Ⅵ ほむらの詩(うた)

0 暁光

※この章は『ぼくらの冒険譚』完結後のお話になります。ネタバレ注意。







 ひらけた視界の先には、緑のじゅうたんがどこまでも続いていた。

 少年はまばたきする。ここはどこだろう。何が起きたのだろう。『みんな』はどこへ行ったのか? 少年は、思いつく名を呼びながら、そっと歩きだした。丈の短い草が足をくすぐる。ああ、これが草原というやつなのか。不思議に感動をおぼえた。

 どれくらい歩いた頃だろう。少年は、たたずむ人の背中を見つけて、立ち止まる。銀色の長い髪、膝まである白い衣、その下からすらりと伸びる足も、やはり白い。緑ばかりの大地の中で、その姿は、妙に浮き立って見えた。

「あの」

 少年は口を開いた。道を尋ねるつもりだった。しかし、その人が――少女が振りかえった瞬間、浮かんだ言葉はまったく違うものだった。

「どうしたんだ?」

 少女は、目を見開いた。それから、寂しげにほほ笑んだ。

「道に、迷ってしまったの」

「――あんたも、迷子なの?」

 少年は落胆を隠しきれずに肩を落とす。少女は変わらず、血の気の薄い唇に、微笑を刷いたままでいた。

「そうね、迷子。そして、道に迷ったまま、永遠に帰ることができなくなった」

「……どういう」

「故国も家族も、友達も。誰もいない。みんな、遠くへ行ってしまった」

 訥々と語る少女を見つめ、少年は沈黙した。どこからか、冷たく乾いた風が吹き、完璧なはずの微笑を揺るがし、崩していく。少女の薄い唇が完全に歪む前に、少年が、少し笑った。

「なら、俺と一緒だな」

 少女は、目をみはった。はじめて笑顔以外を見せた。そのことに、少年はなぜだか安堵した。

「俺も、故郷はないし家族は死んだ。友達なんて、もともとほとんどいねえし。まあ、数少ない友達の一人が、一緒にいてはくれるけど」

 青い瞳は上を向く。少年ははじめて気がついた。緑の大地を覆う空は、どこまでも、白かった。

「それでもさ。案外、見つかるもんだよ。帰る場所とか、新しい仲間とかっていうのは。あんたに『おいで』って言ってくれる奴もいるんじゃないかな。――なんなら、一緒に探してやってもいいぜ。帰り道がわかるまでの、暇つぶし」

 ひと息に言いきって、少年は、右手を少女へ差しだした。少女は白くてかたい手をとらなかった。その代わり、うつむいて、かすかな笑声をもらす。

「そう。あなたは、強いのね。――私もそのくらい強くあれたなら、変われていたかもしれないわね」

 少年は、言葉の不自然さに首をかしげた。けれど彼が何かを言う前に、少女の手が少年のてのひらに重なった。

 凍てついていた瞳には、いつの間にかあたたかな光が灯っている。その立ち姿からは気品さえ感じられた。少年は唐突に、気づいた。これが少女の、本来の姿なのだと。

 とたん、少年の目の前が白くなりはじめた。

「ありがとう。つきあってくれて。……さ、戻りなさい。あなたの『仲間』が待っているわよ」

 白い世界に響いた声は、あどけなさを失くした代わりに、色香と重みと、少しの涙をまとっていた。



     ※



 硬質な音が拍子を刻み、透明な空気に染みわたる。カーテンを開け、白い光を一身に浴びていたマリオンは、音に誘われ首を巡らす。机の上に、金色の光が落ちていた。しばし見て、それが懐中時計だと、ようやく気づいた。まばたきした後、持ち主のいるところへ――寝台へ目を落とす。

「あんたにしては高そうなもの、持ってるわね。誰かにもらったの?」

 いらえはない。当然だ。あおむけに寝ている青年は、静かに目を閉じていた。――瞼の裏の深海色を、長いこと見ていない。

「ほーら、見てよロト。今日はいい天気! 散歩したくなるわ」

 それでも彼女は呼びかけ続ける。ほほ笑み続ける。それがよいのだと教えてくれたのは、今は隣の部屋にいる、薬屋の男だった。


 それは、一人の女の宣告から始まった。

 この町に、生命を奪う魔術の方陣を仕掛けた。これが完成すれば何もかもが死に絶える。死にたくなければ止めてみせろ、と、彼女は高らかにうたった。膨大な魔力を浴びたことで人のことわりを外れた彼女を止めるために動いたのが、ヴェローネルの便利屋ことロトだった。その裏には、正義感とはかけ離れた思惑やら何やらがいろいろとあったわけだが、それでも彼とマリオンと大勢の人々が、彼女たちを止めるために戦った。

