第2話:終える通過儀礼


 その男は、有する資産に不釣り合いな古びたアパートの一室に居を構えていた。隠れ家的と言えば聞こえはいいかもしれないが、そう呼ぶにはあまりにもお粗末すぎる部屋だった。

 男の腰には六つの携帯電話が下げられていた。1Kの部屋には三台のデスクトップ型コンピューターがあり、それら全てを器用にも同時に扱いながら、目の前に立つ女性の問いに答えた。

「こんな場所によく住んでられるなって? そりゃ、お客さん、変に小奇麗な場所よりも小汚い場所の方が、らしいでしょう? 初対面でそんなこと言ってきたのはお客さんが初めてですよ。え? いやいや、別にイヤミってわけじゃないですって」

 男はわざとらしく両手を振って女性の言い分を否定する。その手は流れるようにして腰周りの携帯電話の一つを取り出し、液晶画面を見比べながらメールを作成し始めた。

「それで、殺し屋の情報が欲しいんでしたっけ? 一つ訂正しておくとですね、あそこは殺し屋じゃなくて便利屋ですからね、副業で殺しを請け負ってるだけで。まあ、副業の方が収入としては多いらしいですけど」

 掴みどころの無い男の話し方に、女性は苛立ちを顕にして男に訊ねた。

「まあまあ、そんな怒らないで下さいよ。いや、身内が殺されて頭に来るのは分かりますがね。その怒りを、殺した彼らにぶつけるためにウチを訪ねたんでしょう? だったら今は抑えて、溜め込むべきですって」

 怒りの矛先が自分に向けられそうになり、男は慌てて女性を宥めた。

「ええ。僕は、憎しみは何も生まない、なんてことは言いませんよ。だって、こうしてお金を生んでいるですからね。え、そんなことはどうでもいいから情報をよこせ? これは失礼、何ぶん、お喋りなもんで。情報屋として致命的な性分だというのは分かっているんですが……っとまた話が逸れてしまいそうだ。とりあえず、お客さんからもらった金額を考えると、大体の情報は提供できますね」

 言葉の半分以上が無駄話で構成されている、自らを情報屋と名乗った男は言葉を続ける。

「家族構成、周辺の人間関係、趣味趣向、経歴などなど。この辺は当然として、一つ、ビッグな情報があるんですよ」

 含みを持った男の言い方に、女性はいやでも反応せざるを得なかった。

「お客さんが言うところの殺し屋……もとい、便利屋が請け負うブラックな仕事は、基本的には長男と長女が実行してるんですよ。話を聞く限りだと、お客さんの妹さんを殺したのも恐らくその二人でしょうね。それで、ビッグな情報っていうのは、彼らのことについてなんですよ」

 嬉々として喋る男は、いやらしい笑顔を貼り付けて女性に向き直った。

「ただですね、彼らとは僕も顔見知りですし、そう簡単に情報をお渡しするわけにもいかないんですよ。かといって、アナタも僕にとっては大事な金づ……お客さんですし、あくまで中立の立場なので情報提供すること自体は問題ないんです。もう少し、お金を上積みしてもらえさえすれば、ですが」

 男は下卑た声で女性に交渉を持ちかける。足元を見る情報屋に、女性は苛立ちを通り越して憤りすら感じた。

「このとっておきの情報は、あなたの目的を達成する助けになると思いますよ? いや、この情報がなければ失敗に終わる、と言った方が正しいでしょうか」

 得体の知れない相手の情報を手に入れるために、得体の知れない者から情報を入手する。その行為がどれだけ不用心で危険なことなのかと、女性は事ここに至ってようやく理解した。

「それで、どうします? 買いますか?」

 人間の奥底に眠る悪意。その悪意を具象化したようなに歪んだ笑顔で、情報屋の男は問う。切羽詰まった女性に断るという選択肢などあるはずもなく、幾ばくか惜しみを表情に浮かべながらも、渡せる限りの現金を男に差し出した。

「毎度あり。この情報は記録に残る媒体を通しての伝達はしたくないので、口頭で伝える形になりますが、よろしいですね? そんなわけなので、お客さんの頭の中にだけしっかりと残しておいてください」

 そして、情報屋の男は嬉々として喋り始めた。まるで、出処の分からない都市伝説の噂話を得意げに語る愚者のように。

「――――――とまあ、こんな感じです。信じられないでしょうが、これは厳然たる事実ですので。今お話した情報を元に、お客さんが計略を立てるのも自由ですし、ふざけた話を聞かされたと私に殴りかかるのも自由です。ま、二択目を選択をしても損するのはお客さんですが」

 饒舌に口上を終えて満足げな顔を覗かせる男。一方で、聞き手である女性は困惑と驚愕に支配されていた。

わずか五分の、出鱈目としか思えない男の話に、果たして数百万円の価値が有ったのかと。

それでも、男の言うように殴りかかったところで得るものは何もない。この不気味な男に下手に手を出すのは危険だと、女性は冷静になって考えた。

そして、細部に渡るまで男の話をしっかりと脳内にしまいこみ、何も言わずボロボロのアパートの一室から出て行った。

「生きていれば、またのお越しを」

 女性の足取りに不快感と憤りが混じっているのを感じ取った男は、女性に聞こえない程度の小さな声で見送った。

「はてさて……あの人たちはどうなることやら」

 女性が完全にいなくなったのを確認すると、情報屋の男は手に入れたばかりの札束の枚数を数えだした。

「ニの四の六の八の十。やっぱり電子マネーより現金ですな。この手触りに適度なサイズ感。形として存在してない資産なんて、危なっかしくて持てやしない」

 指を舐めて札束を数えていく片手間に、器用にもコンピューターの一台を忙しなくタイピングしていく。

「二の四の六の八の十の……それにしても今のお客さん、割と最近どっかで見た気がするな」

 そう独りごちた男は、座っていた机の引き出しからひと纏まりの紙束を取り出した。

用紙の一枚一枚に男の顧客に関する情報が、どこから仕入れたのか顔写真と一緒に敷き詰められていた。

それらを一枚一枚確認しながら、男は用紙をめくっていった。そして、ある顧客の情報にたどり着いた。

「あぁ、そういうことか。どうりで見覚えがあるはずだ。まあ、だとしたら似てるのも、当然っちゃあ当然か」

 男の手元には、ついさっきまで部屋にいた女性の情報が事細かに記された用紙があった。以前に取引した顧客のことが記されている用紙と見比べて、男は合点がいった。

 タイピングの音とドライブの唸る音だけが響く不気味な室内を、男の独白が不気味さに更なる拍車をかけていた。

「計算終了。さてと、今日も今日とて情報を仕入れにいきますかね。情報は自分の足と目で手に入れるものなり」

 ものの一分で札束を数え終わった男は、徐ろに立ち上がり不敵な笑みをこぼした。



 井川麗子からの依頼を終えて二ヶ月が経ったその日、夕食を終えた巴家宅には一人の客の姿があった。

「どうぞ、お茶です」

「いや~いつも悪いね、翔子ちゃん」

「いえ、田中さんも、一応! 客ですから」

「一応って、酷いなぁ翔子ちゃん。そりゃ、営業時間外に来たのは謝るけどさ。それにしたって、いつも仕事を回してあげてるのは僕なんだよ?」

 巴家にとって一応の客である男――田中太郎は、翔子から突きつけられた言葉の刺に、オーバーなリアクションで応じた。

「リアクションがキモイです、田中さん」

「生人くんまで! いいですいいですよ! 僕はもう、界理ちゃんと界得くんとだけお話するから! ね~界理ちゃん界得くん?」

「…………」

「…………」

「まさかの無視」

 巴家の子息子女全員に呆れられた田中太郎は、壮年にあるまじき情けない声を上げた。

「素性もイマイチ分からないオッサンとは話さないように言ってありますから。第一、田中太郎ってなんだよ。明らかに偽名じゃねーか」

「お父さんの知り合いっていう免罪符があるから家に上げてますけど、普通なら門前払いですからね」

 辛辣な言葉を容赦なく言い放つ生人と翔子の膝の上に座ったまま、界理と界得が疑心の籠った目を田中に向けていた。

「仕方ないでしょうよ。職業柄、おいそれと身バレできないんだから。ていうか、何気に全国の田中太郎さんに失礼なこと言ってない? あとお茶温っ」

 田中は、不自然に温いお茶に顔をしかめた。

「お兄ちゃん、ミバレって何?」

「ミミズ腫れの略称だよ。引っかき傷とかで出来る、あのミミズみたいな傷のこと」

「はえ~そうなんだ~」

「そうだぞ~」 

 純粋に疑問を呈する界理をからかうためだけに、息を吐くように嘘をつく生人。

 翔子も田中も彼の言葉を訂正するつもりはないらしく、その様子を黙して見ているだけだった。こうして、何の罪もない幼女に間違った知識が植えつけられた。

 そのとき、田中が双子に強烈な視線を送っていることに、生人は気づいた。

「なんですか? 界得と界理の顔になんかついてますか?」

「いや、別に」

 生人が不快そうに訊ねると、動じる様子もなく田中は否定した。

「……ところで、お父さんはまだ仕事から帰らないのかな?」

 田中の本来の目的は、生人たちと無駄話に興じるためではなく、大樹と仕事の話をするためだった。

「そろそろ帰ってくるんじゃないですかね。俺と翔子が稽古を始める時間には絶、対に仕事終わらせるし」

「ほぉ~。君ら、まだそういう鍛錬はしてるのか。生人くんはともかく、翔子ちゃんがやってるとは驚きだな」

「仕事柄必要な時もありますからね。どっかの誰かさんが変な仕事を持ってくるから。ていうか、今お父さんがやってる仕事も、その誰かさんが持ってきたものですし?」

 言って、翔子は横目で田中太郎を睨みつけた。

「ははは、まあ僕は自分の仕事をしてるだけだから。それに、依頼を断るのも君たちの自由だろ?」

「こちとら客商売なんですから、おいそれと断れるわけないでしょう。断ったら断ったで後々面倒になることもありますし」

 じゃれてくる界得を片手であやす傍ら、翔子は無責任なことを言う田中を睥睨した。

「それもそうだね。それで、大樹が現在進行形で遂行中の依頼ってなんだっけ?」

「ヤっさんからの依頼で、麻薬密売してる集団の捕縛と引渡し。ウチに紹介したのアンタでしょうが、忘れてんじゃねーよ」

「仲介役もやってるけど、基本的に情報を提供するまでが僕の仕事だからね。その後、依頼人と君たちがどういう契約をするのか、どう実行するのかまでは管轄外だよ」

 のらりくらりと言い逃れる田中に、生人は露骨に苛立った。

「お兄ちゃん、怒っちゃダメー」

兄の気持ちを察して、界理は生人の頬を優しく叩いた。

「ただいま~っと」

 険悪なムードが流れる中、俎上に上がっていた巴家の家長が仕事を終えて戻ってきた。

「あ~腹減った。生人、今日の夕飯何……だと……?」

「やあ大樹、お邪魔してるよ」

 家族団欒の場に不相応な人物がいることに気づき、大樹は一瞬戸惑い、そして即座に状況を理解した。

「何でこの時間にお前が居るのかは置いておくとしようか。で、今日はどんな依頼を持ってきたんだ?」

「話が早くて助かるよ。何、今回のは今日みたいな物騒な依頼じゃないさ。ただの運搬だ」

「運搬だぁ? どうせ白い粉とか人間だったモノを運ぶとか、そんなんだろ? 十分物騒だっつーの。第一、お前を経由してる時点で依頼者がカタギじゃないのは確定じゃねーか」

 話し相手が今まで自分に持ってきた仕事を思い返し、大樹は呆れたようにソファに深く座り直した。

「そんなの分からないだろう。依頼人の意向で中身は僕にも分からないんだから。僕は、君に荷物を目的地まで運んで欲しいってことしか聞いてないんだし」

「どこだよ?」

「詳細は、君がこの依頼を受けてくれるまで話せないな」

「……」

 大樹は内容があまりにも不透明な依頼に、どうするべきか迷った。だが、田中が持ち込んでくるのは大抵そんな依頼ばかりで、今回に限ったことではなかった。

 大樹が訝しんだのは、生来の勘が彼に警鐘を鳴らしていたからだった。

「……分かった。引き受ける」

しかし、そんな曖昧なもので依頼人の顔も見ずに無碍に断るのも、巴モーニングの名に恥じると考え、沈黙の末に依頼を引き受けることにした。

「大樹ならそう言うと思ったよ。初めに言っておくと、依頼人はここに来れないんだ。だから僕を仲介したんだよ。ま、僕らの業界じゃ客の顔が見えないってことは希にあるし、逆にそれを理由に断るのも珍しいことじゃないから、止めても構わないさ。持ちかけといてアレだけど」

 その言葉が内包する挑戦的な意図を汲み取った大樹は、動物的な本能の鳴らす警鐘がより大きくなるのを感じて、一抹の不安を覚えた。

「いや、どんな依頼であれ請け負うのがウチのモットーだからな。やってやるさ。ただ、どうして運び屋じゃなくてウチなんだ?」

「そればかりは僕にも分からないよ。ただ、君を指名してきたから僕はそれを伝えただけだし。さてそれじゃ、早速念書にサインを頼むよ。向こうのはもらってあるから」

「今からかよ。こちとら仕事終わったばかりでクタクタなんだぞ」

 数十人単位の軽微な武装をした輩を叩きのめしたことを考えれば、クタクタなどという言葉で済むはずもないのだが、大樹は疲弊している様子は微塵も感じさせなかった。

「とりあえず、今の段階だと日時は指定されてて、明日の昼過ぎに依頼者の代理人が君に荷物を渡しに来るそうだ」

「明らかに俺が引き受ける前提のタイムスケジュールじゃねーか。まあ、明日は午前中しか入ってないから大丈夫だけどよ。つーか、徹底的に顔を隠すんだな、その依頼人は」

 顔も知らない依頼人に、大樹は心の中で毒づいた。

「明日は学校だから、私」

「俺は帰ってくるの七時くらいになるから」

 その仕事はできない、ということを遠まわしに伝えてくる子息子女。頼むよりも前に間接的に拒否されては、大樹本人がやるより他になかった。

 といっても、大樹は最初から自分でこなすつもりではあったのだが。

「別に、お前たちに頼むつもりはないから安心して勉強してこい。それで、他に指定された条件は?」

「運搬方法は任せるけど、運び手の安全のためにも、あまり強い衝撃を与えないようにって。到着時間と送り先はこの通りだ」

 田中は鉛筆で文字が書かれた一枚のメモ用紙を大樹に手渡した。

「指定時間は早いし、目的地も遠いな。これ、車でもギリギリだろ」

「ギリギリってことは出来ないわけじゃないからね。向こうも、それは分かってるんだろう。まあ大樹ならできるでしょ」

「無責任なこと言いやがって」

 と言いつつ、念書にはしっかりとサインをする大樹。念書に書かれた文字は、大樹の太ましい体型とは裏腹に繊細で耽美な文字だった。

「……はい、契約成立。そんじゃ、いつも通り仲介料の一割は僕が貰うよ。何かあっても僕はここから先のことに一切関与しないから、あしからず。そんなわけで、ここらで僕は退散するよ。バイバイ界理ちゃん界得くん」

