2 暮夜の光
昼間の暑さが嘘のように、冷たい夜のことだった。
闇夜に覆われた自宅の一角。角灯を机に置いて作業に励んでいたセオドアは、かたい音に気がついて顔を上げた。耳をすまして聞いてみれば、扉を叩く音は、妙に切羽詰まっている。急患はごめんだ、と思いながら、セオドアは角灯を手に立ち上がる。
一応、何事にも対応できるよう、道具はあるべきところに広げてある。それらを確かめた後、彼は扉をそっと開いた。夜気が流れこんできて、こもった空気をそっと
「こんな真夜中に何しに来た? いくらおまえさんでも、あぶねえぞ」
客の少年は答えない。ただ、蒼白な顔を彼に向け――そこで、前のめりに崩れ落ちてきた。セオドアはとっさに華奢な体を受け止める。小刻みな震えを感じ取って息をのんだ。
「おい、ロト。まさか、例の夢か?」
少年は、無言でうなずいた。汗のにじんだ顔を上向け、ようやく声をしぼりだす。
「悪い……ちょっと、いさせてくれ……」
「遠慮はすんな。落ち着くまで居座ればいいさ」
セオドアは、いつもどおりを意識して答え、黒髪をかき混ぜた。
魔女の幻影が己を食ってくる悪夢。最近は見なくなったと聞いていたが、久々にやられたらしい。セオドアが彼をかついだとき、うめき声が聞こえる。
「……吐きそう……」
「こらえろ! 今、水持ってくるから!」
呪いの闇から逃れ、強いとは言えない光を求めて、夜の闇をさまよったというのか。セオドアは、奥の寝台に少年を横たえながら、久方ぶりに疲労のにじんだ吐息をこぼした。
※
王都から、研究会のために軍医が来る。セオドアが噂話を聞いたのは、ちょうど森の民の双子が、便利屋の青年に呼び出された日のことだった。
「――ジルフィードか?」
数日遅れで話を知ったロトは、開口一番、馴染みの名前を出してきた。セオドアは、彼に茶を出しながらかぶりを振る。
「さあな、そこまでは知らん。王都の軍医っつーと、結構な数いるし」
「だよなあ」
ロトはカップを置き、頬杖をつく。珍しくだるそうな彼のしぐさと声色に、セオドアは眉根を寄せた。
「用事でもあったのか?」
「いや、用事はない。あったとしても、今度王都に行ったときに済ませればいいし。ただ、なんとなく……しばらく会ってないな、って思っただけだ」
ああ、と、セオドアは、吐息に似た声をこぼす。
ヴェローネルに移住してからというもの、王都の面々と顔を合わせる機会は激減した。定期的に王都を訪ねるロトなどは、それでもまだ交流がある方だが、魔術師にして軍医の彼とはなかなか会えないらしい。あれで腕のよい医者というから、きっと忙しいのだろう。
感傷的になった己を追いだすつもりで、セオドアはまたお茶を口にする。それから、唐突に訪ねてきた青年を見やった。
「ところでロト。今日はいきなりどうしたんだ?――疲れた顔してんのと、関係あるかね」
ごまかしは許さん、とばかりに強い口調で問うと、ロトは肩をこわばらせた。軽く咳払いをして、カップに口をつける。それから、ぼそりと返答があった。
「……ここ数日、夢見が悪い」
セオドアは、軽く目をみはった。目の前の青年が、こういう言い方をするときの『夢』とは、大抵ひとつの悪夢をさす。ここ三、四年聞かなかった話だ。医者であり
「いつからだ」
「双子を呼びだした次の夜から」
言うなり、ロトは指で額を押さえる。それまで影をひそめていた重い疲労が、目の下に沈んで見える気がした。
「最初のうちは寝なおせてたんだけど。ここ二、三日、特にひどくてな。発狂する前に相談した方がいいと思って……」
「ああ、そりゃ正解だ。気が狂う前に来てくれてよかったよ」
セオドアがぴしゃりと言いきると、ロトは肩をすくめる。彼がなまいきなことを言う前に、セオドアは言葉を継いだ。
