Ⅰ-ⅱ 夕焼け色のおくりもの
1 帽子と夕空
ルゼがはじめて青年に出会ったのは、一年ほど前だった。配達と新聞配りの仕事を始めたばかりで、同じ職場の少年たちがとげとげしい視線を向けてくることを不思議に思いながらも、毎日がむしゃらに働いていた頃のこと。
夕方。黄金色に染まる大通りを、ルゼはとぼとぼ歩いていた。はっきりとは覚えていないが、仕事で何か失敗をしたのだ。だから彼の目にいつもの明るさはなくて、彼の顔はいつもよりずっと、うつむいていた。緑の
ぽん、と帽子に何かが触れて。ルゼは、はっと顔を上げた。帽子が自分から離れて、またすぐに戻ってくる。思わず見上げると、左側からのびた手が、落ちそうになっていた大きな帽子をつかんでいたのだ。
「ちゃんと落ちないようにしとけよ」
明るい声が飛び交う中、暗い響きは驚くほどはっきりと、ルゼの耳に届いた。声の方を辿ってゆくと、深海のような深い青色の瞳を見る。ルゼは、そこではじめて、自分のすぐそばに、明らかにグランドル人でない青年が立っていたことを知った。
「あ、うん」ルゼは帽子をおさえつけ、しどろもどろになりながらも、とりあえずお礼だけは言う。「ありがとう」
青年はなんの反応もしなかった。ただ、少しだけ珍しげにルゼを見ていた。そして、ルゼの方は目を見開いた。彼が、よくこの通りを歩いている人間だということに気がついたのだ。職業柄、街の人々と接する機会が多く、また物覚えがよいルゼは、この通りを頻繁に歩く人々の顔を、おそろしいほどはっきり、しっかり把握していた。
けれど、同時に、自分が覚えていても相手が覚えているとは限らない、とも知っていた。だからルゼは、少し苦しいかと思いながらも笑顔を貼りつけ、その場から立ち去ろうとする。急いた少年をひきとめたのは、青年のきれいな声だった。
「しけた顔してるな。――おまえも、そんな顔をするのか」
「……え?」
ルゼが目をみはって振り返ると、青年は変わらぬ仏頂面で彼を見ている。
「いつも笑って大声あげて、新聞配りしてる印象しかないからな」
驚いた。
彼に覚えられているとは思っていなかった。
新聞を配る子どもなど、しょせん人の頭の片隅に一瞬だけ残って、すぐ消える存在だ。
けれど、彼は、覚えていた。
「いつもの笑顔はどこいったよ」
青年は、ほんのわずか口の端をもちあげて、そう言う。ルゼはぽかんとして、彼の顔を見て――わきあがった感情を隠して、唇をとがらせた。
「なんだよ、それ」
――あんただって、さびしそうな顔してるじゃないか。
続いた言葉は音にはならない。
だから、青年は、ルゼの心中にも自分の傷ついた瞳にも気づかず、怪訝そうに首をひねった。
それから彼とは、幾度となくこの通りですれ違う。
彼は、やはりときどき、とても寂しげな――つらそうな顔をした。
※
「ルゼ、減点な」
直接の上司からそういわれれば、もう、うなずくほかはない。ルゼは小さな声で返事をしつつ、頭を軽く動かした。頭の中で減点の回数を数えながら。
大丈夫、まだこの三月で二回しか減点くらってない。まだお給料は下がらないよな。
念じるように繰り返しながら、そろそろとこの配達屋の主――通称「局長」――の顔をうかがえば、五十になろうかという恰幅のよい茶髪の「おじさん」は、苦笑を浮かべていた。
「そこまで落ちこまれると、悪いことしてる気分になるじゃねえか。ま、しかたねえさ。新聞なんて誰もが買ってくれるもんじゃねえ。配り歩きはじめたのだって、最近のことだろう」
「局長のいう最近って、おれたちにとっては昔ですよ」
上司のなぐさめにいつもの調子で答えれば、彼は青灰色の瞳をくりくり動かしながら、おおっといけねえ、と肩をすくめる。軽妙な言動につきあっているうち、心が軽くなったように感じたルゼは、気を取り直して背筋をのばした。
「でも、うん。売上が少なかったのは事実です。明日から、もっともっと、がんばります」
「おお、無理するなよ」
局長はひらりと手を振って、奥の方へひっこむ。目をこらすと、小荷物を受け付ける窓口に、ルゼよりわずかに年下であろう少年少女の姿が見えた。子どもが届け物を出しにくることはほとんどないので、さすがの局長も驚いた様子だ。
だが、彼がみずから対応するというのであれば、下っ端のルゼに出る幕はない。減点の一言を改めて噛みしめ、小屋のような配達屋を出ようと踵を返す。そのとき、すぐそばから嘲笑が流れてきて彼の足を止めた。
「お、またルゼか。また、お給料減らされるんじゃないの、あいつ」
「まあ、あいつに近づいてまで新聞買おうなんて物好き、いくらヴェローネルでもそういないだろうしな」
建物のすみで声をひそめて話しているのは、二人の少年だ。どちらもルゼと同じ年頃で、決して身なりがよいわけではないのだが、ルゼやほかの新聞配りの子どもたちに比べれば、こぎれいな格好をしている。いつも子どもたちのなかでいばっている二人は、この日も例にもれず、まわりに冷やかな目を向けている。そばを通った茶髪の少女が、心底迷惑そうな顔をして、局長の方へ駆けていった。
ルゼはため息をつく。からかわれる前に、この場を離れた方がよさそうだ。ルゼはとびきり大きな声で挨拶をしたあと、逃げるように配達屋を後にした。口には出せない少年たちへの反論を、心の中で叫びながら。
――いいよ。おまえらのいう「物好き」、何人か知ってるからな!
