巴一家の物語

マロフ

第1話:処女を切る


 何の変哲もない、ある平日の夜のこと。

ネオンの光に顔を彩られた人々は、いつもと変わらぬ面持ち、いつもと変わらない足取りで林立するビルを隔てる通りを歩いていた。頭髪が色褪せ禿頭を夜空にさらす老人から、数時間前までランドセルを背負っていた少女まで。

 入社したばかりの新入社員を連れて、晩酌を交わそうと飲み屋に向かう企業戦士たち。学習塾での勉強を終え、団欒を求めて家路につく学生の姿も見受けられる。年齢や境遇は違えど、先ほどまで各々の責務を強いられていた彼らの顔には、桎梏から解放されたことの笑みがあった。

 程度はあれ、その通りを賑わせている喧騒の大半は、嬉々としたものに違いはなかった。だが、通りの一角に建築された、比較的大きなオフィスビルの前。そこには、まるっきり逆の意味での喧騒が沸き起こっていた。

 そのオフィスビルの前にだけ、金切声に似た悲鳴や、困惑の色を覗かせる声が飛び交っている。なぜか。理由を問われたとしても、一言も発することなくただ指差すだけで事足りるほどに、そこには明白な原因が二つ、横たわっていた。

 一つは、全身を血に染め上げられて放心状態にあるスーツ姿の男性。そこだけを切り取れば、あるいはここまで混乱が生じることは無かったかもしれない。

だが、もう一つ。彼の眼前に散らばった、人の形をしていた肉塊が風景に加わることで混乱は頂点に達していた。

 肉塊というよりも、それは最早、肉片と呼んだ方が相応しい状態だった。それ程に、散らばった骨肉や臓物は、原形を留めていなかった。

 それでも、散らばった血肉たちが「人だった」ことに行き交う人々が気づけるのは、形を保ったままの四肢や臓器が散乱していたからだ。そして何より、滅茶苦茶になった胴体に比べて、驚く程に無傷な生首が血の池と化した男性の足元に転がっていたからだ。

 そんな、あまりにも現実離れした光景を目にして、パニックに陥らない者の方が少ない。

 事が起きてしばらくしてから、周囲の空気に侵されつつも、一人の女性がようやく携帯端末を手に取った。手に取ってから僅かに逡巡した女性は、その双眸に映る惨状を目の当たりにして、救急車を呼ぶことは止めて警察に通報した。

 喧騒で賑わう通りを、通過儀礼をを終えたばかりの少女が虚ろな双眸で見下ろしていた。その隣で青年は「オェ、いくらなんでもやりすぎだろ」とわざとらしく手を口元にあてがい嗚咽を演じてみせる。

 オフィスビルの前で起きた惨事と、そこに集まる群衆。その様子を、向かいの建物の屋上から、文字通り高みの見物をする影が三つ。

「うるっさいなぁ。ちゃんと仕事はこなしたんだから文句を言われる筋合いはないでしょ」

「あぁ」

 三つの中で一番大きな影は、一番小さな影が発した問いに対して気怠そうに頷いた。

「第一、生人こそちゃんと中身は還したわけ?」

「当然だろ。お前と一緒にすんなって」

「だから、ちゃんとやったって言ってるでしょ!」

 人が眼下で悲惨な死を遂げたというのに、驚く様子も慄く素振りもなく自然に振舞う。けれど、屋上に吹き付ける夜風にさらされる二人の両目は、燻る心情と対照的に揺れることなく道路に散らばった肉片を捉えていた。

「ちゃんと見とけ」

 大きな影が釘を刺すかのように、軽妙なやりとりをする子らを重苦しい声でたしなめる。彼やがて三人は身を翻す。その足取りは相も変わらず。

 喧騒から遠ざかる三人を追うように、けたたましいサイレンが鳴り響いた。

 耳障りなその音を背に、重苦しい空気を纏った三つの人影は屋上から姿を消した。


 ――――そんな彼らの営みを、『彼女』は愛おしそうに観つめていた。






 ある休日の昼頃。一戸建ての家が建ち並ぶ、閑静な住宅街。その一帯にある家々の一つに、「巴」と平凡な文字が彫られた表札があった。

表札から視線を右に少し移動させると、その家の門に表札とは別に「営業中」と墨で書かれた札が掛けられていた。

「おい生人、とっくのとうに営業時間だぞ。いつまでダラけてるつもりだ」

「いつまでも何も、俺は今起きたばっかだし、もうちょっとリビングでゆっくりしてたいわ」

「リビングは客間として使うんだ。いるならせめて寝巻きをどうにかしろ。さもなきゃ二階に戻れ」

 どことなく顔の似通った中年の男と青年が会話――というには些か苛々を含みすぎている――を繰り広げている。

「なんだよ。それを言うなら、翔子の奴だってリビングのテーブルでパソコン使ってるじゃんか」

「アホ生人。私は依頼のメールとか口座の金額を確認してるの。生人みたいにソファーで寝転がってるだけの怠け者と一緒にしないでよ」

 二人とは別に、まだあどけなさの残る顔の少女が、木製のテーブルの上でラップトップ型コンピューターのキーボードをタイピングしていた。

「生意気な。そもそも、せっかくの休日なのに店を開けてる父さんが悪いんだよ。世間はのんびりまったりしてるのに、ウチだけ仕事っておかしいだろ。こちとら、ゆとり教育受けて育ったんだぞ。土日は休日って決まってんだよ」

 と、気怠そうに茶色のソファーに寝っ転がる巴生人。

「何を今更。そんなの、私たちが小さい頃からずっとじゃん。大学入ってから、ちょっとダラけすぎじゃない?」

 血縁の年功序列を気にすることもなく、巴翔子は実兄を呼び捨てにする。生人の四つ下の妹である彼女は、兄の怠惰な態度に溜め息をつく。

「お前こそ、今年受験のくせに勉強しなくていいのかよ。言っとくけど、私立なんて絶対行かせないからな」

「何でお兄に言われなきゃならないのよ、お金出すのはお父さんでしょ。ていうか、言われなくともそうしますぅ」

 言って、翔子は唇を尖らせた。

「……はぁ」

 思春期と反抗期真っ盛りな実子のやり取りに、父親である大樹は気づけば溜め息をついていた。そして、吐き出したその息を取り戻すかのように、小さく息を吸い込む。

「おい、無駄話してないでさっさと店の準備をしろ。しまいにゃ、ぶっ飛ばすぞ」

「……はい」

「……はい」

 家庭内ヒエラルキーの頂点としての権力を行使し、重低音の声で大樹は二人を諌めた。

 丁度そのとき。インターフォンの音が巴家に響いた。

「はて。翔子、今朝は特に仕事入ってなかったよな?」

「うん。入ってないよ」

 父親の問いに、翔子は液晶に表示されたメールの受信ボックスと、手元のスケジュール帳を交互に確認してから返答した。

「ってことは臨時の依頼か、もしくは宗教の勧誘か」

 面倒くさそうに頭を掻きつつも、大樹は玄関のドアへと、客かもしれない誰かを出迎えに行った。

「……知らない顔だな。一見さんか」

 ドアの覗き穴からインターフォンを押した人物を確認するが、扉の前にいたのは大樹の知る顔でも、子供たちの知り合いという風でもなかった。

 とはいえ、わざわざ居留守を使う理由もなし。大樹は躊躇なくドアを押し開けると、薄手のシャツにジーンズというラフな格好の女性が、そわそわした様子で立っていた。

「あの」

「あ、お客さんですか?」

 目の前に立っている女性から漂う只ならぬ空気に、大樹は一目で彼女が自分の客であると察した。それでも、女性が初対面の相手であったことから、あえて分かりきっている質問を投げかけた。

「あ……はい」

「そうですか。では、立ち話もなんですし、お話を伺いますので中にどうぞ」

 そう言って、大樹は戸惑う女性を先導してリビングへと案内する。

「……」

 リビングに続く廊下を歩くほんの僅かな間、女性は物珍しそうに家の中を見渡していた。

「どうぞ、ソファーにお掛けください。今お茶を出しますので」

「ありがとうございます」

 大樹が台所でお茶を淹れている間も、彼女の視線は泳いだまま落ち着かなかった。

 そんな落ち着かない様子の女性だったが、テーブルでコンピューターを使っている翔子に気づき、ようやくそこで視線を止めた。

「……ん? あぁ、失礼しました。えーっと、私はあのおじさんの、父の手伝いで雑務をしてる、娘の巴翔子と言います」

「そう、なんですか。若いのに仕事の手伝いなんて、立派ですね」

女性は翔子と目を合わさずに、心にもない紋切り型の褒め言葉を口にした。

その言葉に、翔子は微妙な間を開けて何か言いたげな表情を見せたかと思うと、無言でコンピューターの液晶画面に向き直った。

「すみませんね。あんな生意気な小娘が仕事を手伝っていると思うと不安でしょう?」

 台所から二人のやり取りの一部始終見ていた大樹は、湯気を立てるお茶を片手にそう切り出した。

「いえ、そんなことは……ない、です」

 そう言うものの、女性の目は言葉とは真逆の思いをありありと示していた。

「変な気を使う必要はないですよ。事務所だって、まさかこんな民家だとは思わなかったでしょう。そりゃあ視線が泳ぐのも分かりますよ。私が客でも、胡散臭いと思いますし」

「え?」

 目の前を先導していたはずの大樹が自分の僅かな挙動に気づいていたことに、彼女は薄気味悪さを感じた。

「まあ、だから何だって話ですけど。ただ、初めてウチに来る人は結構ギャップに驚きますからね。特に、アナタのような人の場合は」

 心の内を見透かすような大樹の言葉。彼の双眸は、女性の両目を突き刺すようにしっかりと捉えていた。

「雰囲気とか顔つきとか、そういう些細なことでも分かるもんですよ。どんな依頼をしに来てるのかって。少なくとも、人前で言うのが憚られる内容ってことくらいは」

 明らかにもてなす気がないと分かる威圧感を大樹から感じ、女性は言いようのない息苦しさを覚えた。

「……お見通しってわけですか。でも、ここはそういう仕事も請け負ってくれるんですよね?」

「もちろんですとも。依頼とあらば何でもござれ。犬の散歩から人殺しまで、当社『巴モーニング』が実行可能な範囲であれば、どんな仕事でも。もっとも、アナタのようにウチがそういった依頼も受けていることを知っている人は、殆どいませんが」

「……私は、ある人からここの話を聞いて来たんです」

 遠まわしに揶揄してくる大樹を不快に思いつつも、彼から受けるプレッシャーを誤魔化すかのように女性はお茶を一口だけ飲んだ。

「察しの通りです。ある人を殺してもらうために、私はここに来ました」

 それから女性は、巴に依頼する仕事を端的に言い放った。

女性の口から物騒な言葉が飛び出た瞬間、淀みなくリビングに響いていたキーボードのタイピング音が途絶えた。

「……」

 キーボードを打つのを止め、心底嫌そうな顔を覗かせて表情だけで不満を訴える翔子。そんな娘の視線を余所に、大樹は営業用の薄気味悪い笑顔を貼り付けたまま対応する。

「分かりました。殺人の依頼ということでよろしいですね?」

「はい」

「では、早速ですが具体的な話をしましょう」

 女性が本気であることを理解した大樹は、姿勢を正してソファーに座りなおした。

「殺人かぁ。ヤダなぁ」

 溜め息を混じえながら、依頼人の前で翔子は本音を漏らす。

 それがどういう意味で面倒くさいのか、ただの客である女性の及び知るところではなかったが、少なくとも彼女にとって気分の良いものではなかった。

「思っててもそういうことは依頼人の前で口にするなって言ってるだろうが。ところで、さっきから気になってたんだが、生人は二階に行ったのか?」

「うん。二人が起きたみたいだから、様子を見てくるって。いつの間に二階に戻ったのか知らないけど」

「そうか。なら、後でいいだろう」

「いいの? まあ、寝巻きで来られてもそれはそれで困るけど」

「あの……」

 巴家の内輪の会話に取り残され、女性は反応に困り戸惑った。

「おっと、これは失礼。依頼についての説明がまだでしたね」

 あまりに大げさに謝ってみせる大樹の態度に、女性は大樹に対する猜疑心を強めた。

 だが、殺人などという法の外にある行為ですら請け負う人物であるがゆえに、彼女は感情を抑えて文句を飲み込んだ。下手に口を滑らせようものならば、自分の身がどうなるのか分からなかったから。

「貴女はウチを利用するのが初めてなので、まずは軽く料金体系について説明させてもらいましょうかね。依頼については、大まかな仕事の内容で基本料金が決められるんですが、細かい要望があればオプションとして、基本料金にプラスされる形になります。ですが、殺人となるとそれ以外にも考慮しなきゃいけない点があるんですよ」

 慣れた口調で説明を始める大樹。

「考慮する点?」

「ええ。極端な話、総理大臣を殺すのと、そこいらの一般人を殺すのとでは、色んな意味で差異があるのは理解できるでしょう。状況による殺人そのものの難しさ、社会的地位の高さや大衆への認知度、政治経済や民衆への影響力などが料金の上下に関係するんです。大企業の社長が殺されたとなれば株価が変動するでしょうし。そういった社会的影響が大きければ大きいほど、料金もつり上がっていくわけです」

 そんな事を言った直後に、「まあ、実際のところそんなことは無視できるんですが」と大樹は意味深長な言葉を付け加えた。

「人の命は等価値ではなく、上下がある。そこんとこは理解しといてくださいね」

「分かりました」

「結構です。では、その殺したい相手のことをお訊きしましょう。その人物の経歴や依頼人様との関係……それと、何故殺したいのか、その動機も出来る範囲でよろしいのでお話していただきたいのですが」

