7 魔術師と猫

 硝子越しに見えるわずかな線は、汚れと見まごうほどかすかなものだ。油断すると見落としてしまいそうな線の切れはしを丹念に探しだし、つないでゆく。わずかな陽光がさしこむ地下墓地には、カリ、と小気味よい音が、不規則に響いては途切れ、また響いて、を繰り返している。

 手にした小刀を動かしているうちに、自分がやっているのが方陣の修復ではなく彫刻なのではないかと錯覚しかけて、ロトはかぶりを振った。浮かんで消えて、途切れない雑念を振り払い、壁を彫ることに神経を集中させる。

 どれほどの時が経ったろう。いい加減に投げだしたくなってきた、と思ったとき、終着点が見えた。小刀が生み出す線はやがて、別の線とつながって、ひとつのきれいな円を完成させる。細く息を吐いたロトは、小刀に鞘をはめると身をひいた。そして思わず、声をあげた。作業を始める前には薄汚れた灰色にしか見えなかった石の壁に、緻密な方陣が浮かびあがっている。歪みのないひし形を基礎とした結界方陣は、早くも淡い光を放ち、式によって定められた役目に沿って動きだそうとしていた。

「お疲れ様」

 背後から声をかけられ、ロトは振り返った。同じように小刀を手にしている老紳士を見、肩をすくめた。

「あれから三日か。ようやく終わったな」

「うん。すまないね、手伝ってもらって」

 申し訳なさそうにするトーマス・クレインに、ロトはいや、と首を振る。ちらりとクレインの背後へ視線を投げかけると、こちらも壁に再生された方陣が刻まれていて、同じように動きだしていた。

 地下墓地を発見したあの日、改めて死者の魔力が漏れだしてしまった原因を探った。その最中、クレインが、かつては墓地の壁に方陣が刻まれていたことを思い出した。それが魔力の漏出を防ぐためのものだと、いち早く気づいたロトは、老人とともに調査を始めた。案の定、ほとんど消えてしまっていた方陣の痕跡が、四方の壁すべてから見つかったのである。それから三日間、二人の魔術師は方陣の再生にかかりきりだった。

「ま、放っておいて害のあるようなもんでもないんだけどな。猫がいなくなった、って騒ぎが街中に広がっても困るし、いずれは教会に苦情がいく可能性もあったから」

「そうだね。けど、不思議なことに、あれ以降も猫が変わらず来るんだよ。数はぐんと減ったけどね」

 墓地を軽く掃除したあと、地上へ向かう石段をのぼりながら、二人は言葉を交わす。クレインからもたらされた近況に、ロトは「ふうん」とそっけない反応を示した。猫の思考回路は半分も理解できないが、もしかしたら先祖かもしれない猫の死に、思うところがあったのだろうか。

「昨日は配達の坊やも来てくれたしね」

 上機嫌に語ったクレインは、それからふっと、ロトへ探るような視線を注いだ。彼が首をかしげていると、クレインは急に「君は、坊やと親しいのか」と訊いてきた。ロトが曖昧にうなずくと、老紳士は考えこむそぶりを見せる。それから、ためらうように口を開き、話しだした。

 話の終わりに青年は、はっと息を詰めた。

 

「ロト兄ちゃんー!」

 猫の行方不明騒動がゆるやかに終息しつつある、ある日の夕方。人の流れに乗って歩いていた青年のもとへ、元気に叫びながら、帽子をかぶった少年がやってきた。今日は腰のあたりで、不釣り合いな大きい鞄が揺れている。

 ロトは少年の帽子を軽く叩いたあと、ため息混じりに苦言を呈した。

「街中で名前を叫ぶな」

「へへっ、いやあ、ごめん」

 少年は頬を緩め、頭をかく。まったく悪びれた様子のない少年の態度に、ますます呆れ、柄にもなくお小言でも並べてみようかと思ったとき。にゃーん、と甘い鳴き声が、足もとから響いたのに気づき、ロトの視線は地面に吸い寄せられた。茶色い毛に白いまだら模様の子猫が、少年の足もとに座りこんで、ロトを見上げている。

「今日はトリステスも一緒なのか」

「おうよ! いつもは自由にぶらぶらしてるんだけど、今日はなぜか、おれのそばから離れなくてさ。一緒に散歩、することにしたんだ。今日はクレインおじいさんがお祈りしにいくって言ってたから、そっちにも顔出そうと思うし」

 胸を張って言ったルゼは、それからトリステスを抱き上げてなでる。子猫は嫌がるふうではなく、むしろ嬉しそうに、主人へ頬をすりつけている。ルゼはトリステスと少しの間そうしていたが、急に目を見開き、猫の顔を正面から見た。

「ああ、そうだ。今日は父ちゃんが、漁師のおっちゃんから魚もらって帰ってくるんだってさ。出る前に聞いたけど。よかったなあトリス、今日はお魚が食べられるぞー」

 言葉の意味を察したのか、無邪気な笑顔につられたのか、トリステスが嬉しそうに鳴く。どこまでも仲良しな人と猫を横目で見ていたロトは、わずかに眉を寄せた。あえて軽い調子で「そういえば」と声をあげると、ルゼがこちらを見上げてきた。

