3 黄昏へ
思い返せば、ロトもマリオンも、ふだんはほとんど酒を口にしないし、強くない。彼自身も少しだけ、頭の端が痛むのを感じはじめていたところだったのだ。しかし、それにしても、この娘は酒のまわりが早すぎないかと、ロトは突っ伏した幼馴染を見下ろして思った。
一応、まだ意識はあるらしい。「くらくらする」だのなんだのと、小声で呟いている。かたわらではヴィルマが、呆れたような、それでいて申し訳なさそうな目をしながら黒い背中をさすってくれていた。
「……おまえ」
最初に出た言葉がそれである。ロトは、ため息を卓上に落とすと、マリオンに顔を近づけた。
「何してんだ。だいたいな、やばそうだと思ったら飲むのやめろよ」
説教じみた言葉にも、マリオンは犬のようなうなり声を返すばかりである。ロトが目をすがめたところで、「それは、ごめん」と、ヴィルマが手をあげた。
「飲ませたのはあたしらだわ。ごめん」
「だとしても、こいつにも断ることはできたはずだ。どうせ遠慮して手ぇつけてたんだろうが……」
まったく、と呟きながら、ロトはその場にしゃがみこむ。マリオンはどうも、動くに動けなさそうな状態だ。放っておけばこの場でごろ寝しかねない。いくら仲間とはいえ、たがの外れた男が大勢いる場所でそれは、危険すぎる。
「これ、外連れてっていいか?」
「うん。頼む」
「ごゆっくりー」
「団長はちょっと黙っててくれ」
外野の謎の声援を視線で黙らせたロトは、マリオンを叩き起こしつつ、腕を自分の肩に回す。「歩けるか」と問えば、彼女は小さく首肯した。いまだ酔いのまわっていない、気が利く数人が、そっと道をつくってくれる。外に出ようとしたところで、なじみ深い声がかかった。
「外まで行ってやるよ。おまえら二人だと、酒場の客にからまれかねん」
「テッド」
ロトは彼の名を呼んだあと、首をひねる。自分の容姿に自覚のない青年に、薬屋のセオドアは深いため息をこぼした。けれどもその後はよけいなことも言わず、ただ隣を歩いてくれた。ときおり、眠りこけそうなマリオンを支えつつ。
外に出れば、とたん、町の活気が三人を出迎えた。目ざめたばかりのときとは違う、船の行き交う港町。市場の方からは威勢のいい声が飛び、遠くで汽笛が鳴り響く。ひとまず酒場の軒先の、石を切り出して作ったらしい箱型の椅子に腰を下ろすと、ロトはセオドアに礼を言う。彼はひらりと手を振って、若者に背を向けた。
「誰か若い奴にときどき様子を見に来させる。よっぽどひどそうだったら呼べや。酔いざましやるから」
「ああ」
扉が閉まる。セオドアは、返事を聞いたのか否か。まあどちらでもよいだろうと、ロトはひとまず、隣の女の背をさする。まだ横になるほどではないらしいが、マリオンは青年の体にもたれかかっていた。まどろんでいた瑠璃色の瞳が、ようやく雑多な町の風景をとらえて開かれる。
「ごめんなさい……」
彼女は、赤い顔でささやいた。瞳がうるんで、今にも泣きだしそうになっている。ロトを弟と思っているらしい彼女は、彼の前で決してそのような表情を見せないのに。酔いのせいで感情の抑制がきかなくなっているのかもしれない。ロトは、とりあえずため息をこらえて、細い肩を叩いた。けれども珍しく、彼女はそこで黙らなかった。か細い声で、謝罪を繰り返す。
青年は、違和感に眉をひそめた。マリオンの謝罪は、今ではないどこかに向けられているような気がした。焦燥と、いらだちが胸を焼く。それでもなお、彼が口を閉ざしてそばにいると、マリオンはようやく現在のものに向けた言葉を放った。
「ねえ、ロト」
「ん」
「あたしね……あんたに言わなきゃと思ってて、でも、ずっと言えなかったことが……ふたつあるの」
深海色を、見開いた。彼女の声は、幼い頃のようにおぼつかない。確実に酔っている。今の状況で、そんな大事なことを聞いてもよいものか――そんな思いが頭をかすめたが、結局ロトは、相手のしたいようにさせることにした。
風に乗り、
「あのね。ひとつめはね。謝らなきゃいけないの」
ひどく、震えていた。
「……謝る?」
「うん」
