[2] 鋼鉄の楔

 中央軍集団がクルスク突出部の北翼で激闘を繰り広げていた頃、そこから170キロ離れた突出部の南翼でも、南方軍集団による「城塞」作戦が開始されていた。

 7月5日午前3時30分、第4装甲軍の第48装甲軍団(クノーベルスドルフ大将)と第2SS装甲軍団(ハウサー大将)は約700両の戦車をもって、第6親衛軍の陣地に向かって突進した。第4装甲軍の東翼を担当するケンプ支隊は、第3装甲軍団(ブライト大将)とラウス集団(ラウス大将)が第7親衛軍の陣地を突破した。

 当初の計画では、第4装甲軍は迅速にソ連軍の陣地帯を突破し、翌6日夜までに北のオボヤン周辺でプショール河を渡河するはずだった。第48装甲軍団で約50キロ、第2SS装甲軍団で約35キロの進撃が命じられていた。

 第48装甲軍団は「パンター」を配備された「大ドイツ」装甲擲弾兵師団(ヘールンライン中将)の攻撃が失敗に終わり、5~10キロの進撃にとどまった。一方、第2SS装甲軍団は地雷原の中を20キロも前進していた。第6親衛軍は第22親衛狙撃軍団(イビャンスキー少将)の各部隊は撤退し、ドイツ軍の先鋒は第2防衛線へと到達していた。

 7月6日、第2SS装甲軍団は第1SS装甲師団「LAH」(ヴィッシ少将)を先鋒に、オボヤン街道の中間地点であるヤコヴレヴォの手前まで迫った。第2SS装甲軍団の迅速な突破作戦に対し、ヴォロネジ正面軍司令官ヴァトゥーティン上級大将は戦略予備から第2親衛戦車軍団(ブルデイヌイ少将)と第5親衛戦車軍団(クラブチェンコ少将)を第1戦車軍に編入させ、ドイツ軍の東翼から反撃を開始するよう命じた。

 最初の戦車戦がヤコヴレヴォ付近で起こった。第5親衛戦車軍団は第1SS装甲師団「LAH」の東翼を守る第2SS装甲師団「帝国」(プリース少将)に対して反撃したが、ドイツ軍の装甲部隊は反撃を跳ね返し、午前11時までに第2防衛線を突破した。第6親衛軍の第2防衛線は中央部で大きく引き裂かれ、第1防衛線から生き残った部隊は北東に撤退せざるを得なくなった。

 ビエルゴロドの北では、第3SS装甲師団「髑髏」(クリューガー中将)が第2親衛戦車軍団の反撃を受けていた。ソ連軍の反撃はドイツ空軍の急降下爆撃機と地上攻撃機によって、多数の戦車を撃破されて失敗に終わってしまった。第3SS装甲師団「髑髏」はケンプ支隊との連絡を確保するため東南へ攻撃を続けたが、第96戦車旅団(レベデフ少将)の増援を受けた第375狙撃師団(ゴヴォルネンコ大佐)による粘り強い抵抗に遭い、戦況は一進一退の様相を呈していた。

 この日の夕方になって、第4装甲軍がオボヤンに向けて直進するという当初の計画に綻びが出始めていた。ケンプ支隊が第25親衛狙撃軍団(サフューリン少将)の頑強な抵抗に遭って、その進撃に遅れが生じてきていたのである。

 第3装甲軍団の3個装甲師団(第6・第7・第19)は北ドネツ河を渡り進路を北へ転じようとしたが、ビエルゴロド北方のスタルィ・ゴロドに立てこもった第81親衛狙撃師団(モロゾフ大佐)はドイツ軍の攻撃を撃退し続けていた。

 しかし、戦況はソ連軍にとっても厳しい状態にあった。この日の夜までに、ヴォロネジ正面軍は第69軍を除く全ての戦略予備を前線に投入していたのである。ヴァトゥーティンはモスクワの「最高司令部」に対し、大規模な反撃を行う許可と援軍を要請した。

スターリンはヴァトゥーティンに自ら電話をかけ、このように伝えた。

「貴官の任務は、我が軍が西部・ブリャンスク、他の正面軍が反攻作戦を開始するまでの間、敵の攻撃を防衛拠点で食い止めて、奥地への浸透を阻止することにある」

 防御作戦を遂行するには充分な兵力も物資も、ヴァトゥーティンの手元には残されていなかった。オリョールとハリコフで実施予定の反攻作戦において、ヴォロネジ正面軍による防御作戦の成功が不可欠だと認識していたスターリンは、ヴォロネジ正面軍の崩壊した戦区に戦略予備の兵力を割り当てることを許可した。

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