2 記憶

 黒猫が顔を出すのは毎日ではなく、また、間隔が決まっているわけではなかった。猫という気まぐれな生き物であるから、ロトもあまり気にしていなかった。来てくれたら残飯処理をしてもらおうかな、くらいの感覚である。

 大きな黒猫と付き合って、いくつかわかったことがある。まず、彼は正真正銘の『暴れ猫』だった。ロトのもとへ来る前に、必ずといっていいほど人に威嚇をしたり猫と揉み合ったりしているようである。怪我をしてくることもたまにはあったが、大抵は無傷だった。実質、ヴェローネルの猫の親玉なのかもしれない。

 そして、そんな荒々しい一面に似合わず、頭はいいようだった。ロトの言葉をあるていど理解しているふうで、シェルバ語の号令もすぐに覚えてしまった。ただし、あくまでも猫である。


「……おはよう」

 窓から身を乗り出し、寒さに顔をしかめた彼は、相変わらず窓辺で毛づくろいをしている黒猫に、不機嫌丸出しの声で挨拶をした。黒猫は、ちらと顔を上げてから、鳴く。すると、また毛づくろいに戻ってしまった。飯を要求する気はないらしい。

 媚を売ってくるわけでもなく、かといって逃げたり怒ったりするようなそぶりも見せない。熱すぎず、冷たすぎない関係性と距離感。それはロトにとって、なんとも心地のいいものであり――今までにない感覚のはずなのに、どうしてかとても懐かしかった。

 いや、正確には、この猫を見ていると懐かしくなる。こんな愛想の悪い猫、見たことがないのだが。

「なんなんだろうな、まったく」

 ロトがぼやくと、黒猫は顔を上げてひと鳴きする。それからひらりと、飛び降りた。

 猫の姿が見えなくなって、少年はため息をつく。依頼者が来る気配もないので、出かける支度を始めた。


 手早く支度を済ませた彼は、あてどなく街を歩く。流れゆく人の影と騒がしい声に辟易しながらも、しっかりとあたりに目を配っていた。今のところ、何かに困ってどうしようもない、という人の姿は見受けられない。ロトは喜ぶでもなく落胆するでもなく、淡々とした足取りで商店街を抜けようとした。

「お、よかった。見つけた」

 人混みのむこう側から、元気な声がかかる。ロトは目をこらし――浅黒い肌の男を見つけるなり、あからさまに顔をしかめた。けれど、彼は、少年の表情など、意にも介さず駆けよってくる。

「やあやあ、おはよう。少年」

「何しに来た」

 警戒態勢で問いかけると、男は肩をすくめる。

「そんなににらむなって。少し、困ったことになってな。力を貸してほしいのよ」

「はあ?」

 ロトは裏返った声を上げる。しかし、男はやれやれと頭をかいた。どうやら、困ったことというのは、冗談ではないらしい。彼がそう思ったとき、足もとから、幼子特有の甘ったるい声がかかった。

「ねえ、おじさん。魔術師って、このひとのこと?」

 ロトはぎょっとして、男の下を見やる。五、六歳くらいの子どもが、長衣のすそをつかんで立っていた。男はわずかに眉をひそめたあと、「まあ、そうなんだけど」と曖昧な返事を子どもに寄越す。ロトは、きっと男をにらみつけた。

「おまえ」

「落ちつけって。本当に参ってるんだ」

 険しい顔をするロトに対して、男は顔の前で手を振る。二人の間に流れる微妙な空気に気づいていないのか、子どもはつぶらな瞳でロトを見上げた。

「ねえ。魔術師のお兄ちゃんは、ララを治せるの?」

「――は」

 ロトは目を見開く。男は、天をあおいで、あちゃあ、と呟いた。

 

「……つまり、野良犬を治したいから、傷を治せる魔術の書を売ってくれとせがまれた、と?」

「そういうことー。さすがに、そんな魔術書、知らないよね」

 男が芝居がかったしぐさで両手をあげる。ロトは顎に手を当て、思考を巡らせながら答えた。

「医療魔術なら、ないわけじゃないよ。ただ、この大陸には浸透してないように感じるけど。関連の魔術書は、『むこう』でも、貴重な医学書のひとつとして、丁重にかつ秘密裏に扱われていたくらいだし。そもそも、生物の体を治すってのは、思うほど簡単なことじゃねえんだよ」

