第33章:会戦

[1] 「城塞(ツィタデレ)」作戦

 ウクライナ南部での絶え間ない消耗によって、ドイツ軍はもはや広い正面での攻勢を実施することが難しくなりつつあった。そのため、1943年度の夏季戦では限定された目標を設定せざるを得なくなった。

 陸軍の指揮官たちは冬季戦の結果として生じたクルスクの突出部がまさしく「限定された目標」にふさわしいと判断していた。突出部の南北から攻撃を仕掛けて、ソ連軍の防衛線に穴を開ける。そして、突出部の中心に位置するクルスクで合流して多くの敵部隊を包囲し、過度に拡張した戦線を短縮するという構想である。この構想は南方軍集団司令官マンシュタイン元帥、第9軍司令官モーデル上級大将、陸軍参謀総長ツァイツラー大将の3人によって、東部戦線における夏季戦の焦点とされた。

 3月10日、マンシュタインは南方軍集団司令部における作戦会議において、ヒトラーに対してクルスク突出部を南北から挟撃して戦線を短縮させる攻勢案を示した。

 戦線縮小とそれに伴う予備兵力の抽出という利点も示されたが、ヒトラーはマンシュタインの構想に何の反応も示さなかった。この時点のヒトラーは第三次ハリコフ攻防戦の勝利で、辛うじて保持に成功したミウス河とドニエプル河に挟まれたドネツ地方の防衛を重視していた。ドネツ地方は石炭をはじめ豊富な鉱物資源を産出する資源地帯であり、この地方の確保はドイツの戦争経済に大きな影響を及ぼすと考えられた。この日の会議では、ヒトラーは今後の戦略方針について明確な答えを出さなかった。

 時を同じくして、中央軍集団司令部でもクルスクの突出部に対する攻勢案が検討されていた。中央軍集団司令部の攻勢案はモーデルが作成した草案をベースに作成され、4月9日に陸軍総司令部に提出された。

 陸軍総司令部は3月中旬から4月上旬にかけて、中央軍集団と南方軍集団司令部と協議した内容を踏まえながら、参謀総長ツァイツラー大将がクルスクを南北から挟撃する攻勢作戦の立案を進めた。

 4月15日、ヒトラーはツァイツラーから提出されたクルスク攻勢案を一読すると、この攻勢が軍事・政治の両面で重要な意味を持つことに気づき、「開戦指令第6号」として正式に承認を与えた。クルスク攻勢の作戦名は「城塞ツィタデレ」とされ、その概要は次のようなものであった。

「私は本年度における最初の攻勢として、天候の許す限り早急に『城塞』作戦を発動することを決定した。この攻勢は、きわめて重要な作戦である。各階級の指揮官と、全ての将兵に、この攻勢が持つ決定的な意義を認識させなくてはならない。クルスクにおける我が軍の勝利は、全世界に対する狼煙となるだろう。

 この目的を達成するため、私は以下のごとく命令する。

 1.本攻勢の目標は、我が軍の攻撃部隊をビエルゴロドおよびオリョール南部から出撃させ、両翼からの迅速かつ徹底した集中攻撃によって、クルスク突出部に展開する敵の大部隊を包囲し、全周からの挟撃作戦でこれを撃滅することである。

 2.奇襲的要素を重視し、総攻撃実行の時期を敵に悟られてはならない。局地的な戦力的優位を作り出すため、攻撃部隊の戦車や突撃砲、火砲、ロケット発射器などは狭い正面に集中しなくてはならない。

 3.南方軍集団は強化した攻撃兵力を集中して、ビエルゴロド=トマロフカの前線から発進し、プリレプイとオボヤンを結ぶ線を突破後、クルスク東方で中央軍集団の先頭部隊と合流する。

 4.中央軍集団は主力部隊をトロスナ=マロアルハンゲリスクを結ぶ線の北で攻勢を開始させ、ファテージとヴェレヴテノヴォを結ぶ線の突破を目指す。攻撃軸の重点はやや西側に置き、南方軍集団の先頭部隊とクルスクないしその東方で合流すること

5.北方と南方の両軍集団の兵力集結は、最大限の欺瞞を施した上で攻撃発起点から離れた場所で行われなくてはならない。総攻撃の開始日は、最も早い場合で5月3日とする」

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