4-3. 天使を求めて

 坂を上りきると、白い漆喰の壁、黒い屋根瓦、そして軒には黒い吊り灯籠が一対揺れる、古き良き日本家屋が鎮座まししている。

 しかもただの日本家屋ではない。表からでは見えないが、裏の壁には金属パイプが張り巡らされ、シュゴシュゴいう度にあちらこちらから蒸気が吹き上がるのだ。

 今朝も来たが、ワクワクせずにはいられない。

 今回こそ家中の蒸気機関をじっくりと眺め回し、否、家のどこかに隠されているだろう天使を見つけ出すのだ。

 しかし、いつ何度見ても絵になる家だと、彼がほれぼれ見つめていると、シャーッと音を立てて吊り灯籠が家の裏手へと滑り出す。

 どこかで止まったのか一瞬静けさが満ち、ドタドタと慌てた足音が聞こえる。

 少年は腕の中にしっかりと抱いた重みと鼓動を確かめる。

 この屋敷には似つかわしくないボロ布に包まれたそれは、彼にとってかけがえのない命だ。

「今回は勝とうな」

 今朝方突然押し掛けた彼を仏頂面で追い出しにかかった髭面を思い出せば、気合いも入る。

 さて、髭面男に相対した第一声は何がいいだろう。『今朝はお世話になりました』だろうか。『うちの可愛い弟を見てください』でもいいし、単刀直入に『天使の羽根をください』でもいい気もする。

「やぁ、今朝も来てくれた子だね。庭の方においでよ、自慢したいから。オレが」

「へ?」

 シャーッと音を立てて戻ってきた吊り灯籠と共に、玄関ではなくあらぬ方向から声をかけられて思わず変な声が出た。

 髭面の独り暮らしでないことらしいことくらいは知っていたが、それが成年男性だとは知らなかったし、今回もてっきり不機嫌な髭面が玄関から現れるものだとばかり思っていた。

 中から聞こえた騒々しい足音だって、あの髭面のもののはずだ。

 唖然として突っ立ったままの少年に、男はひょいと肩を竦めた。

「なんならこういった方がいいかい。『交渉しよう』」

 カジュアルな着こなしの彼は、今朝の髭面よりも見た目若く見える。だが、飄々としたその態度、面白がっているその瞳は、百戦錬磨で経験豊富な大人の余裕を見せていた。

 楽勝だと思っていたが、前言撤回。無理かもしれない。


 飄々男に連れられるがまま庭に踏み込めば、石灯籠の下、円く作られた池の水面がきらりと日光を反射した。

 否、反射したのは水面ではない。

 案内されていたことも忘れてパタパタと池に近付き中を見ると、金と白に煌めく魚がゆうゆうと泳いでいる。

 少年が知る屋外の池は、死体だらけだ。

 余りに汚染された水は死体が腐ることすら許さないために、色々と浮いているのだ。汚濁した水中は見通すこともままならないが、恐らく生きた生命体はいないだろうと大人たちは言う。

 だというのに。

「サカナが生きてる……!」

 滑らかな流線型の胴体。

 体をくねらせ上に下に左に右にと水中を自由自在に泳ぎ回っているそれを美しいと表現せずに何と言おう。

 もし魚を屋外で生かせるものであれば。期待が胸に広がった。

 ぽんと頭に手を置かれて顔を上げると、男が横にしゃがみこんだ。

「すごいだろう。棕櫚の力作なんだ」

「力作?」

 まるで作り物のような言い回しに首を傾げるが、本物を知らない彼に偽物かどうかの区別などつくわけがない。

「それで、君はどうして天使の羽根が欲しいんだい?」

 あっさりと当たり前のように核心に触れてきた飄々男に、少年は腕の中の「それ」を抱き直す。柔らかくて暖かな「それ」が身じろぎするのを感じた。

「弟の為なんです」

 そう前置きして一呼吸おくと、腕の中ですややかな寝息をたてているだろう弟の、顔にかけられた布を外す。

 陰り始めたとはいえまだ明るい日差しが眩しかったのか、顔にむぎゅっとシワが増えた。

 少年は飄々男の表情変化を見逃すまいと彼の顔をずっと見ていたが、特に感慨はなかったようで男はただ少年の言葉の続きを待っていた。

「弟、長くは生きられないんでしょう? でももし天使がいるのなら、弟も生きていられるのかなって」

 生まれてきた我が子を見るなり母親は絶叫し、父親は無関心を貫いた。顔の中央に位置する瞳は真っ黒く、鼻がなくてのっぺりとしていた。

 辛うじて口はあったようだったがオギャアと泣き声を上げることすらなく、一つしかない黒い瞳は、取り乱す両親を見つめていたのだ。

 普通じゃない。それだけは少年も理解した。ならば恐らくは長生き出来ないのだろうとも。

 じっと耳を傾けていた飄々男は相好を崩した。

「弟君の名前は?」

「オシチヤ前だから……」

 それがどういう意味なのかは分からないが、まだ名付けない理由だと聞いている。だが同時に少年は知っていた。「化け物に名前などつけなくてもいいのでは」と両親が話し合っていたことも。

「あぁ、生まれてから七日後に名付ける風習だね。赤ん坊の死亡率が下がってからは廃れたものだと思っていたよ。

 そういう話ならオレはいいんじゃないかと思うんだけど……うん?」

 バタバタと騒がしくなった屋敷に、飄々男は怪訝な顔をして振り返った。

 シャーッとけたたましい音を立てて閉ざされいた襖が開く。

 おろおろとしたいかにも良家のお嬢様といった格好のお姉さんをその場に残し、慌てた様子の無精髭が、下駄を突っ掛けるのももどかしそうに庭へ下りてくる。

「蛍火が、蛍火がいない、どうしよう」

「ケイちゃんが? その内出てくると思ったけど、先に出ていったか。それは想定外だな、ケイちゃんが引きこもった寝室の窓は開かない」

「ヒョーガさんやめて、そんなに冷静に分析しないで」

 飄々男をヒョーガと呼んだ無精髭は、泣きべそをかく子供、そのものだった。

 そんなに大事な人が髭面にいたのかとぼんやりと状況を眺めていた少年に、ヒョーガは屋根の上を示す。

 促されるままに見上げれば、彼と同じくらいの年頃の、しかし上から下まで真っ白な少女が、同じく純白の翼を背に仁王立ちしていた。

「さぁ、しっかりと弟君にも見せるんだよ。彼女が、君が求めた『希望』なんだから」

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