 男と子ども、二人に向けた言葉。それは本人が思う以上に冷えた響きをまとっていて、子どもの不安をあおったようだった。小さな女の子は、「じゃあ、ララ、治らないの?」と、涙目で訴えてくる。ロトはうなずくこともかぶりを振ることもできなかった。男に非難がましい視線を送られる。

「少年は使えないのか。治療の魔術」

「擦り傷を治すくらいなら、なんとか。それ以上になると医療の領域だから、専門外だ」

「ふうむ」

 男はため息まじりに声を上げた。ロトもしばらく考えこんで――考えてもどうしようもない、と思いなおし、子どもを見た。

「とりあえず、その、ララのところに案内してくれないか。治せるとは限らないけど、様子だけは見てみる」

「本当?」

 子どもは、目を輝かせた。少年がうなずくなり、踵を返して、こっち、と駆けだす。

 いくつかの大きな通りから、小路が複雑にのびているヴェローネルだが、子どもに案内されたのもそんな路地のひとつだった。あたりにひとけはなく、けれど物騒な気配も薄い。人の手の及びきらない静寂が、古ぼけた石畳の上に漂っている。鳥のさえずりに、男が、平和だねえ、とこぼしたほどだ。

 が、少しして、ロトは眉をひそめた。「ララ」がいる場所に近づいているのだろうが、それにあわせて流れてくる臭気に気づく。言うべきか、否か。彼が迷っている間に子どもは角を曲がって足を止めた。

「ララ!」

 子どもの悲鳴が聞こえる。ロトと男も角から顔を出し――息をのんだ。

「こりゃあ……」

 ふだんは軽薄な彼の口から、悲痛な声がもれる。

 曲がり角のむこうは、少し広い空間になっていた。秘密めいた空間は、子どもにとっては絶好の遊び場だろう。くだんの野良犬は、その空間の奥に横たわっていた。茶色くかたまった血が全身にこびりつき、とがった耳もまた血まみれだ。左耳はちぎれかけている。足も、一本か二本、変な方向に曲がっているのがわかった。

 三人は、息をのんで犬へ近づく。ロトは慎重に手をのばし、血のついていない部分に触れた。かなり冷たかった。顔を近づけてみても、すでに息遣いは聞こえない。

「ああ、どうしよう。ララが苦しそうだよ。ねえ、ララを治せない?」

 子どもが、すがりつくように二人を見た。男が目を泳がせる。一方、犬の様子をしばらく観察していたロトは、頭を抱えた。

 空虚な視線が、横たわる犬にそそがれる。


 震える風

 砕けるもの

 血の赤

 黒は動かなくなって

 暗く、紅く染まった両手は、震えて――

 

 形にさえならない断片が、繰り返し、頭の中でひらめく。強く頭を押さえていたロトは、再び聞こえた子どもの声に意識を引き戻された。ゆっくり呼吸を整えて、彼女を冷徹に振り返る。

「――死んでる。もう治せない」

「おい!」

 淡々と言い放ったロトへ、男が厳しく叫んだ。けれど彼は無視をして、唖然としている子どもに目を合わせた。

「わかるか? ララは、すでに死んでいるんだ。医者がどんな薬を打っても、魔術師がどれほど高度な魔術を使っても、死んだものは二度ともとには戻らない」

 青い両目が、氷海のように凍りつく。見すえられた子どもの唇がわなないた。

「なん、で」

 かすれた声が、細い通りをすり抜ける。子どもの両目には、見る間に涙がたまっていって、とうとう、あふれた雫が白い頬をつたった。

「どうして。だって、昨日まであんなに元気だった。ご飯も食べてた。どこもわるくなかったよ。けど、でも、今朝あいにきたら、血がいっぱいで、痛そうで……このままじゃかわいそうだよ、お願いだよ。お願いだから……!」

 子どもの訴えは、最後にはもはや言葉にならなかった。とうとう彼女はその場に座りこみ、声をあげて泣きだす。死した犬は、仲良しだった彼女の声に、耳のひとつも動かすことはなかった。黙って子どもを見ていたロトだが、やがて泣き続ける彼女を抱きしめて、背中をさする。

「傷をふさいでやるくらいはできるよ。だから、そうしたら、お墓を作ってやれ。……そうだな、教会に頼んでみよう。あそこの神父なら、だめとはいわないはずだから。だから、きちんと見送ってやれ」

