかったら、今すぐ立って、逃げるぞ」

 少々きつい物言いと口調になってしまったが、ここでぐずぐずしているわけにはいかない。イフェリカは涙を拭いながら立ち上がった。

「必要な荷物だけ持って」

「荷馬車も置いていくのですか」

「荷台はな。馬に乗っていこう」

 騎兵たちの乗ってきた馬は、三頭ともハルダーが使えなくしてしまった。軍馬に比べればディサドの馬はかなり見劣りするが、いないよりはましだ。

「騎兵の方たちは……」

 地面に倒れている三人にイフェリカは気遣わしげな目を向ける。今のところ、誰もまだ起き上がっていない。

「放っておいて大丈夫だ。もうすぐ連中の仲間が来るし、致命傷は一人もいない」

 馬を荷馬車から離し、イフェリカを先に乗らせた。彼女の後ろにハルダーが跨がり、手綱を握る。荷台を牽く馬だから体は大きいが、大人二人を乗せて長くは走れないだろう。迂回路まではそう遠くなく、迂回路に入ってもしばらくは大丈夫だろうか。

 蹄が地面を蹴る。揺れる馬上で、ハルダーの腕の間にいるイフェリカが名残惜しげに振り返っていた。やがて前を向き、馬の首をなでる。

「おまえのご主人様を置いてきてしまって、ごめんね」

 馬蹄の音に混じって、そんな声がハルダーの耳に届いた。

 迂回路へ入る道は、気をつけていなければ見落としてしまいそうだった。通る者が少ないからだろう。そこだけ、周辺より少しだけ繁る植物の勢いが違う。地面は踏みしめられ、下草が周囲より短い。小走りに駆ける馬に、迂回路へ入るよう指示を出す。主人が違うことをわかっているのかわかっていないのか定かでないが、馬は迂回路へ足を向ける。

「ハルダー」

 イフェリカの不安げな声にハルダーは頷いた。地響きのような音が聞こえる。ここから見れば下っている道の向こうには、集団の人影も見える。警備隊の本隊だ。

「イフェリカ。馬に一人で乗れるか」

「乗れます。でも何故今そんなことを」

「あいつらを引き留めておくから、その間に先に行け」

 馬を止まらせ、ハルダーは飛び降りた。二人乗っていては、これ以上速くは走れない。しかし、イフェリカ一人なら今より速く長く走れる。ハルダーが警備隊を引きつけている間に、相当進めるはずだ。

「嫌です。そのようなことはできません」

「行くんだ。とにかく道なりに行け。俺はあとから追いかけるから」

 ヴェンレイディールへ続く街道は、ハルダーも通ったことはある。だが、この迂回路の存在は知らなかった。道がどうなっているのかわからないが、進むしかない。

「通ったことのない道なのです。はぐれてしまったら」

「とにかくまっすぐだ。二つに分かれていたときは、右に曲がれ」

 右である必要はないが、左右どちらかに決めておけば、あとから追いつけるはずだ。

 イフェリカがなおもためらっている間に、どんどん警備隊は近づいてくる。人と馬の識別ができる。数は二十ほどか。一対二十は厳しいが、道幅はここもさほど広くない。森の中へ入ってしまえば、馬の機動性は活かせない。魔術具もあるから、なんとかならない数でもない。ただ、そのためには、イフェリカに今すぐ迂回路を逃げてもらわなければならなかった。

 物入れから掌に収まる大きさの小瓶を取り出した。茶褐色の瓶で、中には液体が入っている。瓶の色のせいで色はよくわからない。ハルダーは警備隊めがけてそれを投げた。放物線を描くが、警備隊にはとても届かない。だが、それでも構わなかった。

 地面に落ちて瓶が割れる。その途端、白い煙が勢いよく吹き出した。あっという間に道いっぱいに広がる。

「イフェリカ。今のうちに行くんだ」

「ハルダーは、ディサドのように身を挺するつもりではないのですか。私は、そんなのは嫌です。私のために誰かが命を落とすなんて、もう嫌なのです」

「俺は死ぬつもりはない」

「でも」

「イフェリカが迷子になる前に追いつくよ」

 笑ってみせると、イフェリカは虚をつかれた表情になり、それから苦笑する。

「私、方向感覚があまりよくありません」

「わかった」

 ようやく先に行ってくれる気になったようだ。手綱を握る。

「早く追いついてくださいね」

「ああ」

 蹄鉄の音は先ほどより近づいているが、煙はまだ立ちこめていてその姿は見えない。逃げるのなら今のうちだ。

 馬が歩き出そうとしたまさにそのとき、空気を切り裂く音がした。煙幕の向こうからだ。とっさに身構えたハルダーのすぐ脇をそれは通り抜け、背後の馬に命中する。馬がいなないて後ろ脚で立ち上がった。イフェリカが悲鳴を上げて振り落とされる。

