未来2

「また居た」

声が響く。誰の声だろうと思いながら目を開く。

開いた眼の先では、暗く淀みがちなヴァイオレット。

見間違いようのない、こいつはちび餓鬼だ。

って事は俺は、またこいつの所に意識が……?

瞬いて起き上がる。起き上がって俺は、自分に上掛けがかけられている事実に挙動不審になりかけた。

俺は今まで、触れなかったんじゃなかったのか。

なのに上掛けを被っているこの事実。

一体全体何なんだ。

数秒黙って、俺はちび餓鬼のヴァイオレットを見返す。

その目玉の向こうでは、俺の赤色が寝ぼけた色で光っていた。

「……ほんと、あなたはなんなのか」

「そんなの俺が聞きたいな」

鼻で笑って見せれば、ちび餓鬼の面に殴打の痕があった事に気付く。

「おい、誰にやられた?」

「……つい、三日くらい前のやつだから、気にしないでいい……」

殴打の痕は確かに紫色の具合と言い、黄色く変色した感じと言い、数日経過したのは事実だっただろう。

しかし。

この、人間をケガさせんのを嫌うちび餓鬼を、どうして殴った?

戦わない相手をなぜ殴った?

俺だってやらねえぜ、俺は戦ってくる相手を這いつくばらせんのは好きだが、戦わない奴や無抵抗の奴をいたぶる趣味なんざないからな。

「きにするぜ、お前は俺の弟子みてえなもんだからな」

俺の言葉にまあるくなるヴァイオレット。

そう言う顔をすると、ちゃんと感情がある人間に視えっから、こいつはちゃんと人間してるぜ。

「弟子……?」

「おうとも。俺様が教えてんだ。弟子に決まってんだろうが」

俺の言葉に、ちび餓鬼はいつも通りの無表情に変わって返す。

「勝手に決めないでほしい……」

そして外を見やって呟いた。

「雨だ……死体が腐りやすいから、早く仕事に行かないといけない……」

ぼうとどこを見ているのか知れない両目で、外の降りしきる雨を眺めたちびは立ち上がり、そして雨具を被って外に出て行く。

無論俺も強制的についていく。幸いなのか何なのか、俺は雨が降っても濡れない仕様だからな。

幽霊なのか意識だけだからなのか。

肉焔で死んだとは思えねえんだが、もしもってのが今回ばっかりはあるからなあ。

もてる男はつらいぜ、まったく。

そんな風にちびについて歩く。歩けば俺の知っている方角の、墓場とは違う場所に行くちび。

「仕事先違うのか」

「あそこは、この前疫病が流行って燃やし尽くされた……」

「ふうん」

死肉を扱う場所だからなあ。扱い方を間違えたら、病気だって招くだろう。

「……残ったのは、私一人……」

「そりゃあお前が、毒術使いだからだろうよ」

「関係あるの……」

「体から毒を生み出せる毒術使いは、病のすべてを自分の毒で溶かしつくしちまうからな」

俺をちらりと見やって、そう、と呟いた声はやはり静かで、こんな年の餓鬼の声音じゃねえよなと、いまさらながら思った。

こいつの精神年齢が高いのは、環境のせいだろう。

そしてこの諦めっぷりもまた、生活の中での結果だ。

何か知らねえが、むしゃくしゃするな。

あれだな、俺の気にいったちびが幸せじゃねえから、気に食わねえんだ。

俺様が認めた、これから最高峰の毒術使い(仮)になる予定のちびが虐げられてんのが、俺は気にいらねえんだろう。

「ほれ、行くぞ」

道なんて知らねえが、俺はそう言ってちび餓鬼を急かして背中を押した。

……って?

背中を押せる? 触れる?!

