銀の雨に君を想い 金の庭で君を慕う

早瀬翠風

薄紅香るさくらの花びら



「雨なんてふらなければいいのに」


 小さな妹はそう言って恨めしそうに空を見上げた。

 今日は皆で花見に出掛ける予定だった。それがこの雨で流れてしまったのだ。

 様々な花木が植えられた庭に雨は容赦なく降りそそぎ、終わりかけた雪柳の小さな花を無残に散らせていた。可憐なひとひらが落ちるのを見て幼い表情が翳る。小さな唇の端をきゅっと噛んで、精一杯に空を睨む。


「でも花たちにとっては優しい雨なんだよ」


 そう秀一郎が言ったのは、少しでも妹の表情を和らげたかったからかもしれない。


「うれしいの? 雨が?」


 信じられない、と言うように妹が目を見開く。雨なんて誰にも歓迎される訳がない、とでも言いた気だ。


「そうだよ。恵みの雨だからね」


 秀一郎は言った。

 幼い妹が自分の言葉に一心に耳を傾けてくるのが擽ったく、そして誇らしかった。



 ***



 妹とは血が繋がっていない。

 先の関東大震災で家族を失い、二歳の時に藤崎家へ養女として引き取られたのだ。父親が藤崎の部下だった。


「恵子だよ」


 背を押されて前に立った小さな女の子が、ぼんやりとした目で秀一郎を見上げる。


「かあさまは?」


 秀一郎は息を呑んだ。


「とうさまは? きょうは帰ってくる?」


 見上げる瞳に涙はない。恵子は親が死んだことが分からない。もう会えないことを知らないのだ。

 秀一郎は膝をついて恵子を抱き締めた。小さな女の子はすっぽりと秀一郎の胸に納まる。


「今日は帰って来ないよ」


 まだ幼い秀一郎には、恵子を納得させられる言葉がない。


「じゃあ、あした?」


 恵子が訊ねる。


「分からない」


 秀一郎は答えた。


「恵子のとうさまとかあさまがいつ帰ってくるかは分からないけど、今日から僕が恵子の兄さまだよ」


 少し体を離して大きな瞳を覗き込むと恵子は目を見開いた。


「にいさま? 恵子ににいさまができたの?」


 強張っていた頬に赤みが差す。


「そうだよ」


「おうたを歌ってくれる?」


「いいよ」


「お絵かきも?」


「もちろん」


「お人形あそびはだめよね?」


 上目遣いに覗き込んでくる様が愛らしくて秀一郎は笑みを溢した。


「駄目なことなんてないよ」


 今日出来たばかりの妹の手を取って立ち上がる。


「じゃあ、今日は何をしようか?」


 秀一郎が笑みを向けると瞳を輝かせた恵子が口を開いた。



   ***



「じゃあ、雨が降ってお庭のお花はよろこんでいるのね?」


 確認するように、恵子が秀一郎に訊ねる。


「そうだよ。恵みの雨だからね」


 秀一郎の言葉を聞いて、恵子の心から雨への恨みが消えてゆくのが見えるようだった。


「めぐみの雨?」


 恵みという言葉が、五歳の恵子には分からなかったようだ。


「恵子の名前と同じ字だよ。恵子は僕たち家族の恵みだね」


 ますます首を捻る恵子を家族の温かい笑みが包む。


「あなたは私たち家族の宝物、という意味ですよ」


 母の貴子が微笑んだ。



 雨は結局止むことはなく、そのあと桜も花を落としてしまったが、恵子が落ち込むことはもうなかった。


 そしてこの日以来、秀一郎は恵子のことを「めぐみ」と呼ぶようになった。


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