少なくとも、ロトの発言を認める姿に迷いはない。ロトは、首をひねった。何か謝られなければならないようなことをされただろうかと、考えた。いくら記憶をたぐっても、答えには行きつかなかった。行きつく前に、マリオンが口を開いた。
「あの日。あたしがいなかったら、ロトはあんなひどいことになってなかったもん。人間不信だって、悪夢だけのせいじゃないわ」
胸の奥が、冷える。青年の白い手には、知らず力がこもっていた。
「なんの話だ」
漏れ出た音が、自分の声とは思えない。ロトは心の奥でほぞを噛んでいた。威嚇するような態度をとったら、相手が口をつぐんでしまうこともある。しかしマリオンは、もはやかすかな空気の変化に気がまわらないのか、
「家がぜんぶ燃えた後に、怖い人たちに捕まって、そこに知ってる子がひきずられてきて……守らなきゃって思ったのに、逆に怖い人たち怒らせちゃったの。でもそこでさ、ロトさ、おっきい男から逃げだしてきてさ、あたしの上に乗っかってきたのよね。でも、でも……」
無我夢中で何かを叫んだ。あたたかい少女の体を押しのけた。
やってきたのは炎だった。炎のような痛みだった。
腹がやかれた。
女がわらっている。
血だらけの刃をもって、わらっている。
誰の悲鳴も聞こえない――そのはずだったのに。
『ロトっ! いやだ、やめて! おきて……どこにもいかないで!』
やさしい泣き声だけは、はっきりと、届いたんだ。
ロトは、はっと目を開いた。いつの間にか顔の前にかざしていた、自分の左手をゆっくり閉じる。つかみかけた記憶の残像は、煙よりもたやすく消えてしまった。腹の奇妙なうずきだけが、彼女の言葉を裏付けているように感じた。だが、それでいいと思った。
「ごめんなさい……ひどい目に遭わせてごめんなさい……」
空白の記憶は、空白のままの方が、きちんと彼女に向きあえるような気がした。
ロトは今度こそため息をついて、マリオンの背中をさする。今度は、先ほどよりも、ゆっくりと。
「おまえなあ。もしかして今まで、ずっとそれを溜めこんでたのか」
女魔術師は、無言でうなずいた。
ロトはつい、かぶりを振った。大学生たちと、話をしたあの日。記憶の有無を問うてきた彼女の、さびしげな微笑を思い出す。
「別におまえに刺されたわけじゃない。生きてるし。そこまで思い詰めることないだろ」
「でも……」
とうとうしゃくりあげはじめた幼馴染は、今よりずっと幼い少女に見える。ロトはひとまず、あやすようになでてやった。
「当事者の俺がいいって言ってんだからいいだろ。ほれ泣くな。おまえが泣くの、久しぶりに見たぞ。先生たちのところから出るとき以来か?」
ネサンとユーリアは、元気だろうか。ふと、二人の顔を思い浮かべて笑う。
そうやって、あえて話題をそらしてやると、マリオンの泣き声もひとまず落ち着いた。そこで、見計らったかのように酒場の扉が開く。
「おうロト」
ぞんざいな呼びかけとともにやってきたのは、ロトより三つ年上の元船団員だった。短く揃えた黒髪の下で、黒い双眸が楽しげにきらめく。明らかに何かを言いたそうな彼を無視していると、かすかに笑い声が聞こえた。
「実は、今から近況報告しあおうぜ、ってことになったんだ。参加しねえか?」
「……こいつ、隅で休ませてていいんなら」
「大丈夫、大丈夫。そこはテッドが引きうけてくれるって。連中も、さっきほど騒がないと思うし」
「そうか」とうなずいたロトは、すがりついて離れない幼馴染をそのままに立ち上がる。黒い瞳の青年に導かれるままに、酒場の喧騒の中に戻った。宴会場の扉が開いたとき、ロトは、マリオンから「ずっと言えなかったこと」の二つ目を聞いていなかったことを思い出したが、あきらめた。改めて訊きなおす余裕がなかったのだ。
※
いろいろな人がいるものだ、と、ロトは感心した。
こちらの大陸に渡ってきて。新しい仕事にまい進しているという者がいれば、現地人の恋人ができたという者がいる。中には、船団時代に仲良くなった異性と結婚した、などという話もあった。ヴィルマなどは、最近、あえて自分たちの話を地元の人間に語って聞かせているのだ、と話していた。