仰天したのは俺もちびも同じで、同じだけ目を丸くさせて数秒、見つめあってからちびが道を見た。

「帰ったら調べてみる……」

「おうよ」

押した背中のか細い感じが、妙にどきどきと心臓に悪かった。

たったそれだけで折れちまいそうな感じが、な。

仕事先はやっぱり薬品の香りが強い。

強いなんてもんじゃねえ。鼻に突き刺さる薬品と薬品と……死体のための香草の香り。

死体のための香草ってのは、天国とやらに行くためにささげられるいくつかの花だ。

その匂いはいつになってもわびしい匂いだ。

そして寂しい。

俺はその匂いの中で、ふと知り合いが幾人も死んだ戦争の後の葬式を思い出す。

真っ白な空間と、垂れ幕の黒と白と、人間の泣く声と祈りの声と、それから……鐘の音。

耳に突き刺さるように、わんわんと響く鐘の音を聞きながら生き残った事に、痛みのような物を胸の中で覚えていた。

その中でちび餓鬼はひたすらに、死体を飾っていく。

繕って整えて、そして。

意外な事なのだが、死化粧もまとわせていった。

「化粧もお前の仕事になったのか」

「……あそことは、仕事の系統が違うから。あそこは本当にぼろぼろになった人を直してあげるのが仕事。ここは最後に飾ってあげるのが仕事……」

だからと真面目に化粧をしていくその手つきに、俺は言う。

「へったくそだな」

「化粧なんてしたことがない……」

「もっと口紅はそっと引くんだ。瞼に飾るのはもっと淡い色。それじゃあ舞台化粧だ」

「わかるの……?」

不意に俺を見やるヴァイオレット。疑問形のまなざし。

「ちび餓鬼の世間知らずよりは知ってるぜ」

「……そう」

下を向いて亡骸に向けられた眼差しは、俺が知っているものよりもだいぶ、優しい物だった。

死体を最後に飾るこの仕事を、このちびは大事にしているんじゃねえのか、と頭の片隅で思った。

そして仕上げられた死化粧は、ちび餓鬼だけでできたものよりも、自然な優しい物になった。

金はもらっている。

んでも、気にいらねえのはそのたびにちび餓鬼が、がしがしと乱暴に扱われているのだ。

こんな細い骨のガキを、そんなに扱ってんじゃねえよ。

折れちまったらどうすんだよ。

そう思いながら帰路に着けば、ちびは路地裏に連れ込まれた。

「っ……!?」

ちび餓鬼は引きつった息を漏らして、路地裏に引っ張り込まれた。

普通の体格の男でも、この餓鬼にとってはかなり力の強い相手という事になる。

まして体格のいい男ならば、ちび餓鬼は連れ込まれるしかない。

引きずられていくちび餓鬼。

俺は何もできないで、その後をついていくしかない。

そして俺は……ちび餓鬼を思い切り殴りつけて、うっぷん晴らしをしてせせら笑っている奴らを心底、殺してやりたいと思った。

ちび餓鬼は慣れている。場数を踏んでいる。急所に入らない拳に蹴り。

ちび餓鬼はそれらを急所には絶対に入れない。

空恐ろしいな、ど素人がここまで体術のあれこれにまつわりそうな事をしているのだ。

「おいちび!」

だが俺は、怒鳴った。

「意識は保ってろ! 逃げ出す隙を見つけてやる!」

殴られまくっていたちびが目を開く。

俺の言葉を信じ切っている、信頼という俺には似合わない物を持っている目だ。

何もできない俺は目を細め、そしてそいつらの一瞬の隙を見出して怒鳴った。

「いまだ、しゃがんで飛び出せ!」

ちび餓鬼は言われた通りにしゃがみ込む。ほんの一瞬すっぽ抜けた体で、ちびは弾丸のように飛び出すように走って逃げ出した。

「逃げんじゃねえ!」

後ろで男どもが怒鳴っているが、ちび餓鬼は数多の通りを駆け抜け、路地裏を走り、橋の下の裏道を通り、目くらましをいくつも仕掛けて、そいつらを撒いた。

おいちび、真剣に見直したぜ。やればできんじゃねえの。

