新宿中央公園にて

速水大河

新宿中央公園にて

「変な女だって思った?」


 聞き間違いではなかった。

 女が尋ねてきて、俺は首を横に振った。

 新宿中央公園のベンチに座ってスマホを弄る俺の前に、果たしてどこから現れたのか、その長い髪の女はおもむろに立ち、こともあろうことかスカートの前面を捲り上げ、俺に女のを見せてきた。

 俺はあまりに突然の出来事に固まってしまって、あやうくスマホを落としそうになったのだ。そして狼狽する俺に向かって女は件の言葉を投げかけたのだ。


 このとき、俺に何ができただろう。俺は女の言葉を否定し、ただ女のその貝の口にも似たそのをただただ見つめていた。


「じゃあ、綺麗だって思った?」


 次に女が発した問いかけはこうだった。

 俺はすかさず首を縦に振った。

 今思い返すと、ありえないような光景に、すかさず逃げ出すところなのだが、当時は放心状態で……、いや、俺は女に魅せられていたのかもしれない。


「少し前にね、この公園でレイプされたことがあるの。年の近い男の子に声をかけられて、綺麗だねっておだてられて、ついつい浮かれちゃって、差し出されたジュース疑いもせずに飲んじゃって、気がついたらすぐそこの茂みに横たわっていた」


 女は一歩前に踏み出し、言葉を続ける。

 月の逆光で、女の表情はほんの少しも見えない。


「目の前に浮かんでいたのは、前後に反復運動を続ける男の子と紫色の空でね。周りの高層ビルに照らされて、きっと空は黒くなりきれずにいたのね。ちっとも良くなかった。当然よね、無理矢理だもの。痛くって痛くって、止めてって叫ぼうとしたら、今度は口を押さえられた。男の子の顔は月明かりの影に隠れて見えなかったけれど、必死だったのは伝わってきた。きっとその子は、まだ慣れてなかったのね」


 俺は女を見上げたまま、唾を飲み喉を鳴らす。

 周囲は俺の座っているベンチ以外は真っ暗闇に染まっていた。

 ただ、すぐそばに立つ公園灯が、俺とベンチと女を照らして……。

 そうして、出てきた言葉はあまりに情けないものだった。


「君は……、警察に言ったのか?」


 女は激しく首を横に振る。

 数羽の鳥が木陰から飛び出し、空に飛び立つ。

 鳩?真っ黒に塗りつぶされた白いはずの鳥。

 月はどこへ行った?


「言わなかった。言いたかったけれど、当時のアタシはまだ18で未成年だったから、学校にも、親にも連絡が行くでしょ。学校が知ったら、友達にも噂は伝わるだろうと思った。教師たちを信じてなかったのね。親が知ったら、レイプしたその子のこと、殺しちゃうと思った。だから悩んで悩んで、言わない決断をしたの」


 女は今度はゆっくりと首を振る。

 そしてまた一歩、俺に向かってにじり寄る。

 相変わらずその表情は少しも見えないが、その股の割れ目が俺の眼前に迫ろうとしていることはわかった。息吹きかければ、そこに無数の手足のように萌える茂みが風に揺れる距離だ。当然そんなことは今だから思えることだが。


「その子のことを守ったのか?どうして?死ぬほど憎かっただろうに」

「好きだったのよ」

「え?」


 何を言っているのだろうか。

 俺も女も。

 馬鹿げている、そんな思いで息が荒くなる。


「何を言って……」

「好きだったの」


 女の声が涙を含んだ声へと変わる。

 ふと月が雲間から顔を出す。隠れていたのだ、月は雲に隠れていた。

 雨雲だ、ふと思った。

 分厚い雲に覆われた空がゴウンゴウンと唸り、今にも降り出しそうだ。

 女の顔を見る。月はいつしか場所を変えていた。


「通学路でね、いいなぁって思ってたの。私はその子に恋い焦がれていた。不自然に見えないようにさり気なく、近くの吊革を掴んだりして。一緒の学校に通えたら、名前を知れたら、少しでもお話ができたら、手をつなげたらなんて淡くも愚かな恋心を抱いていたのよ」


 女の涙は止まらず、耐えきれなくなったのか音は両手で顔を塞ぐ。

 ポツポツと雨が降り出してきた。

 そう思う暇もなく、止まらぬ涙のごとく雨は急激に激しさを増し、俺と彼女は雨に濡れた。彼女はまた一歩、歩を歩める。

 もう見上げるその先には、彼女の割れ目以外には見えない。


「何だよ、そういうことかよ」


 から笑い。

 果たして雨なのか彼女の涙なのか、その判断もつかぬ水滴が俺の頬に途切れなく落ちてきて、俺の涙と混ざっていく。


「もっと早く言ってくれれば。お互い好きだってわかっていれば、あんなことする必要なかった」


 憎まれ口を叩く。見事な最低男ぶりだ。屑が屑を責め立てる。

 俺には彼女が何をするつもりなのかがわかっている。

 こんな形でしか復讐できない彼女もまた、屑なのだ。


「ごめんね、ごめんね。でも汚れちゃったのよ。この汚れは周りを汚すことでしか落ちないの」


 嗚咽と涙と鼻水が混ざり、周囲に響き渡る。

 雨のエコーだ。


「わかるよ」


 再び月は雲に隠れ、光は失われる。

 俺と彼女を照らしていた、公園灯も少しずつ明かりを落としているようだ。


「許してね」


 たったひとつの光が消えさり、闇へと落ちていく。

 女は最後の一歩を踏み出し、俺の最後の言葉は女のへと吸い込まれる。


 俺は諦めにも似た気持ちで目をつむり、そっと舌を伸ばす。


 通り雨のはずだが、結局雨は最後まで止まなかった。

 俺達二人はびしょ濡れで、そのことだけが強く記憶に残っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新宿中央公園にて 速水大河 @taiga

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