第7話 蛙 (中央アジア・チベット)

1.

     ゲコ


 香を焚いていた老女は、驚いて振り向いた。タルチョー(祈りの旗)を立てた石積みの上に、蛙が座っていたのだ(注①)。石と同じ膚の色をしていたので、声を聞くまで気づかなかった。

 ひと抱えほどもある蛙で、彼女は、これまでそんな大きな蛙を、見たことがなかった。

「ゲコゲコ」

 蛙は、立ち尽くす彼女を黒い瞳で見詰め、そっと喉を鳴らした。柔らかな、含み笑いをしているような声で、老女は少し楽しくなった。

 彼女は寡婦だった。腰に下げた前掛けは、彼女が結婚している女性であることを示していたが、長く連れ添った夫とは死に別れ、たった一人で暮らしていた。だから、生き物が訪ねて来てくれることが、嬉しくもあったのだ。

 ところが、

「奥さん、奥さん」

 突然、蛙が人の言葉を使って話しかけてきたので、老女の和やかな気分は吹き飛んだ。彼女は、もちろん、喋る蛙などというものを、それまで見たことも聞いたこともなかったのだ。

 それで、思わず応えてしまった。

「おやまあ。お前、私に話しかけているのかい?」

「そうです。奥さん、僕のお母さんになってくれませんか?」

「ええ?」

 ……蛙と話をしたのが初めてなら、母親になってくれと頼まれたのも初めてだ。老女は眼を丸くした。

「母親にって、お前のかい?」

「ええ、そうです。僕は、貴女をずっと前から見ていました。それで、お母さんになって欲しいのです」

 蛙は、至極真面目な口調で言って、じっと彼女を見詰めた。大きな黒い瞳の表面に、老女の顔と青空と、白い氷河を戴く山々が映っていた。

 蛙が喋るだけでも奇妙なのに、母親になれとは、どういうことなのだろう。老女は気味が悪くなり、関わらない方がいいと考えた。

「無理だよ。そんなことは出来ない」

 老女は、手にかけた木製の数珠を指先で数え、菩薩さまの加護の呪文を唱えながら、家に入った。蛙は何も言わず、石の上に座っていた。


 翌日。

 平らになっている家の屋根で、老女は、市場に出す売り物の仕分けをしていた。一休みしてお茶を飲もうとした時、彼女は、蛙が居ることに気がついた。

 昨日話しかけて来た、あの蛙だ。屋根の縁に、人間のように脚を伸ばして腰を下ろし、気持ちよさそうに眼を細めている。老女はびっくりした。

「また来たのかい」

「はい、奥さん。僕のお母さんになってくれませんか?」

 昨日と同じ穏やかな声で、蛙は言った。

『どうやら、夢や幻ではないらしい。なんとまあ、奇妙な蛙だろう。』と、彼女は思った。『でも、実は、蛙の王様かもしれない……。』

 体は小さな子どもくらいで、太っていて、膚はつやつや輝いていた。目の下に溜まった瞼がふっくらとして、笑っているように見える。彼女の返答を待つ様も、礼儀正しかった。

 しかし、やはり、蛙は蛙だ。

 老女は首を横に振った。

「駄目だよ。あんたは、蛙のお母さんを探せばいいんだ」

 すると、蛙は大変悲しそうな顔になったので、老女は、悪いことをした気分になった。

 彼女は、木の階段を降りて家の中に戻ったが、自分でもよく分からない物悲しさが、胸に残った。


 次の日。

 いつものように祭壇に祈り、バター茶を飲んだ後(注②)。家の扉を開けながら、老女は、自分が期待していることに気づいた。あの蛙が会いに来てくれないかと思ったのだ。

 案の定、蛙は、扉の前に座っていた。

「またお願いに来ました、奥さん」

 蛙は、濡れた黒い瞳で、まっすぐ彼女を見上げた。

「どうしても、貴女に僕のお母さんになって欲しいのです」

『この蛙は、きっと、私がいいと言うまでやってくるんだろう。』と、彼女は考えた。不思議なことだが、こうして毎日通って来る蛙を見ていると、気の毒なような、可愛らしいような気持ちになってきた。そこで、彼女は訊ね返した。

「私がお前の母親になったら、お前は、どうしてくれるんだい?」

「それはもちろん、実の息子が仕えるように、お母さんにお仕えますよ」

 蛙は真剣だった。彼女は、遂に笑い出した。

「それじゃあ、お願いしようかねえ」

 蛙は、満足げに微笑んで、彼女の家に入った。



2.

