第1話 海底の桃源郷
1-1. 夢物語
「待ってくれ! 儂を置いていかないでくれっ!」
ダークグレーのスーツに身を包んだ小太りの壮年の男は、ぜぇぜぇと息を切らしながら、力なく砂浜に膝をついた。寄っては引いていく波が、スーツのズボンをしっとりと濡らしていく。
ぎんぎんと輝く太陽が、頭上から地上の全てを焼き尽くさんとばかりに輝いていた。スーツなどよりは、ビーチパラソルと色鮮やかな水着の方が、この天気と気温にはふさわしいだろう。
だが、見渡す限りどこまでも続いていく浜は流れ着いたゴミで埋め尽くされ、海水浴場として多くの人々を惹きつけていた時代の面影はない。男の足元の砂もどす黒く汚れ、ビニール袋が、プラスチック片が、波と共に行ったり来たりを繰り返していた。
「頼む、儂を乗せてくれ……後生だ、儂はこんなところで死にたくない……」
老人が手を伸ばして嘆願する先には、段々と遠ざかっていく一艘の船がある。それは潜水艇であったらしく、やがてとぷんと水に沈んだ。
「あぁ……」
戻ってきてくれるのでは、と僅かながらに期待していた望みも断たれ、彼はなすすべもなく項垂れる。
「こんな汚染されや世界なんかで、生きていける訳がない……」
失意に沈んだ男の声は、波にさらわれていった。
科学技術の発展により、人類は地上にて繁栄を遂げた。
しかし、過ぎた科学技術は最早手の打ちようのないまでに環境を破壊し尽くし、科学の力を持ってすら人類が健康的に生活することは困難と言わしめる程、地上を汚染した。
全盛期であった当時は、一体誰が予想したであろう。不可能などないように見えた科学力で栄華を極めた人類が、すごすごと尾を巻いて逃げなければならなくなる日が来るなど。
そして皮肉にも、科学技術による汚染から逃れるために、更なる科学力をつぎ込まねばならなかったなど。
人類は持てる限りの技術力を集結させ、海底に巨大なシェルターを建設した。
だがそれは地上に住んでいた全ての人を収容できるほど大きくはなく、選ばれた一握りを除く大多数の人々が、今も荒れ果てた大地で生活している。
棕櫚が出迎えたのは、まだうら若い女性だった。
パステルブルーのジャケットに白いプリーツスカート。足元には濃紺のパンプスを揃えた清楚な出で立ちで、耳元にはパールのイヤリングが揺れていた。
海底都市の建設がもたらしたものは、恐慌だった。
ある者は汚染された地上に残される恐怖に怯え、またある者は海底へと移住していく特権階級へ暴言を吐いた。普通に使っていればまだ十数年は稼働したであろう数多もの工場や倉庫、店舗では破壊と略奪が繰り返され、物だけでなく社会構造までもが壊されていった。
そんな荒れ果て、残された人々が身を寄せ合って生きている地上では、見栄えのする服を集めるだけに、一体何人の知人・友人を当たれば良いのか。そうしてまで集めた物では寄せ集め感がどうしても漂い、彼女のような小綺麗な格好にはならない。
本来ならば彼女は移住していた側だろうと、棕櫚は見当をつける。移住しそびれた、そして物品が簡単に手に入る、商家の娘。
どうぞ、と客間に通せば、彼女はどこか落ち着かない様子で座布団の上に正座した。蒸気の音がする度に、不安げな視線を辺りに彷徨わせている。
彼女と同じ座卓についた棕櫚は、卓の端に置いてあった金属の箱から突き出た円い板の上に湯呑みを乗せる。板がくるりと回って湯呑みは箱の中に入り、出てきた時には熱々の緑茶がなみなみと注がれていた。
棕櫚がそれを彼女に差し出すのを、彼女は半ば呆然と見つめていた。
「その箱、どうしたんですか?」
「どうって、作った物だけど、なにか?」
「作った?」