「は?」

 まさか殺人の代行にそこまで多くの情報を求められるとは思わず、女性は訝しげに目を細めた。

「それは、殺人を行う上で必要あるんですか?」

「ええ。殺す状況などにも起因しますが、知ってる限りの情報はいただきます。当社にもモットーと呼べるものはありますから。といっても、モチベーション的な意味合いが主なんですが」

 眉をひそめる女性に、大樹は躊躇なく即答する。

「……分かりました。殺したい人物というのは、双子の姉です」

 どこか疑念が残った瞳ではあったが、彼女は大樹の言葉に従い、一枚の写真と共に言葉を乗せた。

「なるほど。これが、その姉の写真というわけですか。こちらはご両親……にしては年配のようですね。失礼ですが、どういった家族構成なのでしょうか?」

 写真に写る数人の人物を見て、大樹は顎髭をさすった。

「その写真に写ってるのは祖父母です。私と姉は両親を早くに亡くしてしまって……引き取ってくれた祖父母も最近亡くなったんです。その写真は、祖父母が亡くなる前に姉と一緒に撮ったものです」

「ということは、今はその姉が唯一の肉親ということですか。それはそれは、さぞ辛いでしょう」

 大樹は演技でも何でもなく、純粋に女性の境遇に同情した。けれど、その場にいた大樹以外の女性陣には、嫌味にしか聞こえなかった。

「一応アドバイスをしておきますと、この業界には『妨害屋』や『拐い屋』といった様々な業者がいますし、場合によっては殺さずに済ませる方法もありますが。本当に殺したいんですか?」

「そのような方々がいるのは存じ上げませんでした。ですが、理由を聞く前から私の殺意を否定されるのは、あまり気持ちよくないですね」

「や、これは申し訳ない。ただ、ウチとしても殺人の依頼にはそれほど前向きな考えではないものでして。もし他の手段を考えず短絡的な考えで依頼しているのなら別の方法もある、ということを教えておこうと思っただけなので」

 誤解を招いたことを侘び、その後で言動の理由を説明した。些か大樹の態度が上からではあったが、女性は一応納得した。

「……あのさ、お父さん。それよりもまず依頼人の名前を聞くなり自己紹介するなり、しないの?」

 二人のやり取りを見ていた翔子が、おもむろに言い放った。

「ああ、すっかり忘れてた。そういえば依頼人様のお名前を伺ってませんでしたね」

 娘に指摘されて、思い出したかのように女性に訊ねる大樹。

「普通忘れないでしょ……」

 娘の口から発せられた正論に、冷や汗が大樹のこめかみに流れる。

「いえ、私こそいきなり押しかけておいて名乗らずに申し訳ありませんでした。改めて、私は井川麗子と申します」

 大樹の問いに、女性――井川麗子は丁寧に受け応えた。

「井川麗子さん、ですか。すでに私どもについてはある程度ご存知のことと思いますが、礼儀としてこちらも名乗るのが筋でしょうね。私は巴モーニングの代表、巴大樹と申します。さっきも名乗ってましたが、こっちは娘の翔子です」

 本来なら自身が先に述べるべきだったことを恥じてか、大樹は普段よりも控えめに自己紹介をした。

「ではでは、早速ですが殺人対象である井川麗子さんの姉について、詳しくお聞きかせ下さい」

 それでも、即座に仕事の事に頭を切り替えられる程度には、大樹に仕事人としての意識は備わっていた。

「ねぇお父さん、殺人の依頼なら、お兄を連れてきた方がいいんじゃない?」

 ひたすらキーボードを叩いていた翔子が、実父に向き直って問う。

「生人は二人の面倒を見てるんだろ? だったら後で話せばいいさ。依頼人の口から直接聞かせたいのは山々だが、あの二人はセットだと何をしでかすか分からないからな」

「う~ん。まあ、そうだけど」

「ほれ、分かったらお前もこっちに来て座れ」

「はいはい」

 父親に促され、翔子はテーブルから離れてソファーにかけた。

「……」

 当然、急に娘を横に座らせた大樹の意図が読めない井川は、微妙な表情を見せる。それに気づいた大樹が「あぁ」と声を漏らす。

「ま、ウチにも色々と事情というか決まりごとがありましてね。殺人の依頼については、娘と息子に依頼人から直接聞かせるようにしてるんですよ。息子は双子の姉弟の世話をしていてリビングには来れないので、今回は娘だけですが」

「……はあ」

 大樹の真意が読めず、かといって問いただすほどのことなのかも分からず、井川は渋い顔をするしかなかった。

「まぁ、そんなことは置いといて。話をどうぞ」

 そんな彼女を慮ることなく、大樹は笑顔で話を促した。笑顔とは言っても、その目は真剣そのもので、有無を言わせない迫力があった。

「……分かりました」

 逡巡する井川だったが、話を先に進めるため頷いた。。

「姉と私は、部署は違いますが同じ会社で働いているんです。それで、去年の春に姉は私と同じ部署の上司と結婚したんです」

「ほう」

 双子が同じ会社で働くという珍しい境遇に、大樹は興味津々といった様子で聞き入る。

「それなのに……あろうことか私は、その上司と不義の関係を持ってしまったんです」

「うっわぁ……」

 翔子は、依頼人に対する不快感を隠そうともせず、蔑みの視線を投げる。

「確かに、私は人間として最低かもしれません。ですが、私だって本気で彼を愛しています」

 翔子の蔑む視線を受けながらも、井川は臆面もなく言い放った。あまりに堂々とした物言いに、翔子の方がたじろぐほど。

「私は彼を愛してます。それこそ、美雪よりもずっとずっと……だから、私の方が強い愛を持っているんだから、同じくらい彼から愛を受けるのは当然でしょう? でも、私が彼の愛を独占するには、美雪が、姉が邪魔なんです。そのために…………」

「そのために?」

 苦悶の表情を覗かせながら言葉の続きを言い淀む井川に、大樹はその続きを言外に催促する。

その光景を目にして、翔子は自分の父親の性格の悪さに内心ため息をついた。

「…………そのために、美雪を、姉を殺して欲しいんです」

 ひどく苦々しい顔つきで、井川は唯一の肉親であり双子の姉である井川美雪の殺害を、言葉にして依頼した。

「相分かりました。ご所望とあらば」

 話の内容とは不釣り合いな、それでいて違和感のない、依頼に相応な不気味な営業スマイルで大樹は頷いた。

その後も数十分に渡って大樹と井川の話は続き、すっかりお茶が冷めた頃になって、ようやく話に一区切りがついた。

「私が話せるのはこんなところです。これでよろしいでしょうか?」

 井川は双子の姉について、彼女の知る限り事細かに説明した。可否を訊ねこそしたが、長く語り尽くした彼女には、他に話せることはなかった。

「ありがとうございます。それだけ聞ければ、事足りるでしょう」

 長々と話し終えた井川に、大樹は真摯に応じた。十分過ぎるほどに殺す相手の人生を感じとることができた、と。

もちろん、話を聞いただけでその人間を理解できるなどと、大樹は思ってはいない。それでも、殺すにあたって多少なりとも心構えを持たせることはできる。

「ふ~ん」

 翔子も話の中から何かを感じ取ったのか、物憂げな表情を見せて納得したような素振りを見せた。

「いつもなら、依頼人の情報を元に身辺調査を念入りに行うので、殺害を決行するまで最低でも三日から五日はかかるんですが……今回は相手が一般人ですし、これだけの情報があれば行動を予測する必要もないでしょう。なので、殺すだけなら明日にでも行えます。どうしますか?」

 井川の話は一段落着いたが、大樹は余韻に浸ることなく早々に仕事の話へと戻した。

「……一つお尋ねしたいのですが、殺す日時や場所を指定することはできますか?」

「と、言いますと?」

「ただ殺すだけではダメなんです。彼の目の前で……美雪を殺して欲しいんです」

 怒りとも喜びとも知れない感情を含んだ目で、井川は告げた。

「殺害方法や殺害状況に関する要望ですね。先ほども言ったように、オプションとしてつか料金をいただければ、ご希望に沿うように殺害することはできます。可能な範囲で、ですが」

 大樹は動じる様子もなく答えた。

「……はぁ」

 心の機微を相手に見せない大樹。その一方で、まだ義務教育課程にある翔子は隠しきれない諦念を含んだ目で、二人のやり取りを見ていた。

「可能なんですね?」

「状況にも寄りますが、貴女の上司の目の前で、井川美雪を殺すだけなら十分可能ですね」

 そのとき、大樹の視線がわずかに翔子に向けられた。

「……では、もう一つだけ要望があります」

「はい、何でしょう?」

 改まって大樹の目を見据え、恨めしそうに彼女は言った。

「今日から五日後の夜に、どんな手段を使ってもいいので、出来るだけ無残に殺して欲しいんです。そしてその場に、私も立会いたいんです」

「……ふむ」

「はぁ~ん、そういうことね」

 五日後という言葉に、先ほど井川から聞いた話を思い返し、得心がいった大樹と翔子。

「……井川さんの言う無惨がどの程度を指しているのかにも依りますが、まあ、可能です。他に要望がなければ、その条件で引き受けましょう」

「あ、引き受けるんだ」

「何だ、何か問題でもあるか?」

 快諾とまではいかずとも、父が下した予想外の即断に翔子は少々驚いた。

 というのも、巴親子の間には、あまり汚い仕事――特に殺人に関しては翔子と生人がその場にいなければ最終決定はしないという、暗黙の了解があったからだ。

 だが、仕事を受けるか受けないかの判断は大樹にある。それを考えれば、大樹が勝手に決めたところで何ら問題はない。

「……別に」

 そう思い直した翔子は、納得はしなかったが承諾はした。

「料金に関してですが、ざっと三百万くらいですかね。支払いは現金のみで、その内三割程度は先払いとして最初にいただきます。手持ちはありますか?」

「ええ。法外な値段を取るというのは聞いていましたから。手付金と言わずに、今ここで全額お渡しできますよ」

 さりげなく料金の高さをなじりながら、井川は鞄から札束の入った封筒を取り出してテーブルに置いた。

「法に背く仕事をしてる我々に『法外な値段』なんて言われましてもね。誰からそんなことを聞いたのか、大体予想はできますけど」

 そう言って、大樹はある男の顔を思い浮かべて怪訝そうに眉をひそめた。

「では、まず九◯万を頂いておきます」

 まとめられた札束を横に座る翔子に手渡すと、大樹は冷めたお茶の残りを一気に啜った。

「しかし、井川美雪とその上司の部署が違うとなると、『目の前で殺す』という条件を満たすのは状況的に限られてきますね。井川美雪と同じ家に暮らしている上司の目の前で殺すのはまだしも、貴女が現場に立ち会うとなると、少しばかりこっちに合わせてもらいませんと、どうにも難しいですね」

「でしたら、仕事が終わる時間を狙って下さい。美雪と上司は仕事が終わるといつも一緒に帰っているので、その時を狙えばいいかと。二人が会社の出入り口から出てきた瞬間、二人の背後から私が合図を出すので、その瞬間に殺して下さい。これなら、私も間近で見ることができますし。ダメでしょうか?」

「合図を確認したら、『井川美雪を、夫の目の前で出来るだけ無残に殺せ』と。結構な無茶を言いますね、井川さんは」

 提示された殺害状況があまりに限定されたもので、大樹は思わず小さく吹き出した。

「ですが、貴方たちならどんな殺害方法も、殺害状況も作り出すことができると聞き及びましたが?」

「いや、まあ、出来ないことはないですよ。ただ、『どんな方法も』ってのは明らかに盛ってありますけどね。まったく、情報屋がそんなんでどうするんだか」

 井川に巴モーニングの話をしたのが誰なのか、大樹は確信した。

「何はともあれ、五日後に条件通り依頼を行わせていただきますので、完遂できましたら残りの金額は指定した口座に振り込んで下さいな」

「分かりました。よろしくお願いします」

「ああ、それと最後に一つ。もしかしたら、すでにご存知かもしれませんが、我々が一般の方々から殺人を請け負うのは一度きりなので。依頼後はウチとの関わりを一切絶ち、接触した証拠は一切残さず、原則としてお互いに不干渉であること。よろしいですね」