 老女は、蛙がどうやって人と暮らすのだろうと思ったが、案外、蛙にとって家の中は気持ちの良い場所だったらしい。真鍮の炉の上でしゅんしゅん湯気をたてる金物のヤカンも、華やかに飾り付けられた多羅タラ菩薩さま(注③)の祭壇も、珍しがる風はなく、何年もそうしていたように椅子に座り、バター茶を飲んだ。

 老女は、器に炒った大麦の粉を入れて出してみた。蛙は、それにお茶を注ぎ、先に丸い吸盤のついた長い指で、丁寧に捏ねて食べた(注④)。

 蛙は、家の中を見回した。

「バターが足りませんね、お母さん」

 この地方では、食べるものにも明かりにも、ヤク(牛)の乳から作ったバターを使う。蛙は、つぶらな瞳で彼女を見て、こともなげに言った。

「僕が手に入れて来ましょう」

「手に入れるって……どうするんだい、お前?」

「まあ、任せて下さい」

 蛙は、ぺたんと椅子から降りると、一生懸命跳ねて、市場へと向かった。


 市場へやって来た蛙は、行きかう巡礼の人々や物売りたちの足の間を器用に避け、目指すものをさがした。そして、一頭のロバが、背中にバターの入った袋を乗せて休んでいるのをみつけた。

「ゲコゲコ。あれを貰おう」

 呟くと、蛙はぴょんと跳ねて、ロバの背に乗った。ロバは、彼が乗ったことを感じると、カポカポ歩き始めた。

 これを見た市場の人々は、驚いて言った。

「あれは何だ? 蛙がロバに乗っているぞ」

 本当に、蛙はロバの肩の上で体を揺らし、人がするのと同じように御していた。人々は、吉兆か魔物の仕業かと議論をしながら遠巻きに眺め、誰もロバを止めようとはしなかった。

 蛙は、無事にロバとバターを持ち帰った。

「ただいま、お母さん」

 帰って来た蛙を見て、老女は溜息をついた。

「何とまあ。お前は、大した息子だよ!」


 老女と蛙の生活は、一年に及んだ。蛙は、しばしば不思議なことをして老女を助けたので

「あんたは、本当に蛙なのかい、それとも人間なのかい?」

と、老女は訊ねたが、蛙は、物言いたげに笑っているだけだった。

 ある日、蛙が言い出した。

「僕に、チュバ(長衣・注⑤)を縫ってくれませんか、お母さん」

「いいけれど。改まって、どうしたんだい? お前。」

「僕は、お嫁さんが欲しいのです。だから、探しに行きたいのです」

「…………」

 老女は、すぐには応えることが出来なかった。バターと違い、これは容易なことではないと感じた。今の蛙のような暮らしを好んでお嫁に来てくれる雌蛙がいるとは、思えなかったのだ。

 不安げな彼女を励ますように、蛙は言った。

「大丈夫です。きっと素敵なお嫁さんをみつけて帰って来ますから、待っていて下さい」

「そうかね……。では、菩薩さまのご加護がありますように」

 老女は、一番上等な緑の繻子サテンの生地を使い、蛙の身体に合わせたチュバを縫ってやった。蛙は、彼女の心遣いを喜び、それを着て、意気揚々と出掛けて行った。

 しかし、彼はなかなか帰って来なかった。

 数日経つと、老女は心配になってきた。家の中という安全な場所を出たとき、小さな蛙の身に降り掛かるさまざまな危険を案じて、眠れない夜が続いた。

 彼女は、自分にとって蛙が大切な存在になっていることに、気がついたのだ。



3.

