第9話 森の主 (ロシア連邦・シベリア)
1.
年取った夫婦が、海辺に住んでいた。娘が一人いた。他の子どもは皆死んでしまっていたので、二人は、この子を大切に守り育てていた。
娘は、名をイニアナヴィトといった。
ある朝、幼いイニアナヴィトが ヤランガ(木の骨組みをトナカイやセイウチの皮で覆った住居)から出て、空を渡る海鳥の声に耳を傾けていると。ふいに、異様な気配を感じた。
「…………?」
背筋をぞくぞくと這い上る、恐いような、それでいて妙に惹かれる心地がして、彼女は振り向いた。白樺の森の向こうに、ソプカ火山の頂が見えているだけだった。
じっとしていると気配は消えたので、彼女はヤランガの中に戻った。
その日から、少女はたびたび不思議な気配を感じたが、理由は分からなかった。
月日が経ち、イニアナヴィトは、美しい娘に成長した。しかし、両親は彼女を可愛がるあまり、村の男達を近づけなかった。
ある秋の日、イニアナヴィトがマツの実を拾っていると、またあの気配がした。立ち止まって周囲を見渡した彼女は、小川の辺に、殺されたばかりのトナカイが倒れているのを見つけた。
彼女はヤランガに帰って両親に報せ、三人でトナカイを持ち帰った。思いがけないご馳走に喜んで、一家はそれを食べた。
夜になり、眠っていたイニアナヴィトは、突然、激しい動悸を感じて跳ね起きた。魚油灯を掲げて外へ出た彼女は、暗がりにさっと消えるオオカミの尾を見た。しばらく見張っていたが、それきり戻ってこなかったので、彼女は床に戻り、そのことを両親には話さなかった。
次の日。イニアナヴィトが海辺に出ると、今度は氷の上に、殺されたばかりのアザラシが乗っていた。彼女が急いで父に報せると、父親は、アザラシの肉を切って持ち帰るよう言った。彼女はその通りにし、一家は、アザラシの肉に舌鼓を打った。
その夜、イニアナヴィトは、以前と全く同じ状態で目を覚ました。灯火を掲げて夜の中を透かし見た彼女は、今度はオオカミではなく、クズリの尻尾が駆け去るのを見た。何事も起こらなかったので、彼女は眠りに就いた。
翌日の夕暮れ。一家は、ヤランガに近づいてくる足音を聞いた。客が来るのは珍しいと思っていると、扉を叩いて、一人の若い男が中に入って来た。
立派なオオカミの毛皮を着た青年は、金色に輝く瞳でイニアナヴィトを見た。奥に七色の陰を宿した琥珀色の瞳に見詰められると、あの不思議な感覚が湧き起こるのを感じて、イニアナヴィトは眼を伏せた。
彼は彼女の向かい側に腰を下ろし、切り出した。
「贈り物を受け取って下さり、ありがとうございます。僕は、父の言いつけに従い、娘さんを迎えに来ました」
夫婦が顔を見合わせ、何のことだろうと考えていると、再び足音がして、別の若者が入って来た。彼は、クズリの毛皮で縁取りをした服を着ていて、最初に来た若者を見ると、
「お前は俺より先に来たかもしれないが、この娘が結婚する相手は、お前じゃない。この俺だ」
と言った。
「いや、僕の方だ」
最初に来た若者が立ち上がって言い返すと、後から来た若者は、彼に掴みかかった。イニアナヴィトは悲鳴をあげて母親に抱きつき、父親は怒鳴った。
「喧嘩なら、外でやってくれ!」
そこで、男達は睨み合いながら外へ出て、さらに森の中へ入って行った。急速に濃くなっていく闇の中から、唸り声や木の枝を踏み折る音が聞こえていたが、親子はヤランガに閉じこもり、息を潜めていた。
翌朝、イニアナヴィトが恐る恐る様子を見に行くと、地面に巨大なオオカミとクズリの足跡が残っていた。どちらも血がついていた。辿っていくと、死んだクズリが横たわっていて、脇腹には、大きな傷がぱっくり口を開けていた。
彼女が戻ってそのことを告げると、両親は不安げに顔を見合わせた。父親は、むっつりとして、娘にしばらく外へ出るなと言った。
けれども、これだけでは終わらなかった。
若者たちがやって来たのと同じ日暮れ時に、今度は、壮年の大柄な男がヤランガを訪れた。冬でも凍ることのないオオカミの毛皮を着た男は、白いものの交じった顎鬚を撫でながら、三人に言った。
「息子が大怪我をしていますので、代わりにお迎えに来ました。彼は今にも死にそうなので、詳しい事情をお話している暇はありません」
年老いた両親には旅をすることは出来なかったが、仕方がなく、娘を行かせることを承知した。イニアナヴィトは、あまり遠くには行けないと思い、男に
「橇はありませんが、心配は要りません。貴女一人くらい、私が背負ってあげられます」
と、男は言い、イニアナヴィトの手を引いて、森の中へ歩いて行った。
老夫婦は、『娘は、森の主に見初められてしまったのだ。もう帰ることは出来ないかもしれない。』と考え、涙を流した。
2.