「イフェリカ!」

 とっさに地面を蹴って、落ちるイフェリカの下に体を滑り込ませる。両手でその小柄な体を受け止めるが、落下の衝撃でハルダーは体勢を保てず背中を地面に打ちつけた。

「ハルダー! ハルダー、大丈夫ですか!」

「大丈夫だから、暴れるな」

 ハルダーが大きく咳き込むと、腕の中でじたばたとしていたイフェリカの動きがぴたりと止まった。

「……やっぱり、自分を犠牲にするつもりがあるではないですか」

「これは不可抗力だろう」

 向き合う形で抱きかかえることになったので、どこか責めるような目をするイフェリカの顔が間近にあった。さっきの今でこんなことになってしまい、ばつが悪くてハルダーは目を逸らした。煙幕が徐々に晴れていく。薄くなった煙の向こうに集団の影が見えた。地響きのような音はすぐそこにある。イフェリカが身を固くするのがわかった。

 騎兵の集団が、煙を蹴散らして現れる。先頭の騎兵だけ、兜に羽根飾りがついていた。

「イフェリカ・イェセス・ヴェンレイディール王女殿下ですね」

 羽根飾りの男が、イフェリカにぴたりと視線を合わせる。

「やはり亡き祖国へ帰ってこられましたか。おとなしくしてくだされば、これ以上手荒なことはいたしませんが」

 ほかの騎兵たちが、地面に座り込むハルダーたちを取り囲む。道が狭いせいで、馬の大きな蹄がすぐそこにあった。

「旧ヴェンレイディールを現在統治されているユヴィジーク殿下が、イフェリカ様の安否を大変気にかけておられます。このまま我々に同行してくださいますね?」

「何が気にかけているだ。生死は問わないと書いてある手配書をリューアティン中にばらまいておきながら」

 イフェリカの正体はもう露見している。隠しても無駄なら、せめて悪態くらいはついてやろうと思った。

 隊長が眉をひそめ、冷ややかな目でハルダーを一瞥した。

「王女の護衛にしては品がない。傭兵か」

「品がよければ守り切れるもんでもないだろう」

 イフェリカの肩をぐっと掴み、地面に小さな杭を突き立てた。固い道が、まるで柔らかな柔らかな布になったようにたわむ。柔くて掴み所のない地面に、馬が足を取られて列が乱れる。ハルダーはイフェリカを下ろしてから立ち上がる。イフェリカの手を取り、列の間にできた隙間に飛び込んだ。人程度の重さなら、地面はさほど柔く感じない。そういう魔術具だ。

 頼りない地面に馬の制御もままならないまま、騎兵が槍を振り回す。身を低くしつつ、剣で弾き返す。槍を操るのもままならないのか、その穂先は味方をかすめた。

「逃がすな、追え!」

「しかし、地面が」

 包囲網の外へ飛び出し数歩走ると、地面の感触がしっかりしたものになる。ここはもう魔術の範囲外だ。うまい具合に迂回路のある方へ抜け出せた。警備隊が柔らかくなった地面に足を取られている間にできるだけ連中から離れ、追いかけてくる彼らをなんとか一網打尽にする。持ち合わせの魔術具をどう組み合わせればそれができるだろうか。大風を起こすもの、炎の矢を降り注げるもの、目くらましの閃光弾、それ以外にも――。

 と、正面から聞こえる音にハルダーは瞠目した。迂回路の先から、何者かがやって来る。

「嘘だろ……」

 警備隊が近づいてきたときと同じか、それ以上の地響きだ。警備隊はまだ悪戦苦闘しているが、なんとか抜け出した者も既にいるようだ。

 挟み撃ちされた。後ろに二十。前からも同じかそれ以上。持っている魔術具だけでしのぐのは相当厳しい。

「ハルダー。前からも……」

 当然、イフェリカにも聞こえている。掴んだ手から彼女の不安が伝わってくる。

 森の中へ逃げ込んでも、相手は馬だ。すぐに追いつかれる。たとえ逃げられても、闇雲に走れば迷ってしまう。警備隊はまだ足を取られている。だが、術の効果はもう少しで切れる。