 蛙は、雌の蛙を探すつもりは全くなかった。彼は、お嫁さんになってくれそうな娘を探して、あちらの村、こちらの天幕、と旅を続けたが、良い人がみつからなかった。

 人の心を見ることの出来る彼には、どうしても、娘たちの心の中にある高慢さや欲望が解ってしまい、お嫁さんにしたいと思えなかったのだ。

 それで、あっと言う間に日数だけが過ぎてしまった。

『僕が求める娘は、いないのかもしれない……。』

 諦めて帰ろうかと考え始めた蛙は、ある裕福な商人の家の前で立ち止まった。そこの一人娘を見たとき、まさに探し求めていた娘だと分かった。

 蛙は、早速ぴょんぴょん跳ねて、商人の家に入った。

「ゲコゲコ。こんにちは」

 出掛けようとしていた商人は、眼を丸くした。彼のお気に入りの刺繍のかかった椅子の上に、大きな蛙が座っていたのだ。

「なんだ、お前は? どうやって入って来た」

「僕は蛙ですので、跳ねて来ました」

「何の用だ」

「お願いがあります。貴方の娘さんを、お嫁さんにいただきたいのです」

「何だって?」

 商人は、自分の耳を疑った。これは魔物かと怪しんだが、蛙の口調が穏やかだったので、恐怖は湧かなかった。

 蛙は、黒い瞳で彼を見詰め、繰り返した。

「貴方の娘さんを、僕のお嫁さんにいただきたいのです」

「馬鹿なことを」

 商人は笑った。頭の悪い蛙が、冗談を言っていると思ったのだ。

「お前は蛙じゃないか。蛙が人間と結婚できるはずがないだろう」

「そう思われますか?」

「ああ」

 その時、奥の部屋から、商人の妻がやってきた。

「どうしたの。お客様?」

 椅子の上に座っている蛙を見た彼女は、蛙が苦手だったので、悲鳴を呑み込んだ。

 蛙は、平然と言った。

「こんにちは、奥さん。貴女の娘さんを、お嫁さんにいただきたくて参りました」

「何ですって?」

「さあ、もう冗談は終わりだ」

 商人は片手を振って、蛙を追い出そうとした。

「馬鹿なことを言うのはやめて、蛙は蛙らしく、水の中に潜っていろ」

「……どうしても、駄目ですか?」

「当たり前だ」

 蛙は、ちょっと悲しそうに商人を見詰めた。黒々と輝く瞳があまり真摯だったので、さすがの商人も、少し蛙を気の毒に思った。

『可哀想に。蛙の分際で、人の娘に恋をするとは。憐れだが、仕方がない……。』

 つと、蛙は横を向き、もぞもぞ身体を動かした。

「あの。僕、咳をしてもいいですか?」

「咳、だって?」

「ええ。我慢できそうにないので……」

「咳くらい、どうだと言うんだ」

 と、商人は言った。蛙は、大きな口を開けた。


     げふん


 ところが、これがただの咳ではなかった。部屋の中を突風が吹き、机や壁にヒビが入った。机に載せていた陶製の茶器は割れ、壁にかかっていた布やお経はめくれ上がり、破れてしまった。

「この化け物め!」

 商人は、剣を抜いて蛙に斬りかかった。蛙は、また咳をした。


     がふん


 商人は、吹き飛ばされて尻餅をついた。柱に亀裂が走り、天井から土がバラバラ落ちてきて、商人の妻は悲鳴をあげた。

「やめろ、やめてくれ!」

 蛙は、ぴたりと咳くのを止めた。途端に、崩れた壁は直り、机の上に茶器は綺麗に並べられ、家は元通りになった。商人と妻は、驚いて瞬きを繰り返した。

 蛙は、何事もなかったかのように続けた。

「さて……。貴方がたの娘さんを、お嫁さんにいただくわけに参りませんか?」

『どうやら、この蛙は、魔法を使うらしい。』商人は考えた。『断れば、大変なことになるかもしれない……。』

 けれども、可愛い娘を、おいそれとくれてやるわけにはいかない。夫婦は首を振った。

「駄目だ、冗談じゃない。帰ってくれ」

「こんなにお願いしても、許していただけないのですか」

「しつこい」

「…………」

 蛙は、じっと商人を見詰めた。大きな瞳が潤んできらきらと輝き、今にも泣き出しそうに見えた。

 商人は、嫌な予感がした。

 おもむろに、蛙は呟いた。

「では。僕、泣きます」

 蛙の頬を、二条の透明な涙が、つつーっと伝わった。とみると、溢れ出した水が、部屋の中のものを一気に押し流した。机も祭壇も呑み込んで渦巻く水から逃れるため、商人夫婦と使用人達は、屋根に上らなければならなかった。

