しずかなしあわせ
まめつぶ
しずかなしあわせ
ぱたぱたと足音を立てて近づいてきた彼女の、華奢で白い指がきゅっとキツネの形を作る。このキツネの形は、僕のあだ名のようなものだった。にっこり笑った彼女が、キツネをこんこんと揺らす。それが、彼女が僕に呼び掛けるときにするいつもの仕草だった。
「おはよ」
僕の口を見て、キツネはぺこりと鼻を下ろした。
「今日はどこにいこうか」
デートの約束はしていたが、ノープランだ。僕らはこうやって会ってからその日の気分で予定を決めることが結構好きだった。うーん、と考える彼女は小さくて、ふわふわしていて、まるで小動物みたいだ。頬が緩むのを抑えられないまま彼女を見ていると、何かを思い付いたように、僕の方を振り向いた。両手をふよふよと泳がせる。水族館か。
「いいね。車で行こうか」
僕が両手を拳にしてにこやかに応えると、彼女はそれはそれは嬉しそうに、けれど小さく、かわいいガッツポーズを作るのだった。
近くに停めていた車に乗り込み、ゆっくりと走り出す。車に乗るときはいつも、僕の運転を邪魔してはいけないと彼女は静かにしている。本当は、イルカのショーは見れるかなとか、クラゲの水槽をゆっくり見たいとか、アザラシの赤ちゃんはいないかなとか、たくさん話したいことがあるだろう。それは後からじっくり全部聞いてあげよう。
車内には、静かな音楽を流していた。ナビに表示されるオーディオの画面に、彼女は気付いていても何も言うことはない。これは付き合い出して最初の頃に彼女と話し合ったことだった。彼女はそのとき、自分のことは気にせず好きな音楽を流していい、と言っていた。僕の方も、そんなにうるさい音楽は好きじゃないから、かけたいときに静かにかける、だから君ももしスマホをいじりたかったりしたら自由にして、と伝えたのだった。
ブオオオオ、とエンジン音が鈍く響く。彼女はこのエンジンの振動が案外好きなようで、それを初めて彼女から聞いたときはこの車が中古のボロい車であることに心底感謝したものだ。無言で気まずくないものかと最初こそ緊張したものの、慣れてしまえば彼女は気ままに景色を楽しんだり、時にはリラックスして寝てしまったりしていたから、僕の方も気が楽になった。まあ隣ですやすやと寝られたときには、かわいすぎてどうしたものかと内心頭を抱えたけれど。
「よし、着いたよ」
車を停め、外に出る。彼女の方は既にはしゃいでいるようで、うきうきとしているのがこっちまで伝わってくる。
館内に入ると、彼女は黒目の大きな目を凝らして、大きな水槽の端から端まで全部を見ようとしているようだった。
「水槽は逃げないんだから、ゆっくり見よう」
僕が笑いながら言うと、そこで彼女はやっと息をつき、照れくさそうにはにかんだ。
ゆっくりと、二人で水槽を見て歩く。幸い混んでない時間だったようで、暗く澄んだ青い世界にぽつんと二人ぼっちでいるようだった。静寂に包まれた館内を、声も出さずに眺める。分厚いガラスの向こう側では、小魚たちが賑やかに群れ、大きなサメが悠々と横切る。その大勢の魚たちの声は、もちろんこちらに聞こえることもなく。賑やかだけど、とても静かで穏やかな時間。
あいにくイルカのショーは見られなかったけど、ペンギンのお散歩にも出くわしたし、クラゲの水槽ではたっぷりと時間をとってひたすらぼんやりのんびりできた。その後は彼女の提案で、館内にあるカフェでお茶にすることにした。
「まだクラゲと一緒にふわふわしてるみたいだ」
僕がそう言うのを見て、彼女はくすくすと笑っている。ふと、真っ白な指がまた、キツネを作る。こんこん。
「なあに?」
つれてきてくれてありがとう。優しくて飛びきりの笑顔でそう言った彼女は、胸に手を当てて、深く息をつく。僕は彼女の感情表現のまっすぐなところがとても好きだった。
「また来ようね」
彼女は素直に頷いた。
彼女は耳が聞こえない。だから僕らの会話は手話や僕の口の動きを読み取ってのやりとりになる。車の中では向き合えないから会話もできないし、それは水族館の中でも同じだった。僕らは目で見るものの感動や興奮を、それを見ながらリアルタイムで伝え合うことが難しい。それでもその時の楽しんでいる彼女の表情や目の輝きはとても豊かなものだし、それが雰囲気から伝わってくる。僕自身も彼女と二人でいるだけでいつも嬉しい。言葉でやりとりしなくても、それがお互いに伝わっていればそれでいい。僕は彼女を愛しているし、彼女も僕を――僕と同じだけの気持ちを持ってくれていると信じている。
白くてきれいな彼女のキツネは、僕のあだ名のようなものだ。それは、彼女が考えてくれた、彼女と僕だけに通じるサイン。彼女と僕が繋がっている証。
僕は、幸せだ。
しずかなしあわせ まめつぶ @mameneko
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