[2] ドニエプル河への突進

 南部では九月を通じて、独ソ両軍がドニエプル河への道を争った。ソ連軍の勢いはとどまることを知らずにドニエプル河への突進を続けていた。この時ドイツ軍は、追撃してくるソ連軍の戦力を膨大なものであると信じていたようである。

 9月8日、東プロイセンの総統大本営で、ヒトラーは中央軍集団司令官クルーゲ元帥と南方軍集団司令官マンシュタイン元帥と会談した。クルーゲとマンシュタインはそれぞれ、危険な線区から部隊を撤退させる許可を得ることに成功した。すなわち、中央軍集団は南翼の部隊をデスナ河流域に撤退させる。A軍集団は第17軍をカフカス地方のクバン橋頭堡からクリミア半島へ部隊を撤収させる許可を得ることに成功した。

 9月9日、モスクワの「最高司令部」は大々的な褒章授与の発表を行った。兵士たちのさらなる戦意高揚を狙った内容だった。

「スモレンスクより下流のデスナ河、および強行渡河の難易度においてデスナ河と同等と見なされた河川の渡河に成功した場合、軍司令官に対してはスヴォーロフ第一級勲章、軍団長、師団長、旅団長には同第二級勲章、連隊長、工兵大隊長には同第三級勲章を授与される。また、スモレンスクより下流のドニエプル河、および強行渡河の難易度においてドニエプル河と同等と見なされた河川の渡河に成功した場合、レーニン勲章と共にソ連邦英雄の称号を授与される」

 9月14日、ヴォロネジ正面軍はアハツィルカからドイツ軍の戦線を突破し、ドニエプル河に向かった。南方軍集団司令部は翌15日、全部隊をドニエプル河沿いの防衛線へと撤退させる命令を下した。ヒトラーもようやく南方軍集団の戦線を回復させるため、ドニエプル河まで部隊を撤退させる必要性を感じていた。

「南方軍集団は、ドニエプル河沿いの陣地線『東方防壁』および、サポロジェ=メリトポリ陣地線『パンテル=ヴォータン線』へと撤退する」

 ドイツ軍にとって幸いなことに、ドニエプル河は東岸よりも西岸が高く隆起しており、東方からの攻撃に備える防御陣地としては格好の場所だった。しかし、ヒトラーはヨーロッパ西部の海岸に構築する「大西洋防壁」の建設を優先し、東部戦線に安全な後方陣地を設置することを拒否し続けた。ようやく「東方防壁」の構築命令が出されたのは8月12日になってからであり、陣地を強化するための資材も時間も不足していた。

 南方軍集団はソ連軍の進撃を少しでも遅滞させるため、「焦土作戦」を実行した。ドニエプル河東岸から20~30キロ以内の地域において、渡河作戦の助けとなるような物資やインフラを破壊するか持ち去ったのである。ヴァトゥーティンは「奴らはパンを焼くが、我々は攻撃せねばならぬ」と発破をかけ、弱体化した戦車部隊は追撃を止めなかった。

 9月19日から23日にかけて、ヴォロネジ正面軍はキエフの南北でドニエプル河に到達した。その北翼に展開する中央正面軍も麾下の狙撃部隊が次々に、ドニエプル河の東岸に到達した。

 9月21日、中央正面軍の第13軍(プホフ中将)はキエフ北方のリュテシで、ドニエプル河に到着した。渡河資材の到着を待たずに、河の周辺に転がった丸太や板切れ、民家の扉などで作った筏や付近の住民から提供された小型の漁船などで部隊は渡河の準備を整えると、翌22日に西岸に最初の橋頭堡を築くことに成功した。

 9月23日、第13軍の南翼で第50軍(チェルニャホフスキー中将)がドニエプル河の強行渡河を行った。時を同じくして、ヴォロネジ正面軍では第3親衛戦車軍(ルイバルコ中将)と第40軍(モスカレンコ中将)が、キエフ南東でドニエプル河が大きく湾曲するヴェリキィ・ブクリンの周辺に橋頭堡を確保した。

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