「そういうことなら今日は泊まってけ」
「いや。何もそこまでは……」
「おまえさんの場合、催眠の薬も効かねえだろうが。しかも、一人でいる限り、いつまでも夢見が悪いまんまだろ」
青年は、言葉に詰まったようだった。それきり重く黙りこんで、ちびちびとお茶を飲みつづける。自覚の有無は半々、といったところだ。頭ではわかっていても、実感がともなわない。呪いの悪夢にどれだけ精神が影響を受けるかも、恐怖症がどれほど深刻なものかも。
実感がないゆえに、老若男女問わず人と関わる便利屋として、今までやってこられたのだ。しかし、だからこそ、すぐに無理をしてしまう。
その無理をやめさせるのが、同じ街に移住した自分の役目である。セオドアは、そう自負していた。
小窓から差し込む光が、灰色の無愛想な壁を赤く染め上げる。外をうかがってみれば、すでに夜の
薬瓶の整理をしていたセオドアは、奥から聞こえた悲鳴に眉を寄せた。
「落ち着けって。深呼吸だ、深呼吸。ほら、ゆっくり、吸って、吐いて……」
最初こそ震えがおさまらなかったが、しわがれた声に合わせて呼吸の音が安定するにつれ、青年の体も大人しくなった。落ち着きを取り戻した頃を見計らい、声をかけてみると、小さく応答の声がある。
「毎日毎日こんなこと繰り返してたら、そりゃ寝不足にもなるわな」
もう一度、茶を淹れて持っていく。何気なくセオドアが呟けば、ロトは「まあな」と苦笑した。けれど、その顔に
セオドアが、鬱屈とした物思いにふけっている時だった。珍しく、閉店間近の薬屋の扉が叩かれる。少しだけ嫌な顔をしつつも、セオドアは立ち上がった。
こんな時間になんの用だ、と、声に出さずに悪態をつく。彼が戸口に向かうと同時、扉が内側に開かれた。涼風が、薬臭い空気を押し流す。
「……ん?」
夕闇の中、ふわりと白いものが舞ったのを見て、セオドアは
ろくに連絡もとらなかった癖に、どんな顔をして会えばいいのやら。
セオドアの複雑な胸中をよそに、客人はかつてと変わらぬあどけない笑みを浮かべ、手を挙げた。
「やあ、セオドア、久しぶり。ヴェローネルに来たから寄ってみた」
「……おう。相変わらずだな、ジル」
「君もね」
軍医ジルフィードは、笑顔のままに肩をすくめた。
そのとき、部屋の奥で影が動く。振り返れば、珍しく見開かれた深海色の目とぶつかった。
「あれ、なんでロトがここにいるの?」
「あー、ちょっとな」
説明をさぼろうとした薬屋をさえぎって、ロトが歩きながら「不眠症がひどいんで駆けこませてもらった」と、いい加減な説明をする。しかし、さすがは付き合いの長いジルフィードだ。おおよそを察してか、端正な顔に苦渋の色が浮かぶ。
「……そうか。やっぱり、まだ治らない?」
「治ってはねえな。それでもここ数年でだいぶ改善してたんだが」
ふむ、と言ったジルフィードは、薬屋へ踏みこんだ。「お邪魔するよ」と振り返った彼は、もう、すっかり医者の顔である。『王都から来た軍医』が彼でよかったと、セオドアは思った。
ジルフィードの雰囲気が、かつての面会時のそれになったと勘づいたロトも、大人しく椅子に腰かける。軍医は、彼に向きあった。
「いつから? 具体的に」
セオドアとロトが、顔を見合わせる。森の民の双子が、便利屋へやってきたのは、およそ一週間前のことである。それを伝えると、ジルフィードはしばらく考えこんだ。それから、あくまで淡々と、質問を重ねた。最初は詳しい症状の質問だったが、今までとさして変わらないとわかるなり、方向性を変えてくる。
「ここ最近……そうだな、ひと月くらいで、変わったことはなかった?」
「変わったこと? ありすぎて逆によくわかんねえんだけど」
「うーん、非常に言いづらいけど、昔を思い出させるようなこと、とか。あるいは女性がらみの何か?」
