4 灰色の指

『ねえ、おかあさん。どうしてわたしは、あくしゅをしてはいけないの?』

手袋越しの両手を見ながら、何度も何度も、そう問いかけたことは、おぼえている。

そしてそのたび、母もまた、同じことを繰り返した。

『いずれ、わかるわ』

『けれどね。ひとつだけ言っておく。お父さんを、恨んではだめよ。お父さんは、ただ、みなを想っていただけなの』

『お父さんをうらんだりなんかしないわ。でも、どうしてお父さんがでてくるの』

問い詰めれば、彼女はいつも、首を振った。

『お父さんを恨んではだめ、憎んではだめ。それだけは、頭にとどめておいて』

『……わかったわ』

『いい子ね。かわいいナディア』

それは、真実を知るまで、幾度となく繰り返されたやり取りだった。

母の言葉は呪詛のようにいつまでも、頭の奥に刻みこまれているのである。



     ※



 あれは春先のことだったか。よくこのあたりで新聞配りをしている少年と、猫探しをしたことがあった。そのときに列をなす猫たちを追ったのと同じ小路を抜けた先で、青年の目はひらひらと舞う白衣をとらえる。彼女の足取りはあせったふうではない。せいぜい小走り程度だろう。ロトは、息を吐いて、吸って、地面を強く踏みしめると、次の瞬間には速度を上げていた。

 ナディアとは違うところを一瞥する。マリオンを呼び付けようかという考えが脳裏をかすめた。けれど彼は、浮かんだ考えをすぐさま打ち消した。薬屋に寄り道をしている間に手遅れになってしまっては意味がない。

 彼はざわめきが小さくなりつつある通りを疾駆する。鍛えてもいない女に追いつくのは造作もないはずだが、いくら走っても距離が縮まらないのでは、という錯覚に陥りかけた。それは本当に錯覚で、教会が道の先に見えはじめた頃にロトはナディアに追いついて、その肩をつかんでいた。

「おい、ナディア、止まれ――」

 呼びかけようとした彼はけれど、そのあとすぐに、ふらついた。とっさにナディアから手を離すと、自分の右腕を強く押さえる。

 暗く冷たい魔力の気配。異質なふたつはぶつかりあって、器の中でうねりをつくる。体の中身をかきまわされているような不快感を抱き、ロトは体を折り曲げた。突き刺すような頭痛と吐き気に耐えているうち、ナディアはまた、彼を引き離してどこかへ走り去ってしまう。

「待、て……!」

 ロトは、息も整わないうちから声をしぼりだして叫んだ。けれど、ナディアには届かなかった。ロトは、自分のなかで渦巻くすべてをのみくだした。震える足をむりやり動かして、白衣を見失わないうちに、また走り出す。

 流れゆく視界の端。家のかんぬきを閉めようとしていたらしい若者が、扉の隙間から怪訝そうに顔を出す。あいにくそちらに構っている余裕はなく、ロトは彼に鋭い一瞥をくれただけで駆け去った。ナディアの姿はまだ遠い。けれど、今はもう、彼女が走った後の道に粘つく魔力が足跡を残している。これならば、街にいるほかの魔術師たちが事態に気づくのも時間の問題かもしれなかった。

 白衣が角を曲がった。ロトもまた、速度を上げて彼女を追いかけ、角の手前で歩をゆるめた。うかがうように、曲がり角のその先をのぞく。

 女が、立っている。医者のような白衣をまとった女。その表情をうかがい知ることはできない。彼女は、ただ、敬虔な司祭が神への祝詞を捧ぐときのように、片腕を大きく掲げていた。指先から手首のあたりまでが、灰色に、かたく変質した、異様な腕を。

 その先には、別の若い女がいた。まだ、少女といってもいい年頃だった。彼女は顔を恐怖にひきつらせ、震えていた。後ずさりしようとして失敗し、尻もちをつく。灰色の手は、そちらへゆっくりと伸ばされはじめていた。

 先に待つ結末を、確かめるまでもない。ロトは陰から飛び出した。いざとなったら依頼主を突き飛ばしてやるという勢いで、二人の女の間に割り込んだ。変質した片腕を強くつかむ。灰色の部分は、ざらついていて、冷たかった。

 少女がうろたえているのが気配でわかる。ロトは背を向けたまま、鋭くささやいた。

「逃げろ、早く」

「は、はい」

 返った声は、小さかった。それでも少しは、青年を安心させた。目だけでうかがえば、震えて立てなくなった彼女は、這うようにして通りを抜けていっていた。

 残されたのは、異質を抱えた二人のみ。

 日が傾く。黄金色は西へ退き、青紫が空を食らう。冷えた路地には影が落ち、お互いの顔を薄く、覆い隠した。

「ナディア」

 ロトはもう一度、名前を呼んだ。すると、冷えた穴のようだったナディアの両目に、ほのかな光が宿る。

「……あれ、お兄さん?」

 呆けたような声が上がった。彼女の瞳がくるくる動く。ナディアは路地を見ると、本気で怪訝そうな表情をしていた。けれど、ロトが解放した自分の腕をのぞきこむと――瞳に、暗い理性が宿る。

