5 グランドル暦百九十三年七月の話

 あの頃、私はまだ若く、ヴェローネルは学術都市ではなかった。とはいえ、私も時たま「トムジおじさん」なんて呼ばれる年にはなっていたし、ヴェローネルでは学校が次々と建ちはじめて、街の様相がかなり変わってきていたよ。

 うん? なんで「トムジおじさん」だったか、って? そりゃあ、私はトーマス・クレインだからね。あだ名は自然、トムジになるだろう。

 まあ、そういう話はまた今度ゆっくりしてあげるから、今はいったん置いておくよ、配達の坊や。

 

 そのとき、ヴェローネルや王都では急速な学問の発達が見られたけれど、ほかの町や村は旧態依然としていたよ。読み書き計算のできない大人も多かった。だからね、魔術師への理解もないに等しかった。魔術を知らない人々にとり魔術師は、魔物と同じ妖しいわざを使う「まじない師」か「化け物」でしかなかったんだよ。その認識は、ヴェローネルのような場所にも根強く残っていたね。だから、私のような魔力持ちや魔術師は、自分の素性を隠しながら生きるしかなかった。

 けれど、それも、慣れてしまえば窮屈だとか考えなくなったよ。街の人々はみな優しかったし、子どもたちは天真爛漫で、見ているこちらが元気をもらえるほどだったから。――ああ、そうそう。当時の私はね、道端で小さな子ども相手に教師の真似ごとをしていたんだ。昔っから人にものを教えることが好きでね。子どもたちの気を引くために、たまにはうちの猫を連れてったりもしてたなあ。

 ときどき、おんなじ境遇の人たちと会って話をすることもできた。自分の近況だとか、研究成果だとか――いろんな話を持ち寄って、人目につかない廃屋で語り明かすんだ。ふふ、楽しそうだろう。楽しかったよ、本当に。


 当時、暗い噂はすでに届いていた。あちこちで、魔術師を公然と差別したり殺したりする人たちが出はじめていて、あまつさえそれを推奨する運動まで行われていたらしい。……そして、魔術師たちは魔術師たちで、屈辱と怒りにたえかねて、一般人に向かって術を放ってしまうこともあったというから、たちが悪い。

――そう。青年の言うとおり、魔術はそうやすやすと人を傷つけるのに使えるものじゃない。しかしね。このときは大陸全体が荒れていたから、道具にしろ術にしろ、攻撃性のあるものが研究されたり、作られたりしていたのさ。北地ヴァイシェルの民からすると、信じられないだろうけれどね。

 そんな事件が、一気に暴動、あるいは紛争に発展する事件があった。遠く南の町で、町民と流れの魔術師の集団がもめて、互いに多数の死者が出たんだ。それぞれが相手の悪辣さや不気味さをあげつらい揉み合って、軍が介入する騒ぎになったんだそうだ。

 その一報を聞いたとき、ヴェローネルは少々雲行きが怪しかったが、まだ平和な方だった。だから南の事件を恐ろしいと思いながらも、他人事のように聞いていたんだ。

 すぐに、そうもいかなくなったけどね。

 暴動は暴動を呼び、魔術師弾圧運動に変わって、国じゅうに広まってしまったんだ。そしてとうとう、ヴェローネルでも事件が起きた。

 

 七月も半ばを過ぎようという頃だった。その年の七月はとても暑かった。かっ、と肌を焼くような熱が空からも地面からも襲いかかってくるような感じだった。よく覚えているよ。

 その夜、私はいつもより遅くまで起きて本を読んでいたんだ。飼い猫の帰りを待ちながら。うちの猫は、日がな一日街中をぶらついて、夜と朝だけ家にいることが多かった。猫はそういうものだろうと、私は思っていたから、別にそれでもよかったんだ。帰ってきてくれることが嬉しかった。だからこの日も、当然のように待っていた。

 のそばで本を読んでいるからね、だんだん暑くなって汗ばんでくるんだ。少し風にあたろうかな、というふうに思って、私は家の外に出たんだよ。角灯片手に扉を開けて――そのとき、違和感に気付いた。

 涼しげな風に乗って、ほんの少し、おかしなにおいが漂ってきたんだ。鉄の臭いだって、すぐにわかった。なぜだろうね。

 におった瞬間は、なんとも思わなかった。ああ鉄くさいな、なんてぼんやりしていたよ。けどね、すぐにおかしいって気づいたんだ。この街の表通りに、こんな臭気が漂うのはおかしいとね。

 気づいたときにはもう遅かった。どこからか女の子の悲鳴が聞こえた。鳥がつぶれるように鳴いた。誰かの叫び声が街中をかき乱した。

 それが悲劇の始まりさ。いや。本当は、私が安穏と読書をしている間に、始まっていたのだろう。

 街じゅうから、剣のぶつかる音や何かを殴りつける音がしてね。林檎がにぎりつぶされたみたいな、ぐしゃっていう、嫌な音もした。あちこちで絹を裂くような声がして、あっという間に石畳は血でべっとりと汚れてしまった。呆然とその光景を見ていた私は、視界の隅っこで、一人の男の子が、大人の男たちにめちゃくちゃに殴られているのを見て我に返った。止めようかと思って踏み出したけれど、私の足の方が先に止まったよ。私がことを知ったときにはもう、男の子は死んでしまっていたんだ。