 大樹は、人一人殺せそうな鋭い眼光を向けて井川に問う。

「はい、存じております」

 慄くでもなく、井川は深く瞼を閉じて頷いた。

「結構です」

 こうして、ビジネスと私怨の入り混じった殺人の交渉は滞りなく完了した。

 用も済み、この場にいる必要がなくなった井川は、早々に立ち上がり玄関へ向かおうとフローリングを踏み出した。

「ところで井川さん、アナタは超能力って信じますか」

 突然、何の脈絡もなく大樹がそんなことを訊ねた。

 唐突な問いにその場で足を止め、僅かな間考えを巡らせる井川。そして数秒と満たない時間が流れた後、自嘲気味に彼女は答えた。

「信じるわけないじゃないですか。仮にそんなものがあったとしても、私には関係のないことですし」

「そうですよね。妙なことをお尋ねして申し訳ありません。どうぞ、気をつけてお帰りください」

「ええ。さようなら」

 会ったばかりの大樹と翔子に感慨のない別れの挨拶を済ませると、井川は足早に帰っていった。

 玄関のドアが閉まった音を聞き、翔子は依頼人が去っていったのを確認してから、不満を漏らす。

「関係ない、かぁ……なんだかな~」

 井川の言動に翔子は深くため息をつく。感情を抑えることなく、あからさまな不機嫌さを表すその様は、まぎれもなく情緒の発達しきっていない中学生のそれだった。

「仕方ないだろう。超能力なんて素っ頓狂な話を一般人にしたところで……というか、汚い仕事をしてる人間だって、信じてるやつはいないだろ」

「そうだけど……それでも、殺すのは私でしょ。関係ないなんて言われたら、その超能力を使って殺す立場の私としては、ちょっと複雑な気分なんだもん」

 ソファーに腰掛けたまま天井を仰ぎ、中学生の少女は言った。悪意も善意もなく、ただ物憂げな表情で。

 『巴モーニング』

それが、彼ら一家の便利屋としての名前。が、一般的な便利屋業とはかなり趣が異なっている。

 その違いは、彼らの下に訪れる多くの人間を見れば、そして彼らの依頼を聞けば、すぐに分かることだ。

 草むしりや犬の散歩、引越しの手伝いなど、普通の依頼をする人間もいる。だが、井川のように殺人や麻薬の運搬など、法に背くような依頼をしてくる顧客も多く存在する。

 むしろ、後者の方が『巴モーニング』が行う仕事の大半を占めていた。そういった普通でない顧客がいることこそが、普遍的な便利屋との大きな差異だった。

 多かれ少なかれ、依頼の中には、どだい実行不可能な依頼もある。それを可能にするのが、大樹を家長とする巴家の面々。

「今日の夕飯どうすっかな」

「お兄に作ってもらえば?」

「そうすっか」

 だが、そんな大層な言われを微塵も感じさせないのは、彼らにとっては何気ない日常のひとコマだから。

 彼らは今日も営む。悍ましい、人々の欲求を満たすために。何より、彼ら自身の使命を実行するために。



「――――ってわけ。分かった?」

「昼ドラかよ」 

井川からの依頼を受けてから少し経った後。二階の寝室から降りてきた生人に、翔子は依頼の内容をできる限り事細かに口伝した。

「でもアレだな、それなら相手の情報を仕入れる必要ないわけだ。ラッキーじゃん」

「まあ、それはね」

 その発言がどれだけ常識からかけ離れているのかを分かっているのか、さも当然のように生人は言ってのけた。

「とは言っても、最低限の情報収集はするけどね。現地調査とか」

「そればっかりは仕方ないな。問題は殺害状況が少し面倒くさそうだってことか。証拠を残さずに殺すだけなら俺一人いれば事足りるけど……今回の依頼はそうじゃないからな。お前は大丈夫なのか?」

「……うん。まあ、私も、もっと人の死に慣れておかないといけないから。お兄にばっかり任せるわけにもいかないし」

 生人の問いに、翔子は言葉と裏腹に鬱気とした顔で答えた。

「それもそうだな。翔子は汚仕事の経験が俺に比べると遥かに少ないし。今までは今回みたいな依頼はなかったから、この機会に精神的負荷に耐えれるように鍛えておくのはいいかもしれないな。ただ、無理はすんなよ」

 生人は翔子を気遣って、彼女の肩を軽く叩く。そんな兄の心遣いに、翔子は心の中で感謝した。言葉にして伝えないのは彼女の性格ゆえか、それとも反抗期だからか。

「そんで、今日は何か仕事あんの?」

「今日は山田さんからの依頼がある。普通の仕事も大事にしていかないとな」

 大樹が予定表に目を通しながら答える。

「あと、磯部さん家の庭にできた蜂の巣の駆除もだよ。忘れてないよね、お父さん」

 コンピューターの液晶画面に表示されたスケジュールを確認しながら、翔子は大樹に予定を確認した。

「……忘れてた。すまんこ、翔子が行ってくれ」

 無表情のまま、両手を合わせて謝辞を述べる大樹。相手が実の娘で配慮する気がないのか、その言葉には気持ちがまったく篭っていなかった。

「は?」

 音を立てて勢いよくイスから立ち上がる翔子。その反動で、イスはそのまま後ろに倒れた。

「今日は午後から友達と遊びに行く予定なんだけど?」

「金を使いに行くのと、金を稼ぎに行くの。どっちが家のためになると思うかよく考えてみろよ」

 大樹は恥ずかしげもなく、女子中学生に向かって理不尽な二択を突きつける。

「別に友達と買い物に行ったっていいじゃん! そもそも、お父さんが予定をしっかり確認しとけば良かっただけでしょ!」

「時間をズラしてもらえばいいだろ。仕事は仕事だ」

 自分のミスを棚上げして、なお上から目線の大樹。悪びれる素振りも見せず、淹れ直したお茶を優雅に啜った。

「ドンマイ翔子。ま、パソコンばっか弄ってるよりはいいんじゃねえか」

「ぐぅ、この馬鹿兄ぃ。私だって好きでパソコン使ってるわけじゃないし! お兄やお父さんがスケジュールとか金の管理をしないから私が代わりにやってるんでしょ!」

 他人事のように言う実兄への苛立ちを、翔子は語気に含めてぶつけた。

「仕方ないだろ。俺は界理と界得の世話をしなきゃいけないんだし、分担してるとはいえ俺の方が家事やってるんだ。それに、力仕事以外は能力的に大体お前の領分じゃねぇか。蜂の巣駆除とかまさにそうだし。適材適所だ、適材適所」

 適当に翔子をあしらうと、生人はソファーに寝っころがって早々に本を読み始めた。

「どう考えても、今のお兄は暇人だと思うんだけど」

「あ~やっぱりな。こういう展開になると思ったわ」

「無視して本を読むな、クソ兄ぃ!」

「まぉあ! テメ、鳩尾に踵落としとか殺す気か!?」

「お兄が無視するからでしょーが!」

「だからっていきなり足技を繰り出すヤツがあるか!」

 些細なことで喧嘩を始めた二人を、大樹は額に青筋を立てながら眺めていた。

「今日も二人は腹立つくらい元気だぞ、カナエ」

 窓越しに空を仰ぎ、今は亡き妻の名前を小さく呟いた。子どもたちの諍う声をBGMに、彼は休日の穏やかな空気に身を預けていた。

「わ~!」

「うわ……!」

 そんな穏やかな空気に大樹が浸っていると、甲高い二つの声と共に、ドタドタと慌ただしい音が二階へ続く階段から聞こえてきた。

「もきゃ!」

「っ!」

重い何かが床に落ちた音がリビングにまで響き渡った後、静寂が流れる。

「……」

「……」

 音を聞いた翔子と生人は顔を見合わせる。すると、二人はすぐさま喧嘩を止め、フローリングの上を滑った。

「何やってんだ、お前ら」

 階段の側には、瓜二つの顔の子どもが二人、こんがらがった状態で階下の床に倒れていた。

「う、うわぁ~ん! お兄ちゅわぁ~ん!」

「……お姉ちゃぁん!」

 翔子と生人の姿を視認した途端、子どもたちは体が絡まった状態から一瞬で抜け出し、一人は翔子の胸に、もう一人は生人の胸にそれぞれ飛び込んだ。

「お~よしよし。階段から転り落ちたんだな……バーカ」

「あちゃ~、腕に打ち身ができてるし」

 泣き喚く双子をそれぞれ抱きかかえたまま、二人がどこか怪我をしていないか、翔子と生人は体を隅々まで確認した。

「何でこんなことになったんだよ。どういうことか説明できるか、界理」

「……うん」

 生人に界理と呼ばれた、園児とも小学校低学年とも受け取れる見目の少女は、涙と鼻水で濡れそぼった顔で生人の問いに小さく頷いた。

「あのね、カイリがね、お兄ちゃんの方がお姉ちゃんよりも強いって言ったら、カイエがぶってきたの。だから、カイリがぶちかえしたら、またぶちかえしてきて、それで……」

「あ~はいはい。それで取っ組み合いになって、夢中になってる間に階段まで来ちゃったわけだ。アホか」

 大体の事情を察した生人は、未だに泣いている実妹を腕に抱いて慰めた。

「本当なの、界得?」

 界理と全く同じ顔の弟を見つめて、翔子はできるだけ優しく訊ねた。

「だって、お姉ちゃんの方が強いのに、カイリが言うこと聞かないんだもん」

「そもそも強いとか強くないとか、どうしてそんな話になったのよ……」

 喧嘩の理由がイマイチ翔子には理解できず、額に手を当てて項垂れた。

「俺と翔子が組手してる時、たまに覗きに来てたからな。それを見てて議論になったんじゃないのか。この年頃の子どもは影響を受けやすいからな」

 いつの間にかすっかり泣き止んだ界理を抱っこしながら、生人は自分の推測を口にした。

「うん。だって、お兄ちゃんがいつもバッタンバッタン、ショーコお姉ちゃんを押し倒してたの見たもん!」

「押し倒すって表現は止めてくれ、界理。誤解を招きかねない」

「うん、分かった!」

 好意を寄せる兄に抱っこされているからか、界理はニコニコと笑みを浮かべていた。たった今まで泣きじゃくっていたのが嘘のように、顔を見るだけで彼女が上機嫌だということが分かるほどに。

「ともかく、下らないことで喧嘩すんなよ。大した怪我してなかったから良かったけど」

「そうだよ界得、すぐに手を出すのは良くないよ。お姉ちゃんの擁護してくれたのは嬉しいけど、そういうことばかりすると、お姉ちゃんは界得のこと嫌いになっちゃうよ?」

「……ごめんなさい」

 幼い子どもには効果覿面な翔子の説教に、界得は落ち込んだ様子で素直に謝った。

「界理も。双子って言っても、お前の方がお姉さんなんだから、手を出されてもやり返したらダメだろ」

「……はぁい」

 界理の方はといえば、頷きこそしたが、生人に窘められたことに唇を尖らせて不満を顕にしていた。兄が妹を、妹が弟をそれぞれ言いつけ、とりあえずはその場を収めることができた。

 そうして、ようやくリビングに巴家の面々全員が集まった。

「おはよう界得、界理」

「おはようパパ!」

「オハヨー」

 大樹が爽やかに挨拶すると、双子はそれぞれ異なるテンションで返答した。

「パパ~朝ごはん何?」

 挨拶を済ませるやいなや、お腹の空き具合を確認しながらそんなことを聞いたのは、女の子である界理の方だった。

「起きるの遅いから片付けちゃったよ」

 無慈悲な父の一言が、腹を空かせた娘に浴びせられる。途端に、界理は癇癪を起こす。

「え~何で!? カイリまだ食べてないのに!」

「いやだから、界理も界得も起きてくるの遅いんだって」

「パパがもう一回作ってくれればいいじゃん! ケチ! ドケチ! ドケチンボマスター!」

「んなこと言っても、パパはこれから仕事だから……ていうか、ドケチンボマスターって何だよ」

「ブ~! お腹空いたお腹空いたお腹空いた~!」

 朝食を作ってもらえないことが分かると、界理はソファーの上で暴れて駄々をこね始めた。隣で漫画を読み始めていた生人は、迷惑そうに目を細めた。

「うるさいなぁ……そんなんだったら自分で作ればいいじゃん」

 苛立ちをあらわに、暴れる双子の姉に一つの回答を示したのは、ほかでもない双子の弟である界得だった。

「むぅきぃ~! 何よその言い方!?」

「だって、カイリうるさいんだもん」

 界得の一言に、界理を除いた三人が小さく頷いた。「よくぞ言った」と、口にこそしないが三人の顔にはそう書かれていた。

「だったらカイエが作ってよ~!」

「やだ。ボク料理できないもん」

 いがみ合い睨み合う二人を見かねた生人は立ち上がり、読んでいた本を閉じた。

「はぁ、しゃあない。面倒だけど、お兄ちゃんが今から作ってやるよ。だから、ちょっと待ってろ」

「本当!?」

「ああ。また喧嘩されるよりはマシだからな」

「流石はお兄、界理の扱いに慣れてるね」

 翔子が意地の悪い笑顔を貼り付けて言う。恐らく、この展開を予想していたのだろう。

「お、悪いな生人。それじゃあオレは仕事に行ってくるから、後は頼んだぞ」

「仕事しないんだから、二人の朝食を作るくらいしてもらわないとね」

 依頼人の下へ赴くため、大樹と翔子の二人が腰を上げた。その瞬間、界得が口を開いた。

「え、お姉ちゃん、出かけちゃうの?」

 翔子に対して発せられたその言葉は、永遠の別れを惜しむかのような、とても切なそうな声だった。

「あ~うん、そうだよ。お姉ちゃん、界得のために頑張って仕事してくるの。だから、お兄ちゃんに迷惑かけないように、界理とケンカしないよう良い子にしてるんだよ?」

「……うん。ボク、良い子にしてる」

「よし。それでこそ私の弟!」

 髪をクシャクシャにするほどの勢いで、界得の頭を撫でる翔子。嫌がるでもなく、むしろ嬉しそうに、されるがまま撫でられる界得。

「早く帰ってきてね、お姉ちゃん」

「すぐに帰ってくるよ。蜂の巣を取り除くだけだもん」

「ケガ、しないでね?」

「安心しなさいって。界得が強いって言ってくれたお姉ちゃんが、蜂なんかに負けるわけないでしょ?」

 心配性な界得は、特に姉である翔子に関してはかなり神経質だった。そんな彼の不安を和らげるために、翔子は優しく微笑んだ。蜂の巣がスズメバチのようなものならともかく、ミツバチの針で死ぬようなことは、まず有り得ないことなのだが。

