3 襲名
青い空には薄絹のような雲がかかっていて、ただでさえ弱い太陽の光をさえぎっている。コートの襟をかき合せた少年は、空をあおいで白い息を吐いた。凍える風のなかに吐息が消えていったとき、右手の中にある重さを思い出して、彼は己に目を戻す。にぎりこまれた小さな麻袋は、中に入っている硬貨の重みで、奇妙にたるんでいた。彼は袋をまじまじと見つめたあと、鞄の奥深くに押しこんだ。自らの身の危うさを思って、顔をしかめる。外で直接金銭を手渡す金持ちの酔狂は、いまだに理解できない。どころか、一生理解できそうになかった。
ため息をこぼし、とぼとぼと歩きだす。強い寒風に吹かれて、厚手のコートがうるさく鳴った。まだ雪こそ降らないものの、空気は痛いほどに冷えている。それでも彼にしてみれば、大陸の冬はなまやさしいと思えた。
騒がしい大通りを抜け、小路に入る。とたんに、わずかな悪臭をはらんだ空気が重く立ちこめて、覆う影が濃くなった。まるで影に侵食されるように、喧騒が遠ざかる。それでも淡々と歩き続ける少年の前を――猫の影が横切った。彼は目をみはって、影の過ぎ去った方を見る。古い民家を見上げれば、その出窓に、くすんだ灰色の毛をもつ猫が座っていた。緑の目が怪訝そうに人間を見返して、すぐそらされる。
彼は、毛づくろいを始めた猫をまじまじとながめてから、乾いた笑い声をもらした。
「そんなわけ、ねえよな」
自嘲的な呟きは、重い風の音にかき消される。ロトもすぐに笑みを打ち消して、歩きだした。
あれからふた月。無愛想な黒猫は、一度も姿を現さなかった。あれだけ激しく拒絶をしたのだ、あっさり見限られてもおかしくない――ロトは、そう思うようにしていたが、それで心が軽くなるような気も、ひどくさびしくなるような気もした。
また、不毛な思考に浸かりかけている自分に気づき、ロトは激しくかぶりを振る。
「……別に、いいだろ。思い出さなくて済むんだから」
言い聞かせるように、呟いた。
慣れた足取りで小路を抜ければ、突然に、爽やかな風が吹いてくる。道の先から薄く光がさし、遠くには、いつもの青い三角屋根が見えていた。ロトは、軽く肩をすぼめたあと、歩きだそうとしたが――寸前で足を止めた。コートのボタンを軽くはじいたあと、民家の陰をねめつける。
「なんか用か」
淡々と、わずかにとげを含む問いかけが、静寂の中に響く。少しして、にらんでいた民家の物陰からわずかな音がして、のっそりと人影がはいでてきた。その数、五。いずれも男で、ヴェローネルの市民であろうことをうかがわせるいでたちだ。服装も厚手の上着と、それぞれ色の違うズボンなので、普通に街を歩いていても見逃してしまいそうだ。その彼らが、やたら暗い目つきでにらんでくる。ロトは、眉をひそめた。五人のうち、三人が四、五十代。残る二人は――十代後半から二十代、といったところか。
「まだここで商売してやがったのか、シェルバの猿め」
ロトが、いたって冷静に人びとを観察しているうちに、最年長と思しき棒を持った男が口を開く。陰険な声音は、否応なく耳に残った。それでも彼は、不快感を表に出さず手をあげる。
「やれやれ、その呼び方、ずいぶん久しぶりに聞いたぜ」
「てめえらなんざ猿でじゅうぶんだ。さっさと出ていけ」
「またずいぶん急だな。出てってやってもいいけど、こっちにもいろいろ準備ってもんがあるんだ」
「減らず口を!」
一人が怒鳴ったのに合わせ、まわりも怒号をまき散らす。そのなかで響いた一声が――「てめえがどっかで野たれ死んでも、誰も悲しまねえよ!」という嘲りが、やけに耳についた。ロトはそちらをにらんで、思わず「あっ」と言う。以前、まだ彼がここへ来たばかりの頃に、同じように絡んできた人だった。