 子どもは泣きやまなかった。けれど、喉を引き裂きそうな叫び声をあげながらも、少年の腕の中でうなずいた。

――その後、悲惨な状態だった犬を少し治療して、体をきれいにしてやったあと、教会に事情を話しにいった。子どもと神父は礼拝でよく会っていたらしく、神父はすぐ、墓をつくるのに必要なことをしてくれた。そうして、教会の庭にできたのは、遺体を埋めた穴の上に大きな石をのせただけの、粗末な――けれど確かな墓だった。

 子どもが、自分の刻んだ名前の前で手をあわせ、六神への祈りを捧げている。ロトと男は、その様子を遠巻きに見ていた。

「しっかし、あれは誰がやったのかねえ。そうとうむごかったよな」

「……さあな。ただ、やった奴は、どうせ野良犬だから殺しても誰も騒がない、くらいに考えてたんだろ」

 怒りも悲しみも読みとれない少年の声に、男が顔をしかめて、うへ、と漏らす。少年は彼を一瞥したあと、もう一度、子どもを見やった。背を丸め、一心不乱に手を合わせている彼女を見ていると、心がざわついた。

 

 ロトは、さきほどの子どもを神父に預け、男と別れたあと、足早に来た道を戻った。家へ着くなり乱暴に扉を開け、中に滑りこむと後ろ手に閉める。ばん、と激しい音がしたが、気にしている余裕はなかった。大きく息を吐きだすと、ようやく心がすっと冷えた。少年に、いつもと同じ仏頂面が戻ってくる。

 本当はもう少し街を見て回るつもりだったのだが、もう、そんな気分ではなかった。依頼者が来ないなら来ないでよし。家でゆっくり過ごすとしよう。そう決めて、窓辺へ寄ると、閉めきっていた窓を開け放つ。次の瞬間、黒くて大きなものが目に飛びこんできて、思わずのけぞった。

 心臓が、大きく跳ねる。

 低く、絡みつくような鳴き声がして、ロトは我に返った。よく見ると、黒いものは猫だった。いつもの大きな猫が、少年をじっと見つめて、繰り返し鳴いている。

「なんだ。おまえかよ、黒猫」

 ロトは、ため息まじりに言った。いつもなら多少反応を変える黒猫だが、今日は鳴き続けている。わかったよ、と手を振った彼は、ふらふらと厨房の中へ入り、残ってしまっていた肉や野菜のくずを、壊れかけの椀に入れてやった。屋内にとびこんできた黒猫にそれを与え、前と同じように号令をかけてみる。今日は、七を数えかけたところで、椀の中に口をつっこんでしまった。

 ロトは嘆息してかがみこみ、猫の食事風景をぼんやりとながめる。

 その途中――ふいに、目の前の猫の姿と、古い記憶の黒い影が、頭の中で重なった。ロトはぶるりと震え、無意識のうちに目を開く。

「……ああ、そっか。だからか」

 震えを押し殺してささやくと、猫が顔を上げて、ロトを見た。金色の瞳から明確な感情は見てとれない。混沌とした猫の両目を、少年は改めて、のぞきこんだ。

「なあ、黒猫。おまえ、『暴れ猫』のくせに、なんで俺の前では大人しいんだ。……よりによって、なんで俺なんだ」

 答えは、返らなかった。



     ※

     

     

 きゃあきゃあと、子どもの騒がしい声と、犬の鳴き声が間断なく響く。薄黒い雲が覆いし夏の空。夏といえども暑くはならず、けれど常ならば茶色い草木が鮮やかに色づくさまが、人々は大好きだった。今、この野を駆けている子どもたちも、例外ではなかった。

 十歳程度の少年が、隣について走り続けていた黒犬に、鋭く号令を飛ばす。すると、従順な黒犬は、一気に速度をあげて走りだした。遠くを走る小鹿に見立てた、麻ひもをくくりつけた布に飛びつく。少年は休む間もなく犬のもとへ走り寄り、次なる号令を飛ばす。犬は獲物から口を放し、そばにぴしっと背筋をのばして座った。笑ったような目が、ほんのわずかな刃を帯びて、次代の主人となるはずの少年を見た。少年は、にっと無邪気に笑うと、犬を全力でなでまわした。

「よし、完璧だ。えらいぞ、イサー!」

 少年にめいっぱい褒められて、勇士の名をもつ黒犬は、ちぎれんばかりに尻尾を振る。そこへ、長い黒髪の少女が走ってきた。いつもどおりの訓練を終え、ぼそぼそした目の粗い布のような地面に転がって、二人と一匹は笑い声を弾けさせた。

