[2] 最後の一閃

 7月13日、東プロイセンの総統大本営「狼の巣」は陰気で不安な空気が漂っていた。この日の夜に開かれた戦略会議ではヒトラーの他にマンシュタイン、クルーゲ、ツァイツラーらが出席した。

 ヒトラーは「城塞」作戦の中止については明言しなかったが、3日前に行われた米英連合軍のシチリア侵攻を受けて、このように述べた。

「シチリアの失陥は確実だろう。敵は、明日にもイタリア本土かバルカン西部への上陸という次の段階に移ることが出来る。これに対処する新たな軍が必要であるため、クルスクから戦力をさかねばならない」

 クルーゲは中央軍集団が直面している戦況をヒトラーに報告した。第9軍は高地をめぐる戦いで大きな損害を被り、第2装甲軍の戦区ではオリョールの奪回を目指すソ連軍の攻勢が始められていた。したがって、北部戦域における攻勢の継続は不可能だとした。

 マンシュタインは北部戦域で中央軍集団の攻勢が停止しているにも関わらず、「城塞」作戦の継続を主張した。突出部の南部戦域における第4装甲軍の成功に気をよくし、ヴォロネジ正面軍の損害は甚大であると考え、次のような作戦を示した。

 プロフロフカで合流させた第4装甲軍を北と西に進撃させ、再び突破口を切り開き、突出部の頂点にいるソ連軍に打撃を与える。もはや南部のソ連軍には反撃に差し向ける予備兵力を持っていないとする判断も示した。マンシュタインの提案を「ローラント」作戦としてヒトラーは了承したが、戦略予備の第24装甲軍団を投入することは許可せず、航空部隊と地上部隊をクルスクから段階的に抽出することを確認した。

 7月14日、ハリコフの南方軍集団司令部に戻ったマンシュタインは第3装甲軍団長ブライト大将に対し、プロホロフカで第2SS装甲軍団と合流する作戦を引き続き遂行するよう命じた。

 この日の午後、第3装甲軍団の2個装甲師団(第7・第19)は大きな損害を被っていたが、ルジャヴェツから北西に向かって進撃を続けた。第2SS装甲軍団の西翼に対峙していたヴォロネジ正面軍の第2親衛戦車軍団は突如、背後から進出したケンプ支隊の装甲部隊によってパニックに陥り、東西からの挟撃を受けて壊滅してしまった。

 7月15日、第3装甲軍団の第7装甲師団(フンク中将)はプロホロフカ南方のベレニヒノで、ついに第2SS装甲師団「帝国」と合流を果たした。これにより、第4装甲軍の各装甲軍団は並列する戦線を形成することになった。だが、第4装甲軍はここで進撃の停止を余儀なくされた。

 7月16日、ヒトラーは南方軍集団に対し、「総統指令第100号」を発令した。その内容は第2SS装甲軍団を前線から抽出して、シチリアへの転進を命じるものだった。作戦の主力となる装甲部隊を引き抜かれては、マンシュタインにしても「城塞」作戦を継続する術はなく、麾下の装甲部隊に攻撃発起線への後退を命じるしかなかった。

 ここに、「城塞」作戦は完全に潰えたのである。

 この日の夜、ヴォロネジ正面軍は各地の前線部隊から、敵が攻勢を中止して撤退を開始した模様だという報告を受けた。これは自軍を誘い出すための敵の罠ではないかと疑ったヴァトゥーティンは追撃を禁じ、引き続き防御態勢を崩さないよう命じた。

 7月19日、南方軍集団は戦闘日誌に次のように記している。

「敵の強力な攻勢から見て『城塞』作戦をこれ以上、継続するのはもはや不可能である。戦線を縮小して、予備兵力をつくるために、我が軍の攻撃は中止せざるを得なくなった」

 この「敵の強力な攻勢」とは、第4装甲軍に向けられたものではなかった。ヴォロネジ正面軍はこの時、大きな損害を被った第1戦車軍と第5親衛戦車の戦力を回復させるため、いったん後方に退避させていたのである。

 南方軍集団の南翼に対峙するソ連軍が7月17日に開始した、ドネツ河とミウス河への牽制攻撃を示していたのである。

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