憤怒はあっという間にふくれあがり、小路を包んだ。どこかからはいでてきたネズミがひげをふるわせて逃げ去ってゆくのを横目で見たあと、ロトは舌打ちする。
「こりねえな。言いたいことがあるなら、もっと堂々と文句を言いにくればいいものを。それとも何か、軍人サマに怒られるのがそんなに怖いのか?」
あえて尊大に見せかけた物言いは、おもに、見知った一人に向かって吐いたものだった。清々しいほどあからさまな挑発に、相手は顔を赤黒く歪める。このっ、とむちゃくちゃに叫ぶなり、先程からちらつかせていた包丁を、いきなり強くにぎりこんだ。怒りを通り越して叩きつけられる敵意に、さすがのロトも身構える。
さて、どう切り抜けるか。
熱を帯びる体に反して、思考はどこまでも冷たく動いていた。多少武術をかじってはいるから、このていどの人間ならば切り抜けられる自信はある。だが、怒りに見境がなくなった人というのは恐ろしい。彼はそれを、かつて強烈に実感したことがある。忘れかけていた夢の名残がよみがえり、寒いというのに背中に汗がにじんだ。
怒号が近くなる。考えることを放棄したロトは、常にしのばせている短剣に、とっさに手をかけた。
しかし、彼がそれを抜くことはなかった。
その直前で横合から黒い影が躍りでるなり、激しく暴れ回ったからだ。人々の悲鳴に、怒りをはらんだ野性的な音が重なる。それが鳴き声だと、ロトが気づいたのは、黒い影が動きを止めて、ロトの前にすたっと降り立ったときだった。
いきなり邪魔をされた五人が、呆然としている。先陣切って飛び出そうとしていた若者は、頬にいくつかの引っかき傷を作っていた。
「ね、猫?」
誰かが、うろたえて言った。ロトもまた、ぽかんと口を開けて、突然割りこんできた黒猫を見やる。
もともと大きかった体は、さらに一回りほど成長したようだった。悠々と尾を揺らす、ふてぶてしい態度は以前と変わらぬまま。ロトの方に背を向けているから、表情はうかがえないが、さぞつまらなそうにしているだろうことが想像できた。
「おまえ」
言いかけて、ロトは口をつぐむ。猫を挟んだ向かい側の五人が、立ち直りはじめたからだった。
「おい、野良猫、どけ」
若者が声を低めて言う。すると、大きな黒猫は、ふんっと思いっきり鼻を鳴らした。野良猫に馬鹿にされたせいで、二人の若者が気色ばむ。彼らが武器を構えると、黒猫は背中を丸め、毛を逆立てて、ふしゃーっと威嚇の声を上げた。ほかの三人は、彼らを呆れてみていたが、やがてはおのおのの武器を構えて踏みだしてくる。
「しかたねえ。どうせ、野良を殺したところで誰も騒がねえだろうし」
「まとめてしごいてやるか」
ロトは、つかのま、固まった。――かつて、同じように、ララと名付けられた野良犬も殺されたのだろうか。唐突に思いがひらめいた。
彼が感傷にとらわれている間に、黒猫は低く鳴いて人々へ飛びかかっていた。激しく暴れ回り、爪と牙を人間たちへ突き立ててゆく。一方の五人も、負けじと自分たちの武器を振りかぶった。一人の男が振り上げた棒が、猫の頭めがけておろされる。
我に返ったロトの耳に、猟犬の悲鳴がよみがえる。
「――馬鹿、よせ!」
ロトはとっさに身を乗り出して叫んだが、次の瞬間、唖然とした。
黒猫は、勢いよく振りおろされた棒を、ひらりと跳んでかわしたのだ。逆に、棒を踏み台にして持ち主の顔面へ飛びかかると、容赦なくひっかいた。のけぞったその一人を放置すると、横から向かってきた、気弱そうな若者の腕にかぶりつく。『暴れ猫』のあだ名にふさわしい立ち回りを、ロトは立ちすくんだまま見ていた。