 念書に大樹の名前が記されたのを確認すると、田中はそれを懐に入れてそそくさと巴宅を後にした。去り際に双子に放った挨拶は、当然のごとく無視された。

 厄介者がいなくなったことで、ようやく家族水入らずの時間が巴家に戻った。

「は~ようやく帰ったよ。あの人苦手なんだよね、私」

「俺も。何か胡散臭いっていうか気味悪いっていうか。父さんの知り合いじゃなきゃ絶対関わりたくない人種だ」

「少なくとも、まともな奴でも良い奴でもないことは確かだからな。ぶっちゃけ、俺がいない時は家に上げなくていいぞ。危険だし」

「いや、旧友のお父さんがそれ言っちゃだめでしょうよ」

 当人がいなくなるや、遠慮する様子を欠片も見せず口々に人間批判をし出す巴家の面々。

「まあいいや。鬱陶しい人も消えたし、とりあえず俺と翔子はちょっと外で体動かしてくるよ。そういうわけだから、ちょっと退いてくださいね~お姫様~」

「やだ~! お兄ちゃんの足がいいの~! すね毛がじょりじょりなの~」

 生人の膝の上から降ろされた界理は、ふくれっ面で不満を爆発させる。生人が翔子の方を見やると、まったく同じ光景が目に入った。

「やれやれ。じゃあ、帰ってきたら一緒に風呂に入ってあげるから、それまで家でおとなしく待ってろ」

「ホントに!? ならカイリ待ってる!」

 生人の出した条件に、界理はあっさりと首を縦に振った。

父親と一緒に入ることはあっても生人と一緒に入ることは少なく、家族の中でも生人を一番好いてる界理にとって、その提案は非常に嬉しいものだった。

 まったく同じことを界得に言い聞かせ、翔子も膝の上で愚図る弟を退かした。

「さてと、じゃあ川原に行くか」

「あ、そうそう。私の運動靴ボロボロなんだけどさ、お兄何か良いシューズ知ってる? できれば機能性が良くて可愛いデザインの。登下校はローハー履いてるからいいけど、仕事とかで激しく動くとき用に新しく欲しいんだよね」

「機能性はともかく可愛いのは知らん。コンバースのスニーカーでいいだろ」

 最初から期待していなかったのか、生人の生返事に翔子は「だよね」と冷めた反応を見せた。

「靴の話は置いといて、お兄本気出さないでよ? 明日体育あるし、アザとかできたら瀬波に何か言われそうだし」

「本気出さなくても、お前なんか瞬殺だから」

「ウザっ」 

和気藹々とする二人は日課である組手をしに、夜の帳が下りた川原へと向かった。



「ええ、はい。要望通り、巴大樹に依頼を取りつけましたよ」

 生人と翔子が激闘に近い稽古を繰り広げているのと同時刻。田中は、街灯の下に設置された公衆電話を使って、誰かに電話していた。六つもある携帯電話を腰にぶら下げたまま。

「ええ。それは先日も申し上げた通りです。とりあえず、これで僕への依頼は終了ってことでよろしいですね。ええ、全て前払いでしたので問題ないですよ」

 色あせた緑色の屋根が被さったボックス内に、田中の声が反響する。街灯が不規則に点滅を繰り返しているのに目を奪われながら、彼は電話の向こうに話しかける。

「もちろん、お客さんに紹介した業者は実直かつ実力派な人たちなので、申し分ないかと」

 女子が何の気なく自分の髪を弄るような仕草で、公衆電話のコードを指に巻きつけ楚々として言葉を並べ立てる。

暗闇の中に一つだけ設置された街灯に照らされる田中は、その演技がかった仕草も相まって、舞台の上でスポットを浴びる役者のようだった。

 それはまさに、他人に対して徹底的に自分を演じる彼の本質を表してもいた。

「はい。はい、分かりました。それでは、ご武運を」

 相手が目の前にいるわけでもないのに、田中は深々とお辞儀をし、受話器をゆっくりと元に戻した。

「まったく、物騒な世の中になったもんだね。普通の人がこうも簡単にこっちの世界に片足突っ込めるようになるなんて。情報社会とは良く言ったもんだよ」

 そんな物騒な世の中の、より物騒な世界に全身が浸かった男は、たった今通話を終えたばかりの人間の顔を思い浮かべた。

「まあ、僕には関係ないけど」

 電話ボックスの中で、薄気味悪く一人呟く田中。。

「はてさて、どうなることやら」



 翌夕方。生人よりも早く学校から帰ってきた翔子は、ドアを開けた瞬間その異変に気づいた。

「…………あれ?」

 自宅に足を踏み入れると、恐ろしい程の静寂が家中を満たしていた。いつもなら玄関に入った途端に聞こえてくるはずの界理と界得の声が聞こえなかったのだ。

不安を覚えた翔子はローハーを脱ぎ捨てて、大慌てでリビングに駆ける。

昼寝をしていようが、絵かきに夢中になっていようが、翔子が「ただいま」と一言発するだけで玄関に飛んでくるはずの界得。だというのに、今日に限ってその姿が見当たらない。

 いたずらをしているのかもしれないと考えた翔子は部屋という部屋を探し、洗濯機の中や押し入れの奥まで探した。けれど、双子は見当たらなかった。

 この時点で、翔子の頭はすでに混乱していた。それでも尚、頭を働かせて思いつく限りの可能性を考えた。

 父と一緒にいるのではないか。否、大樹は正午から依頼された物を運んでいる最中だからありえない。二人が勝手に外へ出て行ったのではないか。鍵が外から施錠してあったことを考えると、それもありえない。

いくつもの思考が、翔子の頭を過ぎっては泡のように消えていった。焦燥はさらに焦燥を加速させ、本人の思う以上に判断能力を奪っていく。

だから翔子は気がつかなかった。玄関から小さな音がしたことに。

「――――――もう、なんでこんな時に繋がらないのよ!」

 大樹と共にいるはずはない。そう頭では分かってはいても、連絡をすれば何かしら分かるかもしれない、そうでなくとも引き返してきてくれるかもしれない。

その一心から、アドレス帳に登録された父親の電話番号に連絡をする。が、電話は繋がらなかった。

 携帯電話を弄っている内に、父親だけでなく生人にも繋がらないことが分かった。

仕方なく翔子は家の電話を使ってみたが、結果は同じだった。

 この時点で、翔子は界理と界得の身に何かがあったのだと確信した。

「っ!」

 確信するが早いか、翔子は帰ってきて十分と経たずして、鍵をかけるのも忘れて家を飛び出した。運動靴を履いた両足が向かう先は、兄のいる大学だった。


「あ~今家を出ていきましたよ」

 翔子が帰宅し、双子を探し回り、血相を変えて家を飛び出す。その一部始終を、巴家の斜向かいにある家の屋根から眺めている女がいた。

『そう。それじゃあ予定通り、双子がこっちに到着するまで、なるべく巴生人と巴翔子の接触を遅らせててちょうだい。間違っても殺しはしないようにね』

「了解」

『頼んだわよ、妨害屋さん』

 妨害屋と呼ばれた女は依頼人との通話を終えると、平然と屋根から飛び降りた。

「人間の意識って、意外と注意散漫なんだよ、翔子ちゃん。特に、焦ってるときなんかは」

パルクールに覚えのあった女は全身を上手く使って衝撃を吸収しつつ、舗装された地面へ着地する。

「うーんと……よしよし、運動靴に履き替えてるね。うん、第一段階は予定通り」

 女は迷彩柄の背嚢を背負っていた。その中には、簡易改造された電子妨害装置が起動した状態で収まっていた。

女は装置の電源を切り、開錠されたままの巴家の扉を開ける。そして、右手に持っていた翔子のローハーを玄関に置き直した。

「ま~でも、こんだけ前情報と下準備が揃ってれば当然っちゃ当然かな。相手はJCだし、チョロイチョロイ」

 取り出したスマートフォンの液晶を直接視野で捉えながら、妨害屋の女は走っていった翔子の追跡を開始した。

「三十、三十一、三十二、三十三」

 女が持つスマートフォンの液晶には謎の数字が映し出され、一秒に三~四のペースで増えていく。その間も、付かず離れず、翔子に気づかれない程度に一定の距離を保って走り続けた。

「四十一、四十二……キタキタ!」

「うぇっ――――――きゃあ!?」

 端末に映し出された数字が四十三を示すのと同時に、翔子はT字路の曲がり角で盛大に転倒した。

 足元を見ると、翔子の履いている運動靴の底が破けて剥がれていた。靴の底が抜けたことでバランスを崩し、転倒してしまったのだ。

「よ~しよし。検証より一歩少なかったけど、予定地点で予定時間通り転倒したからオッケーかな。ほらほら、早く立たないと危ないよ~」

 女はそんな翔子の様子を笑いながら見ていた。

「痛ったた、何な――――――へ?」

 だが、翔子を襲ったアクシデントはそれで終わらなかった。不運にも、彼女の倒れ込んだ曲がり角に夕刊運搬の自転車が現れ、そのまま翔子に衝突した。

「あ~痛そう。あれ、でも曲がり角で衝突って、ちょっとラブコメちっくでいいかも。これで翔子ちゃんが食パン加えてたら面白かったけどな~。まあ、顔面に車輪がぶつかってるし、下手すりゃ恋どころか裁判沙汰だけど」

 遠巻きから翔子と夕刊運搬の自転車が衝突したのを眺めながら、自分の仕掛けた罠が創作物のようなシチュエーションに似ていることに妨害屋の女は小さく笑った。

 『妨害屋』とは、その名の通り、妨害活動を生業とする裏稼業の者の呼称。

進路の妨害から恋路の妨害まで、相手を問わずありとあらゆる邪魔をするスペシャリストである。その妨害のスペシャリストが、今回は翔子を標的に定めていた。

 彼女の場合、妨害工作をする際には仕掛ける場所と相手について、最低でも一ヶ月の下準備を積むため、その仕事は実に鮮やかなものだった。

巴宅に侵入し、翔子の運動靴に細工をする。どれだけの歩数を走れば運動靴が壊れるかを逆算し、歩数を端末で受信しつつ転ぶ地点を算出する。そして、倒れた場所に時間通りに夕刊運搬の自転車が現れるよう仕向ける。

これら全ては妨害屋の下調べによるもので、ここまで翔子が遭遇したアクシデントは、全て妨害屋の女が引き起こしたものだった。

翔子がまだ便利屋として未熟だということがあるにしても、これらの研鑽された手際は並々ならないものであることに違いはなかった。

「ぐぅぅぅぅ……痛い! 痛い、けど、今はそれどころじゃないんじゃい!」

 自転車でぶつかった夕刊運搬中の青年が当惑する中、両手を擦り剥き、顔面から流血するのも構わず翔子は駆け出した。

「ヤケっぱちなのはあれだけど、思ったよりタフだね。邪魔し甲斐があるよ、巴翔子ちゃん」

 女は口角を吊り上げ、獲物のの頑丈さを賞賛すると愉快そうに笑った。

そして、全力で駆け出した翔子を追って、女も再び走り出した。


「眠い」

 本日最後の講義を受ける生人は、隣で一緒に受けている富沢に板書を任せて呆けていた。

「腹減ったな。これ終わったらどっか食いに行かね?」

 欠伸をかまして暇そうにしている生人に、富沢は夕飯の誘いをかける。

「う~ん。どうしようかな……面倒くさいなぁ」

 寝ぼけ眼で返す生人に、富沢は不機嫌そうに息を吐いて言う。

「またそれか。たまには飯くらい付き合えよ。ノート貸してやってるんだから」

「それは関係ないだろー」

「付き合い悪いと友達失くすぞ?」

「ん~分かってるけど、何だかな~」

 富沢の提案に対してあまり良い反応を見せない生人は、頭を揺らして唸った。煮え切らない態度の生人に嘆息した富沢は、アプローチの方法を変えることにした。

「話変わるけど、巴この間変なこと聞いてきたじゃん?」

「変なこと? 変なことって何だよ?」

 眠そうに瞼をこすりながら、生人は富沢とここ最近話したことを思い返してみた。

「ほら、あれだよ。俺と弟が昼ドラ的穴兄弟の関係になったら~って話」

「ああ。んで、それがどうかしたのか?」

「言われた時はテキトーに答えたんだけど、家に帰ってから何となく真面目に考えたんだよ」

「あっそう……んで?」

二ヶ月も前の話題だからか、それとも単に覚えていないのか、あるいはただ眠いのか。富沢には生人がどう感じているのか分からなかったが、ともかく本人は怠そうにしていた。

「それで考えたんだけどさ、もしお前が言ったみたいな状況になったら、俺は自分が許せないと思うんだよ。自殺まではしないけどさ、自分を戒めたくなるっつーか。よく考えると深いだろ? だからさ、その事について積もる話もあるし、夕飯どっかに食いに行かないか?」

 直接的な誘い方がダメならば、と変化球を交えて夕飯に誘う富沢。

「つっても、もう終わったことだしな」

話をすり替えて遠まわしに提案しても、やはり好感触ではない生人。気怠そうに振舞う彼に対し、仕方なく富沢が別の案を考え始めた、その時。富沢の耳と目が、妙なものを捉えた。

「…………何だ?」

 彼の耳に届いた音は、講義室のドアが思い切り開け放たれ、壁に激突した音だった。防音の為に重い素材を使っているドアであるため、それが叩きつけられた音は凄まじく、教授を含め室内の殆どの生徒が音源の方向に目を奪われた。

