第3話 科学の残滓

3-1. 晩夏の嵐

 庭に面した縁側に突っ伏し、羽までぺちゃりと潰れた蛍火は、開け放たれた障子の向こう、いつまでも止まない雨に手を伸ばした。

 暗雲立ち込める空の下、庭に立つ石灯籠は黒く濡れそぼり、雨はザーザーと降りしきる。

 べたべたと肌にまとわりつく、熱を伴った湿度が不快だ。目の詰まった着物の袖を捲りながら、蛍火が着ているような薄手・ノースリーブのワンピースならばどれだけ涼しいだろうかと、真理亜はぼんやりと思った。


 着の身着のままでこの屋敷に逃げこんだ真理亜には、その時着ていた服以外に持ち物がない。つぎはぎもされず、血塗れで放置されているその服を着るか、蛍火のワンピースを借りるかの選択肢に戸惑い、新しく仕立てるにも麓の集落に頼むのは憚られ、結局は棕櫚の着物を借りているのが現状だ。

 肌の露出が少ないのには助かっているが、まだ自分一人で着付けができないのが悩ましい。

 この家には遊びに来ていただけだという平外が調達して来てくれると約束してくれたが、一体どこまで行ってしまったのか、音沙汰がない。


 つまらなさそうに転がっている白い少女を部屋の奥から見ながら、黒い少女はフゥと大きく息を吐いて背を座椅子の背もたれに預ける。

 この家で彼女が目覚めてから一ヶ月くらいになるのか。

 当初の衰えた筋力では身じろぎ一つするのがやっとだったが、棕櫚や蛍火に励まされてリハビリを続けるうちに、なんとか自力で座っていられる程度までは回復した。

 だが、自分一人で歩くのには、まだ足元が覚束ない。


 やることもなく真理亜が視線を彷徨わせていれば、ぬるい風が吹き込んだ。風と同時に雨も舞い込んだのか、キャッと小さく悲鳴をあげた蛍火がピョコンと跳び上がっては後ろにコロンと転がった。

「そろそろ障子くらい閉めようか、蛍火」

 土間と居間の間の段差に腰掛け、火吹きトカゲに油を差していた棕櫚が顔を上げた。

「えー、だってつまんないんだもん。マリーちゃんもこっちにおいでよ」

 プゥと頬を膨らませた蛍火が、飽きることなく、今度は裸足の足を縁側からぶらぶらと突き出す。

 このどうしようもない程の暑ぐるしさの中、雨に濡れるのは非常に気持ちが良さそうだ。蛍火に誘われたことで、更に心が動く。

 ふらふらと立ち上がろうとした真理亜を、棕櫚の視線が射抜いた。

「蛍火は聞かないから言わないけど、あんまし濡れるのは良くないなぁ」

「あ、はい」

 口調は然程きつくなかったものの、滅多に見ることのない棕櫚の真剣な眼差しに、真理亜は動かしていた重心を戻した。

 おかげで蛍火の恨みがましい視線を浴びるハメになる。ひどい。

「なんでぇ?」

 肩越しに振り返ったその顔にはあからさまに「不服」と「退屈」の二単語が張り付いており、真理亜の目には可愛らしくしか映らなかった。

 何を思ったのか蛍火がじっと真理亜の顔を見、そしてピョンと跳ぶと一目散に真理亜へと駆け寄って来た。

 掃除は蛍火の仕事ではない。

 だから床が濡れるのだなんて気にしないし、気にもならない。

「マリーちゃん笑った!」

「え? 私、わら……え?」

「笑った! 笑ったの! 棕櫚、マリーちゃんが笑ったよ!」

 笑った笑ったと囃し立てて周囲をくるくると走り回る蛍火に困り果てた真理亜が棕櫚を見るが、彼の意識はトカゲに戻ってしまった後だった。

 仕方なく真理亜は自分の口元を触れて見るが、口角が上がっているようには思えない。


 雨はザーザーと降り続いている。




 翌日はからりと晴れた良い天気だった。ぬかるんだ地面だけが、昨日の雨の激しさを物語っている。

 あのうだるような熱気も、べたべたと纏わりつく湿気もなく、乾燥した涼しい風がどこからか流れ込んできた。

 真夏の面影をまだ引きずるように、遠くでセミがか細くミンミンと鳴いている。


 元々早起きだった真理亜は、まだ寝こけている二人を起こさないようにそっと布団から這い出した。

 居間を抜け、縁側に続く障子に手をかける。

 少し引いただけてするすると収納されていく障子にびくりと肩を震わせ、差し込んで来た眩い直射日光に目を細めた。

 ほぼ毎日やっている行為だというのに、未だに慣れない。


 そういえば寝室と居間の間の襖を開け放したままだったと、真理亜は慌てて振り返るが、思い思いの方向に転がっている二人が起きる気配は全くなかった。

 起きてしまったものの、どうしたものかと真理亜は思案する。

 震え始めた足に、腰を下ろそうとそろそろとかがめば、突然シャーッという音とともに黒い影が天井を走り、彼女の頭上でぴたりと止まる。

 心臓が止まるかと思うくらいにすくみ上った真理亜は体の均衡を崩し、尻もちをついた。

 だが真理亜を驚かすものは、それだけでは終わらない。

 熟睡していたと思った棕櫚が跳び起きて、枕元の着物を引っ掴む。

 呆気にとられる真理亜など見向きもせず、同じように帯も掴んで締めながら、どたばたと玄関へ走って行ってしまった。

 尻もちをついたまま置き去りにされた真理亜の頭上を、軒先で揺れていた黒い灯籠がシャーッと再び走り抜ける。

 一連の騒動を物ともせずに寝こけている蛍火が、ころんと転がった。



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