第10話 しまなみの風 (日本・瀬戸内海)

1.

 瀬戸内海のほぼ中央に位置する芸予げいよ諸島には、大小五十余りの島が並び、安芸あき備後びんご、伊予の三国を結んでいる。

 水を張った盆に ぽこぽこ椀を伏せたような、なだらかな稜線を重ねる島と島の間には、沢山の海峡や瀬戸がある。

 昔から、海賊衆が暮らす海の道だ。

 伯方島はかたじま鵜島うしまに挟まれた船折ふなおり瀬戸は、その名が示す通り、船頭たちが恐れる海の難所だ。西の斎灘いつきなだと東のひうち灘を結ぶ、最短航路でもある。

 そこを押さえる場所に、能島村上衆のしまむらかみしゅう海城うみじろがあった。

 小さな三角形の島は、全体が三段に削られて、曲輪くるわに囲まれていた。頂上の、松や竹林に囲まれたところに屋敷があり、海沿いの平坦地には、漁師たちの家が並んでいる。

 隣の小島、鯛崎たいざきへは橋が架けられ、弁才天が祀られている。

 島をとりまく岩礁には、多くの柱が建ち、桟橋状に板が渡されている。その桟橋で、一人の男と子ども達が騒いでいた。

「ええい、こいつめ。干上がっちまえ!」

 男は、漁から帰ったばかりだった。忌々しげに舌打ちをして、舟底から褐色の生き物を投げ出す。人の頭ほどもある丸く平らな生物は、板に叩きつけられ、ごんと鈍い音を立てた。

 子ども達が、早速歓声をあげて駆け寄り、長い尾を掴んで裏返す。生き物は、起き上がることが出来ずに、十本の脚を動かしてもがいた。

 一段上の曲輪からこれを見た男が、声をかけた。無駄なく引き締まった身体に、切れ長の目許が涼しげな青年だ。

「また、どんがめ(カブトガニ)か。せつ」

「へえ、おかしら

 男は、ちらりと彼を振り向いたが、舟を繋ぐ手は休めなかった。籠の中で、今日の獲物が、ぴちぴちひれを鳴らしている。逃げ出そうとする蛸の足を、無造作に引き剥がした。

 せつは、籠を抱えて陸に上がると、足元に転がる二匹のどんがめを、軽く蹴った。

 フナムシに茶碗をかぶせ、箸を一本くっつけたような姿の動物だ。甲羅は硬く、身は薄く、煮ても焼いても食べられたものではない。カブトを思わせる甲羅の棘が、漁夫泣かせだ。