 そして音の次に富沢の目に入ったのは、音源である出入り口の扉の前に立つ、中学生くらいの少女だった。

「……んあ? 何かすごい音したな。富沢、今の何?」

 微睡んでいた生人は少し遅れて反応し、周囲の騒めきの正体を富沢に訊ねた。

「いや、俺もよく分からないんだけどさ、何か傷だらけの女の子が勢いよく入ってきた」

「何言ってんだ? 白昼夢なら口に出さずにしまっといたほうがいいぞ」

 富沢の言うことがあまりにも奇天烈だったからか、生人はからかい半分で言った。

「いやいや妄想じゃねーよ。ほら、あそこ見てみろよ」

「はいはい。傷だらけの美少女がいたん……だ、ろ?」

 呆気にとられる富沢が指差す方を見た生人は、一目のうちに二度驚いた。一つは、富沢の言ったことが本当だったこと。二つ目は、その女の子が自分の妹だったこと。

「は? え? 何してんのアイツ?」

 生人の微睡みは完全に消え失せた。目に映る不可思議な光景に、疑問を禁じ得なかった。

「え、あの子、巴の知り合いなの?」

「知り合いっつーか……」

「つーか、何だよ?」

翔子は周囲を見回し、何かを探しているように見えた。

生徒も教授も状況が飲み込めず、どうしたら良いのか考えあぐねているようで、教授を含め誰一人として彼女に近寄る者はいなかった。

「何やってんだよ、あの馬鹿」

 実兄である生人を除いては。

 少女が翔子だと気づくと、生人はおっとり刀で彼女に駆け寄った。

翔子が学生達の顔を覗き込むように見ているのは、自分を探しているからだと、生人はすぐに分かった。兄である自分以外に、大学に来る理由がないのだから。

「いててて……あ、おに――――――むぐっ!?」

「ちょっと黙ってろ。とりあえずここから出るから」

 翔子が近づいてくる生人に気づいて声をかけようとした瞬間。その本人に口を抑えられ、あまつさえ何故か抱きかかえられ、なす術なく運ばれていった。

 逃げるようにして大講義室を後にした二人は、道行く学生達の視線を浴びながらも、どうにか目を盗んで障害者用トイレに駆け込んで鍵を閉めた。 

「はぁ……はぁ……はぁ……どういうことだよ。何でお前がここにいるんだ、しかもそんな怪我して。服までボロボロだし」

 急な無酸素運動で息絶え絶えながら、しっかりと扉の施錠だけはする生人。呼吸を整えるよりも先に、翔子へ疑問をぶつけた。

「大変なの! 界得と界理が家にいないの!」

「いない? 父さん……は仕事だから連れてくはずないか。んでも、電話してみたか?」

「それが、電話が通じないの。お兄にも電話できなかったから、携帯ほっぽってここまで来たの」

「……分かった。とりあえず落ち着いて深呼吸しろ。あと傷を見てやるから服脱げ」

 鬼気迫る翔子の迫力にただならぬ空気を感じ取った生人は、まずは冷静に気持ちを落ち着かせるように促した。

「私の傷なんかより、界得と界理の心配をしなきゃ――痛っ」

「あんま動くな。大きな傷はないけど、箇所が多いし頭からも血が出てる。俺が応急処置するから、その間に何があったかゆっくり話せ」

 真正面から翔子の両目を見据えて語りかけると、生人は自分のバッグから救急セットを取り出した。仕事柄危険な目に遭うことが多い生人は、常に救急キットを携帯していた。

「う、うん。分かった」

 ゆっくりと呼吸をして、生人の指示に従て翔子は傷だらけになった制服を脱いだ。半裸になった翔子は、そのまま生人に体を預ける。

 露出した肌に刻まれた生傷の多さに生人は顔をしかめるが、構わず手を動かした。

「私が家に帰ったら、いつもみたいに界得と界理が出迎えに来なかったの……」

生人は翔子が語るに任せて、自分は処置のために手を忙しなく動かした。

「それで、おかしいと思って家中探してもいなくて……お父さんに電話しようとしたんだけど携帯も家の電話も使えなくて、それで不安になって、お兄のとこに来たの」

「そっか、そりゃ怖かったな。でも安心しろ、今は俺がいるから。まずは平常心になることだぞ、翔子」

 今にも泣き出しそうになりながら、それを必死で抑えて経緯を話してくれた翔子の頭を撫でて、生人は彼女の不安を拭ってやろうと努めた。

「状況は分かった。それで、何でこんな怪我したんだ?」

「それが、自分でも分からないの。靴が急に破けたり自転車と事故ったりガラス瓶が落ちてきたりバットが飛んできたり……一生分のハプニングに一度に見舞われた感じで……って聞いてる?」

「……偶然?」

翔子の話したことに生人は一つの心当たりがあり、頭の中からその心当たりを引き出す作業に耽っていた。

「……どうしたの、お兄? 急に黙っちゃって」

「ん? あ、いや、こんな痛々しい姿なのに原因がショボいというかしょうもないというか。靴が破けるってお前……そういやボロボロとか言ってたけど、どんだけ安物使ってたんだよ」

「う、うるさいな! 私だってびっくりしてるんだよ! ていうか安物じゃないし!」

「この打ち身とか、メチャクチャ痛そうだな」

「それは昨日の稽古で、お兄につけられた傷なんだけど」

「…………なんかゴメン」

 妹の体にある傷の中で自分がつけた傷が一番重いことが判明し、生人は居た堪れない気持ちになった。

「……ともかく、これで応急処置は完了。大きな傷はないけど、出血箇所が多いから余計な動きはすんなよ。手の平の擦り傷が結構深かったからガーゼ貼ったけど、あんま動かしすぎると剥がれるから気を付けろ」

「ありがとう。でも、これからどうするの? 界得と界理の身に何かあったら……」

「とりあえず、ここから出る。二人で入るとこを誰かに見られてたら事だし。中学生の実妹と障害者用トイレに入るとか、字面だけでもうヤバイわ」

 鍵を開けてドアの隙間から周囲を見渡す生人。周りに誰もいないのを確認してから、翔子の手を引いてトイレのドアを開く。

「ん? 何だこれ?」

 トイレと通路の敷居を跨いだとき、それの存在に生人は気づいた。

床に無造作に置かれた、「お二人へ」とボールペンで書かれた茶封筒。

 トイレに入る直前までは無かった封筒。それが、トイレから出ると目の前に置いてあった。ご丁寧に二人組であることを指摘までして。

その封筒が自分と翔子に宛てたものであると判断した生人は、躊躇なく拾い上げて糊付けされていた部分を剥がした。

 すると、中から一枚の白い便箋と写真が出てきた。生人は、そこに書き綴られた文字を黙読していく。

「…………今時、手紙で脅迫状なんて随分とレトリックだな。しかも、ご丁寧に二人の写真付きとはね」

「え、何? 何何? ちょっと、何かあったの?」

 手紙の存在に気付かなかった翔子は、兄が何のことを言っているのか理解できずに慌て始める。

「ほれ、この手紙読んでみろ。どうやら、界理と界得は誘拐されたみたいだ」

 生人は写真を一瞥すると、翔子に写真の存在がバレないようにポケットへ突っ込み手紙だけを手渡した。

「手紙? 手紙って何のてが……誘拐!? ちょちょちょ、どういうこと!?」

「落ち着けって。その手紙に書かれてることをゆっくり音読してみろ」

 言われて、生人から手渡された一枚の便箋に恐る恐る目を通していった。

「え~と『巴生人並びに巴翔子へ。あなた達の妹と弟は預からせてもらいました。彼らの身を案ずるならば、下記に指定した住所まで二人だけで来てください』ってこれ誘拐じゃん!」

「だから、今そう言っただろうが」

「お兄は何でそんなに冷静なの!? 二人が誘拐されたんだよ!? 早く行ってあげないと界理が、界得が!」

「だから、落ち着けって言ってるだろーが」

 パニックに陥り、発狂寸前の翔子の心を和らげるために、生人は躊躇なく妹を抱擁した。

「いいか? 俺の目を見て、俺に呼吸を合わせろ。他のことは考えずに俺の目と息使いにだけ注意を向けろ」

 力強くそう言うと、生人は無理やり翔子の頭をもたげて目を合わせた。

 言われるがまま、翔子は生人の息遣いを模倣し続けた。

荒かった息遣いは次第に落ち着きを取り戻し、じっくり一分かけて平静を取り戻させた。

「よし。呼吸も大分穏やかになってきたし、心拍も安定してる。大丈夫だな、翔子」

「う、うん。ごめんなさい、お兄」

 翔子は精神的に脆い部分があり、特に家族のことになるとそれが顕著だった。

生人自身がそうであるために、それを誰よりも深く理解していた彼は、自分の中から生じる不安を押し殺して翔子を気遣うことができた。

「界理と界得のことが心配なのは分かるし、俺もその気持ちは一緒だ。だけどな、肝心の俺らがしゃんとしないと、どうにもならないだろ」

「……うん」

「分かればいい。お前が不安になるのも仕方ないしな。だけど、わざわざこんな手紙をよこすくらいだ、交渉の人質として使うためだろうし、界得も界理も今はまだ生きてるはずだ」

「でも、手紙には二人の命があるなんて書いてないし、二人を殺した上でおびき出した私とお兄をどうにかするつもりかも」

 不安と恐怖に苛まれながらも、しっかりと思考能力は働いていることを彼女の台詞の中から察した生人。最低限の落ち着きを彼女が取り戻したことを確認した生人は、ある程度の根拠を基に自身の推測を口にする。

「大丈夫、二人は無事だ。だけど、俺たちの到着が遅れて、しびれを切らして凶行に出ることもあるかもしれない。そうなる前に、俺たちは一刻も早くこの場所に向かう必要がある。どの道、二人の安否を確認しないことには俺たちはどうしようもないんだからな」

 口にしたことの殆どが可能性であり確定事項ではなかったが、二人が無事であることだけは確かだと生人は確信していた。

便箋と一緒に双子の写っている写真が同梱されていたことが、その確信の理由だった。   

けれど、生人はその写真を翔子に見せなかった。見せれば、彼女がパニックになると考えたからだ。

 写真に写っていたのは、目も口も耳も四肢も封じられ、アスファルトがむき出しの床に倒れている界得と界理の姿。

生人自身でさえ、危うく怒りで写真を引き裂きそうになったのだから、生人よりも精神的に脆い翔子に見せることなどできるはずがなかった。

 生人が比較的冷静でいられたのは、翔子との経験畜の違い。何より、日頃から最悪の状況を想定していたからだ。巴家のやっていることがやっていることだけに、遅かれ早かれいつかしっぺ返しを喰らうことになるのだと。

 翔子より悠揚な生人は、外傷もなく双子の命に別状がないことを確認して、翔子に見せないようすぐに写真をポケットにしまったのだった。

「そだ。お前、制服ボロボロだからこれ着とけ。サイズ的にブカブカだけど、変に目立つよりマシだろ」

「え……あ、ありがと」

 腹の底から沸き上がる感情を抑え、生人は自分が着ていた紺色のパーカーを翔子に貸し与えた。

「急ぐぞ」

「うんっ」

「……誰だか知らねぇけど、タダで済むと思うなよ」

 頭は冷静に保ったまま、怒りを溜め込んだ生人は行動を開始した。

 


 同時刻。生人と翔子が誘拐犯の元へと向かっている頃、大樹もそれなりに大変な状況に陥っていた。

「一般道で正気かアイツら」

 ハリウッド映画のカーアクションさながらのスタントが、大樹の走らせる車を中心に巻き起こっていた。

 遡ること数時間前。依頼人の代理で巴家を訪れた全身黒づくめの人物から、運搬物である小包を受け取った大樹。

彼は、マルハナバチを連想させるイエローをメインカラーとして黒のストライプを入れたシボレーカマロ――――風に外装を改造した愛車に乗り、依頼物を届けに目的地である都外に向けて車を発進させた。

出発してから暫くの間は、何事もなく快調に運転していた。

 だが、軽快に運転することができていたのは、ついさっきまでのこと。目下、大樹は三台の黒いSUVに猛烈な勢いで追い回されていた。

「このタイミングで追ってくるってことは、この荷物が目的か」

 眠気覚ましのガムを噛みながら、心底面倒くさそうに大樹はぼやいた。 

生人や翔子以上に恨みを買っている大樹にとっては、こうして狙われるのは日常茶飯事とは言わずとも、珍しいことでもなかった。

それゆえに、この状況を面倒くさがる余裕があった。夜道の闇討ちが多いことを考えると、真昼間から多くの一般人が見ているという状況で襲われるというのは希だが。

「どうすっかな。無理すれば逃げ切れないこともないんだが、あんまり揺らしすぎると危険な物らしいし」

 助手席に無造作に置いた依頼物を、大樹は流し目で見た。外からは何が入っているか分からないブラックボックスの小包。唯一分かっているのは、激しく揺らすと自分の身が危ないということだけ。

「面倒だな」

 大樹が悠長に考え事をしてる間も、三台のSUVはスクラップ前提なのかと思わせるほど激しいドライビングを、彼の乗るニューカマロ風の車に仕掛けてくる。

 それを持ち前のドライビングテクニックを用いて最小の動きで躱していくが、車通りの多い一般道であるが故に、所々掠めては車の塗装が落ちていった。

「んのヤロー!」

 大樹の車は自前で改造した分愛着もひとしおで、車体を擦る度に怒りを蓄積していった。

 そんな窮屈な思いをしながら運転する大樹とは対照的に、三台の黒い自動車は最短距離で大樹との距離を詰めようと迫る。

距離を埋めようとしては何かしらにぶつかり破損していくのだが、どんなに大きく壊れても構わず追いかけてくる。

 結果的に距離を詰められるようなことにはなってないが、なにせ両者とも標識はおろか信号も車線も無視して走行しているため、少しでも気を抜けば大惨事に繋がることは明白だった。

大樹は、この状況をどう切り抜けるか考えながらハンドリングしていた。

「この車じゃ目立つし、完全に撒かないとすぐ見つかるよなぁ」

 ハンドルを右に左に切りながら、アクセルやブレーキを調節して接触を避けていく。

「とりあえず高速に乗ってフルスロットルだな。平日だし、そんなに交通量ないだろ」

 目先の目的が決まると、最も近い高速道路の入口を記憶の中から引っ張り出した。

「そらっ」

 依頼物を極力揺らさないように、それでいてUターンのために最大限ハンドルを切った。突然に一八〇度方向を転換した大樹の車に虚を突かれ、三台のSUVは反応しきれずにスリップした。

 そして、コントロールを失ったSUVに次々と衝突する一般車。その玉突き事故の様子をミラー越しに認めた大樹は、噛んでいたガムを風船に膨らませた。

「今のうちにできるだけ突き放すか」

 言うやいなや、アクセルを踏み切り一気に車を加速させた。後ろを確認せず前方と左右にだけ気を配り、できる限り減速せずに突っ走らせる。

 そうして、悠々と大樹が高速道路に入った時には、後続のボロボロなSUVとの距離は一〇〇メートル以上開いていた。

「よーし、行くぞ」

 高速道路に乗ったことで、一般道ほど周囲を憂慮する必要がなくなった。そこで、大樹は本来その車のギアの横には存在するはずのない、謎のボタンを押した。

 すると、すでに時速二〇〇キロを越えていたニューカマロ風の車は、爆発的な加速を以てして更に速度を上げた。

 大樹が改造したニューカマロ風の車は、三〇〇キロを超えた。空気抵抗は先ほどよりも数段強くなり車体が小刻みに揺れる。一秒前に前方を走っていた車が二秒後には遥か後方に遠ざかっていくのを見て、こんな状況ながら大樹は爽快感を感じた。

「やっぱニトロはいいな。最高だ」

 恍惚とした表情でハンドルを握り締める大樹は、どこか変態的な様相を呈していた。

自分の後を追う車が完全に見えなくなり、十分に距離を引き離したのを確認した大樹はニトロ加速を切り、徐々に速度を落としていった。

「さて、それじゃ次で高速を降りますかね」

 大樹の頭には、この後どうやって出し抜くか、いくつか案があった。追っ手を全て叩きのめす暴力的な作戦から、あくまで穏便に事を運ぶために逃げ回るものまで、多種多様に取り揃えたいた。

「追っ手を倒すのは容易いが、わざわざこっちから出向く必要もないか。かといって待ち伏せてアイツ等が来るのを待ってたら時間的にも厳しい……やはりここは依頼を優先するか。三十六計逃げるに如かずってな」

それぞれのメリットとデメリットを秤に掛けつつ、どれが最適なのかを吟味した結果、穏便に荷物を届ける作戦に決めた。

「よし、レッツらゴー」

 自分の子どもたちがどういう状況下にあるのかも知らないまま、大樹は愉快に軽快にアクセルを踏み込んだ。



 界得と界理が拉致されてから、すでに三時間以上が経とうとしていた。

「お兄、多分あそこだよ!」

 人気の全く無い道を生人と並走する翔子が、前方を指差して叫んだ。

 そこにあったのは、廃墟と化した一棟のビルだった。使われなくなってから大分時間が経ったのだろう。元々は白い建物だったのが肌色に近い黄色に変わり、所々に亀裂が入り、いくつもある窓には割れていないガラスが無いほどだった。