「何だその死亡フラグみたいな会話」

 姉弟のやり取りに、生人が半笑いで茶々を入れる。

「……」

 割と的確な兄の表現に、翔子は言い返すでもなく、ただこみ上げる笑いを堪えていた。

「オレの心配はなしか、息子よ」

 自分だけ双子からエールがもらえなかったことにショックを受けた大樹は、悲しそうに肩を落として呟いた。

「がんばれぱぱ~」

 悲しげに呟く大樹に、棒読み半笑いの声で茶化す生人。

「お前じゃねえよ、バカ野郎。まあいい。ともかく、オレと翔子は行ってくるから」

「ちゃんと面倒見てあげてよ? それと、出来るだけ家事もやっといて」

「りょーかい」

 二人は生人に言伝ると、さっさと玄関で靴を履き替えて外へと出て行った。

「いってらっしゃ~い」

「いってらっしゃい」

 二人が出て行った玄関のドアを見つめながら、手を振って送り出す双子の姉弟。

「それにしても、どこから見ても同じだよな~双子って。服と性別が違う以外は、全部同じだもんなぁ、お前ら」

 全く同じ挙動をする双子を背後から見つめていた生人は、しみじみと、そんなことを口にした。

「んじゃ、とりあえず朝飯作るか」

「わ~い朝ごはん!」

「……やった」

 父親と妹の背中を見送ると、生人は双子の餌付けのために台所へ向かった。幼い二人も、兄に追従する。

「アチャ~、出来合いのものが無いな。仕方ない、面倒だけど何か適当に作るか」

 ところが、冷蔵庫にはまともな食材がなかった。そこで生人は、偶然にも二枚余っている食パンと生卵、その他少量の食材を使って、少し遅めの、昼食に片足を突っ込んだ朝食を作ることにした。

「というわけで、卵を使って簡単な料理を作ろうと思うんだけど、界得と界理は何がいい?」

「カイリはアレがいい! 卵がグチャグチャ~ってなってるやつ! あ、でも卵焼きも食べたいな!」

「グチャグチャ? ああ、スクランブルエッグか。もしくは卵焼き、と。界得は?」

「ボクは、目玉焼きがいい」

「目玉焼きか。ベーコンは少し余ってたし、せっかくだからベーコンエッグにするか。つーかシリアルくらい買っておけよな~父さんも」

 注文を受けて双子専属の料理人となった生人は、やけに慣れた手つきでフライパンを火にかけた。

「あ、そうだ。朝ごはん食べる前に口ゆすいで顔洗って来い」

「はーい!」

「……」

 元気よく答える界理と無言で頷く界得。二人は、揃わない足並みで洗面所へと向かう。

 双子が洗顔とうがいを終えてテーブルに戻ってくるまでの短い間も、生人は黙々とフライパンと向かい合っていた。

 調理を初めてから数分。界得と界理の目の前には、溶けたチーズが乗ったトーストと、それぞれが別で注文した卵焼きと目玉焼きがあった。別々の料理を作るだけでなく、生人は二人の好みに合わせて個々に出す飲み物、果てはその容器まで別々のものに注ぐという手間をかけていた。

 生人は、本人が自覚する以上に、家族の誰よりもこの双子を溺愛していた。少なくとも、彼自身はそう思っていた。

「どうぞ、お食べになってくださいな」

「あはっ、お兄ちゃんの作った卵焼き美味しそう! いただきまぁ~す!」

「いただきます」

 大きく口を開けて卵焼きを口に放り込む界理の食いざまは、女の子がするような上品な食べ方とは程遠い。箸を使い、器用に目玉焼きを一口サイズに裂いてから口に運ぶ界得の方が、お淑やかな女の子のようだ。

「本当、お前らって双子なのに見た目以外は共通点ないよな」

「ん~? ほうひはのおひいひゃん?」

「何でもないから食べながら喋んな」

「わはっは!」

「汚いカイリ」

「まったく。言ったそばからこの愚妹は」

 界理の口から噴出された食べカスを布巾で拭き取りながら、生人は眼前の双子の相違性について考えていた。

 今しがた自分で言ったように、界得と界理の間には、正反対と言い切れる程に性格や趣向の異なりがあった。目の前の状況を一つとっても歴然としている。

界理の皿には卵焼き、コップには牛乳が注がれている。それに対して、界得の皿にはベーコンエッグ、湯呑にはお茶。

 今、彼らが食べている主食こそ同じであるが、それは「主食まで別々にするのは流石に面倒だ」という生人の怠慢であって、界得は界理と違ってパンよりも白米を好む。

もっとも、その程度なら好みの違いで一蹴できる話ではあった。

 生人が最も顕著な差異だと思う部分は、彼らの性格と、翔子と生人に対する態度にあった。

 界理は明るく元気で、お転婆を絵に書いたような性格だが、ちょっとしたことで泣いてしまうような弱い所もある。そして何故か、これといった理由があるわけでもないのに、姉である翔子よりも兄である生人の方に懐いていた。

ともすれば、翔子を嫌っているのではないかと思うほどに、界理は彼女とのスキンシップは殆どしない。その分を、生人に向けているようでさえあった。

 界得はその真逆で、大人しく感情を表に出すことはあまりないが、物事をよく考えて行動するしっかり者でもある――見た目の割には、ではあるが。それに兄姉間の選好も、界得は翔子に重きを置いており、界得は自分から生人とコミュニケーションを取ろうとしない。

意図されたかのように不思議なほど、二人の内面は異なっていた。それこそ、何者かの意思が介在しているのではないかと考えてしまう程度には。

「ま、二人の考えが一致しないからこそ、こうして平和に生きてられるわけだしな、界理」

「ん~よく分からないけど、うん!」

 異様なほど似通いながらも、異様なほど正反対な二人の食事姿を、生人は微笑ましげに眺めていた。



「ただいま~」

 時計の短針が2に差し掛かったとき、玄関のドアを開ける音と一緒に、翔子の声が家の中に響いた。

「お姉ちゃんだ!」

 彼女の声を聞くやいなや、リビングでくつろいでいた界得は凄まじい瞬発力で起き上がり、姉を出迎えに玄関へと跳ねていった。

「おかえりなさい、お姉ちゃん!」

 勢いそのまま、界得は翔子の胸に飛び込んだ。

「わったった! 急に抱きついたら危ないでしょ、界得」

「ごめんなさい。でも、お姉ちゃんが帰ってきたのが嬉しくて……」

「あはは、ありがとう。そう言ってくれると、お姉ちゃんもお仕事頑張ってきた甲斐があるね。ちゃんとお兄ちゃんの言うこと聞いてた?」

「うん。ボク、ちゃんと言うこと聞いてた」

「よしよし、界得は偉いね」

 翔子の言葉に、界得は屈託のない無垢な笑顔で答える。

「翔子相手だとよく喋るよな、界得」

 翔子が仕事に出てから今の今まで、生人には必要最低限の反応しか見せなかった界得。そんな彼が嬉々として話しているのを、生人はやきもきした思いで見つめていた。

「ねえねえ、お兄ちゃん! これ何て読むの!?」

「ん? ああ、これは『ぜつりん』て読むんだよ、界理。ていうか、それ俺の雑誌なんだ。勝手に人の部屋に入って漫画やら雑誌を持ち出すのは止めてくれ。せめて一声かけろ」

「ぶぅ。よくわからないけど、わかった」

「あと、俺の背中に乗って読むのも止めれ」

 起床してからこっち、ずっと生人にベッタリの界理。愛しい妹ではあるが、ここまで無駄に密着されると、流石の生人も鬱陶しく思わずにはいられなかった。

隙さえあれば生人に絡む界理だが、その殆どが暴力に近いスキンシップだったからだ。

 生人自身は、幼女の妹に身になるようなことを求めてなどいないが、読書を阻害されるのを好まなかった。

「はぁ~疲れた」

「おつかれ」

 仕事終わりにも関わらず戯れてくる界得。そんな無邪気な弟をおぶさる翔子に、生人は労いの言葉をかける。

「あ、おかえりなさい、お姉ちゃん」

 生人の発した言葉に、つられるように界理も翔子に言葉をかけた。が、どこか素っ気ない。

「ただいま~界理。ちゃんと朝ご、昼ごはん食べた?」

「うん、食べたよ。お兄ちゃんが卵焼き作ってくれたの」

「へ、へぇ……そうなんだ~良かったね」

 界理の話を聞いて、翔子は何故か生人に敵愾心の込められた視線を向けた。

「……何だよ?」

「いつの間に卵焼きなんて出来るようになったの、お兄」

「お前も父さんも料理しないからな。つうか、卵焼きは中学の調理実習でもやるレベルだろ」

「ぐぅ……私は目玉焼きが精一杯だというのに、ピチピチな女子中学生の私より料理が出来るなんて、憎たらしい!」

「……」

 悔しそうに歯噛みする翔子を、生人は心底呆れた顔で見つめる。

「ま、最近の中高生でまともに料理出来るヤツの方が少数だろうし、そんな落ち込むなよ。あと、中学三年生はピチピチの女子中学生とは言えないだろ」

 謎の対抗心を燃やす妹を落ち着かせるために、中高生に対する勝手なイメージを持ち出して変わり身に使う生人。

「むむぅ、これが勝者の余裕ってやつなのね。腹立たしいッ」

「逆恨みじゃねえか」

「よし、こうなったら昼ごはんは私が作る!」

「はぁ? いいよ別に。仕事してきたヤツに昼飯作らせるわけにはいかねーよ」

 兄の思いやりを「黙らっしゃい」と一蹴するも、

「カイリも、お兄ちゃんの作るごはんの方がいい」

「ボクも、そこはお兄ちゃんの方が良いと、思う」

 直後に双子からのダメだしが入った。

「えぇ……そんなぁ」

 結局、翔子のチャレンジ精神は多数決の原理に従ってかき消された。

「父さんの方はまだ終わりそうにないのか?」

「うん。一応、業務報告がてら向こうの様子を聞いてみたけど、お昼は過ぎるって言ってたよ」

「そっか。そんじゃ、父さんの分はいらないな。翔子も帰ってきたし、ボチボチ昼食を作るかな」

 読んでいた本をテーブルに置いて、背中に乗る界理を退かそうと生人は軽く伸びをする。

 翔子は生人の頭を薄目で見ながら「白髪」と一言呟く。

「マジか。そろそろ染め直さないといけないか。どの辺が目立ってる?」

「頭頂部から右の側頭部にかけて、そこそこ白さが浮いてる。まあ、近くに来て気づくくらいだから、そこまででもないかも」

 界得を床に下ろしてから、翔子は自分の頭を指差し、ジェスチャーを交えて分かりやすく生人に伝えた。

「はぁ、面倒くさっ。また染め直さないといけないのか。それもこれも全部あのクソ親父のせいだ、まったく。髪はまだしも、身長が一七六センチで止まったのだけは許せん」

「そんだけあれば十分でしょ。ていうか、お兄は男だからいいよ。私なんてお父さんのせいで身体測定の度に震えてるんだからね」

「そんなに目立った筋肉のつき方してないだろ、お前。そりゃ、平均的な女子中学生に比べたら筋肉量多いかもだけど。イヤミじゃないけど、お前には相当甘かったぞ、クソジジイ」

生人は頭髪を撫でながら鍛錬に明け暮れた日々を思い返す。父親に強いられた鍛錬のストレスで黒髪が白髪になりはじめた小学校低学年のころを。それを考えれば、中学生になっても未だに綺麗な黒髪を維持している翔子は、かなり甘やかされているといっても過言ではなかった。

もっとも、彼女の日頃の鍛錬ですら常人には及びもつかないものなのだが。

「喋れるようになったころから特訓してたもんね、お兄。やっぱり、お父さんは馬鹿だ」

「そんで、お前の身長と体重はどんなもんなんだ」

 などと、女子に訊ねるのは憚られるようなことをさり気なく問う生人。

「いや、流石にそれは言えないでしょ、女子的に。ただ、外見を考慮しないで身長と体重だけ言われたらデブ認定されるのは間違いないね。もうちょっと配慮してくれてもいいのに、お父さんは女心が分からないんだよ」

 いつの間にか生人と翔子の話題は、髪色から父親への恨み言にすり代わっていた。二人の会話が飲み込めない界理と界得は、ただ視点を二人の間で交互させる。

「でもさ、お兄の通ってた高校は校則が厳しかったから仕方ないとして、大学なら無理に黒染めしなくても髪染めてる人ってたくさんいるんでしょ? だったら染めなくてもいいんじゃない」

「茶髪と金髪はかなりいるな、似合ってるかどうかは別として。それでも、銀髪とか白髪みたいな薄い色は普通に目立つぞ? 白髪が違和感のない場所なんて、コスプレ会場か老人ホームくらいだよ」

「へぇ~そんなもんなんだ」

 自分のイメージする大学生との違いに、驚いた様子を見せる翔子。

「そんなもんだ。それよりちょっと気になったんだけどさ、蜂の巣駆除に結構時間かかってないか。そんな仕事、お前なら五分もかからないだろ」

「ん~。何ていうか、蜂を殺すのが忍びなくて。蜂を殺さないように巣だけ弄るのに手間取っちゃった」

「……ふ~ん」

 生人には、翔子の取った行動が依頼人の希望とは些かズレているような気がしたが、指摘することはしなかった。

「あれ。でも、だとしたら巣を失った蜂はどうしたんだ?」

「近場に放っておいたよ。もちろん女王蜂も一緒にね」

「いいのかそれ。蜂に詳しいわけじゃないから何とも言えないけど、また蜂の巣が作られるんじゃないのか?」

「その時はまたウチに依頼が来るでしょ」

 しれっと、翔子はとんでもないことを口にした。

「気づいたんだけど、蜂の巣駆除の依頼の度に蜂を逃がして、また巣を作らせて依頼させるっていうループを繰り返してれば、依頼人がちゃんとした業者を雇うまで搾り取れそうじゃない?」