んでも。

鼻血を垂らして、袖でこすってさらに広げている顔はどうしようもなく、嫌な物だった。

「ああくそ、腹がたつ」

俺は怒鳴って、いきなりの怒鳴り声に身をすくめたちび餓鬼の顔を、思い切りぬぐった。

この手は何もつかめない、幽霊のように無力な腕だったはずだというのに。

手はその頬をぬぐい、ちび餓鬼が信じられないとヴァイオレットを見開いた。

「触れる……?」

「らしいな……でもほかの奴はだめみてぇだな」

俺はそう言い、周囲の壁に触ろうとした。

壁を俺は突き抜けた。いったいどういう物なのか、これは。

さっきも背中を押す事ができた。

色々試してみるしかねえな、これは。



というわけでいくつか色々試した結果、俺はちび餓鬼限定で触れるように、なっていた。

ほかの物は通り抜ける。

「いったい何の作用なのか……」

信じられないし理解できない、と言わんばかりのちび餓鬼だが俺も同じだ、馬鹿野郎。

と思いながらも俺は、もう一遍ちび餓鬼の茶色い荒れた髪に、指を通した。

荒れ放題だからなのか、あまり洗っていないからなのか、どこかねとっとした手触りだ。

この住居風呂ねえからな。

この時期は寒いから風呂なんか、なきゃ入らない奴多いからな。

指どおりは悪く、触った手がべっとりとする髪だが俺は、何故か手放しがたくてビビッているぜ。

「……でも」

ちび餓鬼は不意に、顔を柔らかくした。

「頭を撫でられるのは、ひさしぶり。かあさん、みたいだ」

こいつの記憶の中に、親父がいないのは知っていた。親父はさっさと死んだそうだから。

子供の記憶に残らないほど、親父は昔にあの世に渡ったんだろう。

「そうかよ。……んでもこの師匠様は、母ちゃんみたいに優しくねえぞ、お前がむやみに痛い目に合わないように、みっちりくっきりしごいてやる」

「仕事に支障が出ないように……なら」

「言ったな」

俺は笑った。ちび餓鬼は年齢に似合わない、老けた表情で頷いた。

「まずはお前の体力作りだ、しっかり飯食って体力ふやせ。話はそこからだからな」

「はい、師匠」

こいつ素直なんだな……俺の知っている誰よりも素直だわ。

ちょっと感動しながら、俺はちび餓鬼の冷却箱を一緒に眺めてこう言った。

「お前、こんな偏った食事してんじゃねえよ! 体に悪いだろ!」

いや、知ってっけどな。基本的に貧乏な奴らの肉がベーコンなのは知ってた。ベーコンも買えなかったら貧乏の最下層だってのもたぶん、何百年か経ってても変わらないだろう。

しかし。

「見事にパンとベーコンしかねえっての問題だ! よし、俺がもっとましな飯の材料を教えてやる」

「料理できなさそうなのに」

「女のとこ渡り歩く時に、多少は料理の心得があった時落としやすいんだよ」

女が仕事で疲れ切って帰ってきた、時にあったかい飯があるとないとでは、印象違うからな。

「触れねえから、隣でみっちり指導してやる」

胸を張った俺を見てちび餓鬼は、なんか呆れた顔をしてやがった。

師匠に対して何だ、その面。

「ひとつ。俺の弟子ならいっこ約束しろ」

「何を」

「俺には言いたい事を飲み込むな。言いたい事腹に抱えて黙られてるよか、言われた方がなんぼか気分がいい」

「……はい。師匠って女の人のひもだったんですか」

「仕事してたからひもじゃねえな。愛人が多かったんだよ」

「見た目がいいですからね」

「おー、もっとほめろほめろ」

俺の見た目がいい事は、こいつにも通じるらしい。気分がよくなった俺に立て続けに言われたのは。

「でも、女の人そんなに抱えているのは、ろくでなしみたい」

「んだと。……ま、言われてっからしゃあねえわ。もっともその関係全部、清算したけどな」

「できるものなんですね」