ヤランガが見えないところまで来ると、男は娘を背負った。
「いいと言うまで、眼を閉じていなさい」
彼女が言われた通りにすると、男は、するする歩き出した。だんだん速く走り、最後には駆け足になったので、イニアナヴィトは、まるで四本足の獣に乗っているように感じた。
東の空が明るくなり始めた頃、二人は、男が棲む洞窟に到着した。狭い路を通っていくと、奥に若者が寝ていて、傍らには母親らしい女性が座っていた。
男は、部屋に入るなり、心配そうに声をかけた。
「遅かったか?」
若者は眼を開けてイニアナヴィトを見上げ、にっこり微笑んだ。その顔を見たイニアナヴィトは、急いで来て本当に良かったと思った。
若者は、名をイレラクといった。
彼の母は、花嫁の為に、刺繍を施した真新しい着物を用意してくれていた。イニアナヴィトにそれを着せ、彼女は言った。
「さあ。花嫁に、世話をしてもらいましょうね」
イレラクは傷つき、やつれていたが、イニアナヴィトの看病によって、ぐんぐん良くなった。トナカイ狩りに出掛けられるまで回復すると、両親は喜んで、
「彼女のご両親が、冬篭りの仕度に苦労しているだろう。お前、行って手伝ってやりなさい」
と勧めた。
早速、イレラクは、橇にトナカイの肉を積み、毛皮を敷いて、イニアナヴィトを座らせた。彼女の上から毛皮をかぶせ、小さなテントを作ると、決して外を見ないよう言って、橇を引いた。
橇は、始めはゆっくりと、徐々に速く進んで、翌朝、彼女の故郷へ着いた。
もう娘には会えないだろうと思っていた両親は、大いに喜んだ。
さて。老夫婦の食糧貯蔵庫は、空っぽだった。イレラクは、少しの間首を傾げて考えていたが、舅に手を貸すよりは速いと思ったのだろう。
「僕が狩りに行っている間、この中で待っていて下さい。声をかけるまで、決して外を見ないで下さい」
と言って、二人と妻を橇の中に残し、休む間もなく出掛けた。
その日の夕暮れ、声をかけられた三人は、外へ出て驚いた。五頭の立派な牡のトナカイが、ずらりと並べられていたのだ。
彼等の社会では、男は、腕のいい狩人であることが最も重要とされる。家族を養い、多くの毛皮を獲れる者でなければ、意味がない。
「本当に、大変な婿殿だ……」
と、イニアナヴィトの両親は呟いた。
イレラクは、トナカイを狩るのは大変上手かったが、アザラシの獲り方を知らなかった。ずっと森に住んでいたので、狩ったことがなかったのだ。
イニアナヴィトの父は、若い頃の道具を貸して、彼にアザラシの獲り方を教えた。イレラクはアザラシも狩ることが出来るようになり、沢山の肉を貯蔵した。
こうして、老夫婦の貯蔵庫が食糧でいっぱいになると、イレラクは、妻と共に森へ帰ると言い出した。何度でも会いに来ると言ってもらえた老夫婦は、今度は、笑顔で二人を送り出した。
3.