「……イサ?」
黒猫の後ろ姿に、猟犬の立ち姿が重なる。
まさか、声が聞こえたわけではなかろうが、黒猫は一瞬だけ彼の方を振り返って、また一人の手に牙を立てた。ぎゃあ、としゃがれた悲鳴があがる。その後も黒猫は、軽快に暴れ続ける。そのさまにとうとう、人々の顔は恐怖で引きつった。
「くそ……猫ふぜいが!」
「埒が明かねえよ、退くぞ」
声を震わせる若者の腕を、最年長の男が強引にひっぱる。そうして彼らは、慌ただしく退却した。
彼らの姿が完全に見えなくなると、路地にはどことなく薄っぺらい沈黙が漂う。自分と黒猫だけが取り残されるという状況に、ある日のことを思い出させられ――ロトはそっと、黒猫に歩み寄る。
「おまえ……戻ってきたのか?」
おそるおそる声をかけると、黒猫は振り向いた。なー、といつもと変わらぬ鳴き声を上げる。それから、なぜか、くるりと反転してロトの足にじゃれついた。覚えのある要求に、ロトは相好を崩す。はりつめていた全身から、ふっと力が抜けた。
「なんだ、それ。飯たかりにきただけか」
なうー、と猫がまた鳴く。それから、じゃれつくのをやめて立つと、尻尾をゆっくり揺らした。わかった、わかったと笑ったロトは、猫の横を通りすぎてから振り返る。
「そんなに飯が欲しいんなら俺の家に来いよ、黒猫」
ぴく、とひげを動かした黒猫は、しかし、動かなかった。首をかしげたロトは、もう一度呼びかける。それでもやはり、動かない。もしかして怒っているのかと思い、黒い背中を彼が食い入るようにみたとき、猫は少しだけ振り返った。
その目に語りかけられたロトは、息をのむ。立ち回りのさなか、目があった一瞬を、思い出した。
まさか。
確信を抱きながら、彼は短く息を吸った。ためらいに唇がわななく。それでも、どうにか、声をしぼりだした。
「こっちだ――イサ」
少年が、封じ続けていた名を口にした瞬間。黒猫は、ころりと態度を変えて、少年の背後につく。早く飯をよこせ、といわんばかりの視線を注がれ、ロトは唖然としてしまった。驚きが過ぎ去れば、次には笑いがこみあげてきて――路地のただ中で失笑した。
ひとしきり笑ったロトはしゃがみこみ、同じ目線で猫の瞳をのぞきこむ。
「なんだよ、おまえ。二代目イサになりたいってのか?」
猫は鳴いた。おそらくは肯定だろう。やれやれ、とロトは頭をかく。けれど、それからふっと思い立って、口の端を持ちあげた。
「別に、いいけど……イサとおまえじゃ、違いすぎるだろ」
そう、ぼやくと、頭のいい猫は、先程より声を低めて鳴く。ロトは、大げさに肩をすくめた後、考えこむように、顎に指をひっかける。
「ううむ、おまえは猫だからな、猟犬と同じことを求めてもしかたねえけど。……二代目になりたいなら、俺に飯をたかるときくらいは、きちんと『
いつもより、大きな声でそう言えば、黒猫はそっぽを向いた。だが、ロトが辛抱強く見つめていると、やがてひと鳴きした。しかたねえな、とでもいうふうに。返事を得たロトは、はずみをつけて立ちあがると、黒猫をやわらかい目で見おろす。
「それじゃ。今度こそ、行こうぜ。イサ」
黒猫は、無言で少年の後ろにつき従った。彼の気配を感じながら、ロトはそっと笑みを刷く。
――まずは、十かぞえるまで待ってもらえるようにならないと。
たわいもない思いつきに心を躍らせながら、彼は一歩を踏み出した。
(完)
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