 戦いには勝った。けれど、勝者も無傷ではいられなかった。最たる犠牲者がロトだろう。女の仕掛けた魔術を解くため、腕輪で封じていた魔力を全部出し切った彼は、役目を終えると同時に気を失って、それ以降意識不明のままなのだ。――もう、生きていないのではないか、と錯覚するほどに、命の気配が薄いまま、決戦の日から半月が過ぎている。


「そろそろアニーたちの試験の結果が出る頃ね。どうだったかな?」

 マリオンは再び、寝台を振り返る。

「合格してるといいわね。あんた、なんだかんだ言いながら心配してるもんね」

 ぴくりとも動かない幼馴染を見つめる。きれいな顔をしていると、改めて思った。彫像のよう、とはこういうことを言うのだろう。ふだんは、目つきの鋭さと口の悪さのせいで、造作の美しさがかすんでしまっているのだが。

 マリオンは、目を閉じる。かぶりを振る。どんなにきれいでも、その目がこちらを見てくれないのなら意味がない。言葉が返らないのでは美貌もないのと同じこと。

 あの仏頂面が懐かしい。不機嫌そうに細められる青い目が、鋭い言葉を奏でる声が、ただ、欲しかった。

 垂れてきた前髪をかきあげたとき、目もとが熱くなっているのに気づいた。生ぬるいものがにじんでくると、マリオンは慌てて指でそれをぬぐいとる。透明な雫は空気に触れて、あっという間に冷えていく。今の自分みたいだ。

「ねえ――ロト。もう、朝だよ。あんた、今までこんな寝坊したこと、ないじゃん」

 声はかすれていた。震えていた。白い指が、白い布にのびて、触れる寸前で止まった。

 だめだ。弱っているところを見せてはいけない。こいつのことだ、また自分そっちのけで他人のことを心配するに決まっている。だからマリオンは、強くあらねばならなかった。

「……ちょっと遅いけど、朝ごはん、食べないと。待ってて」

 動かない人に声をかけ、マリオンは踵を返そうとする。

――直前、右手の先に温かいものが触れた。

 一瞬、気のせいかとも思った。けれど、すぐに、ぬくもりは強く感じられるようになった。マリオンは、振りかえる。

 細い腕が持ち上がって、その手はマリオンの手をつかんでいた。引きとめるように、つかんでいた。

「……え」

 マリオンは我が目を疑った。そっと視線を動かすと、この半月何をしても開かなかった目が、うっすらと、開いていた。久々に見る深い青はほんの少し濁っていて、それでも確かに彼のものだった。

 色の悪い唇が動く。ささやきとも呼べないかすれた音は――確かに、彼女の名を呼んだ。

 マリオンは固まった。頭がまっしろになって、それから今までふたをしていたものが、一気にあふれて全身を駆け巡る。その熱に身を震わせながら、今度こそ、駆け戻って手をのばす。

「……ロト?」

 青年は答えない。だが、ゆっくりと、まばたきをした。それから、あわく笑った。

「悪い。説教、きかないと、いけなかった」

 その言葉が終わる前に、マリオンは、ロトにすがりついていた。

 みるみるうちに涙があふれ、おさえられない嗚咽おえつがこぼれる。ロトは、いきなり泣き出した彼女を驚いた顔で見ていたが、本人がそれに気づくわけもなかった。

「馬鹿野郎! おっそい! 何日経ったと思ってるんだ!」

 マリオンは、そのようなことを叫びながら、とにかく泣いた。

 その声に混じってけたたましい音が響く。悲鳴じみた声を聞きつけたセオドアが、やぶるように扉を開けたのだった。

「マリオンどうした! 何か……」

 作業用の白衣のままのセオドアは、最後まで言いきることができずに、立ちすくむ。マリオンは顔を上げなかった。説明しなければ、と思うが、とにかくここを離れたくなかった。一方のロトは、朦朧もうろうとした頭の中がさらに混とんとしていて、声も出せなくなっている。若者二人の様子を見たセオドアが、ようやく状況をのみこんで、駆けこんできた。

「ロト! やっと気がついたか!」

 青年は、いつもはぶすっとしている男の、ゆるんだ目もとをしげしげと見やる。それから、おいおい泣いている幼馴染を見おろした。とりあえずその頭をなでてみてから、再び、セオドアを見上げた。

「あの……今日、何月何日だ?」

 ロトが目ざめて最初に放ったまともな言葉は、間の抜けた、けれど当然の質問だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る