「本当に、ここで合ってるのか?」

 初めて訪れる場所ゆえに、土地勘の無い生人と翔子は文明の利器を用いて住所を検索してここまでたどり着いた。

それでも、周りの建物も似たり寄ったりの廃墟ばかりで生人は判然とせず、預けたスマートフォンで位置情報を確認している翔子に正誤を問う。

 携帯電話の液晶画面に表示された画像と目前に迫る廃ビルを見比べて、翔子が肯定の意を示そうと口を開いた、その瞬間。

「ああ、合ってるぞ。都市化に失敗してゴーストタウンになったから、初見じゃ迷うのも仕方ないだろうがな。ちょっとした世紀末気分だろう、この場所は」

 どこからか唐突に聞こえてきた声が、翔子よりも早く生人の問いに答えた。 

「……誰だ?」

 その声を聞き取った生人と翔子は、周囲に対する警戒度を最大まで引き上げた。人も車も全く見受けられない、雑草の生えた道路の真ん中を走っていた二人は並走を止め、死角を減らすべく即座にその場で背中を合わせて身構えた。

「ややや、早速臨戦態勢っすか? 穏やかじゃないっすね」

「違う方向からも……」

 更に、生人の問いに答えた声とは別の声が、全く違う方向から響いてきた。あまりに唐突すぎる出来事に、翔子は驚きを隠せず動揺が顔に出ていた。

「……誰だか知らないけど、人と話す時は目を見て話せって教わらなかったのか?」

 翔子とは正反対に、生人は表情を崩すことはなかった。

生人は挑発混じりに謎の声に語りかけてみたが、それに答えたのは更に別の、三つ目の声だった。

「しょうがないでしょ。君たちの前に出ちゃダメって言われてるんだから。私だって最低限のマナーは弁えてるつもりだよ?」

 三つ目の声は、前二つの男声とは打って変わって、艶やかさを持った女性の声だった。

「どっから話してるのか知らないけど、出てくるつもりがないなら、そのままでいいから質問に答えろ」

 言葉を紡ぎ、全方位に気を配りながらも、生人は耳に感覚を集中させる。できるだけ相手に喋らせて、音のする方向から相手の位置を割り出そうとしていた。

 拡声器を使ったわけでも大声で喋ったわけでもなく、若干こもった感じはあるが普通に言葉を聞き取れる。

であれば、そこまで離れた場所ではなく近くに隠れて話しているはず、と生人は判断した。

本来なら、感覚を研ぎ澄ませた生人であれば最初のやり取りで大まかな位置は特定できただろう。

だが、二人が立っている道路を挟むようにして、両脇には廃れた建物が多く立ち並んでいる。その建物群によって形成されたコンクリートの森林では声が反響してしまい、出処を掴むのを困難にさせていた。

「いいだろう。で、何を聞くんだ? 言っておくが、オレ達は大したことは知らないぞ?」

 相手が素直に返答してきた好機を逃すまいと、生人は目を閉じて聴覚だけに意識を集中させる。

「……お兄」

 生人の背中を通じてその鼓動や息遣いに自らの呼吸を合わせ、目を封じた生人の代わりに翔子は視覚を研ぎ澄ませる。

彼女の双眸は、二か月前に井川を殺した時と同じように、美しくも力強い、あの色を帯びていた。

「女声の奴が言ったな、『姿を見せるなって言われてる』って。つまり、アンタたちは誰かの依頼で俺たちの前に現れたってことだろ。姿を見せてないから、現れたってのは語弊があるけどさ」

「そだよ。私たちは依頼で来たんだよ、君たちを捕まえるためにね。じゃなきゃ、こんな寂れた何もないとこ来ないよ。あ、でも肝試しにはもってこいかも」

「同業者に手を出すのは面倒だが、依頼は依頼だからな」

「そういうことっす。仕事だから仕方ないっす」

 三つの声が三方向から生人の鼓膜を揺さぶる。この時点で、生人はそれぞれの声がどこから聞こえてくるのかを概ね把握していた。

 女の声は、前方にある目的地の廃ビルの辺りから。落ち着いた男の声は生人から見て右方向から。語尾に特徴のある男の声は生人を基準にして左方向から。

それぞれ距離にして十数メートルから二十数メートルほどと推測した。わざわざ別々の場所を陣取っているのは攪乱するためだと看破した生人は、より微細な位置情報を掴むために更に言葉を投げかける。

「界理と界得……俺の妹と弟を拉致したのは、お前らか?」

「お兄?」

 静かな生人の言葉。だが、その言霊が内包する怒りを、背中越しに翔子は感じ取った。それこそ、自分に向けられたわけでもないのに、恐怖で身が竦んでしまう程の怒りを。

 と同時に、生人が冷静に状況を分析していることも分かった。その様は、まるで青い炎のようだと、翔子は畏怖した。

「……正しくはお前らじゃなく、オレ一人だ。あんな餓鬼なら一人だろうが二人だろうが大差ないからな」

「タカさんは誘拐のプロっすから、あれくらいの子どもを攫うのなんて朝飯前ですからね。ついでに売り込みしとくと、自分が君たちの家の鍵を開けました。基本的に鍵のかかった物なら何でも開けられるので、何か開けたいものがあれば自分に依頼してくださいっす! 仕事自体は地味だけど役に立ちますから! あ、でも人の心を開けるとか、そういうのは精神科辺りにお願いしたいっす」

「あ、自分だけ宣伝すんなし。マウスの言うことより……あ、マウスっていうのは今喋ってた語尾に『~っす』って付けてた奴のあだ名ね。マウスより私に仕事を頼んだ方がいいよ、絶対。私の実力は、翔子ちゃんが十分知ってるはずだし?」

「え、私?」

 初対面の――正確には対面してないが――人物から唐突に自分の名前を挙げられ、翔子は思いがけず反応してしまう。

「なるほど」

 生人は生人で、女の言葉から何か得心がいったようで、鼻で笑ってみせた。

「てことは、アンタが翔子を妨害してた奴だな?」

「オニーサンは知ってたか。ご明察、翔子ちゃんの道程を邪魔してボロボロにしたのは私だよ」

「……お兄、どういうこと?」

 状況が読み込めない翔子は、真顔で生人に訊ねた。

「つまり、お前の携帯が使えなかったのも、大学に来るまで色んなアクシデントに遭遇したのも、全部、今喋ってる女の仕業だってことだ。じゃなきゃ、たかが数十分の道のりに二時間もかかるほどの事故に遭うなんて、どう考えても不自然だろ」

「そ、それもそうだけど、そんなこと……」

「翔子も少しは聞いたことがあるだろうけど、『妨害屋』って言って、偶然を装って人の邪魔する糞みたいな仕事をする奴がいんだよ。それが、今喋ってる女だ」

 平然と解説する生人に、「こんな時なのにちゃんと教えてあげるなんて良いお兄さんだね」と声に余裕を滲ませて、話題に上がっている女は茶化した。

「でも、せっかくだから職名で呼んで欲しいかな。妨害屋だと総会屋みたいな語感で嫌なんだよね。で、私は一応マラって呼ばれてるから、それでよろしく。別に下ネタじゃないからね?」

 言わなければ下ネタなどと考えないようなことを、「マラ」と名乗った女はわざわざ自分から口にした。

「今回私が依頼されたのは時間稼ぎだったから翔子ちゃんは殺さなかったけど、偶然を装って殺すこともできるくらいの腕はあるから、もしも殺したい人がいたら私に依頼してくれてもいいよ。ちなみにネタばらししておくと、翔子ちゃんが家電を使えなかったのは線を切っておいたからだよ。だから、家帰ったらちゃんと修復しといた方がいいよ。帰れたらだけどね」

「な、何か凄い馬鹿にされてる感じがしてムカつくんだけど……!」

 翔子は怒りと共に、目に力を入れて周りを見渡す。翔子が怒りに震えている間、生人はすでに三人の位置を特定していた。そして、三人を捕縛する算段も考えていた。

「別に馬鹿にはしてないよ。事実を言っただけだからね。ただ、翔子ちゃんはじゅくじゅくの未熟者だから、引っ掛けやすかったのは確かだけど」

「ぐぬぬ……ぬ?」

 マラと名乗った女とのやり取りの最中、翔子は生人が自分の手に軽く触れたことに気づいた。そして、その意図も。

「……分かったよ、お兄。あそこだね」

 小声で応じる翔子に、生人は小さく頷きタイミングを示唆した。

「大丈夫、合わせてみせるよ。いよっし…………そことそこ!」

 直後、翔子は左右の建物の一角に視線を一回ずつ向けた。すると、彼女が目視した建物の一部が弾け飛んだ。

「うお!?」

「何ぞ!?」

 何が起こったのか、それを相手に理解させるよりも速く、生人と翔子が同時に動き出す。

翔子は、彼女の右手側にある建物と建物の間隙に向かって走り出し、生人は翔子の飛び出した方向の反対側にある、三階建ての建物の二階目掛けて飛び出した。

「絶対ぶっ飛ばす!」

 建物に一瞬で駆け寄り、その壁をフリーランニングの技術を用いて一瞬で登りきる。

そして、声の主がいるであろう二階の窓をぶち破り、生人は建物の中へ侵入した。

 同じタイミングで、生人の指示した通り、翔子も建物の間の路地へと足を踏み入れた。

 生人の鋭敏化した聴覚で声の聞こえる場所を特定し、翔子の眼でビルの一部を吹き飛ばして牽制と退路遮断を同時に行い、虚を突いたところで一気に三人の内二人を組み伏せる。

「――――――――――――――――――――なっ」

 はずだった。

「――――――しまっ」

 だが、二人の思惑は、それを上回る思惑によって逆手に取られた。二人の目の前にあったのは、双子を連れ去った憎き悪者ではなく、無線通信機とワイヤートラップだった。

 路地に一歩でも足を踏み入れたならば、窓を突き破って部屋に入って来ようものならば、即座に発動するようになっているブービートラップ。

ご丁寧に、ただでさえ視認しづらいワイヤーを更に見づらく加工したものを用いていた。

 勢いよく踏み込んだ二人に、ワイヤーを切らないようにする余裕などなく、プツンという音と共に二人の視界と耳は遮断された。

「スタングレネード!?」

 強烈な閃光と音で視覚と聴覚を一時的に封じる、手榴弾の一種。ワイヤーが切られたことで、ピンに巻き付いてた糸が引かれて発動した。

『やーごめんね。無線越しで会話するのも行儀悪いとは思ったんだけど、依頼人から絶対に君たちの視界に入るなって言われてるからさ。て言っても、今は聞こえないか』

「くそっ」

 耳を澄ましていた生人と視覚を尖らせていた翔子には、スタングレネードは絶大な効果を発揮した。

『ダメ押しっす』

 目も耳も封じられた二人は、次の瞬間に不思議な匂いを捉えた。

「何、この匂……い?」

「まず……っ」

 翔子と生人の鼻をくすぐった匂い。二人はその匂いに対してそれぞれ全く別の反応を示したが、匂いがもたらした結果は同じものだった。

ほどなくして、二人はその場に立っていることもできなくなり、その場で静かに意識を失った。

「――――一丁上がり」

 一連の様子を、数百メートル離れた場所から双眼鏡で覗いていた妨害屋の女マラは、嬉しそうに言った。

「上出来だろ」

「いやー流石っす。やっぱりトラップに関してはマラさんの右に出るものはいないっすよ。その場にいると思わせておいて、実は遠巻きから高性能無線を介して会話するなんて馬鹿らしくて思いつきませんよ」

「あれ、今さらっと私のことバカにしなかった?」

「そんなことないっす。それに、わざと相手の意図に乗って会話を長引かせて、位置を割り出させてからのカウンタートラップっすもん。自分はそこまで思いつかないっすよ」

「やめろやめろ、説明されるとすごい恥ずかしいから言うなし!」

 マウスと名乗った男はマラに歩み寄り、恥ずかしがる彼女を露骨に持ち上げる。

「それに、今回のはタカさんの読唇術が有りきの作戦で、私単独じゃできなかったわけだし。そもそも、巴の情報は事前に貰ってたわけだし。身体能力とか、家族のことを突かれると頭に血が上るとか。そういえば、『神通力』とかふざけたことも言ってたね、依頼人。あながち嘘じゃなさそうだけど」

 突如ビルの壁面の一部が破壊されたことを思い返して、マラは渋い顔をした。

「言ってましたねー。女の子が目で見た場所、何のトリックか知らないですけど急にぶっ壊れてましたもんね。あれが依頼人の言ってた『神通力』とかいう超能力なんすかね」

「かもね。依頼人は兄妹でそれぞれ別の超能力を持ってるとか言ってたけど、イクトくんの方はどんなんだったっけ」

「おい、まだ仕事は終わってねーんだぞ。あの兄妹を捕縛して依頼人の前に引き渡すまでは気を抜くな」

 マラとマウスが弾ませていた会話を遮り、二人からタカと呼ばれている男が立ち上がる。

彼らは、それぞれがそれぞれの分野に特化した専門家だった。

巴家のように万遍なく仕事を請け負う万能型の業者もいれば、この三人のように一能突出ので特定の仕事のみを請け負う者もいた。

総合的な知識や実力では生人や大樹が上回るだろう。しかし、三人はそれぞれが特定の分野に秀でているからこそ、その分野においては他を遥かに凌駕する知識・技術を有していた。

彼らの世界では、一回でもしくじれば、文字通り即「死」を意味する。そんな厳しい世界で今まで生き残り、その実力を認知されて通り名を持つまでになったほどの実力者。

それが三人も、しかも十分な準備期間と相手の情報を以て立ち塞がられては、焦燥した生人と翔子に勝目など初めからなかった。

「タカさんは気合入れすぎなんすよー」

「小さい子どもを二人運び出しただけでリーダー気取りはいかがなもんかね。むしろ今回は読唇術のためだけに呼ばれたようなもんだし、タカさん。あと『拐い屋』って名称がダサい」

「それは自分も思ってたっす」

 タカの言葉に聞く耳を持たないマラとマウスは、諌められた腹いせとばかりに彼を話題の中心に据えて無駄話を始めた。

「だ、ダサくねーだろ! 分かりやすくオレの取り扱ってる業務を名前にしただけだろうが!」

「にしたって、もうちょっと何かあるでしょ。まだ誘拐屋とか拉致屋の方がいいよね。横文字使ってみるのもアリかも」

「そっすねー。拐い屋だと、あのウォーキング爺さんを思い出しちゃいますよ」

「それはデューク更家だろうが。オレは拐い屋だっつーの」

「誘拐屋でいいじゃん」

「それじゃ愉快な人みたいじゃないっすか。本当は根暗なのに、誤解を招きますって」

「お前ら、俺の話題で盛り上がるのはやめろ」

 会話を中断させるつもりが、自らその会話に組み込まれていく拐い屋のタカ。

「それに、タカさんって双子を拉致った後は何もしてないしね」

「何ぃ!? 今回の依頼に際して全体の手順を考えたのはオレだろうが! 忘れたのか!」

「でも細かい部分は殆どマラさんっすよ」

「うるせー! 大は小を兼ねるって言うだろうが!」

「何すかその言い分……マラさんも何か言ってやってくださいよ」

「ん~? まあ、いいんじゃない。今日は雲ひとつないし、月も出そうだし、月見でもしながら酒飲むのもいいね」

「あ、いいっすね! 自分も飲むっす!」

 とても裏の世界を生き抜いてきた者とは思えない柔和な空気を纏い、陳腐な歓談を繰り広げる三人組。

 結局、彼らが生人と翔子を回収しに行くのは、それから四半刻ほど経ってからだった。



「ん……んぅ? あれ、私、どうしたんだっけ? ……何も見えないし」 

 翔子が頬に伝わるコンクリートの冷っこい感覚に目を覚ますと、彼女の視界は黒一色で埋め尽くされていた。

「あ、そっか。何か光と音が凄くて、変な匂いがしたと思ったら全身から力が抜けて……それで、寝ちゃってたのかな。目が見えないのは、何か被さってるの?」

意識が途切れる直前までの記憶を掘り起こし、現状の分析をしようと翔子は口頭で確認する。

「おう、起きたか。ぐっすりだったな、お前」

「お兄!? 良かった、お兄がいるなら安心だよ! どこにいるの!?」

 生人の声を間近に聞き、目の前が見えない状況に一縷の希望を抱く翔子。

「いや、お前、状況を分かってないにも程があるだろ。ちょっと体動かしてみろよ」

「体?」

 兄に促され、翔子は手足を動かそうと試みる。だが、ガチャガチャと金属の擦れ合う音が虚しく響くだけで、体を全く動かすことができなかった。

「な、なんじゃこりゃぁぁ!?」

「縛られてることに気づくの遅―よ」

 間近に聞こえた生人の声は、翔子の真後ろから聞こえてきていた。そこで、彼女はあることに気づいた。

「お兄、私の背中に何かが当たって仄かに暖かいのは……」

「俺の背中だ」

「手足がガチャガチャしてるのは」

「手錠だ」

「目が見えないのは」

「目隠しされてるからな」

「……なるほど」

 ようやく、彼女は現状を理解するに至った。生人も自分も、完全に身動きが取れない状態であることに。

「……お兄、総括をお願いします」

「俺らは睡眠ガスで気絶させられた。で、今んところ、俺とお前は背中合わせで拘束されてる状態だ。手錠で俺とお前の手足が繋がれてるから下手に動くなよ、引っ張られるから」