 翔子は両目を輝かせながら、何ともアコギで煩雑すぎる手法を嬉々として提案した。その商い方に、翔子の常連客に対する敬意を微塵も感じとれなかった。

「最低だな、お前」

「仕方ないでしょ、こちとらボランティアでやってるわけじゃないんだから。ていうか、お兄やお父さんが何も考えてないだけだからね? その分を私がカバーしてるの。ドゥーユーアンダースタンド?」

「いえす、あい、どぅ」

 義務教育の最終課程の学年になってからというもの、翔子は時たまこうして拙い英語を使ってくることが多くなっていた。

 受験を意識しているのか、はたまた某大柴を意識しているのかは、兄である生人にも分からなかったが、ともかく煩わしく思っていた。

「とりあえず、髪を黒染めしないとな。ちょっと昼飯作るの後になるけど」

「別にいいよ。私も、その間に出かける準備しちゃうから」

「何だ、結局友達と買い物行くのか。つか、友達って瀬波ちゃんか?」

「うん。さっきお父さんにも言っておいたからノープロブレムだよ。帰りはそんなに遅くならないと思うけど、帰るときは連絡するよ」

「分かった。んじゃ、ちょっと待ってろ」

「自分で言っておいてなんだけど、部分的に白くなってるだけだし、メッシュが入ってるみたいで悪くないと思うけどね、その白髪」

 すでに黒染めのスプレーを手に持った生人に対し、翔子はそんなことを言ってのけた。

「今更かよ。いやまぁ、友達に何か言われそうだし、黒染めはするけどさ」

「そっか。ちょっと勿体無い気がするけどね、カッコイイし」

「……なんだそれ」

「感想だけど」

 翔子に褒められて少し惜しくなったのか、間を空けてから生人は応じた。そうして、洗面台の鏡の前で、「艶やかな黒」と大きく印字された白髪染めスプレーを、特に白く目立った部分に噴射した。

そのとき、生人がスプレーを吹き付けるのとほぼ同時に、翔子の携帯電話が振動した。

これから買い物に行くという友人からの電話だろうと判断した生人は、構わずに髪染め作業を続けた。

「もしもし。ええ、そうです。はい。はい、大丈夫です」

 だが、友人と話すにはあまりに他人行儀な言葉遣いに、生人は首をかしげた。

「分かりました。では、直ぐに向かわせます」

 すぐに通話は終了した。不思議そうに翔子を見つめる双子とは違い、生人はすでに何の電話なのか予想がついていた。そして、彼の予想通りの言葉が翔子の口から飛び出した。

「仕事、お兄」

「……ですよね」

 スプレーは吹きかけたまま、自分の予想した通りの展開だったことに項垂れた。

「で、その仕事はどんなことなんでしょうか。俺向きの仕事なのかい」

「そうだね、どっちかと言うとお兄向きかな。腕っ節ならお兄の方が上だし、どうせ暇だろうし」

「もう、その発言だけで依頼内容が薄々分かるんだけど、一応聞いておきます」

 面倒な仕事になりそうな気配を感じた生人だったが、父親は別の依頼で不在、妹は今さっき仕事を終えたばかり。そして何より、自分向きの仕事であること。

これだけのお膳立てがあって引き受けないほど、生人の仕事に対する意識が低いわけでもなかった。

「ほら、隣の区に住んでる佐藤さんいるでしょ? その佐藤さん家の近くで葛井工業高校の連中が暴れてるとかなんとか。で、近所迷惑だから鎮圧して欲しいんだってさ」

「いや、警察に連絡しろよ。近所迷惑で片付けていいレベルの問題じゃないだろ、喧嘩の程度にもよるけど」

「そりゃあ、私だってそう思ったよ。だけど、肝心の佐藤さんが『警察なんか信用できないから』って言ってウチに依頼してきたんだよね」

 直接依頼者と電話をした翔子も呆れているようで、やれやれと身振りで心情を顕にした。

「よく分からないけど、身勝手な理由で国家権力に頼りたくないから、ウチに依頼したってわけか。ウチが裏家業やってることは知らないだろうに、よくもまあそんなことを便利屋に依頼できるな」

出来る範囲であればどんな仕事も請け負う。それが巴モーニングのモットーである故、仕方ないと言えば仕方のないことだが、節操のない得意先には辟易するばかりだった。

「まあいいや、仕事は仕事だからな。要するに、その高校生達をボコボコのボーコにすればいいんだろ?」

「よくはないんだけど……まあいいか。それじゃあ、頼んでいいかな、お兄」

「面倒だけど、分かった」

 気怠そうに答えると、生人は二階にある自分の部屋に一度戻った。

「――――よし、準備オッケー」

 かと思えば、一分としない内に、装いも新たに生人は部屋から出てきた。

 生人の服装は、ルーズな寝巻きからジーンズに無地のTシャツという、これから仕事をしに行く人間の格好とは思えないラフな服装に変更されていた。

「一応、顔は隠してった方がいいか」

「そうした方がいいかも。どうせお兄のことだから、やり過ぎちゃうだろうし」

「了解。手加減はするけど、確かにやり過ぎるかもな」

 確認を取った生人は、どこから出したのか、目と口の周りが赤く刺繍された目出し帽を被り、その上からサングラスとマスクを装着した。

「完全に変質者だよ、お兄。せめて現場に着いてからにしてよ」

「……確かに」

 鏡に映った自分の姿を見た生人は、その不審者然とした出で立ちに気づいてマスクとサングラスを外した。が、なぜか目出し帽だけは外すことをしなかった。

「そんじゃ、マッハで行ってくるわ。界得と界理には何かテキトーに食わせてやってくれ」

「ん、分かった」

 そう翔子に言伝てると、玄関に置かれた運動靴に足を入れて勢いよく立ち上がった。

「お兄ちゃん、お仕事行くの!?」

 一連のやりとりを見ていた界理が、生人の下に走り寄っていく。

「うん」

「そっか、いってらっしゃい!」

 笑顔で一言告げると、界理は生人の返事も待たずにすぐにリビングへと戻っていった。

そんな自由気ままな妹に、生人も一言「いってきまっす」と口にして、悠々と自宅を後にした。



 自転車を漕ぎ進めることおよそ二十分。目下、生人は建物の陰に隠れていた。

「あ~これは厄介だ」

一度、依頼人である佐藤宅を訪ねた生人は、料金や対応についての説明を手短に済ませて現場へと向かった。だが、実際に目にした現場は彼が思ったよりも酷い状況だったため、物陰に潜んで様子を伺っていた。

「これ、割と本気で警察呼んだほうが良くないか」

 人通りが少ないとは言え、道路のど真ん中で男子学生十人近くが取っ組み合い、殴り合っている状況は、一般人の生人が介入していい状況ではなかった。

集団の半分が黒の学ラン、もう半分が紺色のブレザーを着ており、その胸に刺繍されている校章から、葛井工業高校と華穂高校の生徒たちであることは間違いなかった。

休日なのに制服を着ている理由も意図も、生人には分からなかったが。

「まったく、はた迷惑な奴らだ。それにしても、今時こんな全時代のヤンキーみたいなのいるんだな」

 生人は持参した目出し帽を被り、その上からマスクとサングラスを改めて装着し、機会をうかがった。無闇矢鱈に突っ込んで場をかき乱すのは得策ではないと考え、生人は下手に動くかずにいた。

程なくして、二人の男子学生が腫れ上がった顔面を晒しながらコンクリートに倒れ込んだ。それを好機と捉えた生人は、すぐさま道路に飛び出した。

「よさないかチミたち!」

 飛び出した勢いそのまま、声を意識的に低くして叫んだ。かと思えば、乱闘している集団の内の二人に背後からウエスタンラリアットをかまし、コンクリートの地面へと頭を叩きつけた。

声を出す間もなく、無防備な状態で不意打ちを喰らった二人の高校生は、即座に意識を失った。

「な、何だ!?」

「テメ、何だコラァ!?」

 叫びながら乱闘の中に飛び込み、あまつさえ一撃で高校生二人を気絶させた闖入者に、葛井工業高校の男子生徒も華穂高校の男子生徒も手を止めて威嚇した。

「そりゃこっちの台詞だ。チミたちは休日の昼間から公道でこんなことして恥ずかしくないのかね。ええ、高校生諸君よ」

「あ? そんな怪しい格好したヤツに言われたくねぇんだよ! 警察呼ぶぞ!?」

 正論を叫びながら、生人から一番距離の近い学生が、説得する間もなく彼に殴りかかった。次いで、残った取り巻きたちも一斉に動きだす。

「ほぉ? ブルースリーの後継者を自称するこの俺に挑むとな」

 生人は二段構えのボケを放ったつもりだったが、少年たちはブランドンリーに言及することも自称という部分を指摘するでもなく、首をかしげるだけだった。

 カンフー映画さながらに、示し合わせたかのように繰り出される多方向からの拳と蹴り、釘バットにガラス瓶。

今どき珍しい武器を持ち出す不良たちに、ノスタルジックな感慨を抱く生人。それを繰り出した相手がまともな人格者で、ちゃんとした試合の場であれば、生人はその体捌きと連携を言葉にして評するところだった。

「ほっ」

 生人が小さく息を吐くと、乾いた音が周囲に響いた。するとどういうわけか、立っているのはそれぞれの高校の生徒一人ずつだけになっていた。

「――――な、何なんだよ、お前!?」

 まだ意識のある学生二人は、やられ役よろしくその場にへたり込んでしまった。その瞬間を生人は見逃さず、逃げられないように一人の右足を踏み砕き、もう一人の方の足を踏みつけた。

足を踏み砕かれた学生は、声すら出せずに涙目で悶絶した。

「ぃひっ」

 さっきままでの威勢は何処に行った。思わずそう言いたくなるのを堪えて、生人は彼らを見下ろした。

「あ~え~っと……何て言えばいいのか。とりあえずあれだ、ここで変なことすんのは止めるんだ」

「……は?」

「アンタら高校生なんだろ。こんな下らない真似ばっかしてると、いつか取り返しのつかないことになるぞ、いやマジで。俺は君たちのことが心配なんだよ」

 心にもないことを白々しく口にする生人。言った本人でさえ笑いがこみ上げてくるほど、普段の自分が言いそうにない言葉だと思った。

「……」

 他の仲間が瞬く間に打ち伏せられ、自分も同じ目に合うのだと観念していた二人は、生人の思いがけない態度に虚をつかれて閉口してしまった。

「んじゃ、そういうわけで俺は帰るから」

 言うだけ言って、その場を後にしようとする生人。乗っけていた足を退かし、その場でターンすると、来た道を平然と戻っていった。

「――――は?」

 まったく状況が飲み込めない、足が無事な方の少年は、必死で目の前の光景を整理しようと脳を働かせていた。

 数十秒前まで、因縁をつけてきた他の学校の生徒と殴り合っていたというのに、嵐のように突然現れた不審者によって、一瞬のうちにねじ伏せられてしまった。

場を荒らすだけ荒らして、終いには自分を諭して帰ろうとする目の前の男。

「――――はぁ?」

 今まで好き放題やってきた自分が、警察にさえ顔を利かせることのできた自分が、腕っ節に自信のあった自分が、怪しい男一人にコケにされた。

「――――はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 ようやく自分の置かれた状況を理解した少年は、彼のちっぽけで空虚なプライドの促すまま、意趣返しとでも言うように後ろから生人に突っかかった。

「どアホ!」

 だが、拳が届くより前に、真後ろに放った生人の蹴りがカウンターとなって少年の水月に直撃した。

「あ、がっ」

 急所に強烈な一撃を受けた少年は、心もとない息を吐くと、悶えながらその場に崩れ落ちた。

「いいですか、チミ。予想できる行動をそのまんま実行したところで、反撃くらうのは当然です」

 素性がバレてしまうことを恐れて話し方を変えているせいで、どうにも緊張感がない。だが、腕っ節だけは紛れもなくこの場で生人が最強であるがゆえに、高校生たちはふざけた生人の説教を止めることはできなかった。

「うっ……テメ」

 胃の中の物を吐き出しそうになるのを必死で堪え、堂々と立つ生人を少年は見上げた。

「クズの割には体もそこそこ鍛えられてて、ある程度喧嘩慣れもしてますねぇ。スポーツでもやってれば良かったものを……モッタイナイ」

「な、にを」

「ぼくぁねぇ、友達が保育園や幼稚園で和気藹々としてる頃から、地獄のような特訓させられてきたんですよ。チミみたいなチンピラ百人いようが負けるはずがないっすよ。あ、流石にまともにやり合ったら百人同時だと物量でやられるけど」

「……」

「まったく、面倒なことだよ」

 何故か急に感慨深げに身の上話を始める不審者を前に、少年は腹部の鈍痛を労わりながら戸惑っていた。そんな彼を尻目に、聞いてもいない生人の自分語りは続く。

「大体さ、小学生の頃にはすでに白髪が目立つ程あったんだぞ? どう考えてもおかしいだろ! そんでお前、中学に入る頃には完全に真っ白になっちまたんだよ! それから今に至るまで黒染めしてきたんだぞ。そのせいで付いたあだ名が若年爺だぞ。そんな屈辱的な名前で呼ばれる苦痛と苦労がお前に分かるか? 分からないだろ? 少なくとも俺の気持ちが分かるようになってから喧嘩を売れや!」

「え――へぶぁ!?」

 興奮しだした生人は演技がかった口調をやめて一方的にまくし立てると、勢いよく少年を殴りつけた。唯一生人からの被害を受けなかった少年も、最後の最後に勝手に興奮しだした生人に頬の骨を折られ、そのまま気を失った。