若夫婦は、イレラクの両親の許で静かに暮らしていたが、春になると、不思議な男達がやって来た。見たことのない鮮やかな色の服を着た彼等は、イレラクを祭りに招待したいと言った。
イレラクの両親は渋り、
「花嫁を連れて行かない方がいい。彼女は、殺されてしまうだろう」
「彼等の土地には、大きな恐ろしい鳥が棲んでいると聞く。お前たち、餌にされてしまうよ」
と止めたが、イレラクは、招待されたのに断るのは失礼だと言って、旅の仕度を始めた。
夫を一人で行かせるわけにはいかないので、イニアナヴィトは橇に乗った。
男達は、二人を連れて出発した。
温泉の湧く沼地を抜け、紫のカラスアゲハ(蝶)の舞う湿原を通過した。切り立った崖を登るときには、彼等は、イニアナヴィトを橇に縛りつけ、吊り提げて進んだ。宙にぶら提げられたイニアナヴィトはドキドキしたが、男達も、彼女を無事運び終えるとほっと息をついた。
数本の河を渡り、知らない森に到着した二人は、男達の部族の者に、たいそうな歓迎を受けた。
うす蒼い夏の夜、村の広場へ連れ出されたイニアナヴィトは、ふいに、小さな女の子に手を引かれた。
「私のおばあさんが、貴女を歓迎したいと言っています。どうか、一緒に来てください」
イニアナヴィトは戸惑ったが、夫が構わず行って来いという身振りをしたので、少女について行くことにした。
村外れの丸太小屋に案内されたイニアナヴィトは、扉を開けた途端、血の匂いに迎えられた。部屋の中央の炉に、金物の鍋が架けられていて、赤黒い血が煮えていた。
一人の老婆が、彼女に微笑みかけた。
「よく来て下さいました。親愛のしるしに、身体を拭いて差し上げましょう」
老婆は、彼女を部屋の奥に案内すると、服を脱がせ、煮た血を使って拭きはじめた。イニアナヴィトは、気味が悪いと思ったが、そういう習慣があるのかと思い、我慢していた。
ところが、老婆に拭かれているうちに、イニアナヴィトの身体はどんどん縮んで、彼女を連れてきた少女くらいになってしまった。彼女は助けを呼ぼうとしたが、声が出なかった。
一方、先刻の少女は成長して、イニアナヴィトそっくりになり、彼女の服を着て出て行った。本物のイニアナヴィトは、後を追いかけたが、誰にも、夫にも、彼女だと分かって貰えなかった。
「なんだ、お前は。子どもが来るところじゃないぞ。あっちへ行け!」
焚き火の周りで、男達は酒を飲み、肉を食べ、女達と踊った。イレラクは上機嫌で、偽のイニアナヴィトの腰を抱いて踊った。偽の妻は、本当の彼女より若く身振りも派手だったが、酔った彼は気づかなかった。
イニアナヴィトは、罠にかけられたことを嘆いたが、夫が偽の妻を連れて床に入るのを、見送ることしか出来なかった。
4.
イニアナヴィトが木陰にうずくまって泣いていると、また少女がやって来た。祭りの前に彼女を呼びに来たのと、よく似た少女だった。
「お可哀想に。私のおばあさんが、何とかしてくれるでしょう」
そう言って腕を引っ張るので、イニアナヴィトは、躊躇いながらついて行った。
今度は、村の反対側の外れに建つ小屋に連れて行かれた。中では、鍋に薬草が煮えていて、別の老婆が迎えた。
「あの女は、貴女に成り代わって、彼をここに留めようとしているのです。どうか、私に貴女を洗わせて下さい」
何が起きても驚かない気持ちになったイニアナヴィトは、言われるまま、薬草を煮たお湯で身体を拭いてもらった。すると、彼女は本来の姿に戻ることが出来た。
老婆は、リスの毛皮で作った腰布と靴を彼女に渡し、ポットにお湯を入れて言った。
「これを、あの女の耳に注いで下さい。それから、持ち主の許に帰るように念じて、これらを投げて下さい」
イニアナヴィトは、腰布と靴だけを身につけ、ポットを手に戻った。偽の女は、イレラクを抱き締めて眠っていた。イニアナヴィトは、偽者の耳にお湯を注ぎ、服を投げつけて叫んだ。
「持ち主の許へお帰り!」
女はギャッと悲鳴をあげて元の姿に戻ったので、イレラクは、偽者を外へ放り出した。辱めを受けて怒った彼は、イニアナヴィトの手を取った。
「こんな所にはいられない。帰ろう」
彼が偽の妻と寝たことに腹を立てていたイニアナヴィトは、その手を振り払った。
「貴方は、あの女を連れて行けばいいじゃないの!」
「騙されただけなのに、そんなことを言う!」
イレラクは猛烈に腹を立て、牙を剥き出して唸った。
「こうなったら、ここの連中を全員殺してやる!」
騒ぎを聞いて駆けつけた人々は、金色の瞳を燃え立たせ、今にも本性を現そうとする彼に恐れをなした。イニアナヴィトを宥め、どうか夫の許に戻って欲しい、彼を鎮めて欲しいと懇願した。
イレラクは、妻を橇に乗せ、集落を後にした。人々は見送っていたが、しばらくすると、後を追いかけて来た。
イレラクは、橇をトナカイの毛皮で包んで言った。
「君は、河を下って行け。魔法をかけたから、大丈夫だ。僕は、奴等を撒いて帰る」
それから、ちょっと決まり悪そうに付け加えた。
「……無事に戻れたら、河が凍る前に、君を迎えに行く」
そして、彼女を河に流した。
イニアナヴィトが振り返ると、一頭のオオカミが森の中へ駆けていくところだった。
5.