「え、うわ、本当だ。さっきから私の手に触れてる指っぽいのはお兄の指だったのね」

「手足一本につき手錠三つ。おかげで、俺とお前は完全に密着状態だ。どっちかが動こうとすると引っ張られるから、もう動くなよ」

「詳しい説明をありがとう、お兄。だけど、この状態は正直キツイよ。お兄のケツが私のケツに当たってて不快だもん」

「安心しろ、俺もだ」

 いつもと変わらず飄々と言い返してくれる生人のおかげで、完全に身動きが取れない状態ながらも、翔子は比較的落ち着いていた。

「……悪い、俺としたことが迂闊だった。界得と界理のことで思った以上に頭に血が上ってたみたいだ。あんなブービートラップにも気づかず翔子に指示を出してたんだからな。しかも突っ込んだときに手の平を切ったし……地味に痛ぇ」

 目を封じられた今の翔子に生人の顔は分からない。けれど、危険な目に合わせてしまったことを悔やんでいるのだろう、ということは言葉から十分に伝わってきた。もし三人組がその気だったのなら、少なくとも翔子は間違いなく死んでいたのだから。

不幸中の幸いだったのは、界得と界理を拉致させた人物の目的が、生人と翔子の殺害ではなかったこと。今のところは、という限定条件があるが。

「それにしても、向こうが俺たちのことを知ってる風だったのは一体どういう――」

「当然でしょう。彼らにはあなた達に関する情報をありったけ渡して作戦立案をさせたんだもの。それより、どう? まん丸お月様の明かりに照らされて、汚い廃墟の床に体を委ねている気分は? 雰囲気が出てるでしょ?」

 なんの前触れもなく、ハイヒールで床を蹴る音が二人の耳に届いた。

生人が口にした言葉に答えたのは、さっきの三人とも違う、まるっきり別の声だった。

「誰だアンタ、いつからそこに……って聞く必要ないか。アンタが界理と界得を誘拐させた黒幕だってことには違いないだろうからな」

 姿の見えない相手に怯むことなく、むしろ言葉の淵に怒りを滲ませて敵対心を垣間見せる生人。

「普段はのらりくらりと立ち回る巴生人も、家族のことになると途端に熱くなるってね。ええ、それで良いのよ。そうでなきゃ、私がここに来た意味がないもの。あの男の情報は確かみたいね」

「テんメっ」

 知らない女が自分のことを知っている。その気持ち悪さに、生人は反射的に力んでしまった。

「私のことを覚えてるかしら、巴生人に巴翔子。と言っても、その状態じゃ私の顔を確認できないわよね。あぁ、だからって、その目隠しを取るつもりはないわよ? あなた達の『神通力』とやらを受けて死にたくはないもの」

「何でそれを……それに、アンタどこかで」

 女の口から出た『神通力』という言葉の意味するものが、明らかに自分たちの有する超能力を指し、なおかつその秘密を知っていることに二人は驚愕した。

「別に驚くことではないでしょ? 孫子だって『彼を知り己を知れば、百戦して殆からず』って言ってるんだから。相手の情報を集め、彼我の戦力を知るのは当然のことよ」

 軽やかな話し声だけで、女がご機嫌であることが分かる。対照的に、一方的に話を聞かされる生人と翔子は焦燥と不快感でいっぱいだった。

「確か、巴生人の『神通力』は、その目で見た人間の命を奪うこと。『生命剥奪』とか呼んでたかしら、あの男は。あなたは外傷も内傷も負わせることなく対象の人間を殺すことができるのよね? 凄いわねぇ。何をするでもなく、ただ『見る』だけで突然死に見せかけた殺人ができるんですものね。しかも、目視している人間の感情が読み取れるんですってね?」

「――――――」

 生人は言葉を失った。彼だけでなく、それは翔子も同じだった。本当に極一部の人間しか知らない自分たちの秘密を、顔も分からない女が事細かに知っている。

それだけで、二人の負の感情を煽るのには十分だった。

「巴翔子の方は、『物質破壊』だそうね。目に見えるモノなら好きなように壊すことができるっていうのは、さぞ気分がいいでしょうね。アスファルトだろうと鋼鉄の扉だろうと人体であろうと、なんでも壊せるんですものね? 今までどれだけの人間をその目で傷つけてきたのかしら。死体性愛やら奇形愛好でないと耐えられないわよねぇ、普通。だって人体がバラバラに吹っ飛ぶんですものね。私の妹を、バラバラにしたみたいに」

「……今、なんて」

 翔子の顔が驚愕の色に染まる。

 力なく零した翔子の体が、小刻みに震え始める。その振動が、直に触れている生人の体にも伝わってきた。けれど生人にはどうすることもできず、ただ女の声に耳を傾けるしかなかった。

「聞こえなかったわけじゃないでしょう? あなたが私の妹を惨たらしく殺したって言ったのよ、巴翔子」

 翔子に向けて発せられた女の声は、さきほどと一転して憎悪に満ちた声音だった。

「井川麗子の姉って言えば分かる? それとも、殺した人間の、ましてや家族のことなんて覚えてないかしら?」

 生人と翔子は当惑した。女を覚えてなかったからではなく、むしろその逆で、彼女のことをよく覚えていたからだ。

「井川麗子の姉? そんな馬鹿な、井川美雪は死んだはずだ」

「そう。あなた達が殺した、でしょ?」

 肌を刺すような刺々しい言葉が、二人の精神を容赦なく襲う。生人はともかく、女の――井川美雪の言葉は翔子にはあまりにも重すぎた。

「でも、残念。あなた達が殺したのは井川美雪じゃなくて、井川麗子だったのよね。顔が確認できないからって好き勝手言ってると思う? まあ、どう思おうと勝手だから好きに解釈していいわよ。私はあなた達の意見を聞きたいわけじゃないから」

 そんなはずはない。そう思ってはいても、女から感じる狂気は紛れもなく本物で、とても嘘をついているとは思えなかった。井川麗子と似た声なのも、双子であるならば説明がつく。

「……それじゃあ、本当に俺が殺し間違えたってことなのか? いや、だとしても……」

 対象を殺し間違えるなど、有り得ないことだった。けれど、絶対と言い切れないのも、また事実だった。

「そうね。確かにあなた達は私と麗子を殺し間違えた。だけど、それこそが麗子の狙いだったわけだし、恥じることはないわよ。麗子は、あなた達だけじゃなく私をも謀ったんだもの」

 井川美雪の一言一句には、悲哀と憎悪が込められていた。怨嗟の語りは、なおも続く。

「でも、そんなことあなた達にはどうでもいいわよね? 私が麗子のことを話してあげる義理もないし、私はただあなた達を苦しませることができればそれでいいもの。ねえ、巴生人に巴翔子?」

 井川美雪は舌を舐めずる音を奏でながら、嬉々として言った。

「――――――――――いや」

 井川美雪の狂気が篭った声が、翔子の記憶を揺さぶった。井川麗子を自らの力で原形を留めなくなるまでバラバラにした、あの瞬間の記憶を。

「いや、いや……」

思い出したくない瞬間を想起してしまった翔子の動揺が、動悸となって生人に直に伝わった。翔子の精神への重荷、そして何より界理と界得の安否が気になる生人は、どうにかしてこの状況を脱そうと思考を巡らせるが、井川美雪の声がそれを遮った。

「ああ……思い出すだけでも卒倒しそう。麗子の体が破裂した時は頭が真っ白になったわ。目から入ってくる映像の処理を脳が拒んでたのを覚えてるわ」

ポタポタと、何かが床に滴る音が二人の鼓膜を揺らした。それが、井川美雪の溢した涙の音だと気づいたのは、彼女の声の震えからだった。

「ねえ巴翔子? あなたは麗子を殺したときにどう思った? 嬉しかった? 悲しかった? 私みたいに何も考えられなかった? それとも、何も考えなかった?」

「……止めて」

「大した面識もない人間なら殺しても心は痛まない? 今まで殺した人間なんて眼中にない?」

「…………止めてっ」

 井川美雪は執拗に翔子を煽った。その度に翔子は苦悶に表情を歪め、罪悪感に苛まれた。それを見て、井川美雪は顔を歪めた。

「お前――――ぐぁ」

 翔子を苦しませるわけにはいかない。その一心で井川美雪に抗おうとした言葉は、しかし最後まで語ることなく途切れてしまう。井川美雪が力の限り生人の喉を蹴りつけたのだ。

呼吸すらままならなくなった生人は、苦しそうに咳き込み喀血する。

「あなたに口を開く権利はないのよ、巴生人。黙って妹と一緒に私の話を聞いてなさい」

井川美雪の独り舞台と化したこの空間において、無抵抗のまま何もできずにいる生人も翔子も、客どころか舞台装置でしかなかった。

「はぁ……はぁ……はぁ」

 翔子は井川麗子を直接的に殺したことへの御しきれない罪悪感から、井川美雪の一言一言に過大な精神的苦痛を感じていた。

なのに、両手を塞がれて耳を閉ざすこともできない。むしろ、殺人という行為への責任を感じている翔子は、自ら彼女の語りに聞き入ろうとさえしていた。

仕方のないことだった。どれだけ体を鍛えようとも、翔子の精神は普遍的な思春期の少女となんら変わることはないのだから。

刺殺するよりも、射殺するよりも、自らの双眸で殺すことは、手に残る感触よりも遥かに鮮明に彼女の脳へと死を記憶させていた。

だが、翔子は生人と違って心を守る術をまだ知らない。

だから普段は、無意識のうちに記憶を忘却の彼方へと追いやることで内界の平静を保っていられた。しかし、井川によって殺人者としての記憶を掬い上げられた今、翔子はその罪禍に押しつぶされようとしていた。

 そんな状況の中で、生人はある人物の顔を思い浮かべた。ある意味で自分たちをこんな状況に追い込んだ人物の顔が。

そうして、ようやく言葉を発するまでに回復した喉を震わせて、言葉を紡いだ。

 少しでも意識を自分に向けさせ、翔子ではなく自分に鋒が向くようにと。

「げっほ……アンタに情報を売ったの、田中太郎だろ。俺と翔子が超能力を持ってることを知ってる人間なんて、家族以外じゃ、あのたぬきジジイくらいだもんなぁ」

 怒りを込めて生人は言葉を並べる。その怒りは、果たして井川美雪に対するものなのか、田中に向けられたものなのか、もはや自分でも分からないほどに混沌とした感情が渦巻いていた。

「何をそんなに怒っているの? 彼はあくまで中立の立場で、ビジネスとして情報を売ってくれただけよ? あなた達が仕事として金の対価に麗子を殺したようにね」

「……はっ、性格ブス――――がっ」

 今度は腹部につま先がめり込んだ。生人は危うく吐き出しそうになるのを堪えて、喉までせり上がってきた胃液を飲み込んだ。未だに筋肉が弛緩している彼には、井川美雪の脚力であっても、急所に入れば重大なダメージを引き起こす。

「姉がこんなんじゃ、妹も歪んでるんだろうなぁ。ブスだし根暗そうな顔だったし、あんな男に引っかかったのも納得だぐぁ!」

「うるさい……うるさいうるさいうるさい! 分かってんのよ! 私の注意を自分に向けさせて妹を庇ってるつもりなんでしょう!? 兄妹愛なんて見せるんじゃないわよ! 誰が私の麗子を殺したと思ってるのよ! なに、麗子を殺すだけじゃ飽き足らず自分たちの兄妹愛を、妹を殺された私に見せつけようって魂胆!? それで私を苦しませようとでもしてるの!?」

 井川美雪は何度も何度も生人の体を蹴りつけた。感情の昂ぶりが脳の制御を解き放ち、彼女の筋力が人体の限界まで引き上げていたことも知らずに。

「だったらその方法は正しいわよ! だって、あなたを殺してしまいそうなほど腹立たしいんですもの!」

 なおも井川美雪は生人の体を蹴り刻む。脳の管理下から外れた筋肉の暴走を以て、生人の顔面を、胸を、腕を、足を、力の限り蹴り続ける。

「――――――」

 生人はもはや、言葉を発する余裕もない。ただ蹴られるだけのサンドバッグでしかなかった。

「…………」

 翔子も、井川美雪の言葉に心を抉られ、自己厭悪に陥っていた。真後ろで実兄が暴力を奮われ、その体の揺れを直に感じ取っているというのに、反応が無いほど深い自己否定に埋没していた。

翔子が仕事をするようになってから生人がずっと危惧していたことが、今まさに起こってしまった。

使命の一貫だと言い聞かせていても、人を殺すことにためらいが生じないはずがない。生人はともかく、翔子は平常を保っているようで、その実とても危うい綱をわたっていた。

年頃の女の子に人殺しをさせることなど、本来はありえないことなのだから。 

 被虐の中「せめて目隠しさえ外すことができれば」と生人が藁にもすがる思いで念じていると、遂に最悪の一言が放たれた。

「はあ、はあ……少しやりすぎちゃったわね。私としたことがそのまま殺しちゃうところだったわ。そんなわけにはいかないわよね。あなた達には苦しんで死んでもらわないといけないもの。そろそろ界得くんと界理ちゃんをここに連れてきましょうか」

 このタイミングで双子の名前が出てきたことに、生人は危険を感じて反射的に声を上げる。

「…………てっ」

 だが、全身を痛みつけられた彼に叫ぶほどの余力はなく、弱々しい吐息が漏れるだけだった。

「あらあら、そんな感情的な表情もできるのね? 口元だけでも分かるわよ、あなたが恐怖していることに。これは愉しみになってきたわ……ここであの双子を殺したら、あなたはどんな声を出すのかしらね」