「ちょーっくら色々あってな」

さすがに俺は、俺の下半身事情をこのちびに話す、というのははばかられた。

「さて、今日は市場も開いてなさそうだからしょうがねえ。明日行くぞ」

「行くのは決定なんですね」

「お前その不健康の極みみたいな顔色して、偏った食生活とかばかだからな」

蒼褪めた感じの、いかにも栄養が足りてませんみたいな、そんな面。

金が入ったんなら、もうちとばかりましな飯、食え。

買い食いすんの、死体直す仕事の匂いで周囲に嫌がられそうだと思ってんなら、自炊もやろうと思え。

……そこまで思って俺はふと、こいつはあまり色々な飯を知らないで、親だのと死に別れたのだよな、と思った。

知らなきゃ食わねえか。

……金と地位と、顔と女関係には自信がある俺が、食ってきた色々な物を食わせて見て、反応見てみるか。

貧乏の結果の偏食も、ありうるからな。




それから俺は、せっせせっせとちび餓鬼に栄養のあれこれを教え、自炊の事を教え、そんでもって俺の地獄の特訓についていけるくらいまで、体力をつけたちびに、とにかく教えた。

教えるってのは何かっていや、体術だ。

ちびは体が小さいから、相手の懐に入る事が簡単だ。隙を作るのも簡単だ。

だから俺は、出来るだけ相手を痛めつけたくないと、寝言言っているちびの意思を、ちょっとばかり尊重してやり……なんて言ったって弟子だからな、素直だと可愛いもんだ……相手を痛めつけない、自分の身の守り方から教えた。

死なれたら元も子もないからな。

そして俺はちび餓鬼に触れるから、その体をとって、あちこちを軽く突きながら教えるってのもできる。

「そこ甘い!」

「っ」

「踏み込みが足りねえ、逃げるの目的だったらもっと勢いよくやってみろ!」

地獄の特訓と称された俺の、マンツーマンの指導の結果、ちび餓鬼は引っ張り込まれても逃げ出せる、ようになった。

それでも俺は特訓を止めない。なんでかって言われたら簡単だ。まだまだちび餓鬼の望む、相手も自分も傷つかない逃げ方を極めて、いないからだ。

今のところ、ちび餓鬼が反撃するパターン多いしな。

「……あなたは、いつまでここにいてくれるんだろう」

休憩でちび餓鬼がふと言った。

「んあ?」

「この前までは少しでいなくなったのに、あなたはもう一か月もここにいる」

「そうか? 時間の感覚ねえからな」

けらけらと笑った俺は、機嫌がいい。ちびが教え甲斐のある弟子だからだ。

「本当にあなたは、死んだのかもしれない……」

「やめてくれ、死んでねえ!」

「……死なれていたら、わたしも、複雑だ……」

「そこは普通に嫌だって言えよ」

「……いや、かもしれない」

「かもしれねえってなんだよその、あいまいなの! お前はっきりモノ言うくせに、こういう時正直にならねえんだな!」

言った俺はおかしくなってまた、笑いだす。

酒もたばこも女も賭け事も、なんもしてねえで、一か月か。

だというのにそれらに、不思議と未練がない俺がいる。

……このちびの言うとおりに、死んでいて未練が浄化されちまったのか。

黒歴史はいまだ健在っぽいんだけどな……

「さて、今度は毒術の扱い方を教えてやる。そろそろ体がしっかりしてきたから、自分の毒で中毒症状を起こしにくくなっただろ」

「はい、師匠」

こんな暮らしも、悪くねえかもしれねえ

なんて、思っていたある日。



「目覚めました! 従兄上!」


涙でぐちゃぐちゃになったノーリスが、寝起き一番に目に入って俺は、魔術液の中でごぼりと息を吐きだした。

戻ってきたんだな、と思ってから俺は、俺ってなかなかしぶとい奴だな、と思い直した。


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