 私はそのとき、はじめて血が凍るような思いを味わったよ。夢中になって走った。一心不乱に教え子たちの名前を呼びながら走った。自分が殺されるかもと怖くなったこともあったが、そんなのはほんの一瞬だった。

 教え子や、知り合いの魔術師たちを見つけるたびに、私は必死で彼らを助けようとした。助けられた命もあったし、救えなかった命もあった。あるときは、魔術師の素養などまったくない小さな教え子が、目の前で、見知らぬ女性に刺し殺された。あるときは、私に夢を語ってくれた若い魔術師が、あろうことか私をかばって殴られ、水路に沈められた。

 トーマス、トムジ、おじさん、先生……いろんなふうに、私を呼ぶ声が、あった。ああ、悲痛な叫びや断末魔が、今でも耳に残っているんだよ。

 

 でもね。そんなことは、きっと、街のいたるところで起きていたんだろう。

 

 ヴェローネルで起きたこの虐殺事件、恐ろしいところはふたつあると、私は思っているんだ。

 ひとつは、魔術師だけでなく、魔術師を象徴するといわれる動物たちまで惨殺されたこと。猫やカラス、それに限らず黒い生き物なんかは、標的にされたみたいだ。あちこちに鳥の死骸があったし、犬猫の悲鳴も聞こえてきていたからね。

……そう、それにね。ふらふらと街の中を歩いていたとき、私は猫を見つけたんだ。私が帰りを待っていた猫をね。その子はね、ねっとりとして、茶色く固まりかけた血の水たまりの中に沈んで、動かなくなってしまっていた。呼んでも鳴いて答えてはくれず、私の方に前足をのばしてもくれず。ただ、手足の千切れた人形みたいにくたりとしていた。

 泣いたのかな。よく覚えていない。でも、きっと、すごく泣いたのだと思う。なんで探しにいかなかったんだ、っていう後悔が炎みたいに感じられたのを覚えているからね。そばにいてやれなくて、ごめんよ、と、何度も言った気がする。……今でも、この墓の前に立つと言ってしまう。痛かったろう、苦しかったろう、ごめんよ、って。

 

……ふう、すまない。これ以上話していると、止まらなくなりそうだ。恐ろしかったこと、二つ目の話に移ろうか。

 

 二つ目はね。ヴェローネルが学びの街として成長しはじめていた、ということだよ。そう不思議な顔をしなくても、これから説明するから大丈夫。

 ヴェローネルに集まる学生の中には、魔術や民間信仰を客観的に研究している人もいた。そういう人たちの中には、我々魔術師に一定の理解を示してくれる人もいたんだ。魔術師たちも、そうでない人たちから対等に扱われたことが嬉しくて、彼らに術のことや自分たちの価値観の話を広めて回っていた。もちろん私も。少しでも研究に役立てば、と思ってね。

 例の虐殺事件の折、そんな学生たちは、魔術師を殺そうとする人たちに立ち向かったんだ。全力で止めようとした。そして、止めようとして大けがをしたり、殺されたりする人が出てきた。最終的には、魔術師だけでなく一般人まで巻き込まれて、協力して魔術師を「始末」して回っていた人どうしが殺し合う、なんてことも起きたらしい。

 王国各地で似たような事件が起きていたがね、ヴェローネルの死傷者の数は群を抜いて多かった。皮肉なものだよ。我々の味方をしてくれる人がいたばっかりに、被害が大きくなってしまったんだ。

 

 うん? いや、私はその現場を知らないんだ。あとから知人に聞いたんだよ。何せ、そのときの私は、どうやって生きのびたかも覚えていないくらいだから。私を助けだしてくれたらしい人によれば、ごみだらけの路地の中から、やつれた顔をして出てきたらしい。さぞかしひどい有様だったろうな。

 そもそもどうしてこんな事件が起きたのか、という話もそのときに聞いた。やはり、市内での揉め事がきっかけだったらしい。揉め事じたいは、ささいな理由から起きたらしいが、揉めたのが魔術師と一般人だったこと、片方がもう一方に手をあげたことが、人の怒りに火をつけたらしいと、知人は言っていた気がする。話を聞いていたときは、どうもぼんやりしていたからね。記憶が曖昧なんだ、許していただきたい。

 

 ああ、でも。知人に助けられたときの光景で、はっきり覚えているものが、少しだけある。

 夜空に浮かんだ、きれいな満月。それから――彼の飼っていた猫たちの、慰めるような鳴き声だ。

 血と炎でまっ赤に彩られた市内で、月を見上げて、猫たちにほほ笑みかけたときだけは、気持ちが安らいだものだよ。

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