「――ああ。そっか」

 ナディアがほろ苦くほほ笑む。そして、掲げていた腕をよろよろ下ろした。

「本当に止めてくれたんだ。お兄さんは優秀だねえ」

 おどけたような言葉に、今までほどの力はなく。その意味をうすうす察していたロトは、ただ黙って、彼女を見ていた。

 二人の影を、闇が覆いはじめる。粘つく魔力が、夜にあわせて濃くなった。

 魔女が嗤う。青年は今度こそ、その声をはっきりと、聞いていた。

「ねえ、お兄さん。私、嘘ついたんだ」

 青のなか、ナディアが声を上げて笑う。薄氷のような笑声。それは、冷たい石によく似ていた。

「本当はね。ぜんぶ、知ってたんだよ。意識がない間、私自身が、何をしでかしているのか。その間の記憶がないっていうのも本当のことだけど、空白の記憶の中身も、意味も、うすうす察してはいたんだ。あと、父が魔女に――『橙色とうしょくの魔女』に会ったっていう話が、ただの噂じゃないってことも。父とその仲間たちが、魔女の怒りをかってしまったっていう話も、ね」

 終わりに付け足された、これまで明かされていなかった事実を前に、ロトは軽く目をみはる。その表情がおかしかったのか、ナディアはくすくすと笑い――灰色の指を、自分の頬にそわせて、なでた。

「なんで知ってる、って顔してるね。当たり前の話よ。だって、『見せしめ』に魔女の呪いをかけられたのは……娘である、私なんだから」


 今までにない悪夢を見た。それが、終わりで始まりだったと、白衣の女は静かに語る。

 悪夢を見て以降、父親が家に帰ってこなかった。生きていると人々は言ったが、父親の姿はいつまでも見えないままだった。

 まだ幼子だった彼女は、最初は呪いに気づかなかった。けれどあるとき、自分の手がまさしく石のようになってしまったのを見て、母を問い詰め、すべてを知った。それらは、今まではおとぎ話の中の存在だったものたちだった。魔女も、呪いも、この石に見える『何か』が、触れた人に伝染するという異常な性質も。


「普通のときはね、平気なのよ。私、魔術師じゃないからさ、魔力もほんのちょっとしかないからさ、普通にしててもおさえられる。だから自分も石になんないし、人も石に変えない。けど、ときどき体調や心が崩れると――魔女に、乗っ取られるんだよね」

 ナディアは言った。悲しげに、言った。

 ロトは、眉をひそめる。言いたいことは心の中に、積りに積もっているはずなのに、音になって出てこない。その間に、ナディアの方が渋い顔をして、こめかみを押さえた。

「どうし――」

 嫌な予感を抱き、駆け寄ろうとしたロトはけれど、それをやめた。空間を満たす魔力が、急激にふくれあがる。彼はとっさの判断で飛びのいた。

 直後、色白の腕を、灰色の手がつかむ。ロトは目をみはり、抗おうとしたが、魔女のわざに侵された手と腕は、ありえないほど強い力で抵抗を阻んだ。女の方に引き寄せられると同時、肩を強くつかまれて、ロトはうめいた。細い髪の毛が顔にかかる。彼が抵抗を試みているうちに、嗚咽混じりのささやきが、聞こえてきた。

「ね、え。お兄さん。お兄さんって、魔術師なんだよね。今ならわかるよ。……魔女が教えてくるから」

 ロトは黙ったままだった。今にも肩の骨を砕きそうなくらい強く食い込む灰色の指をにらんでいた。顔は見なかった。ナディアが、どんな表情をしているかくらい、嫌でも想像がつく。もとの変わり者と魔女が同居した目が、彼を横から見ているのがわかる。

「なら、ならさ。お願いだよ。やっぱり、ここで私を殺して。魔術師なら、それができるでしょう?」

 ナディアはおそらく、泣きながら、笑いながら願った。ロトはただ、奥歯をかむ。


『見せしめ』と、彼女は言った。それはあるいは罰とも言いかえられるのだろう。罰を受けたのは、怒りを買った張本人でなく、彼が心から愛していたであろう、己の娘だった。

――これがこの大陸の魔女のやり方か、と、ぼんやり思った。


「だめだ」

 わかった上で、異邦の魔術師は願いを拒む。

「最初に言っただろうが。法に触れることはしない」

 息をのむ音がした。次に返ってきたのは、決して大きくはない、けれどきつい声だった。

「……このままじゃ、お兄さんまで同じことになっちゃうよ。そんなの私が嫌だよ。自分が呪われるだけならまだよかった。だけど私の呪いは、私に近づいてきた人たちを殺すんだ。優しくしてくれた人を殺すんだよ! そんなの、もう嫌なんだよ!」