黒い学生服の集団が通りすぎたかと思えば、上質そうな白い布が、視界の端でひらりと舞って、通りすぎてゆく。ヴェローネルの、夕方の大通り。日没の鐘まではまだだいぶあるから、人の姿もまだ多い。やかましい通りの隅を、ルゼは、しかめっ面で歩いていた。
ほんの少しの強がりを見せたとはいえ、陰口を叩かれたあとというのは、実に気分が悪いものだ。それに、今日は目標売上を達成できなかった。たった一度、それでもあせりは募る。次がないようにしないと、と思いながら、ルゼはつま先で石畳を蹴り上げた。そのときちょうど、風が吹いて、軽く持ち上げられた帽子が頭からずり落ちた。
「あっ」
ルゼは慌てて帽子のつばをつかむ。その拍子に、体が大きく傾いた。まずい、と思ったとき、後ろから片腕を思いっきりつかまれた。
「おわっ」
「……おまえ、実は落とすために帽子かぶってるのか?」
背後から、呆れを含んだ声がかかる。かろうじて立ち直ったルゼが振り返ると、左腕をつかんだまま、一人の青年が冷やかな目で見てきていた。少しばかり鋭くつりあがった目と、細くて高い鼻はグランドル人にはない特徴だ。きっと嫌でも覚える顔だろう。けれど、ルゼは嫌どころか、むしろほっとした。この青年こそ、「物好き」の一人なのだから。
「落とすために帽子かぶるやつが、どこにいるよ」
帽子をかぶりなおしながら、ルゼはそう毒づいた。青年は「そうか?」などと言って腕を組む。ルゼはお礼を言ってから、彼をじっと見上げた。
「それで、ロト兄ちゃん。ここで何してるんだ」
「俺? 仕事の帰り」
自分を指さしたロト青年は、あっけらかんと言う。仕事、と繰り返したルゼは、ロトをまじまじと観察した。ほんの一瞬、違和感を抱いて、その正体をすぐ突き止める。珍しいことに、彼は腰から短剣を数本ぶら下げていた。ふだんならあり得ない、物々しい格好を見て、少年は唖然とする。
「えっと。仕事って、なんの仕事?」
「荒事。聞かない方がいいぜ、たぶん」
予想どおりとはいえ恐ろしい回答に、ルゼは今度こそ言葉を失った。ロトはしばらく彼を仏頂面で観察していたのだが、通りすぎる学生の一団を目で追ったのち、口を開いた。
「今日はやけにいらだってるな。何かあったのか」
ぎくり、と体をこわばらせる。さすがに先程までの態度は、いらだっているように見えたらしい。事実である。ルゼは少し悩んだあと、あえて軽い調子で答えた。
「えっと、あれだ。職場のニンゲンカンケイってやつだ」
彼が人さし指を立てながらそういうと、ロトは眉を上げた。おおよその事情を察したようだ。
「へえ、おまえでもそういうことがあるんだな。意外だ」
「おれにもいろいろあるんだよー」
ちっち、と指を振りながら、ルゼは言った。どちらからともなく歩きだし、ロトは静かにルゼを見おろしてくる。そしてルゼも彼を見返した。
最初に見たときは、不思議な人だなと思った。彼が新聞配りでよく通る道と、彼がよく歩く道が同じなのか、名前は知らずとも顔はなんとなく知っていた。おそらく、お互いにそう思っていただろう。そんなルゼが、青年の名を知るにいたったのは、およそひと月前、「飼い猫が帰ってこない」という騒動を一緒に調べた一件だった。単なる猫探しのつもりが教会そばの秘密の地下墓地を発見し、老紳士からヴェローネルで起きた凄惨な事件について知らされるという、なかなか衝撃的な一夜になった。帰ってこなかった猫たちは無事に見つけて帰すことができたし、ルゼとロトの間に奇妙な信頼関係が築かれるきっかけにもなった。あの夜のことは、今でもはっきり覚えている。
北地の魔術師、と呼ばれていた青年の瞳を、ルゼはじいっとのぞきこむ。
「兄ちゃんには、そういうこと、ないのか。んと、誰かに嫌なこと言われたり、とかさ」
なんとなく、訊いてみた。ロトの答えはあっさりしていた。
「あるよ」
「あるのか」
ロトがあっけらかんというものだから、ルゼはつい大声を出してしまった。口を押さえる少年を見、ロトは肩をすくめる。
「そりゃ、あるよ。たくさんな。職場の人間関係……ってのとはちょっと違うけど。この間も、役人と言いあいしたところだ」
「えっ。役人って、市庁舎の職員さんか。兄ちゃん、度胸あるな」
「あいつらとやりあうのはいつものことだ」
やりあうって、敵かよ。そうルゼが言うと、ロトは肩をすくめる。その姿がなぜかおかしく感じられて、ルゼはとうとう吹き出した。
通りを歩く人の姿は少なくなってくる。青年と少年は青い屋根の家の近くまでともに歩いて、そのあと、別れた。自分の家に帰りつくころ、ルゼの心はほんの少し、軽くなっていた。
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