「全く、困った野郎です。阿呆みたいに繋がってかかっては、網を破っちまう」

「逃がしてやれ」

 笑って、青年――武吉たけよしは言った。せつは、唇を尖らせた。

「だって……」

「繋がっているのは、夫婦めおとだ。仲むつまじいのを、無益な殺生はするな」

「…………」

 せつは肩をすくめると、もがもが動いていた生き物を、元に戻してやった。どんがめは、しばらくじっとしていたが、やがて、仲良く並んで這って行った。

 尖った尻尾が描く跡を、武吉が眼を細めて見送っていると、やぐらの上から、太鼓の音が響いた。


  ドンドコドンドコ、ドンドンドン、ドンドコドンドコ、ドンドンドン……


 せつは、顔を上げ、ぱっと瞳を輝かせた。

「お頭!」

「うむ」

 武吉が顧みると、ちょうど、伯方島の向こうから、船体を紅く塗った大型船が姿を現したところだった。西国の荷を積んだ商船だ。

 武吉は船の舳先を見上げたが、上乗うわのり(警護料)を支払ったことを示す旗は、掲げられていなかった。

「関船(注①)を出しますか?」

「いや。小早こはや(注②)で充分」

「お前ら、これをお屋敷へ持って行け」

 せつは、獲物の入った籠を子ども達に押し付けると、身を翻して舟に戻った。合図を聞いた男たちが、駆け出して来る。みるまに、武吉を載せた舟を先頭に、数十艇が集まった。

 晴れた空が、水面に映る。瀬戸の海は碧色だ。風がなく波のない日は、磨いた鏡の表のように美しい。

 しかし、海峡の潮は、とても速い(8~12ノットに達する)。慣れない船頭は、流されて、たちまち島岸へ船を寄せられてしまった。

 立ち往生する船に、男たちは次々に鉄鉤のついた縄を投げ込み、刀を手に乗り込んだ。慌てて海に飛び込んで逃げようとする商人たちを、袖搦そでがらみ(鉤のついた鉄の棒)で引き上げる。彼等には、造作のない作業だ。

 武吉は、ゆっくり縄梯子を登って行った。

 追い詰められた商人たちは、船の舳先に集められた。海に落ちても沈まぬよう、革を縫い合わせた胴着を着た漁夫たちが、凄んでいる。

おどりゃーおまえら、この、ぬすっとどろぼうが!」

「せつ……」

 武吉は、軽く眉間に皺を刻んだ。

「もう少し、ゆっくり話せ。……通じていないぞ」

「すんません」

 ぺこりと頭を下げたが、悪びれてはいない。捕虜に向き直ると、せつは乱杭歯を剥き出した。

「あのな。ここは、わし等の縄張りなんじゃ。通行料、寄越すのが、すじってもんじゃないか?」

「へ……へえっ?」

「せつ」

 再び、武吉は口を挟んだ。今度は苦笑していた。血の気は多いが、この男を嫌っているわけではない。

「解るように、話してやれ。それでは、脅しだ」

「でも――」

船頭ふながしらは、誰だ?」

 せつに代わって、武吉が言った。真っ黒に日焼けした中年の男が、軽く一礼する。

 武吉は、そちらに向き直った。

おか御仁ごじんは、分かっておられぬようだが……。ここは、三島みしまさま(大山祇神社。注③)の神域なのだ。我らは、海のせきを預かるもの。よって、関料を頂戴する掟となっている」

「…………」

 男は、無言で肯いた。海に暮らす者同士、海道かいどうの掟は承知している。

 武吉は、穏やかに続けた。

「命を獲るつもりはない。三島さまへの御礼として、積荷の三割、渡すように伝えてくれぬか」

「お頭」

 今度は、せつが、彼の衣の袖を引いた。耳打ちする。

「ちっとばかり、取りすぎでねえですかい?」

「半分を、わし等が頂戴する。上乗りだ」

 これを聞いた商人たちは色めいたが、せつがギロリと睨むと、項垂れた。

 衣や陶磁器を小舟に載せた武吉は、船頭に、一枚の布を手渡した。村上の家紋・上の字と、武吉の署名が入った旗印だ(注④)。

「これを掲げて行け。そうすれば、他の連中に、襲われることはない。関料を払うのは、一度でよい」

 意気揚々と引き揚げながら、せつは、武吉に呼びかけた。

「いい仕事でしたなあ、お頭!」

「…………」

 武吉は、頬を撫でる潮風に微笑んだ。


 村上武吉、二十二歳。能島のしま村上氏の、若き頭領だった。



2.

 居城に戻った武吉は、妻子に迎えられた。長男・元吉は、今年産まれたばかりだ。ふよふよと紅葉のような手を振る我が子に、武吉が眼を細めていると、叔父の隆重が声をかけて来た。

