移ろう色はあじさいの花



 三十四歳で母の貴子が逝った。結核だった。


 秀一郎は美術学校へ進学した。

 学問と描画の合間に庭の手入れをするのが秀一郎は好きだった。庭をいじる秀一郎の傍らで、恵が咲き乱れる花々を愛でる。躑躅つつじ紫沈丁花らいらっく花梨かりん牡丹ぼたん紫陽花あじさい。花を摘んでは、色とりどりの色水を作る。硝子の瓶に入れた色水は、日に透けてきらきらと煌めく。

 秀一郎が色水を混ぜて橙や紫を作ってやると恵は瞳を輝かせた。


「すごい! 兄さまは魔法使いみたいね!」


 きらきらと瞳が輝く。

 それは日に透けた色とりどりの色水よりも、ずっと美しかった。



   ***



 父が美術学校への進学を許してくれたのは秀一郎の病を慮ってのことだった。

 母は結核で逝った。その母と同じ血が、秀一郎にも流れている。病の影はこっそりと秀一郎の日常を蝕み、美術学校を卒業する頃には隠しきれるものではなくなっていた。

 先がないことは随分前から分かっていた。だからこそ父は秀一郎の好きにさせてくれたのだ。


 藤崎の家は武家の出らしい日本家屋だが、庭に面した一角に洋風の部屋が増築されている。秀一郎の部屋だ。庭の花がよく見えるので、恵は好んで秀一郎の部屋を訪れた。尋常小学校に通い始めて外に友人が出来ても、恵の「一番」は秀一郎のまま変わらぬようだった。


 秀一郎は結局就職も士官も出来なかった。時折調子の好いときに近所の子供に絵を教えることだけが、秀一郎の社会生活だった。

 一日の殆どを秀一郎は庭に面した部屋で過ごした。

 何枚も何枚も絵を描いた。

 描いた画は、恵に見せても好いものとそうでないものとに分けて、そうでないものは慎重に仕舞った。以前、裸婦の素描を無造作に放置していたことがあって、恵が目にしたのではないかと散々気に病んだのだ。

 夕刻になると恵は秀一郎の部屋に駆けてくる。母親代わりの家政婦のタキに叱られても、いつまでもそれは変わらなかった。



「だって、一秒でも早くお兄様に逢いたいのですもの」


 女学校に入った頃から恵は急に大人びた。芍薬しゃくやくのような清楚な甘やかさでふわりと笑む。


「僕を喜ばせて誤魔化そうとしても駄目だよ」


 秀一郎はわざとらしい渋面を作って恵を窘めた。


「遠からずお嫁にゆくのだから、もっとおしとやかさを身に付けないと」


「あら、ちゃんと出来ますのよ?」


 恵がぷう、と頬を膨らませる。


「ただ、お兄様の前でだけは、いつまでも『かわいい恵』でいたいのですわ」


 秀一郎が肩を竦めると恵が嬉しそうにころころと笑う。

 幼い頃と変わらないあどけない笑顔。

 その笑顔を踏み躙るような醜い衝動を、秀一郎は身の内に飼っている。



   ***



 初めて会った日、秀一郎が恵子に抱いた感情は同情だった。可哀相な女の子を、これからは自分が護ってやろうと思った。


 幼い恵子は、藤崎の家で笑って過ごす日々の中で実の親のことを忘れていった。いつ帰ってくるの? と訊ねることが間遠になり、秀一郎が呼ぶのを真似て藤崎の両親を父母ちちははと呼ぶようになった。

 いつしか憐みは影を潜め、秀一郎のなかで愛情が育ってゆく。

 

 そして恵子は秀一郎の「恵み」となった。


 

 あのまま、疑いもなく兄のままでいられれば好かったと、秀一郎は思う。



 きっかけは多分、裸婦の素描だった。

 結局、恵がそれを見たのかどうかは分からない。しかしあの出来事は秀一郎に恵を女として意識させた。そして少々長く気に病み過ぎた所為で、それは秀一郎の中に刻みつけられてしまった。



   ***



「お兄様」


 窓の外を眺めながら恵が呼ぶ。秀一郎が顔を向けると僅かに頬を染めて微笑んだ。


「お庭が淡い紫色うすいろに包まれてとてもきれいね」


 雨上がりの庭は淡く霞んで咲き始めの紫陽花を潤している。今は薄黄緑の花色は、徐々に青く染まり、やがて赤みを帯びる。青い花が紫を経て赤みがかってゆくのは花が老化してゆく過程なのだが、そんなことは秀一郎にはどうでもいいことだ。


 移ろう花色は、哀しくて美しい。


 再び庭に目を落とした恵の睫毛が頬に陰を刷くのを、秀一郎はそっと盗み見た。


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