ロトは、しばらく口もとに手をやり考えていた。しだいに、その顔が険しくなる。ジルフィードは、焦燥の影をのぞかせつつも、黙って答えを待っていた。
「ひと月以内にはそんなことなかったけどな……。もう少しさかのぼると、いくつかある」
あたりにゆっくりと夜の幕が下りてくる。
セオドアは、角灯に火を入れながら、その後の会話に耳を傾ける。
春先から、この青年の周辺がにわかに騒がしくなった。起きた出来事の数々は、後から彼の耳にも入ってきている。よい影響をもたらしてくれてもいたが、一方で、真正面から挑みつづけた魔術師の精神を
「とにかく、もう夜だし、もう一回横になってみなよ。セオドアと一緒に、そばについててやるからさ」
ジルフィードの声が聞こえると同時、火の色が、部屋の一角に広がった。
「うっふっふ。若いっていいねえ」
ようやく眠りに入ったロトの顔を見ながら、ジルフィードが呟いた。患者を前にして珍しくおどけているのは、彼の近況を聞いたせいだろう。激動の数か月の、どこをさして言っているのか気づいたセオドアは、相槌を打った。
「文句言いながらやってるけどな。なんだかんだ、こいつもガキの面倒見るのは楽しいみたいだぜ」
「自分がマリオンの後ろにくっついてたの、思い出すのかもね。僕は知らないけど」
「……人の世話を焼くのもいいけど、もう少し自分を大事にしてほしい、とも思うがね」
セオドアが、ふっと小さく笑った後にカップを手渡せば、ジルフィードは黙ってそれを受け取る。しばらくは熱い茶と戦っていたが、うめき声に気づくと、カップを脇の小机に置く。震えだした細い手に、そっと自分の手を重ねた。眉間にしわを寄せていたロトは、少しだけ表情を緩める。ジルフィードは、そのままの姿勢で、セオドアを見上げてきた。
「そういう君は、どうなのさ。自分のこと、大事にできているかい?」
「あん? なんだ、
「だって……前に、『こっちにも少しは不幸を寄越せ』みたいなこと、言ってただろう」
セオドアは、首をかしげた。本当に覚えていなかったのだ。ジルフィードが言うからには、まだ全員が王都にいた頃の話だろう。しばらく考えてみたが、どうも思い出せない。セオドアの渋面から、彼が忘れていることを悟ったのだろう。ジルフィードは、ころころ笑いながら「言った本人って、忘れてることの方が多いよねー」と軽口を叩く。
「君もね、若者たちのことが気になるってのはあるんだろうけど、もう少し我がままに生きてみてもいいんじゃないのかな。……って、思ってたんだよ」
「俺は十分、自分勝手に生きてるけどな」
薬屋の男は言いきって、己の杯をあおる。見つめていたジルフィードの瞳は、なぜだか、ふっと暗がりに沈んだ。
「――なら、いいんだ」
薬屋の男は、思わず、薄暗い横顔を見返してしまう。若いときから天才と謳われ、軍に重用されてきた魔術師。彼がどういう思いで外来者たちを見守っていたのか――今さらながらに、気になった。けれどセオドアは、浮かんだ思いを口にしなかった。
「そういや、もう少しで祝祭があるな。連中引き連れて、久々に王都に顔出そうかね」
「お祭り嫌いのテッドくんが? どういう風の吹きまわし?」
「げんこつ落とすぞ」
軽々しい応酬の後、二人は小さな寝台を見おろす。近くでこれだけ騒いでいるというのに、青年の穏やかな寝顔は揺らがない。
「……これなら、朝まで眠れそうだね。よかった」
「……ああ」
安堵の息は形を持たず、闇の中に溶けてゆく。
静かに眠って、元気になってくれればいい。二人の願いは同じだった。
夜の中、わずかな火の明かりだけが、人々を照らし出している。
(完)
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