 商人の妻は、金切り声をあげた。

「やめてちょうだい! 私達の家を流さないで!」

 蛙は、ぴたりと泣くのを止めた。瞬き一つすると、家は元に戻った。商人夫婦は、くたびれて、ぜいぜい息を吐いた。

「わかった。お前は、特別な蛙だ」

 しかし、蛙は、夫婦の目に宿る気持ちが変わらないことに気づいた。彼等は、蛙を、人間より下の、最も卑しい生き物だと考えているのだ。

 蛙は、溜息をついた。

「どうして、分かっていただけないのでしょう……。僕は蛙で、貴方がたは人間ですが。僕達は、みな同じ霊性に属しているのですよ」

 夫婦は、顔を見合わせた。

「それさえ分かっていただければ、僕達は、上手くいくと思うのですが……」

 蛙の言うことは、商人夫婦にも、理解出来なくはなかった。しかし、どうしても、目の前にあるものをそうだと信じることは難しかった。

「貴方は凄い蛙よ。でも、どうか、お願い。宝石ならいくらでもあげるから、娘を連れて行かないで」

 商人の妻が言うと、蛙は、ぱくっと口を開けた。

「それは貴女の宝だが、僕にとってはそうじゃない。僕が欲しいものは、別にある」

 商人が止める間もなく、彼は、ケロケロ大声で笑い出した。すると、真っ赤な炎が噴出して、部屋にあるものを燃やし始めた。

 商人の妻の衣に火がつき、使用人達は、慌ててそれを消そうと走り回った。蛙の火は、叩いても水をかけても消えず、人々は逃げ惑った。

 商人は、とうとう降参した。

「わかった、娘をやる。だから、お願いだから、もうやめてくれ!」

 蛙は、笑うのを止めて微笑んだ。炎は消え、家の中は元通りになり、使用人に水をかけられた妻だけが、茫然と立ち尽くしていた。



4.

 商人の娘は、蛙と結婚することになった。夫婦は娘を憐れみ、立派な蒼い馬と五頭のヤク、それに沢山の宝を積んで、持たせてやった。

 娘は、名をチョデンと言った。彼女は、自分の運命に恐れおののき、青ざめていた。父親は、娘に皮の袋を渡し、囁いた。

「あれは、魔物に違いない。ああいう輩から逃れるには、途中で、奴を殺すしかない」

 チョデンは、眼を瞠って父を見た。

 商人は肯いた。

「この中に、トルコ石と金と銀の蹄鉄が入っている。魔物を倒すには、こういう道具でなければいかんと聞いた。お前、出来たら途中で奴を殺して、戻っておいで」

「……分かったわ、お父さん」

 チョデンは、とてもそんなことが出来る自信はなかったが、こう答えた。


 蛙と娘の一行は、商人の家を出発した。蛙は、チョデンの乗った馬の手綱を引いて先頭に立ち、上機嫌で、ぴょんぴょん跳ねて行った。

 チョデンは、彼の家までの道のりに驚いた。あんな風に跳ねて行くのは、きっと凄く疲れるだろうと、彼女は思った。

 一行は、ごつごつした黒い岩が転がる道を進んで行った。辺りに人家が消え、馬とヤクの蹄の音と、蛙のぺたんぺたんという足音しか聞こえなくなると、チョデンは、俄かに寂しくなった。