 前から来る一団を迎え撃って突破する。それしかなかった。

 攻撃のために予告なく立ち止まったハルダーに、イフェリカが小さな悲鳴を上げてぶつかった。

「悪い」

「いえ、大丈夫です。でも、どうするつもりですか」

「俺の後ろに隠れてろ。馬を奪って逃げるぞ」

 取り出した閃光弾を握りしめる。警備隊が追いつくよりも先に、前からの一団の姿が見えた。

 ハルダーは目を細めて凝視した。数は二十ほど。全員騎乗している。だが、装備はばらばらだ。武装しているが、警備隊と同じ格好をしている者が一人もいない。中には、ハルダーと同じくらい軽装の者もいる。リューアティン兵ではないように見えた。しかし、では彼らは何者なのだろうか。まさか、盗賊か。傭兵崩れならば装備がばらばらなのも頷ける。だが、この局面で盗賊など、警備隊よりも厄介だ。

 一団の先頭を行く数騎が弓矢を構える。

「伏せろ!」

 閃光弾を投げようとしたハルダーに、一団の誰かが怒鳴る。わけがわからなかったが、ハルダーは背後のイフェリカを抱きかかえるようにして地面に伏せた。直後、頭上を矢がいくつも通り過ぎていく音がした。うなるような地響きが近づき、ハルダーたちのすぐ横を、馬の足が駆け抜けていく。

「敵襲!」

「何者だ、盗賊か!?」

 警備隊が明らかに困惑した声を上げている。彼らの味方でないのは間違いない。そしてどうやら盗賊でもなさそうだ。だからといって、ハルダーたちの味方とは限らない。味方が現れる当てなどないのだ。

 狭い道での騎兵同士の混戦だった。魔術の効果は切れたようだが、不意を突かれた警備隊が劣勢だった。地面に転がり動かない兵士が既に数人いる。その数を数えている間にも、血を流して馬上から一人転げ落ちる。謎の一団はまだ一人の負傷者も出ていない。羽根飾りの男が喉を突かれたのが見えた。隊長がやられ、警備隊に更なる動揺が走るのが遠くからでも見て取れる。

 ふと、イフェリカが腕の中で小刻みに震えているのに気がついた。一国の王女が目にするには、あまりに血なまぐさい光景だ。ここまで血の臭いが流れてくる。生々しい悲鳴が耳を打つ。ハルダーは震える体をしっかりと抱きしめた。それまでどこか遠慮がちだったイフェリカが、ハルダーの胸に顔を埋める。相変わらず震えていて、何かを呟いているようだった。だが、悲鳴に掻き消されて何を言っているのかはわからなかった。

 謎の一団は徹底していた。警備団全員を叩きのめした上、息がある者にはとどめを刺した。ハルダーが倒した三人にも。

 一騎がやって来た。一瞬しか顔が見えなかったが、確か先頭を走ってきた一人だ。警備隊の次はハルダーたちを餌食にするつもりか。

「ご安心を。我々は味方です」

 剣に手を伸ばすハルダーを見て、男が言った。

「イフェリカ王女殿下、ご無事で何よりでした。我々はジノルック様の配下の者です」

「……ジノルックの?」

 イフェリカが顔を上げる。男は鷹揚に頷いた。それから、ハルダーたちを飛び越えた先を見やる。ハルダーとイフェリカは男の視線を追った。道の向こうから、二騎駆けてくる。一人は武装し、一人は武装していない。

「イフェリカ、無事か!」

 武装していない方の男は若かった。二十歳をいくらも越えていなさそうで、身なりはしっかりしている。細身で、常日頃剣を握っている男ではないようだ。

 ハルダーたちのそばで馬を止め、男はイフェリカを見て目を丸くした。

「イフェリカ。その髪……」

「ジノルック。お久しぶりです」

「あ、ああ、久しぶりだね。それよりイフェリカ、髪が……それにその男は?」

「変装のために切って染めました。彼はハルダー・サルトバクト。護衛を引き受けてくださった方です」

 ジノルックはイフェリカとずいぶん親しい間柄のようだ。生きているということは、王族の一員というわけではないらしい。

「僕らが来たからもう大丈夫だ。いつまでもそうしている必要もない」

 緑色の、やや不満げな眼差しをハルダーに向ける。

「ご、ごめんなさい」

 イフェリカが慌ててハルダーから身を離す。耳まで赤くなっていた。ジノルックはますます険しい目つきでハルダーを睨む。部下の手前、もう少し感情を抑えたらいいだろうに、と思った。

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