[2] カメネッツ=ポドリスキ包囲戦(前)

 3月4日、第1ウクライナ正面軍はシェペトフカ=ドゥブノ地区から新たな攻勢を開始した。第60軍(チェルニャホフスキー中将)と第1親衛軍(グレチコ大将)は、第4装甲軍の前線を突破し、第四装甲軍は2つに分断されてしまった。第13軍団(ハウフェ大将)は西と北西へ圧迫され、第59軍団(シュルツ中将)の2個歩兵師団(第96・第291)は第一装甲軍へ追いやられた。

 南西へ実施された「プロスクーロフ=チェルノフツィ」作戦は順調に推移した。ジューコフは攻撃のテンポを速めるため、第3親衛戦車軍(ルイバイコ大将)と第4戦車軍(レリュウシェンコ中将)を投入して、第4装甲軍を西方へ押し返していった。

 3月5日、第2ウクライナ正面軍は「ウマーニ=ボドシャニィ」作戦を開始した。第52軍(コロテープ大将)の支援を受けながら、第2戦車軍(ボグダーノフ中将)と第5親衛戦車軍、第6戦車軍がウマーニの周辺から第8軍の陣地を突破した。

 3月7日、第1ウクライナ正面軍の戦車部隊は南部のドイツ軍に補給物資を送り込む大動脈であるリヴォフ=オデッサ間の鉄道を遮断し、プロスクーロフに迫った。この時、マンシュタインの配慮が実った。シェペトフカの南方で、第1ウクライナ正面軍は第1装甲軍の第3装甲軍団(ブライト大将)と第4装甲軍の第48装甲軍団(バルク大将)による反撃に遭い、進撃を阻止されてしまった。

 3月10日、第2ウクライナ正面軍はドイツ軍の補給廠が残されたウマーニと、直前まで南方軍集団司令部が置かれていたヴィンニッツァを立つ続けに奪回した。

 3月11日、第2戦車軍と第6戦車軍はブグ河の下流に到達した。橋頭堡を確保した戦車部隊は2日間で、ブク河の渡河作戦を実行した。

 3月16日、第2ウクライナ正面軍はレンベルク=オデッサ鉄道に達した。第5親衛戦車軍の第29戦車軍団は翌17日にドニエストル河に到達し、ただちに狙撃師団を渡河させた。第2ウクライナ正面軍の戦車部隊が同月21日までにドニエストル河を渡河したため、北翼にいた第1装甲軍は南翼の第8軍と分断されてしまった。

 3月21日、プロスクーロフにおけるドイツ軍の抵抗に業を煮やしたジューコフは前線に第1戦車軍を投入した。攻勢の勢いを取り戻した第1ウクライナ正面軍は、再び第1装甲軍の陣地を突破した。

 マンシュタインが恐れ続け、何としても避けようと努めていた破局の事態が急速に現実味を帯び始めていた。第4装甲軍は西方に押し返され、第8軍は叩きのめされている。第6軍は第3ウクライナ正面軍に攻撃され、ドニエプル河畔で孤立したまま、北翼の救援を行う余裕などない。第4装甲軍から80キロも引き離されて、第1装甲軍がブグ河とドニエストル河の広大な地域で殲滅の危機に立たされた。

 3月24日、情け容赦なく進撃を続けた第1戦車軍はドニエストル河に到達すると、休む間もなく渡河作戦を実行した。その際、ドイツ軍兵士の五感を攪乱するため、夜間もヘッドライトを付けてサイレンを鳴らして進撃した。

 ジューコフは補給が途絶して進撃が停滞していた第4戦車軍に対して、南方のカメネッツ=ポドリスキを翌25日までに占領するよう命じる。この進撃によって東翼から進出する第2ウクライナ正面軍と同地で合流して、第1装甲軍を包囲網に閉じ込める。スターリングラードにおける包囲戦を、ジューコフは再現しようとしていたのである。

 レンベルクの戦闘指揮所から、マンシュタインはヒトラーに対して第1装甲軍の脱出許可を求めた。しかし、ヒトラーは第1装甲軍の退却を禁じ、「現在位置を死守せよ」という総統命令を送りつける。さらに、自身の山荘で戦況を報告するよう召喚命令を下した。

 最も危険な瞬間に前線から離れることになるが、マンシュタインはこの召喚を受ける決心をした。用心のために第1装甲軍に対して、マンシュタインは包囲網を突破する準備を整えておくよう待機命令を出してから、ヒトラーの山荘に向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る