 妙に扇情的で艶かしい声で、井川美雪は下卑た言葉を這うような声で言った。

「お……ま、え」

 動けないことを重々承知していながら、生人は怒りのままに体をよじった。当然、密着している翔子は人体の構造に逆らった関節の動きをしてしまう。

「……っあ」

翔子の体に痛みが走る。それでも、自己の精神世界に片足を突っ込んでいる翔子は、小さく呻くだけだった。

「く……っそ」

 それに気づいた生人は、病みかけの妹を気遣って動きを止めた。

「アハハハハ。そうそう、そうやって静かにしてないと、大事な妹が痛がるわよ? 界得くんと界理ちゃんをここに連れてくるまでの辛抱だから、もう少し大人しくしてなさい」

「……このっ」

 暴れたくても暴れることができず、暴れたところでどうなるわけでもない八方塞がりな状態で、生人のストレスは最高潮に達していた。

 井川美雪の足音が響き、その足音が徐々に遠ざかっていく。扉の開く音が反響し、音を立てて閉まった。

 その音一つ一つが苛立ちと焦燥を駆り立て、生人から余裕を奪っていく。

 部屋の支配者が一時的に退出し、静謐が空間を満たしていく。その静けさですら、生人には自らを煽るものに感じた。

「……どうしよう……わた……私は……」

「俺が……ついて、る。お前が、背負えきれないものは、俺が一緒に背負ってやるって」

 涙声で赦しを求める翔子の手を、生人は強く握った。それこそ、翔子の手が折れてしまいそうなほど強く。荒々しくも優しい兄の手から伝わる痛みに、翔子は心が僅かに軽くなるのを感じた。翔子の手の平に貼られたガーゼの下から血が滲み出し、生人の手の平にできた傷口に彼女の血が浸透していく。

その瞬間、生人の思いが翔子の内界と繋がり、堕ちる寸前で彼女の心を拾い上げた。

「………………お兄」

 生人が翔子の罪を苦しみごと担ぐことで、翔子はようやく正気を取り戻した。

「ごめんなさいっ、お兄。私が不甲斐ないばっかりに、お兄にこんな……」

「いいんだよ、別に。言ったろ、辛かったら、俺を頼れって。それに、こん、なの、父さんとの稽古に比べたら、屁の河童だし……平気、平気」

 口元に血を滲ませながら、生人は言った。強がりではなく、ありのままの事実として。

「でも、どうしようお兄。このままじゃ、私たちだけじゃなくて界得と界理も殺されちゃう」

「分かってる。今考えてるところだ」

 生人は頭を最大限に働かせて、この窮地を脱するべく思考を巡らせる。今ある手札で何をできるか。目を塞がれた状態でどうすればいいのか、考えに考え、

「――――――――――ダメだ、何にも妙案が出ねぇ……」

 策が出ないことを悟った。

「ちょ……お兄、嘘でしょ。あんなに大見栄張っておいてそれだけ?」

「仕方ないだろ。出ないもんは出ないんだよ」

「えぇ、本当に無策なの……?」

 翔子は額に汗を流す。生人の言葉が真実であることに。

「全然頭が回らねぇ。ヤバイな、自分で思ってる以上に気が動転してるぞ、これ」

「そんな軽く言ってる場合じゃないよ、お兄」

「じゃあ、お前は何かあるか」

「お兄、私に何を期待してるの。ついさっきまで精神崩壊しそうだったんだよ、私は。そんな余裕あるわけないじゃん」

「偉そうに言うな」

 ようやく調子を取り戻してきた二人だったが、状況は今以て最悪。間もなく井川美雪が双子を連れてきて、惨たらしく生人と翔子の前で殺すことだろう。

「くそ、こりゃ本当に命運が尽きたか…………つき?」

 その時、生人は自分の口にした言葉に引っかかりを感じた。何気ない二語の言葉に。

「つき……そうか、月だ。何で俺はこんなことにも気づかなかったんだ」

 生人は世紀の大発見をした学者のように、その発見に情動した。

「翔子、俺達が目を覚ましたとき、井川美雪が言った言葉を覚えてるか?」

 誰かに話したくてしょうがないと、まるで子どものように体を疼かせる生人。井川美雪という単語を聞いた途端に翔子の顔が僅かに歪み、不快そうに否定した。

「覚えてるわけないよ、そんなの」

「灯台下暗しとはまさにこのことだな。とはいえ、あの女の言葉がなきゃ気づかずに終わってただろうけど」

「どういうこと?」

 一人盛り上がる生人の考えが分からない翔子は、彼に反して冷めた反応を見せる。

「だから、月だよ月。井川美雪はさっき、俺達は月明かりに照らされてるって言ったんだ。つまり、俺とお前は今、月の光を浴びてるってことだ。ここまで言えば分かるだろ」

「……あぁ!」

 そこまで聞いて、翔子は生人の意図にようやく合点がいった。

「しかも、用意されたみたいに密着状態。ま、こうでもしないと『神通力』を無力化できないと考えたんだろうけど、中途半端に対策したせいで裏目に出たみたいだな。これならアレが使えるぞ」

「でも、お兄はどこか擦り傷なり刺し傷なり、出血箇所あるの?」

「はぁ……お前は本当に感覚が鈍いというか感度が悪いというか」

 妹の察しの悪さに、生人は呆れて嘆息する。

「何よぉ!?」

「あのな、お前は気づいてないようだけど、さっきから『共感状態』に入ってるぞ。まあ、俺もたった今気づいたから人のこといえないけど」

「え、嘘ぉ?」

「いや、嘘じゃねーよ。お前の精神負荷を軽減したの誰だと思ってんだよ。正確には『半共感状態』って感じだろうけど。ちょっと集中して俺に意識を向けてみろよ」

「う、うん。むむむ………………あ、本当だ。でも何で?」

 生人に言われるがまま翔子は目を閉じて生人の手を握り返す。

意識を彼に集中することで、ようやく生人の言うところの『半共感状態』を感じ取ることができた。

「今、俺がお前を案じて手を握ったとき、無意識のうちにお前は俺に助けを求めてただろ。で、偶然にもお前と俺の手にはお互い裂傷があった。そんでもって、月の光もこの身に受けていると。都合のいいことに、『共感状態』になるための条件は全部揃ってたわけだ」

「そっか、確かにそうだね。でも、気構えもできないまま『共感状態』になるのは恥ずかしいからちょっと嫌だなぁ」

 二人の言う『共感状態』になったことで心に余裕ができた翔子は、苦笑いでそんなことを口走った。

「そんなこと言ってる場合か。まだ完全な『共感状態』じゃないから精神共有しかできてないんだよ。さっさと完全な『共感状態』に入って『千里眼』を使うぞ。ほら、ガーゼくらい、今の状態でもすぐに剥がせるだろ」

「分かってるよ」

 さっきまで狼狽していた姿はすっかりなりを潜め、打開策を思いついた二人は随分と冷静さを取り戻していた。それほどに、『共感状態』と呼ぶそれは、二人の精神的支柱となっていた。

「何にせよ、これでどうにかなるな」 

二人にしか分からない、二人だけが分かる言葉。ようやく危機を脱する糸口が見えたことに二人が歓喜していると、井川美雪の足音が近づいてきた。

さきほどよりも重い音を響かせるその足音は、邪悪な愉楽を包含していた。

「おいでなすった。準備はいいな、俺の右手を握って集中しろ」

「うん」

 そして、再び扉が開かれる。差し込んだ風が二人の体を撫で付け、冷感が肌をざわつかせた。

「よっこらせ」

 井川美雪が間の抜けた声を出した直後、柔らかくて重いものが落ちる音が二つ、生人と翔子の聴覚器官に語りかけた。

「うっ……お兄、ちゃん?」

「お姉……ちゃ……」

 直後に聞こえた洩らすような声は、界得と界理の声だった。

「さあ、それじゃショータイムと洒落込もうかしら。ほら、起きなさいよ」

 無造作に床に落とした双子へ、追い打ちをかけるように蹴りを一発ずつ二人の腹部に与えた。

 界理と界得は苦痛に呻く。苦しむ声を聞いた翔子と生人の頭の中を、瞬間的に憤怒が支配した。拘束されてさえいなければ、今にも飛び出して食ってかかり、肉塊になるまで殴り倒していただろう。

生人にとっては聞きなれた人体を殴打した際に発する鈍い音も、その音源が愛する家族のものであれば話は別だった。

声を殺すだけでも、十分に堪えた方だと言えた。溢れでる感情を圧し留めるために、生人は血が出るほど強く唇を噛み締める。 

「あら、思ったより反応が薄いのね、二人とも。それとも、怒りのあまり声も出ない? ねぇねぇ、今どんな気分? 愛しい弟妹が嬲られる気分はどう? 黙ってないで少しは答えたら?」

 井川美雪はさらに双子を蹴りつけた。聞くに堪えない界得と界理の苦悶の声が、再び部屋に響き渡る。

 それでも二人はぐっと堪えて、タイミングを見計らう。互いの意識を集中させ、完全な『共感状態』へ移行するために。

「……………………おい」

そして、生人が口を開いた。

「あら、やっと喋った。で、どうだった? 身内を蹂躙される気持ちは? 少しは私の気持ちが分かった?」

「翔子、やるぞ。息を合わせろ」

「うん」

 井川美雪を無視して、二人は二人だけの世界に入り込む。そもそも、生人の最初の一言も、彼女に向けたものではなく翔子に対するものだった。

「……っ、シカトしてんじゃないわよ!」

 自らを差し置き、勝手に納得し合う生人と翔子に苛立ちを抑えきれず、三回目の蹴りを双子に入れようと井川美雪が片足を引いた、そのとき。

「――――――え?」

 界理に当たるはずの彼女の右足は、虚しく空を切った。否、宙を舞った。

 バランスを崩し、その場にへたり込んだ井川美雪本人にも、何が起こったのか理解できなかった。

 なにせ、右足の膝から下が、不自然に千切れてあらぬ方向へ飛んでいったのだから。

「は? え? 何? どういうこと? 私の……足、何で?」

「知ってるはずだろ。それが、さっきアンタが自慢げに喋ってた『神通力』だよ」

 不可思議な事象を目の当たりにして理解の追いつかない井川美雪を嘲るように、またも不可思議な景色を彼女は目にした。

 窓から差し込む月光を背中に受けて、生人と翔子が手を繋いだまま平然と立っていた。拘束具の一切は粉々に壊れ、目隠しは外れ、歪な色をした二人の双眼が、暗い空間に怪しく光っていた。

「全く、目隠しの下にガムテームで瞼を貼り付けるなんて……本当に用心深いな、アンタ」

「結局は無駄骨だったけどね。ま、目の周りをヒリヒリさせる程度には効果あったのかな」

 擦りむいた左手は生人の右手を握ったまま、右手で目の周りをさする翔子。さきほどと打って変わって、彼女は驚く程落ち着いていた。

「そんな、何で、どういうこと? 両目は封じてたはずなのに……手錠も、何で壊れて……」

 瞬く間に立場を逆転された井川美雪。混乱を極めた頭に蟠った怒りと焦りが、彼女の思考力を奪った。

「残念だったな。腹立たしいことこの上ないけど、これまでの手腕は認める。アンタの執念は凄まじいよ、ホント」

「でも、決定的に足りないものがあったね」

 前もって打ち合わせをしたのかと錯覚するほど、息の合った二人の声。生人の言葉を引き継ぎ、翔子が言葉の穂を嗣ぐ。生人は翔子の手を離し、井川美雪の側で倒れる双子に近寄る。

「何勝手に動いてんのよ!?」

 それを見て取った井川美雪は、考えが纏まらないまま、情報屋から仕入れた拳銃を懐から取り出して生人に銃口を向けた。

「――――っあああああああああああああああ!?」

 だが、銃弾が放たれる前に翔子の視線を受けた彼女の右手が、拳銃を握ったまま弾けとんだ。

「ごめんなさい。確かに私は、あなたの妹を殺しました。その事を許してとは言いません。恨んでくれて結構です……でも、だからといって界得と界理に手を出したあなたに、容赦はしません」

「あぁ……私の、手が」

 右半身の手足を失い、井川美雪はその場に倒れ伏した。

「まあ、井川麗子にトドメさしたのは俺なんだけどね。っと、そんなことより大丈夫か、界理に界得」

 大量の血を流しながら睨めつける井川美雪を尻目に、生人は双子を抱き上げる。

「ん……あ、お兄ちゃん? お兄ちゃん!? お兄ちゃんだ!」

 生人の呼びかけに真っ先に反応したのは、相変わらず界理の方だった。

 双子の体には所々傷が見受けられたが、それにも関わらず元気いっぱいといった様子で、界理は生人に勢いよく抱きついた。

「目立った傷はないけど、毒を盛られたりしてないよな……? 界理、あの血だらけのオバさんに何かされたか?」

「んーん、今蹴られた以外は何もされてないよ!」

「そっか、なら良かった。いや、まったくもって良くはないけど」

 生人の心からの安堵が、笑顔となって溢れ出した。その笑顔を目にして、界理は感情を高ぶらせて生人の唇に吸い付いた。

「もがっ!?」

「優しいお兄ちゃん大好キッス!」 

「この空気でよくもそんなことができるね……お兄。ていうか、感覚共有してること忘れてないよね」

 呆れ顔で二人の接吻を眺める翔子は、頬を赤らめて自らの唇を軽くさすった。

「ぅ……あああああああああああああああああああああああああああ!」

 ひどく幸せそうな巴家のやりとりを見せられ、頭に血が上った井川美雪は残った左手で拳銃を拾い上げた。

「動かないで」

 その挙動を見逃す翔子ではなく、三度目の『神通力』を井川美雪に向けて行使する。すると先ほどと同じように、力を受けた左腕が吹き飛んだ。

「っあ、あああああああああああああ! 殺す! 殺してやる! お前ら全員、殺してやる!」

 すでに肢体を三つも失い、血液も滝のように流れ出ているというのに、残った左足で拳銃を拾い上げんと井川美雪はチを這う。

「あ、そっか。こっちを壊せばいいんだ」

 翔子がそう呟いた次の瞬間、井川美雪が最後に縋った拳銃はバラバラに飛散した。目の前で最後の武装を破壊された彼女に、もはや為す術はなかった。

 殺意に滾っていた双眸からは熱が消え失せていく。それが血液を失ったことによる肉体的な作用なのか、あらゆる意味で拠り所を失ったことによる精神的な作用なのか、最早本人ですら分からなかった。

「なんで、どうして……私の計画は完璧だったのに」

「翔子も言ったろ。決定的に足りないものがあったって。端的に言って運と、あと、俺達の情報か。よりにもよって今日は満月だからな。ぶっちゃけ、この状態だったら大抵の状況に対応できるし」

 すでに井川美雪に意識はなかった。こびり付いた命がミノムシの心臓ほどに鼓動しているだけで、間も無く、その生命活動すら停止することだろう。

「……っ」

首を鳴らして井川美雪に向き直った翔子の両目には、憐憫に似た何かと、強い罪悪感があった。

「悪いな。喪服で送ってやれないけど、勘弁してくれ」

 言って、生人はゆっくりと合掌してから再び彼女の死体を凝視した。井川麗子から魂を引き剥がした時のように、変色した双眼が滅茶苦茶になった井川美雪の死体から魂魄を抜き出した。

