5 夜空に溶ける
やり方はわかっていた。要は、マリオンが、自分に施してくれる術を彼女に施せばいいのだから。知っておいても邪魔にはならないだろう、と、幼馴染から徹底的にそのすべを叩きこまれていた時期もある。だから、やり方は体が覚えている。しかしながら、練習と実践ではわけが違う。おまけに相手の呪いは、彼らが向きあったことのない橙色の魔女のものだ。懸念材料はいくらでも思いつく。
「それでも――何もやらないよりは、ましだろ」
ひとりごちて、ロトは、壁にもたれて座ったナディアの腕をとった。石化した部分に指を沿わせて、目を閉じる。暗闇で術式を思い描く。
大丈夫だ。忘れていない。それを確認した彼は、術式にそって練り上げた魔力を、ゆっくりと下へ流した。体内に凝っていた魔力が、ぐらり、ぐらり、と煮立った湯のように騒ぎながら動く。腕へ流れこみ、指へすべりこんだ魔力は、そこをつたって石のうえへと注がれる。
短い悲鳴が聞こえる。
「少ししびれるかもしれない。悪いもんじゃないから、我慢しろ」
「う、うん。ねえ、それより、お兄さんの右腕になんか黒いのがあるんだけど」
「――ああ、出たか」
ロトはうなずいた。まったく驚かなかった。魔力の動きに反応したか、別種の呪いに反応したのかは知らないが、相変わらず『漆黒の魔女』の刻印は、敏感なようである。あれに侵されると体に力が入らなくなる、という事実を知りながら、ロトは平然と作業を続けた。そのくらいのことは、この際、気合で乗り切ってやれ、と考えていたのだった。
作業を続けているうち、耳がかすかな音をとらえた。
「ナディア。何か変化はあったか」
え、と言ったナディアは、間もなく叫んだ。
「あ! 灰色が薄くなってる。すごい。なんで?」
「ある人の仮説だけどな。俺の黒い痣もおまえの石化も、自分の魔力が変質して、表出したもの、らしいんだ。表出した魔力は、完全になじむ前なら、今やってる術で外に拡散することができる」
「なるほど。今まさに、拡散してる最中ってことか」
もともと学府に属しているというだけあって、ナディアの理解は早かった。受け入れてゆくにつれ、声にも態度にも、落ちつきが戻ってきている。
まだ、わずかに人の声が聞こえていたはずの都市からは、営みの音が消えていた。わずかな明かりと風のそよぎが二人の静寂を満たす。
ロトは、深呼吸を繰り返しながら、慎重に女の腕をさすっていた。手先から上腕へ、上腕からまた手先へ。彼の指が触れた先から、じょじょに灰色は薄らいでいって、白い粒と化した魔力が、幻想画の光のように、きらきら天へのぼってゆく。集中するために瞑目していたロトはそれを見ていなかった。ナディアだけが立ちのぼる光を知っていて、じっと、見つめていた。
魔力を拡散させるにしろ、その動きを封じるにしろ、呪いに何かしらの術を施すというのは、間接的な魔女との戦いだった。立ち向かう魔術師の方は、膨大な魔力と精神力を削りとられてゆく。同じ動作を繰り返しているうち、頭の奥から笑い声が響いてくる気がして、ロトは顔をしかめた。そして同時に、全身で何か小さなものが詰まるような、かすかな不快感に襲われてうめく。
ああ、まいった。
ほんの少しだけ、手をとめて、あいている方で頭をかく。
彼が今つけている腕輪は、呪いを――もっといえば、彼が魔力を使うこと自体を制限する、一種の魔術道具だ。これをつけている間は、使える魔力の量があるていど決まってしまい、それをむりやり打ち破ろうとすれば、腕輪の方が壊れてしまう。
「て、ことは、だ」と小さく呟いたロトは、まだ胸のあたりに残る詰まり物の感触を確かめながらも、装飾品に目を注ぐ。
「悪い、ナディア。ほんの少しだけ待ってくれ」
顔を見もせずにそう言ったロトは、返事があるより前に腕輪に手をかける。留め具に指をひっかけて、爪の先に小さな方陣を灯すと――そのまま、左腕の腕輪を取り外した。
「え? ちょ、お兄さん?」
様子を見ていたナディアが、素っ頓狂な声を上げる。ロトは彼女に不敵な笑みでこたえ、外した腕輪を足もとに置いた。とたん、今まで抑圧されていた本来の魔力の一部が、熱をともなって全身を駆け抜けてゆく。久しぶりに体の末端が熱くなり、黒の広がりもまた、感じた。ロトは、よし、と呟いて、再びナディアの腕をとった。
