Ⅰ-ⅲ イサ
1 黒猫
彼が大きな黒猫に出会ったのは、街に来て二年が経とうとしていた頃だった。
ロトは、流れる声に引き寄せられて、立ち止まった。祈りの声。自然界、万物を司る六柱の神に捧げられる、感謝と願い。何年経っても耳になじまない文句を追いかけてみれば、自分が教会のそばにいたことに気がついた。今はちょうど礼拝の時間なのだろう。少し耳を澄ませ、けれど、すぐに興味を失って、ロトはまた歩き出した。
ひとけのない通りを抜け、小路にさしかかったところで、あくびをかみ殺す。
「明日は
意味もなく呟いた。
彼の商売は、二年という時の中で、じょじょに知名度が上がりつつあった。「便利屋」の存在が知れ渡ってきたのはよいことだが、雑多な仕事が増えてきている。しかも、仕事だけやっていればいいというわけではないのだから、厄介な身分である。
「でも、ま……生きていられるだけまし、ってか」
浮かんだことを口にしてみると、自然と自嘲の笑みが浮かぶ。ロトはかぶりを振ってそれを打ち消すと、自宅の方へつま先を向けた。
そのときだ。通りの奥から、激しい猫の声が響いてきたのは。
突然のことに肩が震えた。ロトは眉をひそめ、足を速める。聞こえる鳴き声は一匹だけのものではない。混沌とした状況を示すかのように音と音がまざりあい、不快な旋律に変わって耳に届く。
「なんだよ、野良猫の縄張り争いか?」
ぼやきながらも、ロトは歩を進めた。角をひとつ曲がった先で、案の定、数匹の猫が揉み合っている。いずれも首輪や飾り物はつけておらず、薄汚れている。叩き、ひっかき、かみつき――団子のように絡み合う猫たちを観察し、ロトは肩をすくめた。けんかは結構、しかしよそでやってほしかった。
触らぬ神にたたりなし、知らないふりして通りすぎるのが得策か。ロトは小さくため息をこぼし、踵を返す。遠回りになるがやむを得ない。猫たちの争う声は止まる気配がない。
あきらめて、彼がその場を立ち去ろうとした瞬間。その場にいる猫のものではない、低い鳴き声がした。同時に激しい鳴き声もやむ。親玉か何かだろうかと、好奇心をくすぐられた少年は振り返った。そして、軽く目をみはる。
揉み合っていた猫たちを、どこからか現れた黒猫がにらみつけていた。しかもこの黒猫、かなり大きい。まわりの成猫が大きい子猫に見えるくらいには。黒猫は微動だにしない。にらまれていた猫たちも、呆然とした様子でかたまっていた。だが、やがて、猫団子の中から一匹がはいでてきて、黒猫にむかって威嚇する。
やめればいいのに。ロトは胸中で呟いた。
少しの間は毛を逆立てていた猫だったが、黒猫が――まるで人がするように――ふんっと鋭く鼻を鳴らすと、とうとう切れたのか、フーッと言って黒猫へ飛びかかった。黒猫は、怒る様子を見せない。ただ、のそっと身じろぎすると、大きな体に似合わない軽快な動きで、爪と牙をかわしてしまった。
黒くて大きな猫の、舞うような回避。ロトは目をみはり、息を詰めた。否が応でも頭の奥が刺激される。口は自然と動き、音のない言葉をつむいだ。
つまらなそうにしていた黒猫は、ふっと、ロトの方を見た。挑むような、にらむような視線。彼が抱いたそんな印象は正しかったようで、猫はすぐ、背中を丸めて威嚇してきた。だが、ロトは眉ひとつ動かさない。今までとまるで変わらないように、けれど少しの感動をこめて、黒猫を見つめ返す。
しばらくの沈黙。そうして、「にらめっこ」に負けたのは、黒猫の方だった。警戒態勢を解き、なーお、と低く鳴くと、反転してどこかへ歩いていく。ロトは尊大な黒猫に何を言うでもなく、去りゆく猫の尾を見送った。
その目が思い出を懐かしむようゆるんでいたことには、ロト自身も気づいていなかった。
少し迷ったものの、ロトは結局、回り道することを選んだ。礼拝の時間が終わり、活気が戻った通りをふらふら歩いていると、突然、横から肩を叩かれる。ちらと見てみれば、なんとなく高級そうな長衣をまとった浅黒い肌の男が、重そうな本を抱えて立っていた。その背後には、似たような本がつまった箱が置かれている。運ぶのが大変そうだ、と、ロトは冷めた感想を抱いた。
「やあやあお兄さん、頭良さそうだね。魔術に興味ある? ちょっとこの本、見ていかない?」
男は愛想よく笑って、本をさしだす。だが、ロトは、それを乱暴に手で払った。
「あのな。俺は忙しいんだ。贋作魔術書の押し売りに付き合ってる暇はない」
「おや」
男は大仰に肩をすくめる。
「贋作の押し売りって、ずいぶんな言いようだなあ。たまには本物も売ってるのに」
「たまにはかよ。……だいたいおまえ、俺の素性知っててやってるよな。当てつけもいいところだ」
