4-4. ヒトの境界

 物心ついた時、蛍火には既に羽があった。

 その事を疑問に思ったことはない。蛍火にとってみれば翼の有無なんて髪や目の色の違いと同程度の些細なことだった。夏はパタパタ扇げば涼しくなるし、冬は丸まれば暖かいから、羽のない棕櫚は逆に不便だろうなと本気で思っていたくらいだ。

 そこに現れたマリーちゃんは、蛍火をテンシと呼称した。

 蛍火には最初、それが何を意味するのか分からなかったが、それは要するに普通のヒトは羽を持たないのではないか。

 ならば蛍火はヒトではなくテンシと呼ばれる種族なのか。

 そう納得しかかっていたというのに、棕櫚はテンシの存在を否定した。

 ヒトでもテンシでもなければ、蛍火は何だと言うのだ。

 だから蛍火は猛烈に起こったし、テンシとしての自分を認めさせなければならないと心に決めたのだった。

 来訪者を告げる吊り灯籠が、今日も騒がしく軒先を疾走する。家中がシュゴシュゴいうからすぐに分かった。

 訪問者があるということは、暫く棕櫚はかかりきりになるということ。

 蛍火はすくっと立ち上がった。

 雨を浴びるなだの、家の外に出るなだと、どこの姑だと言わんばかりの堅いことばかり棕櫚は言う。

 だが棕櫚は知らない。

 彼が米にかまけている間、蛍火は家の隅々まで探検し尽くしていることを。家中の配管を覚えているし、どこから蒸気が漏れでいるかだって知っている。

 つい先日は新しい発見をした。

 寝室の奥、滅多にしまわれることのない布団が本来ならば入るはずの押し入れと言う空間は、上の段によじ登れば蛍火でも天井に手が届くし、嵌められた板だって簡単に外せる。なんならそこから屋根裏にだって入れてしまう。