完全に拡散するまであと一息。
怒るなよ、と心の中で幼馴染に呼びかけて、彼は無形の力を手に集中させた。
白い粒が夜空へのぼってゆく。星の中へ溶ける光を見送りながら、ロトは息を吐いた。
見立てどおり、腕輪という制限を半分取り払ってからの石化を解く作業は、そう大変なものではなかった。魔女のかけた呪いが予想以上に弱かったことに胸をなでおろしていたところである。ロトは手早く腕輪をつけてしまうと、ナディアに向き直った。
「じゃあ、仕上げだ。魔力の動きを抑制するための封印方陣を施そうと思う。ちょうど、俺の腕輪のかわりだ」
ロトがそう言って、はめたばかりの腕輪をつつくと、ナディアはほほ笑んで「お願いします」と言った。石となっていた両手は、もとの白い女の手に戻っている。呪いはおさえられるという実感がわいてきたのか、彼女の顔からは力が抜けていた。
ロトはうなずいて、さっそく彼女の手をとる。一度意識を集中してから、灯火をまとった指を、手首に当てた。皮膚から少し浮かせて、滑らせてゆく。方陣によく似た文様が形作られてゆくのを、ナディアは呆然として、見ているようだった。
「ねえ、お兄さん」
「なんだよ」
「私ね。明日、警察に行こうと思うんだ」
ロトは、無言のままだった。ナディアの声が、歌うように響く。
「出頭したらどうなるのかな。やっぱ逮捕だよねえ。自分の意思じゃないとはいえ、人を殺してるんだもん。懲役何年かな。禁固刑かな。それとも――」
ナディアは先を言いかけたが、口をつぐんだ。笑っているように見えたが、瞳の奥には、明らかな恐怖がにじんでいる。ロトは、ため息をのみこんで、言葉を吐きだした。
「おまえの場合は、事情が特殊すぎる。魔術に秀でた奴のいない警察で、すぐにどうこうされることはないんじゃないか。ま、俺はただのヴェローネル市民だから、確かなことは言えねえけど」
淡々と、事実を並べる。ほんのわずかな嘘を混ぜて。
ロトの言葉を受けたナディアは、びっくりして目をみはっていたが、やがて小さく吹き出した。
「そっかあ。……ありがとね」
「何が」
そっけなく返したロトは、できあがった文様をはじいた。とたん、輝きは細い手首に吸いついて、刺青のように黒くなる。ナディアをうかがったが、彼女は好奇心に目を輝かせこそすれ、嫌がるそぶりはまったくなかった。相変わらずの態度に苦笑し、青年はもう片方の手をとる。
「お兄さんは嫌じゃないの。私、犯罪者だよ」
「犯罪者以前に被害者だろ。それに、おまえが何を持っていようが、何者だろうが、俺にとっては、趣味で白衣を着て、迷子になってた変人だ」
「変人はひどい」
ナディアは唇をとがらせる。が、言葉とは裏腹に、声にあるとげは小さかった。そうしているうちにもう一方の文様も刻み終える。ロトは手を離すと、立ち上がった。両腕をしげしげとながめるナディアを、いつもどおりの仏頂面で見おろす。
「それで、とりあえずは大丈夫なはずだ。魔術師じゃないから、そう簡単に封印が弱くなることはないと思う」
それはよかった、と笑い含みの声で言ったナディアは、それをふっと打ち消した。唇にわずかな笑みの名残を残したまま、両腕に強い視線を注ぐ。
「……なんで、お父さんは橙色の魔女にけんか売ったりしたんだろうって、ずっと腹立たしく思ってたんだけど。今となっては、それもまあ、悪くないかなってさ、思うよね」
「……そうか」
ロトはそれ以上の言葉をのみこんだ。すっかり暗くなってしまった路地を見回して息を吐く。早く帰ろう――と声をかけようと思い、ナディアを振りかえりかけたとき、足を軽くもつれさせた。
声はおそらく、音にならなかった。あたりがゆっくりと暗くなってゆき、頭に靄がかかる。まずい、倒れる、と焦った彼は、けれどすんでのところで優しい腕に受けとめられた。
呆然としている間に、静かに抱き寄せられる。苦言を呈する余裕も体力もない。だからただ、気だるい身を流れにゆだねた。意識を手放す直前に、どこか懐かしく、ほんの少し甘いぬくもりを感じた。
小さなざわめきを聞いたのは、気のせいかもしれないと、思った。
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