見逃してやってるんだから感謝しろ、ととげとげしく返すと、男はほほ笑んだ。先程までの軽薄な笑顔でなく、親しい友人に向けるような微笑。「これはこれは、ずいぶんと手厳しいね、少年」とわざとらしくおどけた後、問うてくる。
「で、どうしたんだい。魔物に化かされた人みたいな顔して」
芝居がかった口調が崩れ去る。ロトも、ほんの少し、子どもっぽく唇を尖らせた。
「微妙なたとえを出すな。別になんもないよ、変な黒猫を見たってだけで」
「変な黒猫? また、おもしろそうな話だね」
「おまえが期待するほどのもんじゃない。でかいくせに身軽な黒猫だったから珍しく見えただけ」
彼はそっけなく言ったのだが、魔術書――ほとんどが贋作――売りの男は、目をみはった。
「ねえ、ひょっとしてそれ、『暴れ猫』じゃないのか」
「『暴れ猫』?」
「巷で噂になってんの。でかくて目が金色、毛が黒の野良猫だろう。そいつ、すごい凶暴で、人を襲うこともあるらしい。実際、そいつにひっかかれたりかまれたりして怪我をしたやつを何人か知ってる。気をつけた方がいいぜ」
言いながら、男は肘で軽くロトの腕を小突いてきた。少年はわずかに眉をひそめたのち、自分が歩いてきた道を振り返る。猫たちの揉め事をあっという間に収めてしまった黒猫の姿が思い出された。
「人を襲う、ねえ」
他人事のように呟いてから、威嚇されたことを思い出し、もしかしたらそうなってたかもしれないな、というふうには、思った。
家に帰ったロトは、今日の依頼内容と報酬を整理した。それから適当に食事をとったあと、書斎で黙って机に向かう。ときどき顔をしかめながら、上等な紙に文字を綴ってゆく。五枚に及ぶ「報告書」を書き終えたころには、強烈な夕日の光が、部屋のなかを赤々と照らしていた。ロトは手を組んで、大きく伸びをする。何気なく、窓の外を見て、驚いた。黒い影が、ふわり、と横切った気がしたのだ。
「……なんだ?」
ロトは立ち上がり、慎重に窓の方へと歩み寄る。どうせ気のせいだろう、と思いつつ、黒い影が通った方をのぞきこむと――ふたつの金色が、彼をのぞきこんできた。
「うわっ」
少年は、奇妙に裏返った声をあげて、のけぞる。大声に反応してか、なー、と低い鳴き声がした。ロトは、そこでようやく、大きな黒猫が窓枠に飛び乗ってきたのだと、気づいた。つかのま暴れた心臓を落ちつけたあと、猫の顔をまじまじとのぞきこむ。
「おまえ、昼間のやつか。何しに来た」
答えはなかった。猫は窓枠に腰を下ろしたまま、くつろいでいる。ふてぶてしい態度は、昼間の彼そのものだった。しかしながら、昼間のように他者を威嚇する気配はない。ロトは、放っておこうかとも思ったが、部屋の隅に猫の気配があると、それだけで妙にそわそわする。
「しかたねえな」
大きくため息をついたロトは、一度、台所へと入った。ご丁寧にぶら下げていた魚の干物をひとつ手にとり、いなくなっていてくれないかと期待しながら書斎に戻る。――黒猫は、部屋を出る前と同じように、座していた。もう一度ため息をついたロトは、足早に窓際へ寄ると、黒猫の鼻の上あたりに、干物をぶら下げた。猫のひげが動き、尻尾がぴくんと跳ねあがる。凶暴かつ尊大な猫でも、体は正直らしい。
瞳孔の細い金の瞳が、じっと、餌を見つめる。その瞳に、また頭の奥を刺激された気がして、ロトはつかのま、たじろいだ。けれど、次の瞬間には、悪戯心がくすぐられる。
「
本来ならば十かぞえるところだが――五、が終わりかけたところで、黒猫がいきなり激しく干物に手をのばした。なーうぅ、といらだたしげに鳴いている。ロトは肩をすくめて、干物を猫に与えてやった。俊敏な動きで魚にかぶりついた黒猫は、そのまま器用にくわえて立つ。
「ま、そうだな。おまえは猫だもんな」
語りかけるように呟けば、黒猫は魚をくわえたまま首をひねる。ロトはふっと、目を細めた。
彼の言葉と、表情に、黒猫が何を思ったのか。ロトにはわからない。そして猫も、どこまで少年の言葉を理解したのか判然としなかった。ただ、彼は、しばらく黙したあと、ひらりと体を反転させて窓から飛び降りた。きっとそのままどこかへ駆け去ったのであろう、猫の残した影をロトはじっと見つめていた。
その日の夜、久しぶりに夢を見た。赤くて暗くて悲しい夢だった。やがて朝が来て、外から聞こえる低い声に目ざめをうながされたロトは、不快な夢の残滓を振りはらって外に出る。家の戸口に大きな黒猫がたたずんでいるのを見て――思わず、吹き出してしまった。
それからというもの、黒猫は気まぐれに、便利屋の魔術師のもとへやってくるようになった。
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