「武吉、ちと、ここへ来い」

 隆重は、かつて村上家に家督相続争いが起きた際、従兄で嫡流の義益を擁する者たちに対抗し、武吉を擁して戦った。

 武吉が二十歳で家督を継ぐまで、隆重は、彼の後見人として能島村上衆を率いてきた。武吉にとっては、実父以上の存在だ。

「何でしょう? 叔父上」

すえ殿から、書状だ」

「…………」

 赤ん坊をあやすのをやめ、武吉は、書状を受け取った。潮の香が載る茣蓙ござの上に、どっかと腰を下ろす。胡坐を組み、眉間に皺を寄せて文字を読み始めた。



京堺の諸商人駄別料だべつりょうと号し、近年村上右近大夫隆重(=村上隆重、武吉の叔父)に対し、芸州厳島いつくしまにおいて受用すべきの由、先代(大内義隆)申し付けられ候、件の駄別の事、更に謂われ無き事の条、当代(大内義長)として停止せられ候、右の駄別の事は薩摩に至る堺の浜より往返の商人、前々はその節を遂ぐるの由申し候、厳島において隆重受用の儀は、かつて以ってこれ有るべからず候、此らの趣御一門へ御演説干要かんように候、猶江良丹後申すべく候、恐々謹言


 卯月二十日               晴賢はるかた(=陶晴賢)

村上太郎(=村上武吉)殿

今岡伯耆守ほうきのかみ殿 御宿所

                 ――『大願寺文書』より


 ……要するに、大内領・厳島において、これまで村上氏が京・堺の商人から取り立てを許可されていた駄別料(通行料)を、以後、徴収することを禁じる、というのだ。

 たった今、せつ達と暴れてきたばかりの武吉は、困惑気味に鼻頭を掻いた。

 書状を寄越した陶晴賢すえはるかたは、先年、主君の大内義隆を自殺に追い込み、大内氏の実権を握った者だ。同様のお家騒動を経て惣領となった武吉には、晴賢個人に対して思うところはないが、これは困った申し出だった。

 能島村上氏は、南北朝期から、この海を拠点に活動してきた。海上を往来する船から警護料を徴収することで、独自の勢力を維持してきたのだ。

 厳島の駄別料は、他大名に臣従しない能島衆の、制海権の象徴といえる。

『ここは、わし等の縄張りなんじゃ!』

 せつの声が、耳の奥で響く……。

 甥の意向を確かめるように、隆重が、低く尋ねた。

「どうする、武吉」

「……まずは、言われる通りに致しましょう」

 武吉は、神妙に答えた。

「このままで済むとは、思えませんがね……」

「…………」

 叔父は、黙って肯いた。



「何だとっ?」

 案の定、寄り合いで武吉がこの件を伝えたところ、せつをはじめ漁夫たちの反応は厳しかった。

「ここは、わし等の海じゃ。わし等の縄張りを通る舟をどうしようと、勝手じゃないか」

「駄別銭は、先代(大内義隆)と厳島さま(神社)との間で取り決めた話じゃ。陶殿が口出しする筋じゃないぞ」

「こんな勝手を、許していいんですかい、お頭」

「…………」

 男たちの抗議の声を、武吉は腕を組み、眼を閉じて聞いていた。

「……奇妙な話ですなあ、お頭」

と、ある年をとった漁師が言った。年寄りとは言え、潮風に磨かれた肌は黒光りがし、くびから肩にかけての筋肉は、鋼のように張っている。

「街道には関があり、お大名は米や塩を集め、寺や神社はいちの場所代を取る……。おかもんの田畑を、わし等が横切れば、当然、奴等は通行料を払えと言うじゃろう」

 武吉は、翁の顔を、真っ直ぐに見詰めた。淡々としているが、男の声には重みがあった。

「海は、わし等の畑じゃ。陸の衆が田を耕して米を得るように、わし等は海に網を張り、魚を得る。そこを通るもんに通行料を払えというのが、いかんいけないのか」

「……そうだな」

 武吉の頬には、薄く笑みが浮かんでいた。老人の言は、海の民の本音であった。

 海は、決して優しい世界ではない。どこでも暮らせるわけではなく、魚が集まる漁場は決まっている。それも、日毎に漁獲高は異なり、潮と風に左右される。不漁や、嵐などで船を出せない日が続くと、たちまち飢えてしまう。