 それで満足したのか、たった今自分が気絶させた相手に対し説教を浴びせると、再び踵を返し、今度こそ生人は元来た道を戻って行った。

 生人が消えた後に残ったのは、地面に倒れ伏した男子高校生の集団だけだった。



「ただいま」

「おかえりお兄ちゃん!」

「ん、おかえりお兄」

「おかえりなさい」

 ものの三十分で仕事を終えた生人は、特に変わった様子もなく、むしろ家を出た時よりも悠然とした態度で帰宅した。兄の帰宅を、三者三様に出迎える妹二人と弟一人。

その対応の仕方に、生人は既視感を覚えた。

 目出し帽とサングラスとマスクを外し、生人はそのまま洗面台で手洗いうがいを済ませ、テーブルでコンピューターを弄る翔子の対面に座った。

「お疲れ様。なんやかんやで掃除とか引越し手伝いの依頼より楽だったんじゃないの、お兄的には」

「まさか。お前と組手してた方がまだ面白いわ。ていうか、お前まだ買い物行ってなかったんだな」

「お兄が仕事終わらすの早すぎるんだよ。で、ちゃんとお金受け取った?」

 キーボードをブラインドタッチしながら、翔子は依頼の報酬の確認を求めた。

「当たり前だろ。言われた通り、ちゃんと新しい名刺も渡しといたし。ほれ」

 そう言って、生人はポッケから茶封筒を取り出して翔子に手渡した。

「うん、オッケー。じゃ、あとでお父さんが帰ってきたら報告しておいてね。一応さっき電話したけど、細かいこと聞かれるの嫌だし」

「分かった」

「お兄ちゃ~ん! カイリと一緒にゲームしよ~!」

 後ろから投げかけられるもう一人の妹の声に、生人は「はいはい」とぶっきらぼうに返事をした。

「あ、そうだ。明日って何か仕事入ってたりする?」

 界理に催促された携帯ゲーム機を片手に、生人は翔子に訊ねた。

「明日はお父さん一人で回す仕事が三つだけだから、特にお兄にやってもらう仕事はないと思うけど。どうして?」

「いや、ほら、俺って依頼人の井川さん、だっけ? を直接見たわけじゃないから、仕事がないなら一応どんな人なのか直に確認しておこうと思ってさ」

「ああ。それなら、私もついて行こうかな」

 何かを思うように視線を泳がせると、翔子は言った。

「でもお前、明日は平日だから普通に学校あるだろ」

「そうだけど、ちゃんと殺す相手は直に確認しておきたいし。今回みたいに、私怨の絡んだ殺人依頼なら私もレベルアップできるかもしれないでしょ、メンタル的に」

「うーん……」

 同じように人を殺す身として生人にも思うところがあるのか、あるいは兄として純粋に案じているのか。

良い反応こそしなかったが、義務教育を蔑ろにして仕事を優先する妹を咎めることもしなかった。

「ま、いいんじゃね。仕事に関することなら、学校休んだところで父さんも怒らないだろ。ただ、父さんには言っておいた方がいい」

「うん」

「お兄ちゃん早く準備してよ~!」

 しびれを切らした界理が、生人を急かし始めた。

「あ~はいはい、今やるよ」

 空気を読まない界理に呆れはするものの、そんな妹の存在をありがたくも思っていた。

「ゲームは一時間な。お兄ちゃんはやることあるから」

「は~い」

 などと、呑気に実妹と娯楽に興じる生人だが、大学生である彼にはするべきことがたくさんある。彼の所属する学部はいわゆる文系というカテゴリに分類されるものだが、だからといって遊び呆けることができるわけではなかった。

基礎科目と必修科目の小レポートの提出期限が差し迫っていたのだ。

「そういえば、英語の課題もあったな。そっちは富沢に教えてもらえばいいか」

 それでも、彼がこうして休日を謳歌できているのは、ひとえに周りの友人に恵まれているからだった。

とはいえ、友人たちが生人の急な呼びかけに快く応じてくれる人物だと見極めることができるのは、彼が人間の内的性質を見抜く「眼」を持っているからだ。

つまり、ある意味で彼自身の能力で成績を保っているとも言えた。もっとも、その秀でた洞察眼は、生人の霊妙な力の一端でしかないのだが。

「本当、お兄の『神通力』は幅があって良いよね。お兄が自力で問題解いてるのなんて、受験期くらいしか見てないよ」

「はっはっは、そう褒めるなよ」

「皮肉ってるんだよ、馬鹿兄」

 分かっていながら巫山戯た返しをする生人に、翔子は苛立った様子で言葉を返した。

「お兄ちゃ~ん、皮肉って何~?」

 翔子と生人の会話に割り込み、自分の聞きなれない単語を口にした翔子に、ゲームの液晶画面から目を離して界理は訊ねた。

「ほら、焼き鳥あるだろ? あれの、とり皮のこと言ってるんだよ」

「へぇ~そうなんだ。 お兄ちゃん物知りだね」

 生人の言葉が嘘っぱちであることを疑いもせず、生人を慕う界理はその欺瞞の博識さに驚嘆する。

「ちょっとお兄、なにサラッと界理に嘘教えてるの」

「え、ウソなの!?」

 翔子から発せられた衝撃の一言に、今度は全く異なる意味で驚く界理。

「うん、嘘」

「うぎぃ~! 何でウソつくのさ、バカバカバカ!」

 愛しい兄にほだされたことに妙な恥ずかしさを覚え、界理は顔を真っ赤にしてその小さな両手で生人の腹部を殴る。

「ははは、ごめんごめん。悪かった、謝るよ。だから水月殴るの止めてくれェ……何でどいつもこいつも水月狙ってくるんだよぼぼ」

 人体の急所が集まる正中線に位置する腹部を殴打され、笑顔のまま顔が青ざめていく生人。頑強な肉体を持つ生人と言えども、力が抜けきった状態での腹への攻撃には苦痛を感じずにはいられなかった。

「自業自得だよ、お兄」

「お姉ちゃん、じごうじとくって何?」

 妹に殴られ続ける兄を尻目に、今度は界得が、翔子が口にした単語の意味を問う。

「え~っとね、簡単に言うと、悪いことをして何かあっても、それは自分のせいだよ~ってこと、かな? 分かった?」

「ん……多分」

 分かってなさそうな界得のしかめっ面に、これ以上自分で説明するのは無理だと、翔子は悟った。

「ま、そのうち分かるよ」

「うん、そうだといいな。ボクも、お姉ちゃんみたいに大きくなれば色々なことが分かるようになるよね?」

「……そうだね」

 界得の何気ない言葉に、何かを思い出したかのようにハッとする翔子。無垢な笑顔を向ける弟に、翔子はいたたまれないといった風に歯噛みをする。

「……おい、翔子」

 その様子を見かねた生人は、所在なさげにしている翔子に話しかけた。

「何?」

「今更後ろ向きなこと考えたってしょうがないぞ。界得と界理だって、好きでこんな風になってるわけじゃないんだから」

「分かってるよ」

 界得と界理。二人に関する、あることをを憂い、翔子と生人の間に流れる空気が少しばかり冷え込んだ。

「……お母さんに線香上げてくる」

「あいよ」

 翔子は、自分を見つめる界得から目を逸らし、亡き母の仏壇の前に座り込んだ。

 まだ中学生で、背負うには大きすぎる使命を負った翔子。そんな彼女が時折見せるやるせない顔に、生人は巴家の長男として複雑な思いを募らせた。

「お兄ちゃん、どうしたの?」

 生人の些細な心の機微を感じ取り、心配そうに語りかけながら界理はその小さな体で彼を包んだ。肩まで届く黒髪に覆われた界理の頭を、生人は無言のままそっと撫で、憐憫の篭った目で薄く笑いかけた。



 翌日の朝。通勤通行で騒めく道の中を、建物の屋上から見下ろす翔子と生人の姿があった。

「何だ、まだ来てないじゃん」

「出勤時間には早いからね。別に来てなくてもおかしくはないでしょ」

 二人が立っている建物の向かいには、オフィスビルが建っていた。

昨日、殺人を巴に依頼してきた井川麗子と、その姉であり今回の対象である井川美雪が会社員として勤める会社ビルだった。      

彼らが平日の朝っぱらからこんな場所にいる理由は、殺す対象である井川美雪の行動を観察するためだった。

 殺す相手のことを少しでも多く知るため、殺人を実行する前に二人は決まって相手の情報を自らの足で直接集めるようにしていた。それは、彼ら自身の意思とは別に、父である大樹の言いつけでもあったからだ。

 それでも、一保護者として学校のある時間帯に実行させることは滅多にないが、翔子と生人の直談判によって、今日は一日まるまる使う許可を得たのだった。

「あ~でも、例の上司さんはいるみたいだよ」

「え、どこどこ? 双子の姉妹丼をやってのけた絶倫モテ男はどこだ?」

「………………ほら、あそこ。右奥のデスクのとこ」

 翔子が指差した先には、グレーのスーツを身にまとった男が、手元の書類と睨めっこしながらキーボードをタイピングしていた。

「あれがそうなのか。イケメンだな」

「そうだね」

 翔子の人差し指の先にいる男性を肉眼で捉えた生人は、男が年齢の割に若々しく整った顔立ちだったことに少し驚いた。

「でもまあ、あれだけイケメンであの年にして部長だし、おまけに美人な奥さんと子どもと不倫相手がいるんじゃな。天は二物を与えずっていうけど、二物どころか三物も四物も与えてるよな、ありゃ。きっとイチモツも立派に違いない」

 生人が最後に発した下品な台詞は聞き流し、翔子は率直な感想を述べることにした。

「まあ、優良物件ではあるよね」

「お、おう」

 どこで覚えたのか、中学生の妹の口から出てきた「優良物件」という比喩表現に、生人は軽く引いた。

と同時に、翔子が変な方向に向かって成長しないかという、無駄な不安に襲われる生人であった。

「でもさ、何で順風満帆なはずなのに浮気なんてするんだろうね。しかも同じ会社に務める双子とか、普通の神経じゃ考えられないよ。私には分からないけど、何かしらのスリルを味わいたいとかかな。同じ男として、お兄はなんか共感したりするわけ?」

「まさか。俺たちには分からない大人の事情があるんだろ」

「そんなものかなぁ?」

「そんなものだろ」

 益体のない話をしている二人の視界の端に、依頼人の井川麗子の姿がうつった。雑談に興じていた二人はすぐさま意識をそちらに集中させると、自然と会話も途切れた。

 井川麗子がビルに入り、エレベーターを使って彼女の部署があるオフィスへと辿り着くまで、その様子を可能な限り観察していた。

 二人の興味は、実のところ井川美雪よりも依頼者の井川麗子に向いていた。

すれ違った社員と朝の挨拶を交わし、周囲の風景に溶け込むかのような自然な流れで、デスク上のコンピューターを立ち上げる。

 実姉の殺人を依頼した物騒な人物とは到底思えないほど、ごく自然な振る舞いを見せていた。

「メンタル強いな、あの人」

 依頼人のまったく動じていない様子の外面に、両眼を研ぎ澄ませて凝視していた生人は称賛の声を漏らす。

「お兄は依頼人を直接見るの初だもんね。で、お兄から見てどんな感じ?」

「どんな感じって……まあ、荒んでるけど、中身の還元率は高そうかな」

鋭敏な洞察力を以て、今まで何人もの人間をその双眸で観察し、殺してきた生人だからこそ知っていた。

負い目や心に重しがある状態で平静を保つ、あるいはそれを装う。それが、どれだけ精神に堪えるかということを。

 殺人を依頼するということは、自ら手を汚さないというだけであって、多かれ少なかれ罪悪感や人を殺すことへの根源的な嫌悪感を依頼人は抱く。そうして生じた内面の亀裂は、行動や表情といった外面的な所作に大きく影響してくる。

そういった倫理観に左右されないのは、一種の慣れや生粋の狂人でしか有り得ないこともまた、生人は経験から知っていた。

 だが、全くと言っていいほど、そういったブレが井川麗子の表層からは確認できなかった。それが、生人にとっては小さな衝撃だった。

同時に、彼の瞳は井川麗子の内心に渦巻く混沌とした感情を、ある程度解してもいた。

「まあ、外面の割に内側はグッチャグチャだけどな。闇鍋かよ」

 隣にいる翔子に聞こえるか聞こえないかという程度の声で、生人は独りごちた。

「ほんと、お兄の眼はエグいというかなんというか。副次的な力だけで心が読めるっていうのはどうなの。プライバシーの侵害でしょ」

 兄の呟きを聞き取っていた翔子は、生人の眼とその視線の先にいる依頼人を交互に眺めながら言った。

 兄に対する、冗談のような軽い言葉。それでいて、彼女の本心から湧き上がる嫌悪や拒絶といった感覚的なものも、確かにその言葉から垣間見えた。

「……お前が言うな。それに、心が読めるって言っても、月も出てないこの時間じゃ、喜怒哀楽の大まかな感情しか読み取れないから。深層心理を事細かく読み取ろうとするなら、今のままじゃ無理だよ。ていうか、独り言を勝手に聞くなよ、恥ずかしいから」