 休憩のとき、彼女は父の言葉を思い出し、懐からトルコ石の蹄鉄を取り出した。

『魔物なら、消えてくれるに違いない……。』

 彼女は、離れたところに座って背を向けている蛙に、恐る恐るトルコ石を投げつけた。宝は、きらりと日の光を反射しながら宙を飛んで、蛙の頭に命中した。


     べいん


 磨いたトルコ石の蹄鉄は、蛙の頭に当たって跳ね返り、ぼとり地面に落ちた。蛙は消えることなくそれを見詰めたので、チョデンは震え上がった。

『どうしよう! きっと、怒らせてしまったわ。』

 チョデンは声もなく震えていたが、蛙は手を伸ばして宝を拾うと、彼女に差し出した。

「はい。綺麗な石だね。お父さんがくれたの?」

「え、ええ……」

「傷がつくから、落とさないように、大事にしまっておくんだよ」

「…………」

 チョデンは拍子抜けしたが、もごもごお礼を言って、それを懐にしまった。


 翌日、一行は、湖の側へさしかかった。蛙は機嫌よく鼻歌を歌っていたが、チョデンは故郷から遠ざかることが悲しかった。

 湖の水面には、青緑色の空と、神様が居ると伝えられる山が映り、まるで湖が山を呑もうとしているように見えた。チョデンは、泣き出したくなった。

『この湖が、私の悲しみも呑み込んでくれたらいいのに……。』

 チョデンは、震える手で、銀の蹄鉄を取り出した。銀は、魔よけとして使われている金属だ。彼女の髪にも首飾りにも、銀の細工が使われている。何人もの偉いお坊さん(ラマ)が銀の法具で魔物を調伏した話を思い出し、チョデンは自分を励ました。

『今度こそ、上手くいきますように……。』

 彼女は、片手に握った銀の蹄鉄で、前を行く蛙の後ろ頭を殴りつけた。


     ごつん


 宝は、恐ろしく硬いものに当たって跳ね返り、馬の足元にぽとりと落ちた。あまりの硬さに腕が痛み、チョデンは、悲鳴をあげそうになった。

 蛙は何も感じていない様子で、銀の蹄鉄を拾い上げ、しげしげと眺めてから、彼女に差し出した。

「いつか、これが必要になる日が来るかもしれないよ。ちゃんとしまっておおき」

「あ、ありがとう……」

 チョデンは顔を真っ赤にしながら、それを受け取った。


 一行は、さらに進んだ。日が西へ傾き、山々の影が長く伸びて、辺りが薄暗くなると、チョデンはますます心細くなった。

 彼女は、これから行く蛙の家について考えた。どう考えても、そこは薄暗く、じめじめして、陰気極まりない場所に思えた。夕食のために馬を降り、お茶を沸かしながら、彼女は、懐の中の金の蹄鉄を握り締めた。

 金は、神様が最も好まれる金属だ。お寺の柱や仏像に沢山奉納されていることを思い出し、彼女は勇気を奮い起こした。

 チョデンは、両手で金の蹄鉄を握ると、眼を閉じて、力いっぱい蛙の頭に振り下ろした。

「…………!」

 ところが、今度は、まったく手ごたえを感じなかった。確かに蛙を殴ったはずなのに、雲を掠ったように頼りなかった。

 蹄鉄は、勢いのついた彼女の手を滑って飛び、ごつんと岩にぶつかった。チョデンが絶望にかられて眼を開くと、蛙は、じっと彼女を見詰めていた。

 もう駄目だ、言い逃れ出来ない。と思う彼女の前で、蛙は、さっと宝を拾い、彼女に手渡した。黒い瞳は深く、声は笑っていた。

「本当に、よく落とす人だなあ。こんな貴重なものを失くしたら、大変だよ」

「え、ええ。ありがとう……」

 チョデンは、安堵のあまり泣きそうになりながら、金の蹄鉄を受け取った。ことここに至って、彼女は、心から、彼を殺してしまわなくて良かったと思ったのだ。

 こんな優しい蛙を、殺していいはずがない。

『そうよ、魔法の蛙なんだから。家も、いいところかもしれないわ……。』

 彼女は、そう考えることにした。


 三日後、一行は、老女の待つ家に到着した。出迎えた老女に、蛙は、得意げに喉を鳴らして言った。

「ただいま、お母さん」

「おやまあ、お前は本当に、お嫁さんを見つけて来たのかい!」

 豪華な荷物を積んだヤクの列と、立派な馬に乗った嫁を見て、老女は涙を流して喜んだ。

 チョデンも驚き、喜んだ。蛙の家は決して豊かではなかったが、じめじめした地底の国などではなかったし、老女はとても優しかった。

 こうして、二人と一匹は、家族として暮らし始めた。



5.