 天水(雨水)と井戸以外に真水のない島では、耕作は難しい。日照りが続けば、すぐに干上がってしまう。

 飢えと渇きと背中合わせで生きる者たちは、通りがかる船に、水や食糧・金品を求めるようになった。安全な航路を教え、天候不順の際には泊まる港を提供する報酬だ。

 身を守るために武装し、縄張りを決め、上乗りや駄別の制度を作ったのだ。

「だが、陸の者にとっては、わし等は所詮、海賊じゃ……」

「海賊、上等!」

 せつが言った。若者たちが、口々に同意した。

「戦いましょうぜ、お頭」

「まあ、待て」

 武吉は、ほころびそうになる頬を引き締めて、彼等を宥めた。

「お前たちの気持ちは解った。……待っていろ。陸には陸の法があろうが、海には海の掟がある」

 武吉は、じろりと一同を見渡した。底光りのする瞳が、男達を見据えた。

「海では、わし等は誰にも負けぬ……。奴等が向こうから現れるのを、待つことにしよう」



3.

 陶晴賢は、駄別料を、村上氏に代わって堺商人から直接取り立てるようになった。安芸から備後へ支配を拡げようとする晴賢の策は、各地で反乱を呼び起こした。

 天文二十三年(1554年)、津和野つわの吉見よしみ氏が叛旗を翻し、安芸の毛利元就もうりもとなりも兵を挙げ、厳島を占領して宮ノ尾城を築いた。

 翌年九月、陶氏は反撃を開始し、圧倒的多数の周防すおう水軍で、厳島の元就を包囲した。武吉は、この動向を見守っていたが、自ら動こうとはしなかった。

 その九月の半ば、小早川こばやかわの家臣・乃美のみ(=浦)宗勝が、小舟に乗って武吉の舘を訪れた。

『小早川……。』武吉は、すばやく考えた。

 三原の小早川隆景たかかげは、毛利元就の三男だ。武吉とは同年齢だと聞く。その水軍を統率する乃美宗勝が、じきじきにやってくるとは、ただ事ではない。

 元就は、厳島に宮ノ尾城を築いた際、来島くるしまの村上氏に助勢を求めたが、来島衆が動かなかったので、たいそうがっかりしたと聞いている。

 ちなみに、来島村上氏は、武吉の妻の実家だ。能島・因島いんのしま・来島の三島村上氏は、親戚である。

 今度の合戦で、元就は陶氏と決着をつけたいと望んでいるのだが、来島衆の動きがはっきりしない。そこで、惣領である能島の武吉に、話を持ってきたというところか……。

『ふむ。』

 武吉は、また鼻頭を掻いた。

 実は、陶氏からも、助勢を請う書状が届いている。

 大内氏は、父と叔父の代からの同盟者だ。しかし、今の陶氏に牛耳られた大内は、どうであろうか。駄別料の件といい、村上を臣下としてしか扱っていないのではないか。

 ここは、慎重になったほうが良い。

 安芸の毛利・小早川と、防長の大内・陶。どちらに味方するかで、能島村上氏の命運が決まる……。

「……して。勝算はおありか」

 武吉は、単刀直入に訊いた。

 向かい合って茶を飲んでいた乃美は、顔を上げ、短く答えた。

「一日で決着をつけ申す。勝敗は御仁方にかかっておりますが、船団を借用したい」

『ほう』と、武吉は思った。

 現在、厳島に立て篭もる毛利軍は、佐東川ノ内警護衆 五・六十艇と小早川水軍 六・七十艇、早くから毛利方についている因島村上水軍 若干艇。

 対する陶軍は、周防水軍 五百艇だ。

 これを、一日で破る策があるというのか。

「…………」

 武吉は、傍らに座る叔父を、ちらりと横目で見た。大内氏の軍事力を背景に武吉を擁してきた叔父は、沈黙している。

『これは賭けだ。』と、武吉は思った。

 彼は身をかがめ、声を低めた。

「……詳しい話を、お聞かせ願おう」



4.

