最終話 コヨーテの星 (北米・ネイティヴアメリカン)
1.
舗装されていない道を、一人の少年が、とぼとぼと歩いていた。日が暮れて、数時間が経っている。街灯はなく、道と荒野の境界は曖昧だ。
モニュメント・バレーから吹く風が、昼間の熱と砂を飛ばす。遠い町の明かりが、地平線を紫色に染めていた。
少年は肩を落とし、足を引き摺るようにして歩いていた。耳の奥で、男の怒鳴り声と、扉を叩く音が響いている。目を閉じれば、倒れた椅子と割れた皿が、瞼に浮かぶ。
きっと、そのまま散らかっているだろう。片付けられたことなどないのだから。
殴られた左の頬が、ずきずきと脈を打つ……。
少年は、父と二人きりで住んでいた。この父親が、問題だった。所謂、心の病気という奴だ。
きっかけは、些細な仕事上のミスだった。――些細な、と、本人が思うことが出来なかったのがミスだった。
落ち込んだ父は、気持ちをごまかす為に酒を飲み始め、酒に呑まれ、身体を壊し、その為に職を失って、ますます己の身上に溺れるようになった。
『お酒を買い与えてはならない』と、ビラガアナ(白人)の医者は言う。家族が買うから、甘えてしまうのだと。
そんなことは分かっている。
しかし……朝から晩まで飲んだくれて喚き散らし、暴力を振るう男を大人しくさせるのに、ほかに、どんな方法があるというのか。病気を治そうという気持ちはない、職を探すつもりもない。世間を呪い、自己憐憫にどっぷり漬かり、妻子は殴って憂さ晴らしをする相手だとしか考えていない男を。
それに、どうせ、自分で買って来てしまうのだ……。
「…………」
家々の形がはっきり見分けられる距離まで来て、少年は立ち止まり、溜息をついた。片手に、ウイスキーの瓶の入った袋を提げている。近所の店で買うことは出来ないので、隣町まで出掛けたのだ。
乾いた唇を舐めると、血の味がした。殴られた拍子に切れたのだろう。
帰りたくはなかった。しかし、遅くなればなるほど、あの男が荒れる。
『どうして』と、思う。
どうして、あんな奴が、自分の父親なのだろう。どうして、学校の隣の席の、金持ちのジョンでなく、自分の親がこうなのだろう。
母親はとっくに、自分と父を捨てて出て行った。どうせなら、父がいなくなってくれればいいのに。
それとも、いっそ、自分が消えようか……。
2.
「どうした? ぼうず」
少年は、はっとして振り向いた。藍色の夜を背にして、一台のオートバイが停まっていた。考え事をしていて、すれ違ったことに気づかなかったらしい。
背の高い人影が、そこから降りて、近づいてきた。
慌てて口元をぬぐい、ウイスキーを背中に隠す。少年の側に、男は、ゆっくりやってきた。チャリチャリと、鎖の鳴る音がする。星明かりに、腰まで届く黒髪が、ぼうっと照らし出された。
「居留地から来たのか? 子どもが出歩く時間じゃないだろう」
「……何でもない。放っておいてくれよ」
「…………」
言ってから、しまったと思った。こんな言い方は、相手を不審がらせるだけだ。
案の定、男は怪訝そうな表情を浮かべ、さらに近づいて来た。その顔を見て、少年は、彼を見かけたことがあると気づいた。
黒い瞳に、褐色の肌。彫の深い顔立ちだ。おそらく、混血なのだろう。ジーンズにTシャツを着て、胸には、ターコイズと銀の首飾りが揺れている。――たしか、族立大学の学生だ。
自警団に所属していて、酔っ払いや浮浪者を取り締まるために、時々、巡回している。少年の父親も、数回、世話になったことがある。
男の方も、少年を思い出したようだ。警戒している彼を真っ直ぐに見て、訊ねた。
「お前、名前は?」
少年は躊躇した。名乗れば、身元が知られてしまう。もう分かっているのかもしれないが。
男は、自分から名乗った。
「俺は、デイヴィッド……ハイ・フライヤー(高く飛ぶもの)っていうんだ」
「ハイ・フライヤー」
少年は驚いた。男がいきなりインディアン・ネームを明かしたのも驚きだったが、彼の部族で、空高く飛ぶものと言えば、鷲のことだ。
鷲は、ハアシュチエ(グレート・スピリット)の使者であり、人を守るイェイ(精霊)であり、叡智の象徴だ。
インディアン・ネームを明かされては、応じないわけにいかない。
「……ドーン・イーグル(暁の鷹)」
少年が渋々答えると、男は、愉快そうに片方の眉を跳ね上げた。
「へえ、イーグルか。どのクラン(氏族)だ?」
「…………」
少年の名も、ハアシュチエに関わっていた。暁は、知恵の女神ホワイト・シェル・ウーマンの象徴で、鷹は鷲の弟だ。