信じられないと言わんばかりに、彼女は目を丸くする。
「部品とかもですか?」
「いや。近くに金属加工工場があってね、今はもう稼働してないし、残された色んなものも錆びて朽ちていくだけじゃもったいないから、ちょっと拝借したんだ。返せと言われたら、その時にはちゃんと分解して返すよ。
それで、ご用件を伺いましょうか、マドモアゼル」
のんびりとした口調で告げる彼に、へぇと彼女は相槌を打ち、芝居掛かった口調にはくすりと笑みをこぼした。
「手先が器用な方なんですね。なら、あの噂は本当なのかしら」
「どの噂だろう? ここにいると、噂話にはとんと疎くって」
「望む機械を、しかもかなりの高性能なものを作っていただけるって」
思いがけない言葉に、棕櫚は目元の笑みはそのままに口を閉ざす。そんな彼の様子に気づいてか気づかずにか、彼女は続けた。
「この、科学の残骸しか残らないこの地上で、海底都市が持ち去ってしまったのと同じくらいの技術を持つ人がいるって。夕暮れ時になると明かりが灯る灯篭が、彼の住まう屋敷の目印だって。そしてあなたは、本当にここにいた」
自分の口から流れ出る言葉に興奮したのか、彼女の言葉は段々と速度を増していく。
「海底都市と同じ、いえ、それ以上の技術力を持つというあなたにしか頼めないの。お願い、私を、いえ、私たちを、海底都市に連れていって!」
ようやく言葉を切った彼女は、ひたと棕櫚を見据えたが、彼は変わらぬ笑みで彼女を見返しただけだった。
ならば、と彼女は更に言葉を続ける。
「あなたなら簡単でしょう? それともこの家の機械は実はロスト・テクノロジーでしたとでも言うの? 違うのならば出しなさいよ、ここから『都市』に行けるような乗り物を今すぐに!」
何も言わない彼に業を煮やした彼女は、ばしりと卓を叩いた。そんな彼女の迫力もどこ吹く風、棕櫚はようやく「うーん」と間の抜けた声を出しただけだった。
「その噂話とやらは、すごく壮大な話になっているんだねぇ。すごいなぁ」
「あなたねぇ……っ!」
「あんまり叫ばないでもらえると助かるなぁ。うちの子が驚くから」
「うちの子?」
子供がいるようには見えなかったのだろう、彼女は眉間にしわを寄せながらも口を閉ざし、深く訊こうとはしなかった。
「『都市』に辿り着ける乗り物が欲しい。そういうご依頼で?」
「そうよ。分かってるんじゃない」
「行くのは簡単だよ」
「え?」
余りにもあっさりとした回答が飲み込めずに、彼女は目を瞬かせた。
「行ける。そこは保証しよう。裏に車があるから、乗っていけばいい。昔の首都の近くに海底トンネルがあっただろう。今は水没しているけれど。確か入口の一つに直結しているんじゃなかったかなぁ」
「な……っ!?」
棕櫚に手で制され、腰を浮かせかけた彼女は座り直した。
「裏に、水中でも動ける車があるから、それを譲ろう。それでいいだろう? 僕には無用のものだしねぇ」
「それで?」
「それでって?」
「代価よ。いくら支払えばいいの?」
「そうだなぁ」
彼女に車を見せようと立ち上がった棕櫚は、鞄の蓋に手をかけ強気な表情で見上げてくる彼女を見下ろした。
何が入用だっただろうかと、割と真剣に考えていた棕櫚だったが答えは簡単で、それはあっさりと言葉になってこぼれ落ちた。
「香辛料」
「え?」
「うん、たまには味付けを変えろって、うちのお姫様がうるさいんだ。数日内に届けてもらうのって可能かなぁ」
「えぇ、できるわ。でも、そんなもので良いの?」
そんなもの、と繰り返した棕櫚の唇の端が吊り上がった。
「食べ物の恨みは怖いよ?」
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