 生暖かい風が吹いている。空はどんよりと曇り、それを映す海は、深緑から灰色へと変化している。時折岩に当たって砕ける波が、白い泡を散らしていた。

 吹きつける風は潮を含み、唇についた雫が塩辛い。

 嵐が近づいていた。

 男たちは、釣り舟を岸へ繋ぎ、女たちは木戸を閉めて、備えに余念がない。武吉は一人、鎧を着て部屋に坐し、風に揺れる松の枝を眺めていた。

 曲輪くるわの外では、松明の灯が揺れている。せつ達、武装した男たちが、頭領の指示を待っていた。

『本当に、これでよいのか――。』

 武吉は、自問自答を繰り返していた。

 乃美の策に、誤りはないのか。十倍近い大軍と戦って、勝つことが出来るのか。

 負ければ、大切な仲間の命だけではない。己も、妻も、幼い子どもの命もない。それは、家督争いに勝った自分が、よく知っている。

 否。作戦の成否は、乃美の問題ではない。決断を下す、己の責任だ……。

「…………」

 武吉は、膝の上に載せた拳に力をこめた。塩を含んだ汗が、首筋を流れ落ちる。

『船団を借用したい。』と、乃美は言った。潮流を読み、船を操る村上衆の腕を、高く評価してのことだ。己の民の能力を、武吉は疑ってはいなかった。

『海では、わし等は誰にも負けぬ……。』

 潮待ち、風待ちは当然の海の民。『船に乗るより潮に乗れ』と、船頭は言う……。自分達は、ここまで待った。今、この<潮>に乗るか否かを考える彼の裡で、仲間の声が木霊した。

『海賊、上等!』

『海は、わし等の畑じゃ……。』

 武吉は立ち上がり、鮮やかな緋羅紗ひらしゃの陣羽織を、鎧の上にまとった(注⑤)。

「いくぞ!」

 男たちの歓声が、それに応えた。


 通常、瀬戸内の漁師は、夜に舟を出すことはない。

 浅瀬や岩礁が多く、潮の流れもきつく、似たような形の島や山が多い内海では、目視が出来なくなると、すぐ舟は迷い、座礁してしまう。遠洋のように、悠長に星を眺めて方角を定めている余裕はないのだ。

 その代わりに彼等は、島や山の形、浅瀬の位置や潮の方向を、幼い頃から身体に叩き込む。目視出来る限り、また、波が高くない限り、自在に舟を操ることが出来た。

 夕暮れ。嵐の予感にざわめく海を、武吉たちは船団を仕立てて進んで行った。

 この時の様子を、毛利方武将・森脇飛騨守春方が記している。


 ――かねて毛利方が味方に誘おうと調略していた野島(=能島)・来島(村上氏)をはじめとする大船二百艇が下ってきた。

 野島・来島に対しては、陶方からも調略がなされていたので、はたしてどちらに味方するのか見守っていたところ、仁保島にほじま(当時、広島湾東部にあった島。現在は陸地化)を右にみて草津くさつ(広島湾西部沿岸)の方へ乗り下った。

 さては敵に味方かと話していたところ、やがて廿日市はつかいち(草津の西方、厳島対岸)の沖へ移動していかりをおろした。これで毛利方への味方ということがわかって人々は喜びあった。

 大将の船から使者がやってきて毛利方に味方をするために下ってきた旨を伝えた。元就はこれを喜んで周防国屋代島を遣わした。

                       ――『森脇覚書』より


 橙色の夕焼けと紫色の雨雲が だんだんに重なり合う。風は速く、雲は見る間に姿を変え、渦巻いて空を覆った。

 その空と山影を背景に、海中にぽつんと佇む厳島いつくしま神社の大鳥居は、不気味な静寂に包まれていた(注⑥)。

 普段の穏やかさが嘘のように、波は、絶え間なく上下を繰り返す。

 暴風雨に備え、すえ軍は、島の周囲に船筏ふないかだを組んでいた。これでは船団を入れることが出来ないと判断した乃美は、筑前からやって来た陶方の輸送船だと偽って、筏の間を抜け、大鳥居の前に停泊した。

 武吉たちの水軍は、小早川の陸戦隊が神社の向こう側(塔ノ岡坂下)に布陣するのを見送ると、息を潜めて合図を待った。



5. 

