第39章:解放

[1] 序曲

 ドニエプル河東岸の掃討に続いて、モスクワの「最高司令部」はドニエプル河西岸からカルパチア山脈に至る第2次攻勢を準備していた。6個戦車軍がすべて南部に投入され、主攻勢は第1ウクライナ正面軍と第2ウクライナ正面軍が担当することになっていた。両正面軍の目標は南方軍集団を中央軍集団から分断し、黒海もしくはカルパチア山脈に釘付けにすることで殲滅しようとするものであった。

 ドニエプル河西岸からカルパチア山脈に至る第2次攻勢は5つの作戦から構成され、それぞれの作戦は以下の地点と日付が設定されていた。

 3月4日、プロスクーロフ=チェルノフツィ。

 3月5日、ウマーニ=ボドシャニィ。

 3月6日、ベレスネーゴヴァチア=スニギレフカ。

 3月26日、オデッサ。

 4月8日、クリミア。

 モスクワの「最高司令部」はドイツ軍の予測、すなわちソ連軍の主攻勢は南方軍集団司令部が置かれたヴィンニッツァに向けられるだろうという予測につけ込もうとした。すでにソ連軍は南方軍集団の南翼に当たるヴィンニッツァではなく、その北翼に対して「ロブノ=ルーツク」作戦を行っていた。今度の攻勢も、第1ウクライナ正面軍による最初の一撃はこの北翼から実施された。

 2月29日、第1ウクライナ正面軍司令官ヴァトゥーティン上級大将は「プロスクーロフ=チェルノフツィ」作戦の準備のため、前線を視察中だった。その際、ウクライナ蜂起軍による待ち伏せを受けて、重傷を負ってしまった(4月15日に死亡)。後任の司令官には、ただちに第1ウクライナ正面軍司令部に派遣中だったジューコフが就任した。

 第1ウクライナ正面軍による「プロスクーロフ=チェルノフツィ」作戦の内容は、ロブノの周辺から南翼のカルパチア山脈に向かって展開するというものだった。プリピャチ湿地帯南翼から3個戦車軍(第1・第3親衛・第4)を西翼へ突破させてポーランドに進出しつつ、ドニエストル河に向かって南に展開し、ドイツ軍の後方を切断する。

 第1ウクライナ正面軍の南翼では、第2ウクライナ正面軍も3個戦車軍(第2・第5親衛・第6)によって第8軍(ヴェーラー大将)の前線を突破して、ドニエストル河東岸を一掃する。これが「ウマーニ=ボドシャニィ」作戦の骨子となった。

 この2つの攻勢に加えて、第3ウクライナ正面軍が「ベレスネーゴヴァチア=スニギレフカ」作戦によって第6軍(ホリト上級大将)を攻撃し、北方へ向けられるドイツ軍の救援を断つことになっていた。

 1944年度の冬季戦は、南方軍集団にとってはただ生き残るためだけに費やされた休む間のない時期であった。ドイツ軍の装甲師団と武装SSは危機に瀕した防御陣地を支援するため、各所へ転戦した。最後の瞬間になって、陸軍参謀本部の東方外国課はようやくソ連軍の攻撃意図に気づき、南方軍集団司令部に警告した。旧ポーランド国境に近いシェペトフカ=ドゥブノ地区に6個軍が集結しており、プリピャチ湿地帯西端の鉄道要衝コヴェリを脅かす位置に迫っているという。

 マンシュタインは幾度も陸軍総司令部に対して、南方軍集団に戦略予備を増強するよう求めた。しかし、ヒトラーはこの要請を拒否したため、マンシュタインは間に合わせの手段を取らざるを得なくなった。

 最も危険だと考えられたのは、南方軍集団北翼のプリピャチ湿地帯からシェペトフカに至る80キロの前線だった。この前線に配置されていたのは、弱体化した第13軍団だけだった。マンシュタインは第4装甲軍(ラウス大将)を第13軍団の後方に移し、最悪の事態に備えるしかなかった。第1装甲軍(フーべ大将)はシェペトフカの南方に配置されることになった。

 だがこの結果、別の戦区に危険が生じた。第8軍は装甲兵力の半分以上を割かれた状態で、第2ウクライナ正面軍と対峙することになったのである。

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