 できるもん、と小さく呟きながら屋根裏に入ろうとすれば、背にある翼を思いきりガゴンと天井にぶつけ、痛みに顔を歪めた。

 あまり意識していないから、よく忘れてこうなる。

 うるりと涙目になるのを堪え、手と羽を駆使して格闘しながら折り畳むと、えいと小さく掛け声をかけ、今度こそ屋根裏に滑り込んだ。

 以前は外から入りこんだんだったか。蛍火の記憶にある通り、そこはパイプが張り巡らされていて暑いし、埃っぽい。

 手足につくザラザラした感触に唇を尖らせるが、それを見て宥めてくれる人は誰もいない。

 諦めて気を取り直し、籠一杯に積まれた野菜を流すレールをまたぐ。

 依頼人に会わなければ。そして羽根を渡すのだ。

 蛍火を閉じ込めるだけの棕櫚を介していても、埒がが明かない。


「け、蛍火、なんでそんな所に……あ、危ないから早く降りよう、裏に梯子があるから」

 おろおろと言葉を紡ぐ棕櫚を睨み付ける。いつも通り穏やかな笑みの平外、その横には少年が一つ目小僧を抱えて突っ立っている。くりんとした瞳と目があった。

 蛍火は右手にしっかりと握りしめていた己の羽根を突き出す。

 蛍火は屋根の上、少年たちは庭にいるのだから、当然、距離の問題で彼が受けとることはできない。

「欲しいんでしょ? あげる」

 ぽかんと口を開けたままの少年に、蛍火は近付こうと一歩前に出る。

「蛍火、駄目だって! それ以上は!」

「うるさい!」

 蛍火が距離を詰めれば、釣られたのか少年も一歩踏み出して応じる。

 新たに庭に出てきた少女が、蛍火を振り返った。着ている服が違うから誰だろうと思えば、真理亜だった。

「ケイちゃん、落ちちゃう……!」

 棕櫚の言葉ははね除けても、真理亜には素直な蛍火のままだった。

 落ちるとは。その意味を考える時既に彼女の足元に屋根はなく。

 反射的に羽は広がっても、飛んだことのない翼では重力に抗えない。

 尻を、広げた翼を、屋根の端に打ち付けながら、蛍火はただ落ちた。

「やぁあああー!」

「蛍火あぁぁあ!」

 腕を組んで面白そうに成り行きを眺めていた平外の、興味深そうな表情が今の蛍火には何よりも憎ましい。

 どすんとした衝撃が、グェという何かを潰したような音が、彼女を襲う。

 打ち付けた尻と翼が、蛍火にじわじわと痛みを訴える。

 だが、それだけと言えばそれだけだった。

「君にしては悪くない反応速度だった」

 のんびりと拍手しながら近づいてくる声に、蛍火はギュっと閉じていた目を開く。

 一番真っ先に蛍火の目に飛び込んできたのは、口許に手を当てたまま凍りついている真理亜。彼女と目を合わせたまま蛍火が数度瞬きを繰り返している間に、ヒョイと持ち上げて蛍火をお姫様抱っこなんてしたのは平外。

「ケイちゃん、随分と埃まみれだね。一体君はどこを探検していたのかな? あ、クモの巣」

 平外は蛍火の髪やら服やら羽やらを軽くはたくと、今度は地面に手を伸ばした。

「そろそろ起きられそうかい?」

「う……色々と死ぬかと思った……」

 平外の手を借り、のろのろと立ち上がった棕櫚は、渋い表情のまま着物をはたく。

「蛍火……」

「ごめんなさい」

 棕櫚の声音に恨みがましいものを感じた蛍火は、平外に抱かれたままぽつりと謝った。

 棕櫚はそんな蛍火の頭をくしゃりと撫でると、「無事で良かった」ぶっきらぼうに呟いたのだった。

 縁側に下ろされると、赤ん坊を抱いた少年の姿が蛍火の視界に入る。

 落ちる際に握っていた羽根は手放してしまったが、羽根だったらいくらでもある。そう、蛍火が自分の翼に手を伸ばすと、少年に慌てて制止された。

「いい、いいから! 抜かないで! 痛いでしょ!」

「羽根が欲しいんでしょ?」

「そのつもりだったけど、その……会えたから、もういいんだ。弟も会わせられたし」

 それにさ、と少年ははにかみながら続ける。

「天使様がいるのなら、サイクロプスの弟だって生きていられると、そう思えるんだ」

 一つ目の赤ん坊は、黒く大きな瞳でじっと蛍火の顔を見つめていた。



「それで、実際のところどーなの、ヒョーガさん」

「どう、とは?」

 風呂で埃やらクモの巣やらをせっせと落とし、居間に戻ってきてはタオルで羽の水分を吹き上げていた棕櫚が、やっぱり様子を眺めているだけの平外に問いかける。

「一つ目で生まれてくるのって、遺伝子操作?」

「まさか。妊娠中の山羊が誤って毒草を食べると一つ目の子供が生まれてくるのは有名な話だし、ヒトだって一つ目の赤ん坊が生まれた例は多々ある。まぁそれが毒草の類いなのかストレス要因なのかははっきりしないけれどね」

 そうなんだ、と小さく呟いたのは、拭き上がった翼をブラッシングする真理亜だ。

 されている本人は気持ちが良いのか、天井裏の大冒険で疲れたのか、うつらうつらしている。

「寿命、短いの?」

「一つ目の子供は脳の発達が不完全だから死産することが多いし、生まれても一週間持たない。

 延命処置で二年以上生きた例もあるが、それは科学力の成せる技であって、今のオレたちには土台無理な話だ。

 まぁ、ケイちゃんを助けた誰かさんが手を出さないとも限らないし、そうしたらもっと長生きできるかもね」

 すっと視線を逸らした平外の顔には、自嘲のような笑みが乗っている。

「じゃあ、その誰かさんが助けてくれるといいね!」

 パッと起きた蛍火が紅の瞳をくるりんと輝かせて放つ無邪気な言葉に、平外の紅い紅い唇が歪む。

「命を命とも思わない輩だけど、貴重なコレクションだから生かしてはくれるだろうさ。

 だがそれは、本当に良いことなのかな?」

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