 明け方。まだ暗い空に、法螺貝の音が鳴り響いた。同時に、厳島の東の山頂から、烽火のろしがあがった。

 鬨の声をあげて、村上水軍は、陶軍の船団に襲い掛かった。

 敵船のみよしの前を横切って船を走らせながら、鎌鑓かまやり碇綱いかりづなを断ち切ると、折からの強風と高波にあおられた陶船団は、次々に浜辺に打ち寄せられた。

 すかさず、武吉たちが、火矢を浴びせかける。

 右往左往する敵船のげんを、関船の尖った船首で突き破る。バリバリと音をたてて、砕けた船板と兵士たちが波間に散った。

 慌てて反撃の矢を飛ばす敵船には、楯板たていたで装甲した炮烙ほうろく船で近づき、炮烙(陶製の玉に火薬を詰め、火をつけた爆弾)を投げ込む。その間に、小早を漕ぎ寄せた海夫たちは、青龍刀や槍を振るって、敵の船に乗り込んだ。

 嵐の夜に襲って来ることはなかろうと油断していた陶軍は、総崩れとなった。

 背後から毛利、正面から小早川、海上から三島村上水軍に攻められ、退路を絶たれた陶晴賢は、厳島山中で自刃した。


   何を惜しみ 何を恨まん 元よりも このありさまの 定まれる身に  

                           (晴賢辞世の句)


 乃美の宣言通り、決着は一夜でついた。圧勝であった。

 厳島は神域であるため、毛利元就は、死者とその下の土を掘り返し、ともに海に葬った。


 元就は、村上水軍の功績を称えて感状(感謝状)を贈り、村上氏は、海の支配権を取り戻すことが出来た。しかし、武吉は、陶軍のあまりの脆さに虚しさを覚えていた。

 潮は満ち干きを繰り返し、嵐は去って、遺骸は残る……。主君を斃して主家を簒奪したものの、わずか四年で自刃することになった晴賢の生涯は、どこか不吉な空々しさを感じさせた。

 それは、己の人生と重なる部分があるからかもしれない……。

 海は、次第に穏やかさを取り戻しつつあった。雲間から青空がのぞき、透明な光が海面を照らし始める。

 潮を待つ船上で、武吉は、自分の心の落ち着けどころに惑っていた。

 彼の背に、せつが、ややしんみりと声をかけた。

「いい仕事でしたなあ、お頭!」

「…………」

 武吉は、真紅の猩々しょうじょう羽織を翻し、風の中で微笑んだ。

 船出の刻であった。


       **


 能島の西方、大三島の大山祇神社では、中世から近世初頭にかけて、法楽ほうらく連歌の会が盛んに開かれていた。三島村上氏の一族の者も、多数参加している。

 万首を超える歌の中に、武吉のものが残っている。天正四年七月、織田信長の水軍と戦う直前のものだ。


  塵とのみつもりて雪たかま山      高年

  さえ行月はかつらきのさと        武吉

  夜半にたつ雲や嵐のはらふらん    通総(来島村上総帥)


 毛利氏とともに織田水軍を撃破し、能島村上氏の全盛を築いた武吉は、後年(天正十四年)、イエズス会神父ルイス・フロイスに『日本最高の海賊』と称えられた。

 今も、しまなみに、水軍太鼓の音が響いている。





~第10話、了~


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『掌の宇宙』第10話 解説


《瀬戸内海 村上水軍》


 村上氏の歴史は、平安時代末期に始まり、祖は清和源氏と伝えられていますが、定かではありません。能島村上氏に関する具体的な記録は南北朝時代からで、貞和4年(1349年)、東寺の荘園となっていたこの地域の治安を守るために、室町幕府が能島村上衆に警護料を支払った、という記録があります。