奇遇を喜ぶように、男は、白い歯を見せて笑った。
「ヤーテー、シクスイ(よろしくな、兄弟)」
「……ヤーテー」
差し出された手を、おずおず握り、ドーン・イーグルは、ぼそりと言い返した。
「名前負けしてら」
「ははっ、そうかもしれないな」
ハイ・フライヤーは、屈託なく笑った。声にも表情にも、少年を咎める雰囲気はなかったが、彼は警戒を解かなかった。
「ここで、何をしているんだ?」
「別に……。星を、見ていた」
「星か。好きなのか?」
好きも嫌いもない。他に言い訳を思いつかなかっただけだ。けれども、男は素直に天を仰ぎ、呟いた。
「本当だ。綺麗だな……」
「…………」
行きがかり上、一緒に空を見上げた少年は、息を呑んだ。
数え切れない銀色の瞳が、こちらを見下ろしていた。
3.
『そう言えば。星なんて見たのは、久しぶりだ……。』
ぼんやりと、ドーン・イーグルは考えた。星がそこにあることさえ、忘れていた気がする。
少年が毒気を抜かれているのを見て、会話の糸口を掴んだと思ったのだろう。男は、楽しげな口調になった。
「コヨーテの星の話を知っているか? 星座の星と、どう違うか。聞いたことがあるか?」
彼等ナヴァホ族の神話では、この世は、三回創り直されたことになっている。
戦争や洪水のために、三つの世界を捨てなければならなかった《最初の男》と《最初の女》は、多くの動物たちと一緒に、この世界にやって来た――
***
第四の世界に来た《最初の男》と《最初の女》は、第三の世界から持って来た聖なる山の土を使って、六つの山を創った。
東に、ホワイト・シェル(白い貝)の山。 南に、ターコイズの山。 西に、アバロン(あわび)の山。 北に、黒曜石の山。
世界の中心には、柔らかいものの山を創り、ハーファノ山と呼んだ。中心から東寄りの山は、宝石の山だ。
それから彼等は、光を創ることにした。
《最初の男》が、雲母の欠片を集めてきて、《最初の女》が織ったブランケットの上に載せた。
《ブラック・ゴッド(精霊)》がその内の一つを取り上げて、慎重に空に置いた。これが北極星になった。
その周りに、《最初の男》が北斗七星を置き、《最初の女》が小熊座を置いた。
彼等は、星たちに、人々を守るよう言い聞かせながら、一つずつ配置していった。
すると、そこに、悪戯者のコヨーテがやって来た。
コヨーテは、黙って彼等の作業を見ていたが、やがてうんざりして、雲母の乗ったブランケットをつまみ上げた。そして、それを乱暴に振り回し、残っていた破片を全部空にばら撒いてしまった。
それで星々の中には、きちんと並んでいるものと、そうでないものが出来てしまった。
皆は、コヨーテの仕業にほとほと困ったが、一度空に置かれてしまった星は外せないので、そのままにしておくことにした。
こうして星は出来たが、まだ暗かったので、彼等はもっと強い光を創ることにした。
《最初の男》が、大地に鹿の皮を敷き、そこにターコイズを並べて、目と鼻と口を創った。それを空に置いて、太陽にした。
《最初の女》も、鹿の皮にホワイト・シェルを並べて、月を創った。
彼等は、太陽と月に、交代で東から現れて世界を照らすよう指示した。 太陽と月は、
「そうしよう。だが、その度に、誰かが死んで行くことにしよう」と言った。
こうして、生を享けた人々は、死ぬことになった。
死んだ魂をどうするかについて、彼等がコヨーテに相談すると、コヨーテは首を傾げて考え、こう言った。
「魂は、下の世界に帰そう」
それで、そう決まった。
***
「知ってるよ……。だから、何なんだよ」
ドーン・イーグルは、疲れた口調で呟いた。年寄りや族立大学の連中は、すぐ、こういう話をする。
民族の伝統がどうの、文化がどうのと。いい加減、うんざりする。
「ただの神話だろ。どうでもいいよ」
神話は喰えず、金にもならない。いくら伝統を主張したところで、白人たちが消えるわけではなく、歴史上の敗北を帳消しに出来るわけでもない。
どんなに自分が努力しても、父が酒をやめることはない。
『どうせ!』――酔っ払いの罵声が、耳の中で響く。『どうせ、世界を動かすのは白人で、金は全部、ユダヤ人のものだ!』
所詮、自分たちに、星の光は届かないのだ……。
「……そうだな、どうでもいいのかもしれない」
ハイ・フライヤーは穏やかに言って、唇を歪めた。気を悪くした風には見えなかったが、声音が少し寂しげだったので、少年の胸は、軽く痛んだ。
4.