「それでも十分えげつないでしょ。あと、どう考えても今のは独り言のトーンじゃなかったと思うけど」

 お互いの顔を流し目で見つめ合いながら、二人は素っ気なく言い合った。

「まあ、お兄は口外しないからまだいいけど」

「なんでお前は上から目線なんだよ。つうか、お前の『神通力』のがよっぽど酷いっての」

 生人は翔子から視線を逸らし、再び井川麗子とその上司へと意識を戻した。

「そんなことより、井川美雪が来ないんだけど」

「そういやそうだな。夫さんは先に来てるのに……井川美雪は一緒に通勤してるわけじゃないのか?」

 最も見ておかなければならないはずの殺人対象が姿を見せないことに対して、二人の胸中に懐疑的なものがこみ上げた。その時だった。

「噂をすれば影ってな。あれ、井川美雪じゃないか」

 狙いすましたかのように、自動ドアをくぐり抜けた女性を見つけ、生人は指さした。

「あ~あれだね。依頼人の井川麗子と瓜二つだし、髪の結び方とか写真と同じだもん」

 依頼人から受け取った写真を胸元のポケットから取り出して見比べ、生人の指摘した女性が井川美雪本人であることを認めた。

「……部署が違うからフロアも違うのか。井川麗子とその上司は三階、井川美雪は四階か。んじゃ、とりあえず視るもでポンっと」

「古っ」

 翔子からの冷ややかな突っ込みを受けつつ、目を大きく開いて井川美雪を見据える生人。

「……」

 それとは対照的に、無言のまま三階と四階のオフィス内を観察する翔子。井川麗子はさっきと変わらず、液晶画面に向かって仕事をしていた。

 違う点があるとすれば、さっきよりもデスクの上に乗っている書類や資料の枚数が少しばかり増えているということだけ。

 どこの会社でも見られるような光景を、その日、二人は一日中観察していた。


 観察に丸一日を費やした翌日。午前中から講義があった生人は早々に朝の仕度を終え、一限の講義が始まる十分前に大学に到着していた。

 自宅の最寄駅から電車を乗り継いで十数駅のところに、彼の通う大学のキャンパスがあった。そのキャンパス内にある建物の中に作られた、大講義室の一席に生人は座っていた。

「眠いっ」

 これから始まる必修科目のテキストとノートを卓上に出し、生人は講師がやってくるまでの数分間を、睡魔と格闘しながら過ごしていた。

「お~っす」

 そこに、軽い調子で話しかける青年が一人、正面から近づいてきた。青年は、そのまま生人の横に座った。

「お早う、富沢。早速だけど、ノート持ってきてくれた?」

「ほらよ」

 富沢と呼ばれたその青年は着席して間もなく、生人に言われたノートをショルダーバッグから取り出した。

「感謝しろよ、まったく。オレがいなきゃ、お前単位落としてるぞ」

「感謝してるよ。いやマジで」

「本当かよ。だったら態度で示して欲しいものですな」

「むっ」

 かれこれ三回はすでにこの講義を欠席している生人にとっては、富沢のノートは喉から手が出るほど惜しいものだった。

というのも、彼らが今受けている科目はノートからテスト問題が出るともっぱらの噂だったからだ。

「……仕方ねぇな、昼飯奢るよ」

 必修科目の単位が賭かっているとなれば、生人もワンコイン程度の出費にはやぶさかではなく、富沢からノートを受け取った代わりに昼食をご馳走することを提案した。

「よっし、交渉成立。やっぱり持つべきものは需要と供給だよな」

 生人の提示した交換条件を快諾した富沢は、嬉々とした表情でバッグの中から筆記用具を取り出して板書の準備を整えた。

一通りの準備を終えると、シャープペンシルを握りながら何気ない質問を生人に投げかけた。

「そういやさ、お前昨日の一限の授業出てなかったろ?」

「うんまあ、急に家の仕事が入っちゃってさ。それで仕方なく」

「ああ、そういうことか」

 富沢は、生人の家が便利屋で、彼がその仕事の手伝いをしていることを知っていた。それゆえ、疑う素振りも見せず生人の言葉を鵜呑みにした。

 まさか、人を殺すために一日中人間観察をしていた、などとバカ正直に言えるはずもなかった。

 二人の会話が良い具合に収束するのと、教授が講義室に入ってくるのは殆ど同時だった。教授の姿が見えると、騒ついていた室内は幾分か静かになったものの、それでも所々から聞こえる話し声はそれなりの音量を伴っていた。

 前もって準備されていたプロジェクターやパソコンを、老いた教授が起動させる。スクリーンに映像が映し出され、「それでは」と教授が切り出したところで、ようやく学生たちは声を潜めた。

 スクリーンに映し出されたパワーポイントの一ページ一ページを丁寧に読み上げ、時に注釈を入れながら教授は講義を進めていった。その教授の言葉を聞き逃すことなく、富沢はノートを取っていく。

 そんな中、生人はノートを取るでもなく教授の話を聞くでもなく、スマートフォンの画面をいじってはニュース記事や動画サイトの閲覧に勤しんでいた。

「……世知辛い世の中だ」

 液晶の画面に目を通していけばいくほど、荒んだ話題が多いことに生人は心の中で嘆息した。

 特に彼の目にとまったのは、自殺者数が増加しているという内容の記事だった。その眼で何人もの人間の命を奪ってきた生人だからこそ、人の死というものには考えるところがあった。

「まったく、命を捨てるなんて勿体無いったらありゃしない」

「勿体無いのはお前の授業料だろ。人がノート取ってるのに呑気にスマホいじりやがって」

 顔は前を向いたまま、生人の言動に的確な返しをする富沢。

諧謔的なその返しを耳にして、学費から換算すると一回の講義は約二千円するのだと、富沢が前に言っていたことを生人は思い出した。

「良いんだよ別に。俺は数メートル四方のスクリーンなんかより、もっと大きな社会の流れを見据えてるからな」

「お前が見てんのは数センチのスマホのスクリーンだろうが。何を偉そうに言ってんだ」

「確かにそうだな」

 そんな下らない掛け合いに、今度は生人だけでなく富沢も小さく笑った。

「……なあ富沢。お前確か、仲の良さそうな弟がいたよな?」

 そんな折、生人の脳裏に井川姉妹の顔が過ぎり、液晶を弄る手を止めてそんなことを訊ねた。

「まあ年も近いし仲は良いかもな。で、それがどうした?」

「一つの例え話として聞いて欲しいんだけど、仮にお前の弟に彼女がいたとして、その弟の彼女とお前が二股の関係にあったら、お前はどうする?」

「兄弟、穴兄弟ってことか」

「そんな『人類、みな兄弟』みたいな発音で……。あ、お前と弟の彼女の間にも愛はあると仮定した上でな」

「質問の意図が全く分からんの」

「そこはどうでもいいから、質問に答えれ」

「そう言われても、実際にそういう状況になんねーと分からないっつーの。まず弟は彼女すらいないんだから、明確にイメージできないし」

「……そんじゃ、少し質問を変えるわ」

 答えがもらえなかったことに不満は残るものの、富沢の意見も最もであった。

「今言ったような関係になったら、お前は弟を殺そうと思うか?」

 だから、生人は条件を限定することで具体的なイメージを持たせようと努めた。

「いや、ねーよ。どっちが手を出したのか知らんけど、どっちにせよ弟を殺すって選択肢はないだろ。悪いのはオレと弟の嫁さんなんだから。むしろ、オレが罪悪感に殺されるわ」

「まあ、そうなるか」

 井川姉妹と富沢兄弟は、性別も年代も境遇も違い過ぎて参考になるかは微妙なところだった。唯一の共通点は、仲が良いということだけ。

それですら、各々のさじ加減なのだから図りようがない。だが、井川姉妹の心情を図る一つのケースとして、生人は富沢の意見を頭の隅に置くことにした。

「兄弟といえば、お前んとこにも妹いたよな。今年高校受験なんだっけ?」

 器用にも教授の解説を聞き取りながら、富沢は生人との会話を紡ぎ続ける。

「そうだけど……だから何だよ。あれか、高校生ならギリギリ付き合っても大丈夫とか思ってんのか? はっ倒すぞ」

「まだ何も言ってねーだろ。そもそも、お前の妹を見たことないからそんな感情湧かんわ」

「じゃあ何だよ」

 意識しておらずとも、やはり肉親としての情があるのか、身内の話題になると少なからず感情的になる一面が生人にはあった。

「なんとなく。巴んとこって四兄妹だろ? その、色々と家計は大丈夫なのかと思ってな」

 生人が片親であることを知っていた富沢は、不快にさせまいと言葉を慎重に選びながら言った。

生人にしてみれば、その親切心は大きなお世話であったが、気遣いを嬉しくも思った。

「ああ。別に、そんな火の車ってわけじゃないから心配には及ばねーよ。もちろん公立を受けさせるつもりだけどな、本人もそこまで高校のブランドに執着してるわけじゃないし。制服の可愛いとこが良いとは言ってたけど」

「あ~女の子ってそういう選び方するよな。バイト先の塾生もそんなこと言ってたわ」

「でもアイツ、学力はそんな高くないから選択肢多くないけどな」

 といった具合に、いつの間にか、二人は講義そっちのけで身にならない話に花を咲かせていた。

 

「――――――――――――いっくしっ」

 兄の生人と同様に学校で授業を受けていた翔子は、何の前触れもないくしゃみに、両手を口にあてがった。

「どうしたの翔子ちゃん、風邪?」

「違うと思うけど……なんだろう、誰か噂してんのかな」

 黒板に書き足されていく数式から一旦目を離し、隣の席の友人に顔を向けながら翔子は曖昧に返答する。

「だとしたら、悪い噂じゃないみたいだね」

「何それ、どういうこと?」

 鼻をすすりながら、翔子は友人の瀬波海の言葉の意味を問いただした。

「くしゃみをすると誰かが噂してるって言うでしょ? あれ、二回連続だと悪い噂なんだって」

「そうなんだ。変なの」

 初めて耳にした迷信の下らなさに、翔子は頬を緩めて思ったままのことを口にした。

「迷信なんてそんなものなんじゃないかな。でも、確かに何でくしゃみと噂が結びついたんだろう。昔の人が考えてることはよく分からないね」

 数学の授業中にもかかわらず、二人は国語の内容に近い話題に興じる。もっとも、国語の授業中だったとしても、授業内容との関係性は希薄だっただろうが。

「じゃあ、この問題はそこで仲良く喋ってる海崎にやってもらうとするかな」

「うぇ!? は、はひっ」

 静まり返っていた教室で繰り広げられていた二人の雑談を教師が聞き逃すはずもなく、注意の代わりに板書された問題を解くよう瀬波に指示した。

「あっぶな」

 矛先が自分ではなく瀬波に向いたことを幸運に思うと同時に、身代わりとなった友人に翔子は心中で謝罪した。

 黒板の前で白墨を持ったまま一向に解を書き出そうとしない瀬波は、汗を垂らしながら呻き声を上げる。その後ろ姿を眺めながら、翔子は今回の殺人の依頼について考えていた。

「……独占欲だけじゃないと思うんだけどなぁ。かと言って、依頼人が嘘をついてるようにも見えなかったし。でも、お兄は平静を装うのが上手いって言ってから、バレないように嘘をついてたとか?」

 依頼人の身の上話を聞いた上で、井川美雪の周囲の人間関係や過去の経歴など、ある程度の素性を調べはしたものの、特にこれといって気になるものはなかった。

 愛する他人のために身内を殺す。無くもない話ではあるが、翔子には理解できないことであり、どうにも納得いかない部分があった。

翔子は自分と照らし合わせて考えてみた。仮に自分が愛に狂ったとして、兄である生人を殺すことができるか。あるいは、界理や界得を殺すことができるか。

「いやいや、ないわー」

 その自問は即座に切り捨てられた。そもそも、まともに恋をしたことのない翔子に、井川麗子の立場に立つことなど出来るはずもなかった。何故なら、翔子は「恋に恋する」などという馬鹿げた言葉を鼻で笑う程度には、恋に疎かったから。

 そも、翔子は恋と愛の違いすら理解していない。彼女の年齢を考えれば、むしろ自然なことではあるのだが、いかんせん彼女自身はそれを自分の思慮の浅さとして見ている節があった。

そこに感情の介在しない殺人の依頼ならば、翔子はここまで悩むことも調べることもせず、殺人対象の動きを少し探る程度で済ませていただろう。

だが、今回はビジネスライクとは言い難い、徹頭徹尾私怨による殺人依頼。だからこそ彼女は、依頼人と殺人対象をより深く知ろうとしていた。

来るべき自分の役割を果たす日のために備えて。

「はぁ。私じゃ理解できないから、嘘くさく感じるだけなのかなぁ」

 もはや翔子の独白は独り言のトーンではなく、周囲の生徒に聞き取れるほどだった。

「う~……分からないぃぃぃぃ!」

 まともな感性を持つ女子中学生が考えるには、あまりに生々しい事柄に、翔子の頭はオーバーフロー寸前だった。

 


 少女がどんなに悩もうとも、青年がどれだけ思索を巡らせようとも、時間は常に流れるもの。彼らが気をもんでいる内に、井川麗子から指定された依頼決行日の夕方を迎えた。

巴家の面々は、にわかに殺気立っていた。特に、場馴れした大樹や生人と比べて、翔子は些か落ち着きがないように見えた。これから人を殺そうというのだから、それも無理からぬ話である。

「界得と界理は?」

「ちょっと早いけど、寝かしつけてあるから多分大丈夫でしょ」

 大樹の問いに、どこかそわそわした様子で翔子が答える。その隣では生人がお茶を啜っており、翔子よりリラックスしているようだった。その余裕は、生人と翔子の役割の違いに起因している部分もあるのだが、それ以上に仕事に慣れているからだろう。

「流れを最終確認するぞ。まず俺達は依頼人の井川麗子が務める会社の、向かい側のビルの屋上に行く。そこで殺害対象の井川美雪と、その夫、つまり依頼人と不倫関係にある上司が出てくるのを待つ。出てきたら、その場で依頼人が合図を出す手はずになってるから、それに合わせて翔子がターゲットを殺して、生人が中身を回収。依頼人とターゲットは双子だからくれぐれも殺し間違えないようにな」