 伊予の守護・河野氏の家譜『予章記』には、四国統一を目指す讃岐・細川氏から攻撃を受けた貞治4年(1365年)、能島村上氏の頭領・村上義弘が、河野家の幼い当主・通堯(みちたか)を擁護して戦った経緯が書かれています。


 義弘の死後、村上氏は能島・来島(くるしま)・因島(いんのしま)に別れ、以後、三島村上氏と言われました。結束は緩かったもようです。


 天文10年(1541年)頃、山陰の尼子詮久と防長の大内義隆の間で、安芸国の支配をめぐる対立が激化。能島村上氏内部でも、尼子につくか大内につくかで対立が生じ、家督争いが絡んだ深刻な争いとなりました(異説あり)。尼子方の惣領・義雅と嫡子義益を、大内方の義忠(義雅の弟、武吉の父)と隆重(義雅の弟、武吉の叔父)が倒し、庶家から入って惣領家を継いだのが、武吉です。


 三島村上氏のうち、因島村上氏は、早くから毛利氏に、来島村上氏は河野氏、後に毛利・豊臣に臣従しました。惣領の能島村上氏(武吉)は、最後まで独立を貫こうとしたため、秀吉によって海上の活動を封じられました。

 以下に、簡単に村上武吉の年表を書いておきます。


天文2年(1533年):武吉 誕生(幼名:道祖次郎


天文21年(1552年):武吉20歳  家督相続争いに勝ち、能島一門の統帥となる。

  同年、陶晴賢(すえはるかた)が、主君の大内義隆を自殺に追い込んで防長の支配権を握り、安芸・備後の毛利元就と対立を深める。

  武吉は、当初陶氏に協力的であったが、天文23年、石見国津和野の吉見氏が陶氏に叛旗を翻すと、反陶方となる。

  天文23年5月、毛利元就は、陶氏支配下にあった厳島を占領し、宮ノ尾城を築く。


天文24年(1555年):武吉23歳  厳島合戦にて、毛利方につき、勝利。

  毛利元就の使者(水軍提督)・乃美宗勝が、武吉に援軍を求める。

  毛利水軍 五・六十艘+村上水軍若干(約三千人) vs 陶氏 周防水軍五百隻(約二万人)。毛利方が大勝し、陶晴賢は自刃。

  以後、毛利方の水軍として、対大友戦で功績をあげる。一時、大友氏へ傾斜し、毛利方に攻められるが、これを撃退。


元亀3年(1573年)10月:武吉41歳  毛利・浦上・宇喜多氏の間で講和が成立し、武吉は、再び毛利方となる。


天正4年(1576年)7月:武吉44歳  摂津木津口の海戦にて、織田信長の水軍を、毛利・村上水軍が撃破。


天正6年(1578年)11月:武吉46歳  織田水軍と再戦、この時は敗退。


  以後、織田信長は羽柴秀吉を通じて、村上武吉を味方に引き入れようとする。が、天下布武を目指す信長と、地方重視の毛利氏との意向は合わず。武吉は、毛利氏への義理を立て、信長の誘いを断る。


天正10年(1582年)6月:武吉50歳  本能寺の変で、信長死亡。


天正15年(1587年)夏:武吉55歳  能島城を秀吉に明け渡し、周防国屋代島(山口県大島郡)へ移る。


天正16年(1588年)6月:武吉56歳  秀吉、刀狩令および海賊禁止令を発布。

  この禁令に背いたとして、秀吉は武吉・元吉父子に切腹の命を下すが、小早川氏が武吉をかばった。


文禄元年(1592年):武吉60歳  秀吉、朝鮮へ出兵。


慶長3年(1598年)8月:武吉66歳  秀吉死亡。


慶長5年(1600年)9月:武吉68歳  関が原の戦いにて、西軍敗退。

 武吉の長子元吉は、道後にて騙し討ちに遭う。毛利軍退却。


慶長9年(1604年)8月:村上武吉死亡、享年72歳。


 本作品は、天文24年(1555年)9月30日~10月1日の一夜で、毛利・村上連合軍が圧倒的多数の陶軍を破った、厳島合戦を題材としました。以後の毛利氏と村上水軍の盛衰を決める決定的な戦いで、多くの記録や軍記物語の題材となっています。(『棚守房顕覚書』・『二宮俊実覚書』・『森脇覚書』・『武家万代記』・『陰徳太平記』・『萩藩閥閲録(村上図書)』・『萩藩譜録(村上図書)』など)