「なんで、おまえの家ではトリステスを飼うことにしたんだ」

「ん? 聞きたいか」

「まあ、それなりに」

 ロトが適当に答えると、ルゼは、ほほう、とわざとらしく言う。二人はどちらからともなく歩きだし、ルゼが話を始めた。

「もともと、うちでは代々猫を飼ってるんだって。でも、父ちゃんの代ではまだ猫がいなくってさ。うちも金に余裕があるわけじゃないから、どうしようって父ちゃんも母ちゃんも話しあってて。そんなとき、おれが道端で泥だらけのトリスを見つけて連れて帰ったんだよ」

「じゃあ、もともと捨て猫か何かだったのか」

「そうなんじゃないかな。捨てたのが人間か親猫かは知らないけど。おれが飼いたいって言ったら、父ちゃんも母ちゃんも賛成してくれて飼うことになって、今にいたるってわけよ。トリステス、っていう名前は、父ちゃんとおれが二人で頑張って考えた……って、ほとんど父ちゃんが考えたも同然だけどねー」

 なートリスー、と甘い声で呼びかけて、ルゼはトリステスの頭にほんの軽く、顔をうずめる。その様子を少しながめたあと、ロトは彼のさらに向こうへのびる建物の列をながめた。見える範囲にあるわけではない教会に、自然と意識が向く。

 老紳士の穏やかな、そして悲しげな声が、耳の奥によみがえった。


『――あの坊やの祖父は、魔術師だったんだ』

 結界方陣を彫り終えた帰り。クレインは唐突に、そう語りはじめた。

『あいつの祖父が?』

『そう。優秀な魔術師だった。たまに議論を交わす程度には、仲が良かったよ。しかし、待望の息子が生まれてくる前に、あの事件の中で命を落としてしまった。飼い猫とともにね』

『飼い猫……』

『古い言い伝えを信じているのか、彼の家では、迷信を恐れもせず、代々猫を飼い続けていた。父の顔を知らぬ息子にも、その話だけは伝わったのかもしれないと……坊やと、あの子猫を見て、なんとなく思ったのさ。名前はきっとその息子が、坊やの父がつけたんだろうね。あの事件のことをどこまで知っているかはわからないが』

『ルゼは、知らないみたいだった。本人からも魔力は感じられない。素質を受け継がなかったのか、まだ発現していないのか』

『今の年齢ではどちらとも言えないね。けど、もしいつか、発現したのなら……君が支えになってやってくれ』

『俺はあいつとそこまで親しいわけじゃない。支えてやれる保証はない』

『そんなことはないだろう。――君は、本当に』


 その先、クレイン老人が何を言ったのか、ロトには聞きとれなかった。聞き返してもはぐらかされてしまったが、なんだか楽しそうだった。本人が言わなくていいならまあいいか、と、ロトは続きを聞くことをあきらめた。それよりも、と、再び少年と子猫に意識を向ける。

「『悲しみトリステス』か……」

 いずれ、ルゼが本当のことを知るかどうかはわからない。もし、知ってしまって、その上で彼が自分を頼ってくるのなら、何か教えてやることはできるだろうとは思う。今はそういう気がまえをしておくだけでじゅうぶんだろう。

「あ、イサ」

 ルゼの明るい声が飛ぶ。同時に、背後から低い鳴き声が聞こえてきた。記憶を刺激されたロトが振り向くと、道の端から大きな黒猫が、こちらへ向かってゆったり歩いてくる。ロトを見上げたあと、視線をルゼに移し――すぐ、目をそらした。

 おまえに興味はない、とばかりの態度に気づいているのかいないのか、ルゼは明るくイサに声をかける。

「どうしたんだ。あ、ひょっとしてイサもお祈り、行きたいのか?」

 イサは、なー、と低い声で鳴いた。感情の読みとれぬ声だが、少なくとも怒っているわけではないらしい。猫の反応を肯定ととったのか、ルゼは「じゃあ、いい時間だし、行こうか」と言うなり、くるりと反転して駆けだす。取り残されたロトとイサは、どちらからともなく互いを見た。ロトの方がしゃがみこみ、黒い頭をくしゃりとなでる。

「よかったじゃねえか、黒猫。あいつの中でおまえは、『勇士イサ』で定着したみたいだぜ」

 黒猫はひくひくひげを震わせたのち、うなー、と鳴く。えらぶったような声色に、なんとなくだが言いたいことを察したロトの方が、挑発的に笑った。

「馬鹿ぬかせ。まだまだ、には及ばねえよ。俺に飯をたかるときぐらい、もうちょっと行儀よくなってもらわなきゃな」

 そう言い捨てると、黒猫のイサは不服そうに鼻を鳴らしたが、すくっと立ち上がるなり、ロトの隣にぴったりつく。放浪猫というよりは忠犬のような姿に、ロトは思わず吹き出した。

「あれ、兄ちゃんは行かないのかー?」

 夕日に照らされる道のむこうから、少年の声が聞こえる。ロトは、自由にして従順な猫を見おろしたあと、少年の帽子を目で追った。

「今行く。慌てて走って転ぶなよ」

 大声で呼びかけ、大丈夫だって、という言葉を聞きながら、青年は黒猫を伴って駆けだした。

 

 それ以降、飼い猫が主人の前から姿を消して帰ってこない、というたぐいの話はぐんと減った。

 けれど今も、夜になると、教会のそばから猫たちの鎮魂歌が高らかに響いている。



(Ⅰ 猫たちの鎮魂歌・終)

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