「それじゃあ、こういうのは、どうだ?」
男は、煙草に火を点けながら、ゆらりと重心を動かした。長い髪が、馬の尻尾のように揺れる。薄い灰色の煙を吐き出して、淡々と言った。
「闇の中から、星が生まれる話だ」
「え?」
少年は、瞬きを繰り返した。
「科学者の連中は、そう言っている」
ドーン・イーグルの反応を面白がって、ハイ・フライヤーは唇の端を吊り上げた。
「――真っ暗に見えるところに、星の素があって、そいつが集まって輝き出すんだと。星が爆発して飛び散ると、それが、次の星の素になる」
「…………」
少年は、無言で星空を見上げた。その耳に、微笑を含んだような男の声は続けた。
「大きくて明るい星は、小さくて暗い星があるから、そう見えるだけだ。近づけば、暗い星の方が、ずっと明るい場合もある……」
少年は振り返り、目を
「本当?」
「ああ」
ハイ・フライヤーは、あっさり頷いた。何でもないことのように。
「星の距離は、一つ一つ、みんな違う。近いせいで明るく見えるものもあれば、遠いせいで暗く見えるものもある。――月や金星は明るいが、自分で光っているわけじゃない。小さくて暗い星の方が、何万倍も輝いている」
「…………」
「目に見えるものが、本当の姿とは限らないわけだ」
男の話を聞きながら、少年は、胸の中で繰り返した。
『闇の中から、星が生まれる……。』
「……ほんとに、本当?」
ドーン・イーグルは繰り返した。自分の中の
「さあな」
ハイ・フライヤーは、くっくっと、喉の奥で声を転がして笑った。
「知らないぜ、俺は。実際に、行って見たわけじゃないからな。でも、お偉い学者の先生たちが言っているから、そうなんだろ」
ぱちんと片目を閉じて、声をひそめた。
「……ほんとの本当は、みーんな、でっかい雲母の欠片かもしれない……」
悪戯めいたその顔を、ドーン・イーグルは、一瞬、あっけにとられて眺めた。それから、自嘲気味に苦笑する。
両手に抱えた酒の瓶が、重かった。薄いプラスチックの袋ごしに、それは掌で温められ、生ぬるくなっていた。
少年は、項垂れて、ぽつりと呟いた。
「俺、見に行けるかな」
「さあな」
ひょいと、男は肩をすくめた。
「諦めなければ、いつか、行けるかもしれないな。自分が行けなくても、行く奴を手伝う仕事には、就けるかもしれない」
「…………」
ほっと、少年は溜息をついた。拍子抜けした気分だった。
知らない間に、陥っていたのかもしれない。父親と同じ罠に。
『どうせ、何も出来ない』、『変わらない』、『いくらやっても無駄だ』、『誰もわかってくれやしない』……。
絶望は甘く、感傷は、麻薬に等しい。闇に浸って膝を抱えているのも、そこに希望を見出すのも、己次第だ。
誰かに照らしてもらうことを待っていても、何も変わらない。
そして――心の中で、少年は付け加えた。光は弱くても、コヨーテの星は残る……。
5.
