[3] 前哨戦

 南方軍集団の担当戦線はクルスク突出部の南方からアゾフ海沿岸まで、950キロの長さに及ぶ。麾下の4個軍のうち、第4装甲軍とケンプ支隊は「城塞」作戦のために北翼に集結しており、残る第1装甲軍(マッケンゼン大将)と第6軍(ホリト大将)だけで、戦線の3分の2に当たる660キロの前線を防衛しなければならなかった。

 7月17日、南西部正面軍(マリノフスキー上級大将)と南部正面軍(トルブーヒン上級大将)はドネツ河とミウス河への攻撃を開始した。この牽制はドイツ軍の戦略予備を来るべき作戦の主な攻撃目標から逸らす目的があった。

 南西部正面軍は第1親衛軍(クズネツォーフ大将)がイジュム南方よりドネツ河を渡河して、第1装甲軍の陣地に橋頭堡を築いた。第1装甲軍には南方軍集団の戦略予備から、第24装甲軍団の第17装甲師団と第5SS装甲師団「ヴィーキング」が送り込まれ、反撃を開始した。思わぬドイツ軍の強力な抵抗に遭い、第1親衛軍は橋頭堡に封じ込められてしまう。

 南部正面軍がミウス河の防衛線に立てこもる第6軍への攻撃を開始した。第5打撃軍(ツヴェターエフ中将)はドミトリフカで、ミウス河に橋頭堡を築くことに成功する。

 7月18日、第6軍は唯一の装甲部隊である第16装甲擲弾兵師団を投入して反撃に転じたが、ほぼ半数の戦車を撃破されて後退を余儀なくされた。南方軍集団の戦略予備から第23装甲師団を受け取って再び反撃に出たが、この反撃も撃退されてしまう。

 マンシュタインはヒトラーに南方軍集団麾下の2個軍をドニエプル河沿いの狭い戦線へ撤退させるよう進言したが、ヒトラーは逆にソ連軍の橋頭堡を奪取せよと命じた。

 橋頭堡の奪取には、装甲部隊を集中させる必要があったが、第4装甲軍から引き抜けそうになかった。この時、イタリアへの出発準備のためにクルスクを離れた第2SS装甲軍団が、まだ南方軍集団の後方地域にいた。オリョールに対するソ連軍の攻勢が開始された上に、クルスク南部でハリコフを目指す攻撃開始の兆候が見られたためであった。

 そこでマンシュタインはこの待機時間を利用して、第2SS装甲軍団と第4装甲軍の第3装甲師団によって、ドネツ地方の戦局を安定させようと考えた。第2SS装甲軍団による「火消し」は2段階の作戦により成り立っていた。まず、第1装甲軍の戦区でごく短期間の反撃を行い、南西部正面軍を押し返す。その後、第6軍に投入して南部正面軍のミウス河橋頭堡を粉砕するという構想だった。

 7月24日、ヒトラーはマンシュタインの構想に介入し、第2SS装甲軍団を第1装甲軍の反撃に転用することを禁じた。この2日後には、第1SS装甲師団「LAH」を前線から外すことが命じられた。これが総統直々の命令だったにもかかわらず、第1装甲軍は戦闘日誌の中で怒りを爆発させた。

「敵が弱まった瞬間に攻撃を仕掛ける大きなチャンスがSS装甲軍団の停止と転進によって、ふいになってしまった」

 第1装甲軍は粘り強い抵抗を続け、大きな損害を受けた南西部正面軍は同月27日にドネツ河に対する攻勢の中止命令を出した。第6軍は手元にある装甲部隊があまりにも弱体化していため、第1装甲軍の反撃で使われなくなった第2SS装甲軍団と第3装甲師団が到着するのを待っていなければならなかった。

 7月30日、北方から転用された第2SS装甲軍団と第24装甲軍団が、ミウス河のドミトリフカ橋頭堡を南北から挟撃して反撃を開始した。第3SS装甲師団「髑髏」は高地への正面攻撃を仕掛けたため、大きな損害を出した。橋頭堡の掃討は8月2日までに終了し、戦車732両と1万8000人の捕虜を得た。

 南西部正面軍と南部正面軍のドネツ河とミウス河に対する牽制攻撃は失敗に終わってしまった。ドイツ軍が戦術的な勝利を収めたが、ハリコフ周辺からドイツ軍の兵力を引き離すという点では、ソ連軍の目的は達成していたのである。

 南部正面軍司令部で作戦指導を行っていた参謀総長ヴァシレフスキー元帥は「これで勝利の目途が半分たった」という言葉を口にした。

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