 

 かつては、どこまでも無邪気だった。

 心はいつも疑っていなかった。幸せは、感じさえすれば無限だと、信じ続けていた。

 絶対の信頼は、突如として粉々に砕かれたのだ。あの一日――いや、数刻で。

 

 何が起きたかと、明確に把握してはいなかった。もともと記憶は、夢のように支離滅裂だった。悲鳴が聞こえて炎が爆ぜ、遠くで近くで、粗末な木造の家屋が音を立てて崩れ落ちる。砕けた木片は紅に食われて、力を得た炎は、さらに激しく残酷に、狂ったように踊りつづけた。

 気づけばロトは、炎の中を走っていた。にじむ汗も熱さも、とうの昔に感じなくなってしまっている。ただ、今は、喉が痛かった。心ノ臓がはり裂けそうだった。襲い来る感覚と、怒号を振りきるため、がむしゃらに足を動かしつづけていた。

 いつだったろうか、耳慣れた犬の鳴き声を聞いたのは。炎の中を、まっ黒な猟犬が駆けてくる。目もとはいつもどおり、笑っているようにたれさがっているのだが、表情はいつもよりずっと厳しかった。イサはロトのそばにつき従おうとしたが、すぐに威嚇の姿勢をとる。ロトが息をのんで振り返ると、炎の隙間から、見たくなかった人々が走ってきていた。

 悪魔め、と誰かが叫ぶ。投げつけられたかたいものは、額を鋭くかすめた。そのときすでに、あちこちに痣と擦り傷をつくっていたロトは、わずかな衝撃によろめいて倒れこむ。熱と赤色が、ずうっと近くなった。人々の声と足音も。そして同時に、イサが鳴いた。今までにない、地鳴りのような低く激しい怒りの声。無我夢中で顔だけ持ちあげた少年の目に映ったのは、ううーっ、と激しくうなり、吠えながら、人々に飛びかかる黒い犬だった。もともと猟犬として訓練されていただけあって、イサはあっという間に男たちを引きずり倒してゆく。だが、そのうち、一人がむちゃくちゃに振った木の棒が、犬の頭を直撃した。そこへ、調子に乗ったほかの人びとが群がっていって、信じられないことに大きな体は跳ね飛ばされた。高い悲鳴がこだまする。

 それでもイサはあきらめていなかった。だから、ロトもあきらめたくなかった。起きあがろうと、ひたすらもがく。けれど、こんなときに限って痛みと疲れと、どす黒い呪いが主張を始めて、体がいうことを聞かない。泥と血にまみれた小さな手は、必死で犬の黒い毛をつかんだ。

 一人と一頭のうえに影がさす。また、新たな人々が、武器を手ににじり寄ってきた。ロトは青ざめ、かろうじて起きあがったイサがうなり声を上げる。

「おいおい、見ろよ。猟犬だ」

「一丁前に猟師のまねごとか、魔術師ごときが」

「魔物の化身にゃ化け猫がお似合いじゃ、ばかめ!」

 嘲笑とともに、武器が振り下ろされる。イサは果敢に立ち向かい、また数人を引き倒し、あるいはひるませた。が、今度は数の暴力だ。十人近くの人間と満身創痍の犬一頭では、勝敗は火を見るより明らかだ。あっという間に黒犬はのされ、さらに殴られつづける。

「や、やめろ! やめろよ!」

 小さな少年は青ざめた。

「おまえらは魔術師が憎いんだろ! なら、なんでイサにひどいことするんだ! イサは関係ねえだろ――!」

 言葉のすべてが終わる前に、怒声とともに蹴りを腹に打ちこまれ、少年は瓦礫の中に飛ばされる。もはや声すら出なかった。体の奥から逆流してきたものをただ吐きだす。もう枯れ果てていたとばかり思っていた涙が、今になって、にじんできた。

「やめ、て……やめてくれ……」

 わん。

 小さくて、かすかな鳴き声がした。血まみれの犬が、必死にこちらを見ていた。目もとは、いつもどおり、ほほ笑んでいるように見えたが――それすらも、すぐに、まっ赤な血と炎に染まってわからなくなる。