男は、煙草を踏み消すと、少年をそこに置いて歩き出した。バイクのエンジンをかけ、片手でジーンズのポケットを探りながら、素っ気無く言った。
「どうする? 家に帰るなら、送っていくぞ」
この国の法律では、児童虐待は犯罪だ。少年は、恐る恐る訊いた。
「警察に、通報するのか?」
「いや」
ハイ・フライヤーは、新しい煙草に火を点け、ふうーっと煙を吐き出した。
「……その前に、必要なのは病院だろ。アゼル・ヒニ(薬草を使うメディスン・マン)に紹介してやるよ。お前、うちに来ないか」
「…………」
「俺も、今、母親が入院しているんだ。だから、気にしなくていい。勿論、お前がよければ、だが――」
この時になって、少年は、男が彼の酒瓶を、ずっと無視してくれていたことに気がついた。
「…………」
ドーン・イーグルは、ウイスキーの瓶を袋ごと、思いっきり遠くへ放り投げた。夜の向こうにそれが落ちる音を聞く前に、少年は踵を返し、友に駆け寄った。
**
1977年、NASA(アメリカ航空宇宙局)が打ち上げた宇宙探査機・ボイジャー1号と2号には、地球の情報を記録した金色のレコードが、一枚ずつ積み込まれていた。
太陽系の外で暮らす、まだ見ぬエイリアンに届けるために、科学者たちが選んだのは、以下の内容だ。
人類の59種類の言語と、クジラの鳴き声による挨拶。
キスの音。生まれたばかりの赤ん坊の泣き声。恋に悩む若い女性の脳波。
科学や文明、人類に関する116枚の写真。
ナヴァホ族のファイア・ダンスの歌。少女の初潮を祝うピグミー族の歌。ペルーの結婚式の歌。
日本の尺八。中国の3000年前の琴の曲。
バッハやベートーヴェン、モーツァルト、ルイ・アームストロングなど、古今東西のクラシックやフォークソングを纏めたヒット・メドレー……
『人類とは何か』を伝えるために、ボイジャーは、今も飛びつづけている。
~最終話、了~
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『掌の宇宙』最終話 解説
《アメリカ先住民・ナヴァホ族》
彼等自身の呼称は「ディッネ(=Our People)」。アメリカ南西部、アリゾナ州・ニューメキシコ州・ユタ州・コロラド州の境界に広がる、合衆国最大の居留地に暮らす、ネイティヴ・アメリカン最大の部族です。居留地(ナヴァホ・ネイション)内に約20万人、地域外に約10万人が暮らしています(同じ居留地内に、ホピなどのプエブロ諸族も住んでいます)。
女系中心の氏族社会(クラン)を持ち、銀細工、ナヴァホ織り、砂絵、バスケットなどの伝統工芸が有名です。また、ジョン・フォードの映画『駅馬車』をはじめ、多くの西部劇でアパッチ・インディアンの役を演じたのは、この部族の人々です。
もとは狩猟採集を生業としていましたが、スペイン人が持ち込んだ羊と馬を得て、牧畜中心の暮らしになりました。アパッチ、ラコタ、シャイアン族などとともに白人と戦った勇猛な部族でしたが、連邦政府に降伏した後は、居留地に押し込められ、度重なる土地と財産の没収、収容所生活、強制労働などにより、人口は激減しました(当時の人口の約30%が死んだと言われます)。
1968年の公民権法により、居住権の自由を認められ、居留地の中だけで暮らす必要はなくなりました。しかし、福祉や教育・医療などの面で経済的に自立できず、連邦側の政策に翻弄される機会が多くなっています(ウラン採掘の問題など)。
住民の大半はキリスト教徒となっています。貧困や失業、虐待やアルコール依存、伝統的な宗教・文化の喪失、母語の喪失による世代間の断絶(老年世代はナヴァホ語しか喋れず、若年者は英語しか理解出来ない)、白人社会との軋轢に悩む若者の高い自殺率など、深刻な社会問題を抱えています。
クランから外れ、孤立した者にアルコールや虐待などの問題が多く(本作品のドーン・イーグルの家庭のように)、クランに組み入れて支援しようとする動きがあります。
ナヴァホのメディスン・マンには、祈祷を行い聖歌(チャント)を歌って儀式を司る「ハタヒイ」と、薬草を使って病人を癒す「アゼル・ヒニ」が存在します。彼等の治療は、アルコール依存症に効果があり、カウンセリングを重視するアメリカ社会で注目されています。
ディッネ・カレッジ(族立大学)は、1969年、ナヴァホ族の伝統文化の継承を目的に創立されました。これをきっかけとして、合衆国内の多くのネイティヴ・アメリカン部族が、族立大学を創り、現在33校にまで増えています。
(本作品は、ナヴァホ族の創世神話の一部に基づきます。作品中、彼等や他民族(白人やユダヤ人)を貶める言葉がありますが、病気や貧困・虐待に苦しむ登場人物の感情を表現するためであり、作者自身には、特定の民族・文化を差別する意思のないことを明記させていただきます。)
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