「ひっ!?」

 すると突然、翔子は一瞬体をビクつかせた。

「あっ……やべ」

翔子の思考を感じとり、申し訳なさそうに頭を掻く生人。そんな生人を、目に涙を溜めて睨みつける翔子。

「…………私は先に出てるから、お兄は二人を連れてきて」

 それだけ言い残し、翔子は気持ち悪そうに口元を両手で覆って、血の臭いが充満した部屋を出て行った。

「……ドジッた。最大出力で力を使うと勝手に記憶を読み取っちゃうんだっけ。この状態だと強制伝心だし、翔子に嫌なもん視せちまったな」

 久方ぶりに行使した全開状態の自分の『神通力』の効力を忘れていた生人は、下唇を噛んでバツの悪そうに翔子の背中を見送った。

ともあれ、これで危機は去った。安堵した生人は界理を抱き直し、血の海に浸る死体を黒色の双眸で見つめた。 

「しかしまあ、俺が言えた義理じゃないけど、アンタら姉妹は相当狂ってるな」

 生人はやるせない表情で、事切れた井川美雪の死体を見つめる。彼女の死に際に視えてしまった彼女の記憶に、眉間に皺を寄せて不快感を顕にした。

視たくもない記憶を視せられた生人は、思いがけず、自分と翔子が有する『神通力』という超能力の異質さを再認識させられることになった。


 井川美雪が翔子と生人の超常的な力を見誤るのは仕方のないことだった。

彼女はおろか、その情報の仕入れ元である田中太郎でさえ、二人の力の本質を知りはしないのだから。

もしも兄妹の力の源泉を知っていれば、あるいは月の満ち欠けが彼らにもたらす作用について、考えが至る可能性もあったかもしれない。

しかし、所詮は見聞でしかなかった。実父である大樹でさえ、二人が『神通力』と呼ぶ霊妙な力の真価を知りえないというのに、妹の復讐を誓った悪鬼や情報を掻き集める蒐集家ごときが見抜けるはずもなかった。

 生人と翔子の力を理解しているのは、二人を除けば今は亡き母親以外にはいない。それゆえ、生人と翔子の力が何故『神通力』などと呼称されているのか、井川美雪はそんな瑣末なことに何かを思うことすらなかった。

生人や翔子が力のことを『神通力』と呼ぶのは、文字通り神に通じ、神から授かった力だということに。

 二人にとって――あるいは人類にとって――の本質的な意味での神とは。それはキリストでもなければ釈迦でもなく、地球という天体そのものだった。

 ガイア理論によって論じられるべきこの神話は、しかし世界的な広まりを見せる前者三つの宗教のように大系づけられてこそいなかったが、ひっそりと、だが確実に受け継がれてきた。もっとも、見地によってはオカルトに分類されうる超自然的な内容ではあるが。

つまるところ、生人と翔子が持っている『神通力』なる力は、地球という、人類を生み出した生命として上位の存在から授かった神聖な力だった。

二人の力は地球を根源とするもので、今宵は満月。ジャイアント・インパクトによって地球より生まれ落ちた月が満ちる日。

であれば、地球という天体から力を受けている彼らの『神通力』が、月の満ち欠けや光に影響を受けるのは摂理だった。月が満ちているほどに二人の『神通力』は強まり、満月のときに最高潮に達する。

二人の力の真価とは、『共感状態』でのみ行使することのできる『千里眼』と呼ばれる力。しかし、『共感状態』に至るための条件が条件だけに、滅多にその力を使うことはなかった。事実、今回を含めても、彼らが『共感状態』で力を行使したのは片手で数える程度しかない。

前提条件は二つあった。条件の一つは、半分以上姿を現している状態の月の光を浴びること。

もう一つの条件は、生人と翔子、お互いの粘膜あるいは傷口を触れ合わせて、思考を一致させること。ここまでして、ようやく『共感状態』に到達することができる。

『共感状態』になった二人の肉体と精神は一時的に同調される。

精神と肉体が同調されると、肉体的負荷や精神的負荷を共有・分散することが可能になり、『神通力』の力そのものも高まる。傷を早く癒すことも、精神的苦痛を緩和することもできるようになる。

一方で、どちらかが傷つけばもう片方も傷を受けるリスクを負う。どちらかが心苦しい思いをすれば、もう片方も同じ思いをする。

そして、『共感状態』ではお互いの脳も接続される。言いたいことも言おうとしていることも手に取るように分かってしまう。

それゆえ、完全に満ちた月の光を受け、読心はおろか他人の記憶をも掬いあげてしまう生人の『神通力』は井川美雪の記憶を垣間見てしまった。

生人が見た井川美雪の感情と記憶に、彼と精神を同調していた翔子はどうしようもない負の感情を覚えてしまった。それこそ、吐き気を催してしまうほどに。

元々、『共感状態』は精神的にも肉体的にも円熟していない翔子が、『神通力』をヒトに向けて行使する際に受ける精神的苦痛を、生人がフィードバックすることで軽減するための技術なのだが、今回はそれが最後の最後で裏目に出てしまった。

生人自身、失念していた。内在能力以上に自身の力が向上しているときに『神通力』を使うと、行使された対象の心も記憶も全て汲み取ってしまうということを。

しかし、『共感状態』で生人と精神が共有できてなければ、翔子がここまで非情に力を使うことはできなかったのも、また事実だった。

図らずも、今回の一件で自分の背負うものがどれほどの重さなのかを、生人に再考させることになった。

星を生かすために与えられた、星の力のことを。


「――――――お兄ちゃん?」

「……え、ああ、悪い。ちょっとボーッとしてた」

まだ眠っている界得に身を寄せながら、界理は思考に埋没する生人を不思議そうに眺めていた。

「よし、そんじゃ家に帰るか」

「うん! お兄ちゃん、カイリお腹空いた!」

「お前は本当に食いしん坊だな。……しっかし、今回ばかりは父さんの決めた依頼人との不干渉が仇になった感じだなぁ。死んだ後もちゃんと調べておけば、こんなことにはならなかっただろうに」

そう思いつつも、大樹の考えを知っていた生人は複雑な思いだった。

大樹が殺人を依頼した一般人との不干渉を強要するのは、殺人を実行する自分たちを気遣っているためだということに。

同業者相手からの依頼であれば、仕事として割り切ることもできるが、相手が何の罪もない一般人だと、どうしてもその重さが二人の心にのしかかる。特に、翔子に関しては。

「まあ、ウダウダしてても仕方ないな。どの道いつかはこうなってたろうし。これからもないとは言い切れないし」

「ゆうはん~」

「はいはい、そうだな、夕飯だな。あとは掃除屋に依頼してこの部屋を綺麗にしてもらわないと」 

 踵を返し、生人と界理はいつも通りの笑顔で、夕飯の話なんてしながら何の愛着もない廃ビルを後にした。

 生人は界理と界得が変わりないことに、今度こそ本当に安堵した。この双子が『神通力』を使うことにならなくて良かった、と。

 生人は今回の出来事に対する苦い思いを噛み締めながら、重い足取りで廃墟の廊下を歩いていく。

 誰もいなくなった部屋には、乱雑に散らばった女の手足と、鼻を突くような鉄の臭いだけが残った。



 休日の昼下がり。その日は、前日の快晴から一変して朝から雷混じりの豪雨が降っていた。

 数メートル先も見えづらい強い雨のせいで、休日ともなれば子どもの声が聞こえてくるはずの住宅街も、雨音と雷鳴以外の音は無かった。

こんな日に外出するような人も少ないだろうに、相も変わらず、住宅街の一角にある一軒家には、「営業中」の看板が堂々と立てられていた。

「――だから、何で休日なのに店開けてんだよ。しかもこんな雷雨なのに」

「雪で家が埋もれたわけじゃあるまいし、雷雨ごときで休むような仕事でもないからな。お前こそ、もう営業時間なんだから寝巻きのままリビングに来るんじゃない。何度言わせんだ」

 「巴」という表札を掲げるその一軒家のリビングに、二つの声が響いた。

「お兄は本当にダラけてるね」

 二つの声に続いて、あどけなさの残る少女の声がした。

「大学生はレポートやらサークルやら人付き合いやらで忙しいんだよ。だから心身の疲労でぐっすりなんだって」

「レポートはともかく、あとの二つはどうとでもなるでしょ……しかもレポートだって、お兄は殆ど友達の助力ありきじゃん」

「大学ってのは人脈を確保する場所だから良いんだよ、それで」

「間違ってはないんだろうけどさ……学生の本分は勉強でしょ」

 あいかわらずコンピューターのキーボードを叩きながら、翔子は兄である生人と仕事に関係ない事を語らっていた。それがいつものことであるのをわかっている大樹は、その光景を無関心に眺めていた。

「全くお兄は……っと、すね毛リアンは放っておいてメール確認しなきゃ」

「おい、すね毛リアンってのは俺のことか? 兄につけるあだ名じゃないだろ、それ」

「お父さん、仕事のメール来てるけど」

「シカトかよ」

 メールボックスを更新して新着メールがあることを確認した翔子は、生人が噛み付いてくるのを無視して大黒柱の大樹に報告した。

「どんな依頼だ?」

「え~っと……多分、運搬じゃないかな。内容をざっと読んだ限りだと」

 大雑把に依頼の内容を口にしてから、翔子はあることに気づいて気まずそうに人差し指で頬を掻いた。

「運搬か」

その言葉を聞いた途端、大樹は生気の抜けた遠い目で土砂降りの外を眺め出した。その瞳の奥には、先日の運搬依頼の際に大破してしまった彼の愛車が写っていた。

「まだ立ち直れてないんだね、お父さん」

「まあ、あんだけチューニングもとい魔改造してた愛車がスクラップになったんじゃな」

 二人は大樹に同情を寄せつつ、滅多に見れない父親の落ち込む姿に、少なからず愉快に思う部分もあった。

「つーか、井川美雪が運ばせた爆弾ってそんな威力あったのか。どんな爆弾使ったんだよ。いや、そもそも爆弾まで用意してたのかよ」

「そんなことより、車が爆発したのにお父さんが無事なことの方がアレなんだけど。爆発した時、お父さんも車に乗ってたんでしょ? どうやって生還したわけ」

 大樹の愛車であるシボレーカマロ風に改造した車が壊れた理由。それは、先日の井川美雪の一件でのことだった。

井川美雪の引き起こした一件があった日、大樹は別の運搬の依頼を担当していた。が、それも井川美雪の計略の一端であり、大樹が運んでいたのは井川美雪の指示による依頼物だった。

荷物の中身は単純構造の時限爆弾だった。一緒にECMが同梱され、周囲の機器で通信することもできなくなっており、翔子が連絡できなかったのもそのためだった。

そして、井川美雪の依頼物を狙って、彼女が雇った殺し屋集団に追い掛け回されることになった。つまり、彼女の自作自演に付き合わされていたことになる。

巴家の最高戦力である大樹を引き離されることは想定されて然るべきなのだが、子ども達になまじ場数を踏ませていることが仇になり、放任主義が行き過ぎたと言えた。

 そして、井川美雪の復讐劇における作戦の一環で爆弾の運搬を依頼された大樹は、それが爆弾であるとも知らずに多額な改造費をかけた愛車で運んだ。

結果、爆弾が爆発して車がお釈迦になってしまったのだった。

「はははっ」

 力なく笑う大樹を、深刻な表情で見つめる翔子と生人。

「しっかし、そうなると運送系の依頼はどうするんだ? ウチに依頼してくる運搬物なんて人目についたらマズイものばっかりだし、運んでるとこを別の業者から狙われたりすることもあるし、公共交通機関やレンタカーはできるだけ使いたくないんだよな」

「お兄がママチャリで運べばいいんじゃない? リヤカーもあるけど」

「ふざけんな」

「おはようお兄ちゃん!」

「お姉ちゃん、おはよう」

 冗談交じりに会話を織り成す二人に、幼い二つの声がかけられた。

「おはよう二人とも」

「おはようさん。時間的にこんにちは、だけどな」

 挨拶がてら勢いよく抱きついてくる双子を、翔子と生人はしっかりと受け止めて挨拶を返す。

 こうして、巴家の面々が一堂に会した。一緒に暮らしているのだから、家族がリビングに集まることなど至極当然のことだ。

それでも、界得と界理があんな目に会ったばかりでは、生人も翔子も、そんな当たり前のことですら特別なことに感じた。

「何でお兄ちゃん笑ってるの~?」

「お姉ちゃんも」

「何でもないよ。なあ翔子」

「そうだね、お兄」

 双子からの思わぬ指摘に、顔を見合わせて笑う生人と翔子。 

「子どもたちが戯れる様子を生暖かく見守っていると、不思議と気分が晴れてくるなぁ」

 大樹は、和気藹々としている子どもたちを見つめることで、愛車を失った悲しみを無理やり塞ごうとしていた。

「……それはそうと、お前ら、母さんに線香あげた?」

 仮にも営業中であるにも関わらず、オフィス代わりのリビングで自由に過ごしていることを注意することを諦めたのか、大樹は子どもたちに問いかけた。

「あ、忘れてた」

「私もあげてないや」

「カイリもまだ~!」

「ぼくも、まだ」

「お前ら……」

 四人が四人全員、死んだ母親を思う気持ちが薄いことに、大樹は呆れてため息すら出なかった。

「いや~何かさ、母さんだったら、どっかで生きてるんじゃないかな~って思っちゃうんだよね、なんとなく。だから、つい忘れちゃうっていうか」

 言い訳がましく生人が口にする。もっとも、それは彼の本心ではあるのだが。

「ね。別に死んだことが認められないとかじゃなくて、単純にそんな気がしないっていうか何ていうか。いや、火葬にも立ち会ったけどさ」

「なんせ、俺が生きてきた中で唯一父さんを屈服させた人間だからな、母さんは」

「え、そうなの!?」

「あぁそうか。お前と界得界理はまだ生まれてなかったんだっけか。凄かったんだぞ、色々と」

 生人は、妹達が知らない母親と父親の夫婦喧嘩を思い出し、妙な汗を垂らして塞ぎ込んでしまった。

「え、何その反応? 何があったの、お兄?」

「いや、幼心にあの強烈な喧嘩はトラウマでさ……うん。今思い出したけど、アレはマジで強烈だったなぁ~」

「お兄がトラウマになるほどの夫婦喧嘩って……」

 精神的にも肉体的にも強靭なものを持ってるはずの兄が初めて見せる表情に、生唾を飲む翔子。

「カナエは凄まじく嫉妬深い奴だったからな。まあ、そこが可愛いとこでもあるんだが、たまに嫉妬がいきすぎるんだよ」

 兄が母親の思い出に恐怖する一方で、父親は母親との過去を思い出して惚気る。巴家男子の、母親に対して抱く感情の両極端さに、翔子は苦笑した。

「でも、お兄やお父さんの言うような人じゃなかったと思うんだけどな~お母さんは」

「お前を生んだ辺りから落ち着いてきたからな、カナエは」

「できることなら、俺を生んだ段階で落ち着いて欲しかったけどね」

 そう言って膝に顔をうずめる生人と、先ほどまで塞ぎ込んでいた父親の影が重なり、翔子は思わぬところで二人の血の繋がりを感じた。

「……線香あげないの?」

「センコー!」

 年長組が妙な盛り上がりを見せる中、界得は三人のやり取りを冷ややかに見つめていた。界理は界理で、単語の意味もよく分からないまま声高に「線香」と叫んだ。

「おう、そうだった」

 陰気な天気をものともせず、彼らは休日の昼過ぎをマイペースに過ごしていた。

「――――――――――よし、線香をあげるぞ」

 ややあって、大樹はようやく落ち着きを取り戻した子どもたちを仏壇の前に横一列に並ばせた。自らもその中央に座してから、線香に火を点け香炉に挿した。

 そして、タイミングを見計らって全員が同時に合掌する。細かい作法は宗派によって異なるが、彼らが行ったのは二回手を叩いてから合掌をするだけの単純でオーソドックスな方法だった。