 指にぐっと、力がこもる。ロトは顔をしかめて、吐き気をこらえた。流れこむおどろおどろしい魔力は、違いはあるけれど確かに呪いのものだ。青年はそれを、嫌と言うほど知っていた。震えが伝わってくる。ナディアの震えが、彼の腕に届く。

「お願いだから、優しくしないで! 同情しないで! あきらめさせてよ――」

 心を切り裂く叫びが、静かな空にこだまする。

 ロトはさなかで、目を閉じて、息を吸った。

「おまえは、魔女に興味を持って調べ物を始めたって言ってたか」

 彼女の悲鳴を、青年は落ちついた声でさえぎった。相手が目を丸くして固まったろうと感じ取ったロトは、苦笑をこぼしつつ、続ける。

「なあ。それって、まったくの嘘じゃなかったんじゃないか? おまえは確かに魔女に興味を持った。そして調べた。魔女について、魔術について。つまりは、自分の呪いを解くための方法を探していたんじゃないか」

「そんなわけ――」

「探して、探した。けどまったく見つからなかった。それでもやっぱりあきらめきれなかった。だから今度は、ただ調べるだけじゃなく、研究する立場になろうとしていた」

「違う」

 ナディアが強くかぶりを振る。

「そんなわけないでしょう。魔女の呪いが解けるわけない。とっくにあきらめてるよ、そんなの」

「本当に?」

「本当! 決まってるでしょう。わかったようなこと言わないでよ――」

 ようやくロトは、彼女に顔を向けた。強く目を閉じ、駄々をこねる子どものように首を振る彼女を、強くにらんだ。

「わかるに決まってんだろ。俺だって同じだからな」

 自然、口もとに自嘲的な笑みが浮かぶ。ナディアは、唖然として、固まった。

「魔術関連の書物は片っ端からあさったけど、まあ、魔女の呪いを解く方法なんざ、載ってるわけがねえ。そんなのがわかってるんだったら、魔女の呪いで死ぬ人間は、もっと少なくて済んだはずだしな。けど――」

 深海色の瞳が、つかのま、空を映して笑う。陽の光はもう、遠くに燃える焚火のようにしか見えなくなっている。ロトは、この日没の瞬間が、どうしようもなく美しいと、思っていた。かすかな希望を求めてぶざまにあがく自分たちに、何かを見せてくれているような気がするから。

「俺はあきらめてねえぞ。優秀な幼馴染が、優秀な師匠から呪いをおさえる方法を盗んできてくれたおかげもあるけどな。

さっさと放り出してあきらめて、すべてに身をゆだねるのは簡単だ。ただなあ。あいにく、まわりの人間がうるさくて、うるさくて。楽させてくれねえんだ、これが」

 指が、震える。力が弱くなる。その隙に、ロトは身をひねって、石の手指から逃れた。左手を相手の手に重ね、自分の腕からもう一方の指もはがしてゆく。

「それに何より、俺が気に食わねえ。魔女様のお望みどおりに死ぬなんざ、ごめんだ」

「お、にいさん……まさか……」

 ナディアの声に、ロトは答えなかった。今さら答える必要もないだろう。彼はただ、女の瞳をのぞきこむ。唇をかみしめている彼女の顔を、真っ向から見る。

「ナディア。おまえも本当は、そうなんじゃないか。――俺、知ってんだ。本当にあきらめてる奴は、本当に死にたがってる奴は、そんな顔しないんだって」

 黒茶の瞳がうるんでゆれる。目尻にたまった涙が、筋となってこぼれ落ちた。しばらく歯を食いしばっていたナディアは、ややあって、いびつに笑った。

「お兄さん、ずるいよ」

 不安定に揺れる涙声が、やわらかいとげをまとって言う。

 むきだしの心が、一語一語に、にじんでいた。

「そんなふうに言われたら……もう、嘘でも、殺してなんて、言えないじゃない……」

 女の肩が、腕が、かくりと力を失った。前のめりに倒れかかってくる彼女を、ロトはそっと受けとめる。そのときに、音のないささやきを聞いた気がした。

――たすけて、と。

 ロトは、街の子どもにそうするように、彼女の頭をぽんぽんと叩きながら、うなずいた。

「阿呆。嘘なんてつくんじゃねえよ。さっきも言ったろ。呪いを解く方法はわからないままだけど、おさえる方法なら確かにある。自分の体調にも振りまわされずに済む。おまえが望むなら、頑張ってやってもいいぜ」

 ナディアの頭が動いた。うなずいたのだとわかった。ロトは口の端をもちあげる。不敵な笑みに似合わず、両目には、研いだ刃のような光が宿っていた。

「安心しろ。絶対、助ける」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る