1-2. 現実
「『都市』に入れるのなら、香辛料くらいいくらでもくれてやるわ。その程度でいいとは、欲のないガキで助かったわい」
彼女は棕櫚から譲り受けた車を運転しながら、助手席で息巻く自分の祖父の言葉に耳を傾けていた。
30年ほど前に行われた海底都市への移住の際に、地上へ取り残されてしまった彼を、いつか連れていってあげると約束した。
その約束をようやく果たせる時がきたと言うのに、どうしてこんなにも気分が晴れないのだろうか。
棕櫚から受け取ったのは、パイプが張り巡らされた、ワゴン車ほどありそうな大きな車だった。恐らく車体重量の半分は占めるであろう歯車は金属板に覆われ、外側からは一つも見つけられなかった。車体の上に突き出している煙突代わりのパイプは、水中に潜る際には収納できるというのだから驚きだ。
海底都市が出来上がるより前に生産された品の中古品を扱う彼女からしてみれば斬新なデザインで、しかし見たことのない新品の輝きを放っていた。
譲り受けた時、「あー」とか間の抜けた声を出しながら油をさしていたのが気にならなくもないが、車は快適に走っている。
「あいつら、儂が来たとなったら驚くぞ。腰を抜かすやもしれん」
香辛料くらい、と言った祖父の声が、不意に彼女の耳に蘇った。そして同時に棕櫚の顔を思い出し、冷たいものが背筋を走る。
思わず踏んでしまった急ブレーキに、「危ないじゃないか」と叱責が飛んだ。
「もう少しで念願の『都市』に行けるというのに、こんなところで儂を殺す気か」
「ごめんなさい、お祖父様。道が合っているかどうか、突然不安になって」
「ふん。昔のナビは優秀だったんじゃが、それすら海底に持って行かれた」
ぎろりと睨まれつつ、彼女は車を再発進させる。
彼女の祖父は交易で名を上げ、一大財産を築き上げた。だからこのご時世でも、香辛料は簡単に手に入るものだった。
だから香辛料を要求された時に何も思わなかったが、思えば彼女は棕櫚に対して名乗らなかったのだ。
だというのに「そんなもの」と繰り返した彼に驚きはなく――ならば彼は知っていたはずだ。彼女は、香辛料を買いつけられると。
だが、いつ、どうやって?
それに、海底都市の入り口がある場所は極秘中の極秘事項で、設計と計画に携わった僅か数名しか知り得ない情報だった。少なくとも、どこの馬の骨とも知れない輩が知っていていい事柄ではない。
祖父の愚痴なのか自慢なのかに相槌を打ちながら車を走らせていくと、やがてトンネルの前にたどり着く。
狭い、けれど橋をかけるには広すぎる湾を横断する海底トンネルは、管理が行き届かなくなったがために内部が崩れ、水中に沈んだと言われている。
それがもし、彼の言う通り海底都市に直結しているのであれば話は別で、意図的に沈められた可能性すらも出てくる。
「全く。このトンネルが『都市』に繋がっとったなんて知らんかったわい。あいつらめ、小癪な」
「そうね。『都市』への入り口が、こんな目と鼻の先にあっただなんて」
一度車を止めた彼女は、青く塗り分けられたレバーを倒す。
キーッと金属同士が擦れるような音が側面から、背後から聞こえ、1分ほどで静かになった。潜水するための準備は、簡単なもので、これだけだ。
「いよいよだわ、お祖父様」
「うむ」
満足げに頷く祖父を横目で確認すると、彼女は水中へと車を進ませた。
過ぎる興奮のためだろうか。隣でがなり立てていた祖父は、いつの間にか静かになっていた。
過ぎる緊張のためだろうか。息苦しくて、浅い呼吸を繰り返した。
重いハンドルを握りしめ、アクセルを踏み込む。
やがて遠くに、一点の光が見えた。
「きっと、あれだわ、お祖父様……!」
自らの声が、やたらと遠い。
珍しく竃ではなく自動調理機の方に張り付いている棕櫚の背中に向かって、畳の上に転がった蛍火は頬杖をつき、暇そうに羽と足をぱたぱたさせながら声をかけた。
「ねぇ、海底都市って入れるの?」
「まさか」
「え? この間の女の人には行けるって言ってたじゃない」
「行けるとは言ったけど、入れるとは言ってないなぁ。大体そんなに簡単に入れてくれるくらいなら、地上に入り口があったっていいだろうに」
のんびりとした彼の口調に似合わない冷酷な言葉に、目を丸くした蛍火はぴたりとその動きを止めた。
野菜が転がり落ちる口の向かい側に調味料の入った箱をカチャカチャとはめ込んだ棕櫚は、調理開始のレバーを引きながら続ける。
「海底都市が持ち去った科学技術は、人類の知識の集大成だ。それを個人がこんな所で超えられるわけがないっていうのを、あのお嬢さんは分かっていなかったってワケ。栄華を極めた科学都市を知らないから言えるんだろうねぇ」
野菜が転がり落ちるゴロゴロとした音を立てているパイプを撫でながら、棕櫚は蛍火に笑いかけた。彼女の翼は、未だ畳の上にぺちゃりと広がったままだ。
「そんなに都市ってすごいの? 棕櫚は海底都市に行ってみたくないの?」
「蛍火。あそこのメシ事情を知ってるか?」
いつにもない真剣さで問われた彼女は、知らないと素直に首を振る。
「あそこは海底に作られた建築物だから、広さがない。酪農だとか農業だとかに使える資源だって皆無に等しい。だからな、あそこの食料は基本的に化学合成なんだよ」
「カガク、ゴーセー?」
言葉の意味は分からずとも、なんだか健康に悪そうな響きであることは伝わった。
「そりゃあ札束でも積めば、地上(ここ)でいう普通のもんが食えるんだろうが、いくら健康に害がないからって、工場生産の化学物質だなんて食えるか。そういうのは本当に体に良いって言うのかね。
それに、炊きたての白米すら贅沢品とか、信じられん」
とりあえず、彼が移住しない理由は「白米」。その一言につきそうだ。
「良く分かんないけど、おかずがお煮付けじゃなくなったら、ご飯がもっとおいしくなると思うな」
言った彼女の鼻がひくひくと動き、犬が耳を立てるように、背中の羽が立つ。頭を持ち上げて明らかにそわそわしている彼女に、棕櫚はにやりと笑う。
「うん。折角貰ったんだ。今日は香辛料を使ってみようかと思って、カレーにしてみた」
煮付けじゃないもの=美味しいもの、と認識している蛍火は、きらりと瞳を輝かせた。
「『都市』じゃあ、香辛料じゃなくて合成香料なんだろうなぁ。俺は死んでもいいから天然物がいいなぁ。蛍火だってそう思うだろ?」
どこまで棕櫚の言葉を理解しているのか分からないが、彼女は即答した。
「思う!」
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