「……」

「……」

 生人と翔子は、目を閉じてじっくりと供養した。

「むむぅ~」

 界理は思い切り力んだ状態で手を合わせ、唸りつつもしっかりと母親のために祈った。

「……足がっ」

 ほんのわずかな間ではあったが、正座をしていて足が痺れてしまった界得は、その痺れと悪戦苦闘して悶えながらも最後まで皆に合わせた。

 時間にすれば一分と無い短い間ではあったが、全員が同じ静寂の間を共有することができた。

 家の外で鳴り続ける雨音と雷鳴だけが、静まり返った室内に響く。

「さ、仕事だ」

 沈黙を破り最初に立った大樹は、そそくさとその場を離れて、書類の整理を兼ねてパソコンを確認しに行った。

「私も、この間の依頼の金が入金されたか確認しないと」

「さて、そんじゃ俺も着替えてくるか。つっても、今日は特に予定もないしな」

「だったらカイリと遊んで~!」

「うるさい、バカイリ」

「むき~! バカとはなんだバカとは~!? カイリ知ってるよ、カイエみたいなのをオクラって言うんだよ!」

「それを言うなら根暗だぞ、バカイリちゃん」

「うがぁ~! お兄ちゃんまで!」

 大樹が動き出したのを皮切りに、各々がぞろぞろと立ち上がり、三々五々に喋りだす。さっきまでの静寂は何だったのかと翔子が思ってしまうほど、家の中は一気に騒がしくなった。

「ん? あ、田中からメールが来てる」

「お父さん、まだあの人と連絡取ってんの!?」

「まあな。いや、お前らの気持ちは分かるけど、仕事を仲介してくれるし情報の仕入先としては他にアイツほどの人間はいないからな」

「あ~田中太郎の野郎……次に会ったら絶対ぶん殴ってやる」

 生人と翔子が田中を快く思わないのも当然のことだった。田中が巴家に関する多くの情報を売ったせいで、危うく一家全滅するところだったのだから、怒りを感じない方が無理な話だった。

「まあまあ、確かに殴り殺したい程腹立つ気持ちも分かるが、仕方ないことだろ。それに、俺達だって人のこと言える立場じゃないんだからよ」

 それでも、田中と付き合いの長い大樹は生人や翔子ほど短絡的に考えてはいなかった。

 田中はあくまで商売人として、情報という商品を求めた客に対して提供できる限りの情報を売っただけであり、そこには何の意図もないことを知っていたからだ。

彼にしてみれば、大樹達を売ったという認識すらないだろう。

「『どんな客にも最高のサービスを』ってのが、田中の信念だからな。ま、巴モーニングの利益のために我慢してくれ、二人とも」

「……そういうのは、お父さんの決めることだから、私は構わないよ。許しはしないけど」

「以下同文。追記で、隙あらば殴る。あの男の顔は見たくないけど」

 なんやかんや言いつつ、情報屋として巴家に多大な貢献をしてきた田中の仕事っぷりは認めているため、私情を挟みはすれど、得意先として田中と連携することに二人は同意した。もちろん、大樹への信頼があるからこそ、だが。

「お兄ちゃん! お兄ちゃんの部屋から漫画持ってきていい!?」

 今回、一番怖い目にあったはずの界理は、拉致されたことも特に気にする様子はなく、平然としていた。呑気にも、兄の部屋にある漫画を読もうとするくらいには。

「ああ。いいけど、変な漫画は選ぶなよ。色々とアレだから」

「変な漫画ってなによ?」

「やべ、墓穴掘った」

「わーい、マンガー!」 

 ドタドタと女の子にあるまじき足音を立て、二階にある生人の部屋へと猛然と駆けていく界理。

「……ぼくも二階で遊んでこよ」

 颯爽とリビングから退散した界理を見て、物欲しそうな顔で界得は呟いた。

「お姉ちゃん、一緒に遊ぼう」

「ごめん。お姉ちゃんも界得と遊びたいけど、今は一応仕事の最中だから、悪いけど界得と遊んであげることはできないの」 

遠慮がちに尋ねる界得に、翔子は申し訳なさそうに軽い笑みを浮かべて答えた。

「その代わりに、生人お兄ちゃんが界得と界理と一緒に遊んでくれるって」

「俺?」

 思いがけない指名に、自室に戻ろうとしていた生人は翔子に振り返った。

「だってお兄、服着替えに二階の部屋戻るんでしょ? どうせリビングに居ても何もしないんだから、二人の遊びに付き合ってあげてよ」

「俺は別に構わないけど、界得は俺でいいのか?」

 界得は自分よりも翔子にご執心であることは生人自身も分かっていたため、一応の確認を取った。どの道、営業時間中はリビングに双子を置いておくことはできないので、生人も翔子も双子を二階に連れて行くつもりではあったが。

「うん。お兄ちゃん、一緒に遊ぼう」

 そう言って、生人の元に歩み寄って手を握る界得。

「界得ェ」

 界理ほどではないにしろ、普段なら駄々をこねて翔子にへばりつくはずの界得が素直に自分に従ってくれた。そんな些細なことが生人には嬉しく思え、目に涙を溜めていた。

「兄バカ……そこがお兄の良いところなんだけどさ」

 翔子は、生人の、家族へ向ける厚すぎる情に呆れつつも微笑ましく思った。

「ん? 何か言ったか?」

「何にも言ってないから早く二階に行ってきなよ」

「はいはい、言われんでも行くっつーの。ほれ、界得」

「うん」

 頷く界得の手を引いて、二階へ上がるため生人は階段に足をかけた。同じタイミングで、インターフォンの音が家中に響き渡った。

「はいはい、今行きますよーっと」

 すぐに反応したのは、巴家の家長であり巴モーニングの代表でもある大樹だった。

「……あー」

 直ぐさま玄関へと向かい、覗き穴からドアの向こう側に佇む人物を見て、大樹はあまり好ましくない反応を見せた。

「翔子、お客さんだ。お茶とタオルの準備しとけ」

「了解」 

「こんな雨の中よく来るな。ま、何にせよ俺は二階に行って着替えなきゃな」

 突然の来訪者に、そわそわした空気が俄かに巴家に流れ始める。 

 玄関のドアが開かれる。途端に、家の中に強烈な雨の音が広がり、冷気と共に来訪者の纏う重苦しい空気が流れ込んできた。

「……あの、ここは、どんな依頼でも請け負ってくれるんですよね?」

 ずぶ濡れのその人物は、この世の終りと言わんばかりの低く暗い声で言った。

「もちろんですとも。依頼とあれば何でもござれ。ようこそ、巴モーニングへ。雨も降ってますし、まずは中へどうぞ」

 大樹は訪問者を家へと招き入れた。いつもと変わらぬ、営業の笑顔を貼り付けたまま。



「お、だいぶ雨足弱くなってきたな」

 来訪者に一別をくれつつ、どこか剣呑とした雰囲気を醸し出す生人は窓の向こう側を眺める。

「……もう少しだけ、降るかな」

 翔子は手を止めて生人と同じように黒みがかった灰色の空を眺めなた。

それから、ふと井川美雪の感情と記憶の回想に埋没していった。

『共感状態』で生人が読心を行ったことで翔子にまで波及した、意図せず視てしまった井川の半生とも言える記憶。

翔子の頭の内で、井川美雪の虚像が語り部となって独白を始めた。


何故、井川麗子はわざわざあんな殺され方を選んだのか。そもそも何故、井川麗子は自分を井川美雪と偽ってまで、自らを殺させたのか。 

全ては、井川麗子が残した遺書に書かれていた。死に向かう彼女の胸中、姉である井川美雪への肉親を超えた想い、愛した男への思い、その全てが。『私を恨んでください』などと、普通なら遺書に書かないようなことも書かれていた。

最愛の姉である井川美雪、その夫と不倫していたことへの自己嫌悪。姉が愛した男と愛し合えたことへの歪な悦び。姉という妻がいながら、妹である井川麗子に手を出した男への憤り。

そもそも、井川麗子が上司に愛を覚えたのも、井川美雪がその上司を愛していたから。ただそれだけの理由。

だからこそ、井川麗子は姉である井川美雪の夫と肉体関係を持った。姉の愛したモノを愛したいという、歪曲した感情に基づいて行動した結果だった。

その行動が姉に対する裏切りだということは分かっていた。分かっていたからこそ、彼女は自死を選んだ。自分の歪んだ喜びの代償として、自分を殺した。

井川麗子は上司を愛し、上司も井川麗子を愛でていた。だが、それは同時に上司が妻である井川美雪を裏切ったということ。その報いとして、井川麗子は自分を殺させた。

男の眼前で、妻である井川美雪の無惨な死を見せつけることで、姉を裏切った男への報いとした。実際に死んだのは、井川美雪に扮した井川麗子自身だったが。

上司の井川美雪への裏切りと、井川麗子が侵した井川美雪に対する裏切りの代償を、井川麗子は彼女一人の死で償おうとした。

それは、井川美雪から見ても矛盾だらけで、はた迷惑でチグハグな思考だった。

それでも、それら全ての感情は、唯一の家族である井川美雪への愛から生じたもの。井川麗子の行動の根底には、全て姉の存在があった。

そんなことを言われて、井川美雪が最愛の妹である井川麗子を恨めるはずがなかった。

家族を愛する気持ちは、同じだったのだから。

井川麗子のためなら、夫の一人や二人譲ることなど訳なかった。だというのに、井川美雪の愛に気づかず井川麗子は一人で全て背負って、一人で持って逝った。

妹が死んでから、姉は茫然自失していた。だが、やがて彼女は気づいた。井川麗子が望んで死んだのだとしても、彼女を殺した相手に殺意を持たない理由にはならない、と。だから井川美雪は彼女自身の意思で、井川麗子を殺した相手を見つけ出すことを決意した。

やがて、情報屋を経由して巴モーニングに辿り着いた。井川美雪は巴の情報を買い集め、妹を殺した生人と翔子を嵌める状況を作り出すために腕利きの業者も雇った。彼女は、ほぼ全財産をつぎ込み、二ヶ月もの間危ない橋をいくつも渡ってきた。

それもこれもただ一つの目的を果たすため。妹の井川麗子を殺した生人たちの目の前で、双子を殺すという目的を。そうして、自身と同じ思いを味あわせるために。


「――――――――――はぁ」

 翔子は井川美雪の記憶の回廊から抜け出し、深く落ち込んだ。

自分に向けられた憎しみを、向けてきた本人の視点から感じることが、これ程までに鬱蒼とした気分にさせられるということに。

 そしてまた、ここまで用意周到に自分たちが狙われていたということに恐怖を覚え、こんな思いを幾度となく経験したであろう生人へ、心から畏敬の念が芽生えた。

「本当、お兄はおかしいよ」

 『共感状態』になったことで、生人がどれほどまでに強靭で柔軟で、それでいて酷く脆い欠点を持つ精神構造をしているのかを痛感した。

 心を殺さずに人を殺す。心に蟠った澱を飲み下しながら、それでも尚、自分の使命を果たそうとする。人としての理性を保ったまま人を殺すことが、どれほどの罪過と絶望感に浸されるのかを知っていながら。

「お兄に比べたら、私のは、まだ軽い方なんだね」

 ――――軽い。意図的に主語を排除したのは、翔子の決意の表れなのか、今はまだ矮小な心に蓋をするためなのか、それは彼女自身気づいていなかった。

「……うん。それでもやるよ、私」

 誰ともなしに決意を表明した翔子の目は、窓を通じて空を眺めていた。

 暗灰色の空に雨は止むことなく、尚その雨足は強まっていく。けれど、灰雲を巡っていた稲光は、今はもう遥か彼方の空へ遠鳴っていた。



『彼女』は生まれたときと同じように廻り、記憶した。『彼女』の意思を継いだ子どもたちから贈られてくる、子どもの記憶を。『彼女』は常に膨大な情報を観つめていた。一分一秒たりとも目を閉じることはない。一瞬たりとも耳を塞ぐことはない。常に全ての情報は平等に、完璧に記憶する。

それでも、彼らが贈ってくる情報にだけは、どうしても感度を上げざるを得なかった。普段は意識しない『彼女』も、出来のいい子どもを自然と可愛がってしまうのは仕方のないことだった。

膨大な情報を同時並行で処理しながら、『彼女』は愛しい子どもから受け取った記憶を、『彼女』自身が客観的に観測した記録と合わせて吟味することにした。無論、作業そのものは変わらずに継続しながら。


井川麗子は巴に殺人の依頼をすると同時に、姉である井川美雪に別の話を持ちかけていた。

「美雪、大事な話があるの」

 井川麗子は神妙な面持ちで姉に話をもちかけた。

「宏さんが、私に肉体関係を迫ってきたの」

 自分の上司であり、姉の夫である男の名前を口にする。

「美雪がいながら、私に手を出そうとしたのよ? それに、あの人は他の女にも手を出してる。そんな男と一緒にいたって、美雪は幸せになんかなれない。だから、殺そう? 殺人を請け負ってくれる人がいるから」

 井川美雪は首肯した。井川麗子が本気であることは分かっていたから。妹を思えば、夫に注ぐ愛など取るに足らないものだったから。

 そして、その日が来た。井川麗子は、彼女の目論見通り巴に殺されることに成功した。

井川麗子が巴に殺された日、井川美雪は仕事が終わったら彼女と入れ替わり、お互いに成りすますように言われていた。いつも仕事が終わった後、井川美雪とその夫は一緒に帰るのがお決まりとなっていたから。

しかしその日は、井川美雪に成りすました井川麗子が横に歩いてた。容姿は全く同じ、指輪をはめて髪型を普段の井川美雪の通りにすれば誰にも分からない。

そうして、あらかじめ井川麗子が巴と取り決めていたであろう合図を、井川麗子に扮した井川美雪が送る。合図を送った井川美雪本人は、その行動の意味は知らなかった。ただ、そのサインを送ることで殺し屋が夫を殺してくれると、井川麗子から聞かされていた。

それがまさか、自分に扮した妹が殺されることになるなどと、夢にも思わなかっただろう。殺された井川麗子本人にとっては、予定通りだったとしても。

井川麗子が巴に殺された後、井川美雪は田中に会いに行った。その時点で、彼女は殆ど何も知らなかった。夫を殺すという虚偽の計画の算段は、井川麗子が全て独断で立てたものだったから。ただ、遺書を読んでなぜ妹が自殺するに至ったのかは理解した。

 そして、妹を殺した相手のことを田中から聞き及んだ井川美雪は、先の事件を引き起こすことになった。


『彼女』は井川麗子の行動原理を理解した。なぜ実姉である井川美雪と殺し屋である巴を謀ってまで、井川麗子は死ぬ道を選んだのか。

夫を共謀して殺すように提案しておきながら、巴には上司の妻である井川美雪を邪魔者として殺させようとし、最終的には自分が殺されるように動く。

そんな、他の生物にはありえない複雑怪奇な行動の原理も、複雑で単純な構造を持つ「感情」によるものだということを。

 『彼女』は理解したその情報を、すぐに保存した。間断なく流入してくる莫大な情報を、次々に処理していく。

 『彼女』は普段通りの作業に戻った。いつかまた、彼らが贈り物を届けてくれるのを楽しみにして。

 今日も『彼女』は、廻る。廻る。廻る。

 


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巴一家の物語 マロフ @fumamama

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