第2話 天使と悪魔

2-1. 訪問者の手土産

 ミーンミンミンミーンと、響き渡るのは蝉の大合唱。

 早くも日が昇った後なのか、雨戸の隙間から差し込む光は熱気を伴っている。

 汗ばみ始めた肌に不快感を感じ、己の体温で熱された敷布から逃げるように、棕櫚は寝返りを打った。

 蝉の声に遠くから混ざった規則正しいシューッ、シューッ、という蒸気の音で棕櫚は跳ね起きる。まだ覚醒しない頭に、ぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜた。

 目の前で揺れた白い影に反射的に手を伸ばせば、芯のあるふわふわとした柔らかい手触りが返された。

 この何かに埋もれて眠りたい。

 布団とも違うその肌触りに、なんだっけなと軽く引っ張ってみたりふにふにと揉むようにその感触を味わったりしていれば、「うにゃあ」と抗議なのかただの寝言なのか、が聞こえた。

 蛍火の声だ。

 うにうにと自分の翼を弄ばれた蛍火だったが、当の本人は枕を腹の下に抱え込んだまますややかな寝息を立てている。


 蛍火は、己の背に生える一対の翼を防寒具だと思い込んでいると、棕櫚は確信している。

 羽ばたき、飛んだことがないだけならばいざ知らず、暑い日には広げっぱなしではたはたとうちわのように扇がれ、寒い日には毛布のようにくるまっているのだ。

 正直、羨ましい。


 遠くから聞こえてきていた蒸気の音は、やがてガタゴトと振動を伴いながら近付いてきている。

 棕櫚が配管を張り巡らしたこの家では、ありとあらゆる場所でシューシュー言っているが、こんな朝っぱらから大音量を響き渡らせ振動まで立てて人の安眠を妨害するようなものは作っていない。

 寝汚いものとして、そこは誓ってもいい。

 人迷惑な、と毒づきながら布団を頭から被り直した棕櫚は、次の瞬間ガバリと毛布を跳ね飛ばした。

 あのシューシューいうエンジンの駆動音。ガタゴトという車体の重量感。

 あれは、棕櫚が数年前に作った車が立てる音だ。




『真理亜、お母さん出かけちゃったから、お昼、食べよう? スープだったら私にだって作れるもん!』

 そう、私と同じ顔が、けれどこげ茶の目を煌めかせていう。

 差し出されたスープの具材は凸凹で、口に含めば温かいのが感じられた。

 でも味はよく分からない。口いっぱいに、鉄錆の味しかしないから。




 棕櫚が袴の紐を締めながら玄関に駆けつければ、小太りの中年男が門前に停めた車の荷台から数個の籠に山と盛られた野菜を下ろしたところだった。

 挨拶もそこそこに棕櫚が引き戸脇の紐を引くと、ガラガラと何やら転がす音が天井裏から聞こえてくる。やがて玄関横につけられた猫の出入り口の様な小さな木戸から、空になった籠がいくつも放出された

「いつもながらすごい仕掛けだねぇ。俺んちも改造してくんねぇか?」

 額に滲む汗を手の甲でぬぐいつつ、感心した様に男、正造は言う。


 麓の集落に身を寄せている男だ。 昔は結婚を決めていた相手がいたと聞くが、地上から海底に都市が移動した混乱の最中に失い、そのまま独身を貫いているらしい。

 棕櫚は集落に住む人々に機械を作ったりそれらの修理をしたりする代わりとして、定期的にこうして食料を運んでもらっているのだ。


「んー、これはお勧めしないなぁ。ちょーっとかかりすぎる」

「金がか? 時間がか?」

「両方」

 そりゃそうかーと、彼はあっけらかんと笑う。

「一人で全部組み立てたんだろ? すごい知識と技術力を持ってやがる。そんなもん、全部海底に持ってかれたと思ってたのによ。ってぇかお前さん、本当は移住組じゃねぇのか? 置いていかれたのか?」


 30年ほど前の混乱の中、海底都市へ移住できたのは、させてもらえたのは、金持ちか技術者だけだったと聞く。

 要するに金と技術しか、あの都市は必要としなかったのだ。

 選ばれなかった一般人には海底都市への入り口すら知らされず、誰もが気づく前に移住は完了、海底都市の出入り口は固く閉ざされたらしい。

 地上組は誰一人として都市の玄関口を知らないから、確かめた者は誰一人としていない、ただの憶測だ。けれど突如として「世界」という組織が機能しなくなった、その事実だけはある。


「移住許可が下りたのは、エリート校出身のエリート技術者だけで、野良育ちの僕なんかに声はかからないって」

「ん? だが恩師はいるんだろ?」

「恩師も自己流の野良だから。多分」

 正造はそれ以上深く聞こうとはせず、会話が途切れた。

 棕櫚は野菜がたくさん詰まった籠を木戸へ、正造は空の籠を荷台へと、それぞれ収納する。

「いつも助かってる。何か依頼とかは入ってるか?」

「いや、今のところは何もねぇな。何かあったらまたこっちから連絡するさ。……おっと、忘れるところだった」

 ぽんと一つ手を打った彼は、今度は座席の方から平たい木箱を出してきて差し出した。

「これは?」

 箱の大きさの割にずしりと重いそれを受け取ると、棕櫚は訊く。依頼主から礼として物を受け取ることはあるが、今回はこれといって仕事をした記憶もない。

 正造は、なんと切り出したものか迷ったようだった。

「悪魔を、引き取ってもらった礼だとよ」

「あくまぁ?」

 棕櫚が鸚鵡返しに訊くが、正造は肩をすくめただけで答えなかった。

「それじゃ、また頼むわー」

 またもシューシューガタガタいわせながら車を回していく彼に棕櫚は手を振り、ふむと木箱に手をかける。

 所狭しと中に並んでいたのは鯛焼きだった。ぷっくりと膨らんだ腹の中には、ずっしりとあんこが詰まっていることであろう。

 そろそろ蛍火が起きてくるだろうから、朝食代わりに一つ二つ温めてやるかと思えば、頭上で揺れていた吊り燈籠が訪問者を告げるためにシャーっとレールを走っていく。

 思わず正造が去っていった方向に目を向けるが、別の訪問者が来ている様子はない。

「壊れたかなぁ」

 首をひねりながら、彼は外から庭へと回る。

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