 研究者によって、この合戦における能島村上氏の参戦を疑問視する意見があります。また、村上氏の由来・歴史に関しても、諸説存在しています。かなり簡略化した解説ですので、詳しくは史書をご覧下さい。



■本文解説


注①関船:水軍の主力軍船。鋭い船首で敵船に体当たりし、破壊することが可能。


注②小早:小型の関船。船足が速く、偵察や追跡に用いました。


注③大山祇神社(おおやまづみ):大三島にある、伊予国一品宮。中世には「三島さま」と呼ばれました。主祭神は大山積尊。河野氏の氏神でもあります。社殿は国の重要文化財。鎧や刀など、国宝八点を所蔵しています。


注④過所旗:これ以前、瀬戸内海を航行する船は、安全のため、有力海賊の一人を実際に船に乗せる『上乗り』を行っていました。一人を乗せていれば、他の海賊は手を出さない掟がありました。やがて、この警護料を払ったことを、旗で示すようになりました。村上氏の旗は、瀬戸内海全域で通用したようです

注⑤緋羅紗の陣羽織=猩々(しょうじょう)陣羽織:緋羅紗の赤は、魔よけの効果があるとされた架空の動物「猩々」の血の色と考えられていて、戦国大名の間で人気がありました。


注⑥厳島神社(いつくしま):宮島にあり、推古天皇即位元年(598年)に建立されたといわれています。『日本後記』には、伊都岐島神として記載されています。主祭神は市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の三神。現在の社殿は、平安時代1168年に平氏によって造営された寝殿造りの様式を伝えているもので、度重なる火災を超えて再建されています。社殿は国宝、大鳥居は重要文化財、全体が世界遺産に登録されています。大鳥居は、平安時代には既にあったそうですが、詳細は不明です。



■カブトガニTachypleus tridentatus


 瀬戸内海沿岸では「どんがめ」と呼びますが、勿論、カメ(爬虫類)の仲間ではありません。カブトガニ綱カブトガニ目カブトガニ科カブトガニ属の節足動物です。化石は約5億年前のオルドビス紀の地層からも発見され、約2億年前から殆ど姿が変わっていないため、「生きている化石」と呼ばれます。Tachypleus属(カブトガニ tridentatus、ミナミカブトガニ gigas、マルオカブトガニ rotundicauda)とLimulus 属(アメリカカブトガニpolyphemus)の二属四種が残っています。


 日本では岡山以西の瀬戸内海から北九州沿岸に生息し、特別天然記念物に指定されています。東シナ海と北アメリカの東海岸にも生息し、東アジアでは食用にする地域もあります。幼生は数mmですが、脱皮を繰り返して成長し、50-60cm(最大記録は79.5cm、体重5kg)になります。メスの後ろにオスがくっついて歩く行動(抱合)がみられます。


 猟師の網にかかっては甲羅の棘で網を破ってしまうため、嫌われ、昔は浜辺に裏返して放置されるものが沢山いました(起き上がれずに干からびてしまうのです)。戦時中、食用にされたこともありましたが、身が少なく、あまり美味しくなかったそうです(中国では、卵の詰まる時期のメスを食べます)。沿岸開発や水質汚染のため、絶滅の危機に瀕し、現在では保護されています。


 岡山県笠岡市には「笠岡市立カブトガニ博物館」があり、地元では「どんがめ饅頭」が売られています(カブトガニ型をして、餡のたっぷり詰まったお饅頭です)。




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