みんなそれぞれ、刺激的な人生を送っているらしい。ロトは他人事のように考えていたが、彼が学術都市ヴェローネルで便利屋を営み、日々子どもたちに振りまわされていることも、当時を知る人々にとっては意外なことだったようだ。誰もかれもが、ロトの話になると悪童のような顔になって、話に耳をかたむけていた。
『近況報告』は夕方まで続いた。その頃にはマリオンも復活して、話に加わってきた。
そして、日が建物の陰に隠れた頃。
「……そろそろだな」
団長が呟いた。すると、誰からともなく立ち上がった。ある人は窓の板戸を閉め、ある人は
「あいつら、見てるかねえ」
誰かが呟く。
「きっと今頃、
誰かがこたえた。
外の光がさえぎられた部屋の中。細い火が揺らめいて、魔術の光が蛍火のように瞬く。そのなかで、アルヴィドが二十人を見渡して――ほほ笑んだ。
「そうだな。こちらへ向かっている頃かもしれん。……だから、祈ろう。声を上げよう。俺たちはここにいる、と教えてやろう」
人々は、厳かにうなずいて。隣人にうながされる前に、祈りの言葉を、つむいでいた。
――アルヴィドたちが、冬至の日に宴を開こうと思い立ったのは、このためだろう、とロトは思った。
ヴァイシェル大陸全域の風習だ。冬至の夜には、天空神の住まいに招かれている英霊の魂がこの世に舞いおりることを許されるといわれている。ゆえに、人々は改めて、夜に明かりを灯して祈るのだ。霊たちが、迷わず故郷に帰れるように。
海へ 大地へ 空へ還りし同胞たちよ
願わくは彼の地にて清められ 英霊たちのみもとへ招かれんことを
死者への祈りが、場を満たす。
ロトも静かに、唱えていた。マリオンも、昼間の取りみだした姿が嘘のように、落ちついたたたずまいだった。
彼らはつむぐ。祈りを捧ぐ。
何度繰り返したかわからない言葉は、もはや身の一部のようなものだ。
全員の声が同じ文言を唱えるなか、一人ひとりが、違う誰かに心をかたむけていた。ロトもまた目を閉じて、自分だけが見た「死者」に思いをはせていた。
――父さん、母さん。見ていますか。
相変わらず不自由なことは多いけれど、それでもなんとかやっています。
友達……と呼べる人たちにも出会いました。自分ができる仕事も見つけました。
あ、でも。十五はとっくに過ぎたけれど、嫁とりはまだです。どうか急かさずに見守ってやってください。
――イサ。
あの後、ちゃんと逃げられたよ。おまえのおかげだ。ありがとう。
おまえの名前を継いだ奴がいる。といっても、まあ、黒い毛だけが同じな野良猫なんだけどな。
ふてぶてしくて、何考えてるのかわからなくて、つくづくおまえには似ても似つかない猫だ。おまえの、笑ったような顔が恋しくなるときもある。
けどまあ、そいつはそいつで悪くない。もう少しの間、名前を分けてやってくれ。
「――ちゃんと話した?」
横から、ささやきが降りかかる。ロトは、目を開いて顔を上げた。金色の光に浮かび上がる幼馴染の顔があった。
マリオンは、優しくほほ笑んで彼を見ていた。
「ああ。今だけだからな。おまえの方はどうなんだ」
「あたしもだいたい……話せたと思うけどね」
ロトがうなずいて問いを返すと、マリオンはなぜか恥ずかしそうに顔をそむけた。ロトが首をひねっているうちに、前を向きなおして、話の方向を変えてしまう。瑠璃色の瞳は、もうすでに、故郷ではなく、まっ黒な海を見すえていた。
「だから今度は、みんなに祈りましょう」
ロトは、何も言わずにうなずいた。
ともに海へ飛び出して、そして海で散った同胞たち。彼らもまた、天空神に救い上げられているのだろう。そう思えば悲しみが安らぐから、昔からそう考えるようにしていた。
今、こうして明かりを灯し、祈っていると、それがただの子どもじみた暗示ではないのだろうと思えてくるから、不思議なものだ。
海へ 大地へ 空へ還りし同胞たちよ
願わくは彼の地にて清められ 英霊たちのみもとへ招かれんことを
凍てつく大陸から来た人々は、彼らしか知らない言葉を繰り返す。
その響きは、屋根を抜け、
(完)
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