 勇士イサの名が、口をついて出た。そのあとは、ただ熱くて痛かった。渦巻く感情の名前を知る前に、髪を強くひっぱられ、動かない腕をつかまれて、どこかへ引きずられていったことだけは、ぼんやりと覚えている。

 

 

     ※

     

     

 自分の悲鳴で目がさめた。寝台の上で全身をこわばらせていたロトは、荒い呼吸を繰り返し、汗でぐっしょり濡れている上掛けを、強くにぎりしめる。窓からさしこむ朝の光に意識を揺り起こされて、ようやく、夢を見ていたのだと気づいた。ひどく長い夢だった。そして、それが記憶の再現であることを、はっきりわかっていた。

 荒々しかった息が落ちついてくる。その頃になって、寝台の脇あたりから、低い鳴き声がした。頭だけを緩慢に動かしたロトは、寝台のすぐ下で丸まっている黒猫を見る。彼は、いつもどおり、不機嫌そうな金色の目を向けていた。やっと起きたか、と馬鹿にされている気がして、自然としぶい顔になった。

「だいたい、なんでおまえ、戻らなかったんだ。天気が悪かったわけでもなし」

 愚痴半分、疑問半分の呟きは、ひどくかすれていた。黒猫はやはり、答えない。もぞもぞと、体を起こして、のんきに伸びなどしている。横目でそれを観察しているうちに、だんだん、愚痴をいう自分がばかばかしくなったロトは、少し身じろぎしてから起きあがった。慎重に手足を動かせば、いつもの腕輪が音を立てる。ふだんどおりの寝起きのけだるさを振りはらい、ロトはそっと、低い寝台の上から床へと足をつける。そして、立ち上がろうとしたとき――

 急に、目の前がまっ赤に染まった。

 あるいはそれは、錯覚でしかなかったのかもしれない。けれど、ロトにとっては確かに、実在する赤だった。

 鮮やかでおどろおどろしい色彩の上に、いくつもの『過去』が瞬間的に重なりあう。

 それが、落ちた硝子細工のように砕け散ったとき、喉元に、脳天に、えもいわれぬ衝撃と不快感が突き抜けた。

「……っ!」

 ロトはとっさに体を折る。そのまま、崩れ落ちるようにして倒れた。そばにいた黒猫は、弾かれたように飛びすさるが、ろくに見ていなかった。うずくまった少年は、肩を震わせ喉を揺らして、何度もえずく。こみあげる吐き気をこらえているうちに、にじんだ涙が頬をつたって床に落ちた。

「なん、で」

 もう平気だと、思っていたのに。浮かんだ疑問は形にならない。答えはすでに、わかっている気がした。猫の声が、奇妙に反響して聞こえる。ぼやけた視界に、歩み寄ってくる黒猫の姿が映った。

「来るな!!」

 ロトは、ろくに考えもせず叫んでいた。猫の動きが止まる。ひげが、ひくり、と跳ねた。

「おまえは来るな! だって、こんな、こんなの、おまえがいるからだろうが! こっちに来てから平気だったのに……おまえのせいで……!!」

 今までになく激しく喚き散らしたロトは、突き上げる吐き気と恐怖に全部をのみこまれて、また、えずいたあとに沈黙する。黒猫は、すべてを少し離れた場所から見守っていた。

 ロトは、嵐のような衝撃が過ぎ去ったあとに、帰ってくれと、ささやいた。――それから、ごめん、とも。

 黒猫はしばらく彫像のようにかたまっていた。だが、そのうちにひらりと身をひるがえすと、鳴きもせず窓枠に飛び乗る。前足と体を使って器用に戸を開けて、どこへともなく姿を消す。ロトは様子を見てはいなかったが、気配とわずかな音で、黒猫が去ったことを察した。

 また、涙がこぼれて、床に染みをつくる。だから嫌なんだ、と心の中でささやいた。

 あの黒猫に罪はない。

 けれど、あまりにも似すぎていた。まなざしも、身のこなしも、後ろ姿も――先程のような立ち居振る舞いも。

 苦しいほどに、悲しいほどに、勇士と呼ばれた猟犬を重ねてしまう。

「……もう、無理だ。二回も、あんなのに、耐えられるか、って……の」

 乱れた呼吸の下で、言い訳のように呟いたロトは、そのままうずくまる。しばらく後、知己ちきが扉を叩くまで、立ち上がれなかった。

 

 そして――その日以降、大きな黒猫は、少年の前に姿を現さなくなった。

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