イニアナヴィトを載せた橇は、どんどん河を下って行った。彼女は夫を心配しながら、縫い物などをして過ごした。途中、いくつかの村の側を通り過ぎたが、人々は奇妙な橇に気づかなかった。
『魔法で、見えなくなっているんだわ。』と、彼女は思った。
故郷の海辺に辿り着いた彼女を、両親は、驚いて迎えた。イレラクは一緒に来なかったのかと訪ねられた彼女は、曖昧に答えるだけだった。
秋になると、イレラクの代わりに、彼の父親がやって来た。
「息子は怪我をして、迎えに来ることが出来ない」
と言って、彼は、大変な思いをした嫁を労わるように、肩をすくめた。
「もし、戻って来てくれるなら……アレは、今後は素行を良くするだろうよ」
イニアナヴィトが戻ると、イレラクは、大怪我をして死にかけていた。彼女は、肉を煮た汁を彼に飲ませ、体力の回復にあわせて、徐々に食事を増やして行った。
元気になったイレラクは、彼女と彼女の両親を大切に守って暮らした。
数年後、イニアナヴィトの両親が死に、イレラクの両親も、年老いて死んだ。イレラクは、食糧と持っていた二台の橇を、親族に分配した。
「さようなら。僕達は、悲しみも苦しみも決して入り込むことが出来ない土地へ行きます」
と人々に告げると、二人はオオカミに変身して、森の奥へ去って行った。
~第9話、了~
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『掌の宇宙』第9話 解説
《ロシア連邦:シベリア》
「シベリア」と呼ばれる地域は、西はウラル山脈、東は太平洋、北は北極海、南はカザフスタンのステップ地帯とモンゴルと中国の国境までを含み、面積は約1380万km2。アメリカ合衆国と西ヨーロッパ諸国全てを合わせた面積に相当します。
地理的には、西シベリア低地・中央シベリア高原・東北シベリア山脈・南シベリア山地に大別され、西からオビ、エニセイ、レナの三つの大河が北極海に注いでいます。気候は南からステップ(大草原地帯)・タイガ(針葉樹林帯)・ツンドラ(凍土帯)に当たります。
シベリアには、ロシア民族以外に、アリュート語群、チュコト・カムチャッカ語群、モンゴル語群、チュルク語群、ツングース・満州語群など、言語の系統が異なる多数の民族が住んでいます(ブリャート、ハンティ、ケト、マンシ、オロチ、ナナイ、エヴェンキ、ニヴフ、ヌガナサン、ヤクートなど)。この地方の口承芸術の蒐集・研究は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて(帝政ロシア時代)流刑にされた革命家(政治犯)の人々によって始められたと言われています。
シベリアの東北端、ベーリング海峡周辺の地域(チュコト~カムチャッカ半島)で暮らすのは、シベリア・エスキモー(ヤップィック)、チュクチャ、ケレク、コリャーク、エヴェンといった人々で、海獣猟・毛皮獣猟・漁撈・トナカイ飼育などを伝統的な生業としています。
いずれも人口は百人~一万人程度の少数民族で、彼等の固有言語は消滅の危機にあります。
(本作品は、ヤップィックに伝わる民話を基にしました。動物と人間が結婚する話は多くあり、ワタリガラス、クマ、タコ、ミンク、クジラ、キツネ等のバリエーションがあります。いずれも、動物は「神」かそれに匹敵するものとして扱われます。クマ、シベリアタイガー、オオカミ、海獣は、特に神聖だとされたようです。)
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