「今更間違えないでしょ」

 依頼を目前にして気が立っている翔子は、少々トゲのある言葉使いで大樹に反応する。

「ムスっとしてないでさっさと着替えて来いよ翔子。お前の仕事着は着替えるのに時間かかるんだから」

「うっさいな、お兄こそまだ着替えてないじゃん」

「俺は別に時間かからないからな。つーか、久々だからって緊張しすぎなんだよ、お前は。もっと気を楽にしろよ」

「お兄と一緒にしないで。私はお兄みたいにキレイにできないんだから」

「いい加減にしろ。界理と界得が起きるだろうが。さっさと着替えて来い」

 気の立っている子どもたちが本格的に言い争いになるよりも早く、大樹が二人を制した。半ば恒例となったやり取りに、大樹はため息すらつかなかった。

「私は……」

父親の鋭い目つきにたじろぐも、翔子は未だに何かを言いたそうだった。それでも彼女は精一杯感情を抑えて言葉を飲み下し、生人に背を向けた。

「……お兄、着替え終わったら私の仕事着の着付け手伝ってよ」

「あいよ」

 沈痛な面持ちの翔子と煮え切らない思いの生人。二人は各々の仕事着に着替えるため、それぞれの自室に戻った。

ややあって、先に着替え終わった生人が、翔子の着替えを手伝うために彼女の部屋のドアをノックした。

「入っていいでしょうか、お嬢サマ」

「うん、入っていいよ」

 翔子は躊躇いがちに応じた。

「んじゃ、入るわ」

 本人の了承を得て、生人は妹の部屋へ足を踏み入れた。

普段から用があれば翔子の部屋に入っている生人にとっては、年頃の女の子らしい部屋に特に感慨があるわけでもなく、下着姿で佇む妹を見ても動じることはなかった。

少なくとも、表面上は。

「帯はともかく、せめて着物は着ておけよ……」

 といっても、流石に下着姿の女子を直視するのも憚られ、生人は視線を翔子から逸らして窓の外を見た。空には、燦然とした月が出ていた。

「…………ねぇ、お兄」

「あ? 何だよ」

 翔子の足元に無造作に広げられた和装の喪服を拾い上げながら、覇気のない妹の声に生人は振り返った。

「お兄は、人を殺す時に何考えてる?」

俯き落ち込む翔子の体に黒い着物を羽織わせながら、生人はため息混じりに言葉を返す。

「……さっきも言ったけど、あんま気負いすぎるなって。どうせ、って言い方は良くないかもしれんけど、どうせ人間なんて死ぬもんなんだから。殺した相手を悼んで、忘れないよう心に留めておけばいいんだよ。全部背負い込んでたら病んじまうぞ。それに、お前はまだ中学生なんだし、分からないことを無理に分かろうとしなくていいんだよ」

「………………うん、そうだね。ありがとう、お兄」

「おう」

 翔子が躊躇いがちに口にした感謝の言葉を、生人は気恥ずかしそうに頬を掻きながら受け取った。

「……ただ、本当に無理そうだったら言え。今夜は満月じゃないけど半分以上出てるし、アレが使える。今回はただの殺人じゃなくてスプラッタだから、お前にはキツいだろ。だから、父さんはお前にやってほしいんだろうけど」

 生人は、今度は全く違う心境から、バツが悪そうに頬を人差し指で掻いた。

「大丈夫。アレを使うようなことじゃないし、お兄にだって負担がかかるもん。それに私一人でやらないと先に進まないし……何より、お父さんの前じゃ迂闊に『繋累の儀』はできないでしょ」

「確かに。粘膜を触れ合わせるのは論外として、体を密着させるのもキモイし不自然だから父さんに感づかれるだろうしな」

 二人にしか分からない、二人になら分かる言葉の交錯。それっきり、二人の間を沈黙が支配した。黙々と着付けをする翔子と、それを手伝う生人。

 ようやく二人が着替え終わった頃には、日はすっかり沈んでいた。


「ったく。お前らは準備すんのが遅いんだよ。もっと自覚を持て自覚を」

「だったら、『殺人を行う際は喪服のみ』とかいう縛りをどうにかしろよ」

 巴家一行は、先日に翔子と生人が赴いたビルに向かって歩を進めていた。

 縦列に歩く彼らの服装は、かなり周囲から浮いている。洋式の略式喪服と和式の略式喪服に身を包む二人は、道行く人々の奇異の視線に居心地悪そうに歩いていた。

「しかも、俺らに喪服着させてる割に、自分だけめちゃくちゃ動きやすそうな服装だし。何だよその服」

大樹の装いは二人の喪服とはかなり趣が異なっていた。暗い色を基調とした軍服のような戦闘服を着て闊歩する姿は、ある意味で二人の子どもたちよりも異質だった。

「当然だろ。俺が動けなかったら、万が一の時、動きづらい服装のお前達を守れないだろう」

「だったら私達にも普通の服装させてくれればいいのに」

 さっきまでの殺伐とした雰囲気とは一変して、翔子と生人の胸中は穏やかだった。

というのも、着ている本人たちは意識していないが、喪服を着ることによって一種の自己暗示をかけ、殺人という行為に対して心を御すことができていたからだった。

本来は、それがどんな相手であっても殺人という行為を正当化してはならず、人としてせめて殺す相手に追みの意を示さなければならないという意図に沿って、大樹が二人に着させていたものだった。しかし、殺人を行う時にのみ喪服を着ることを繰り返していたことによって、いつしか精神安定の効用が生じていた。

大樹は知る由もないが。

「せめて私も洋式の方がいいんだけど……この喪服はお母さんの形見だし、着ないわけにもいかないかな、やっぱり」

 そうして、しばらく三人が歩いていると、ふと大樹が後続の翔子と生人に訊ねる。

「お前たち、その服装でどの程度動けるんだ」

「はぁ? 何だよ藪から棒に」

「ただの確認だ。質問に答えろ」

「……俺は別に、普段と変わらない程度には動けるけど」

 どことなく不機嫌な父を訝しむ生人だったが、触らぬ神に祟りなしの諺に基づいて、無闇なツッコミは避けて答えた。

「私は流石にいつも通りってわけにはいかないかな。和装だし」

 大樹の纏う張り詰めた空気を感じ取り、翔子も無難に答えた。

「そうか。なら、二人ともその状態でも動けるように訓練しておけよ」

 そう言って、大樹は黙った。

「…………お父さん、何かあったのかな?」

「さあ。ま、殺人依頼の時はピリピリすることが多いからな、父さんは。お前は殺人依頼を担うことがあんまりないから知らないだろうけど」

「そうなの?」

「ソーナノ」

 唐突に投げかけられた父親からの無茶な要求に、二人は耳打ちし合いながらひっそりと会話を繰り広げた。

 そうこうしてる内に、三人は目的地に到着した。

 ビルの屋上に上がると、風が吹きすさび、三人の体を撫で付けた。

「風が強いな~」

「うぇ~、髪がボサボサになっちゃう」

 気の抜けた言葉を発する二人。場慣れしている生人はともかく、これから人を殺そうとしている今の翔子には、その軽口は不釣り合いだった。

「どうせ、言うほどヘアケアしてないだろ翔子は」

「はぁ? 人並みにしてるから!」

「だってお前、石鹸で髪洗ってるんだろ?」

「洗ってないから! いや洗ってるけど、石鹸では洗ってないって意味で……ちゃんとシャンプー使って洗ってるから! ていうか、何を根拠にそんなこと言ってるわけ!?」

「界得が言ってたぞ。この間、お前ら一緒に風呂に入ったらしいじゃん? その時に、お前が石鹸を泡立てた手で髪を洗ってたって」

「……あぁ、あのときのことね」

 生人から指摘されたことに思い当たる節があった翔子は、その時のことを鮮明に思い出した。

「違うんだって。その時は疲れてて、それで、無意識のうちにそういう行動をとっちゃっただけなの」

「ああ、そう。別にお前が石鹸で髪を洗ってバリバリなろうが、世界が嫉妬する髪になろうが興味ないけど」

「きょ、興味ないってなによ!? 乙女のキューティクルに対して!」

「そんだけ吠える元気があるなら大丈夫そうだな」

 生人は、翔子の軽口が極度の緊張から来ていることを分かっていた。だからこそ、無駄話をして少しでも彼女の気を紛らそうとしていた。

「ぐぬぬっ」

 そんな兄の気遣いをこそばゆく感じた翔子は、恥ずかしさを誤魔化すためにむっとした顔で生人を睨んだ。

「そろそろ時間だ。二人とも準備しておけ」

 二人の微笑ましいやりとりを無言で見つめていた大樹だったが、決行の時間が差し迫っていることに気づき、二人に鋭く重い言葉を放った。

大樹は眼下のある一点に目を向ける。二人もそれに倣い、同じ地点に焦点を合わせる。

「……おいでなすった」

 三人のいる建物の向かい側のオフィスビル。その出入り口から、殺害対象である井川美雪と彼女の夫の二人が姿を見せた。

 仲睦まじく歩く姿は誰から見てもおしどり夫婦そのものだった。何かを話しているように見えるが、距離と周囲の喧騒のせいで、流石の三人でも言葉を聞き取ることはできない。

 井川美雪が姿を現してからは、事態の進行は早かった。二人から少し遅れて、井川麗子がその後に続き、あらかじめ決めておいたジェスチャーで合図を示す。 

「翔子、生人」

 それを認めた大樹は、二人に呼びかける。

 父親の声に、兄妹はゆっくりと目を閉じる。そして、秒と経つ前に四つの眼が力強く開眼した。

「翔子、先に」

「……うん」

 ネオンに負けない鋭い光を放つ二人の双眼は、人間の眼球が元来持つ白と黒ではなくなっていた。二人の鞏膜は青みがかっていた。しかもなお、生人の虹彩は深い森林を思わせる濃い緑色へと移り変わり、翔子の虹彩は広大な大地を思わせる赤茶色へと転化していた。

「逝ってらっしゃい」

 男の隣を歩く殺人対象の女を、翔子はその二つの目で見据え、手向けの言葉を送った。

すると、何の前触れもなく女の肉体が四方八方に弾けとんだ。それはまるで、体の中に爆弾が埋め込まれていたかのように、ある種の美しささえ伴って破裂した。

 あまりにあっさりしていた上に自然と飛び散る肉体に、眼前でその光景を見ていた女の上司でさえ呆けていた。

 それでもまだ、井川には意識があった。首だけとなり生命器官の一切を失った彼女は、何かを言いたそうに口を動かす。だが、声帯すら飛び散った彼女に声を出すことは叶わなかった。

 パクパクと口だけを動かす様は餌を求める金魚のようで、些か滑稽に見える。

だが、唐突に最愛の女が弾けたのを目の当たりにした男には、そんな不謹慎な考えを持つ余裕などなかった。

 女の生首――あるいは生首の女――は、声が出ないと分かるや、頭に疑問符を浮かべたまま放心している男を凝視した。恨めしそうに、愛おしそうに、苦しそうに。

「お還り」

 普通なら発狂するような光景を前に、生人は取り乱すことなく散らばった女のパーツを見つめて呟いた。

 その直後、悶えながらも辛うじて生きていた女の首は忽然と動かなくなり、遂に事切れた。

 刹那の間。男と、女だったモノの周囲から音という音が消え去った。そして次の瞬間、凝縮された悲鳴が一気に炸裂した。

 阿鼻叫喚の雨霰、おどろおどろしい声々が行き交う路地に広がる、鮮血の池。それら全てを全身で感じ取った生人と翔子は、もう一度、深く瞼を閉じた。

「はい、終わり」

「……後味悪い」

 次に二人が目を開けた時には、すでに彼らの目の色は元通りになっていた。

「しっかし、ご丁寧に殺人日時を指定した理由が、姉とその夫の結婚記念日に合わせて殺すためって、中々に下衆だな井川麗子も」

「……そうだね」

 生人の独白に近い呟きに、翔子は首を上下に振って同意した。彼女は、心ここにあらずといった様子だった。

「つうか、いくら何でもやり過ぎだろ」

「し、仕方ないでしょ。依頼人の要望に従った結果なんだから。私だって本当は不本意だよ」

「だからって、限度ってもんがあるだろ、限度ってもんが。流石の俺も少し気分が悪くなってきたわ」

「う、うるさいな。ちゃんと仕事はしたんだから、文句を言われる筋合いはないでしょ。ねぇお父さん」

 無事に仕事を完遂したことで緊張の糸が切れたのか、それとも人を殺した事実から目を背けるためなのか。翔子は人を一人殺した直後だというのに、波濤のごとき勢いで喋り始めた。

「ああ、そうだな」

 面倒くさそうに相槌を打つ大樹は、目を閉じ、下から聞こえてくる騒ぎ声に耳を傾けていた。

「そっちこそブーブー言ってるけど、ちゃんと中身は還したの?」

「当たり前田のクラッカー」

「古っ」

 騒ぎが次第に大きくなっていくのを認めた大樹は、厳かに語りかける。

「二人とも忘れるなよ」

「……うん」

「分かってんよ」

「さ、帰るぞ。後は口座に金が振り込まれるのを確認したら、今回の依頼は終わりだ」

 大樹はフェンスに手をかけ、真下に広がる人の群れを暫し見つめてから、しかめっ面で翔子と生人の肩を叩いた。

 三人は体を翻し、示し合わせたかのように一歩踏み出し、屋内へと続く階段へと向かう。

「はぁ……明日も学校だ、面倒くさい」

「あぁ~私も勉強しないと」

「無駄話してんな。さっさと歩け」

 黒い衣装に身を包んだ三つの影は、ゆらめきながら街の光から遠ざかっていく。

 そして、サイレンがけたたましく鳴り響く中、巴は夜の灯りの中へと消えていった。

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