 チベットに住む遊牧民には、毎年楽しみにしている祭りがある。国中から人々が集まり、市が立ち、踊りと競馬が行われるのだ。

 チョデンと老女も、楽しみにしていた。祭りの日の朝、蛙は、彼女達にこう言った。

「二人とも、先に行っていておくれ。僕は、後から行くよ」

「どうして? 一緒に行きましょうよ」

 チョデンは誘ったが、蛙は微笑んで首を振った。彼女は怪訝に思いながら、義母と一緒に先に出掛けた。

 一人家の中に残った蛙は、呟いた。

「さて……」

 眼を閉じ、大きく息を吐いて立ち上がった時、蛙は人間の若者になっていた。彼は、老女の亡き夫のチュバを身にまとい、脱いだ蛙の皮を壁にかけて、家を出た。

 老女とチョデンは、祭りを楽しんでいた。今年は、一人、見慣れない若者が参加していた。弓が上手く、競技で優勝したが、誰も、彼が何処の誰だか知らなかった。

 日が暮れて家に帰った二人は、蛙にその話をしたが、彼は、にこにこ笑って聞いているだけだった。

 翌日も、女達は先に祭りへ行き、彼は、蛙の皮を脱いで参加した。この日の競馬で、人々は、美しい葦毛の馬に乗った若者に注目した。

 彼は、地上に置いた的を軽々と仕留めて、一番に走り抜けたのだ。

「あの馬は……」

 チョデンは、その葦毛に見覚えがあった。家に帰り、父に貰った馬の毛皮に触れると、しっとり汗ばんでいることが分かったが、蛙にそのことについて訊ねても、やはり笑っているだけだった。

 三日目になると、人々は、本当に彼は誰だろうと噂した。若い娘達は彼の意中の人を知りたがったし(注⑥)、老女も気になることがあった。

 彼女は、そっと嫁に耳打ちした。

「気のせいかしらねえ。彼のチュバは、私の死んだ夫が着ていたものに似て見えるんだよ。あれは、私が縫ったのだからね」

 チョデンは義母を残し、祭りの途中で家に戻ってみた。壁に掛かった蛙の皮を見つけた彼女は、一瞬迷った後、炉の中にそれを放り込んで燃やしてしまった。

 チョデンが物陰に隠れて待っていると、あの若者がやって来て、皮を求めて家中を探し回った。そこで、彼女は夫の前に出て言った。

「やっぱり、貴方だったのね。あの皮は、燃やしてしまいました」

 若者は途方に暮れ、たいそう悲しんだ(注⑦)。

「ああ。これで、僕は戻れなくなった」

 チョデンも大変なことをしてしまったと思ったが、彼に言った。

「蛙に戻れなくても、いいじゃないですか」

「だって、あの姿でないと、僕は魔法を使えないんだよ」

「魔法なんかいらないから、人として、一緒に暮らして下さい」

 老女も、息子が人間になったことを喜んだ。それから、三人は、仲良く幸福に暮らしたという。





~第7話、了~


***********************************************************************************

『掌の宇宙』第7話 解説


《中央アジア:アムド・チベット族》

 チベットとは、インド亜大陸がユーラシア大陸に衝突して形成された平均海抜4300メートルの高原地帯を言い、南はヒマラヤ、北は崑崙、東は横断山脈などに囲まれた広大な地域です。東北のアムドと、ラサの北方には、17世紀に移住してきたオイラト系モンゴルの人々が暮らし、他にもモンゴル系、中国系、イスラム系の人々が暮らしています。


 チベットの人々は、「ツァンパを食べる民族」だと自分達のことを定義しています。言語はシナ・チベット語族のチベット語で、サンスクリットを起源とする表音文字のチベット文字を使います。


 仏教は、八世紀にインドの導師パドマサンバヴァによってチベットへ伝えられ、ソンツェン・ガンポ王によって確立されました。チベットの人々にとって、仏教(大乗仏教)は価値観の基本であり、生活と切り離せないものになっています。


 1912年の清国滅亡以後、ダライ・ラマ政権はチベットを独立国だと主張し、中国側は中国の一部だと主張しています。


 1950年、中国人民解放軍が侵攻。1951年、「十七か条協定」が締結され、チベット全域が中国の統治下とされました。


 1956年ごろより、民族の抵抗運動が激化します。


 1959年、ラサ市民による民族蜂起が中国によって弾圧され、ダライ・ラマ14世を含め大勢のチベット人がインドへ亡命しました(1989年、ダライ・ラマ14世は、その非暴力主義が評価され、ノーベル平和賞を受賞しました)。現在、約十万人のチベット亡命者が、インド・ネパール・ブータンなどで暮らしています。



■本文解説


注①:チベット各地にある石積みの仏塔で、花の代わりに馬の絵を描いた旗を捧げます。周囲には、「オン・マニ・ペメ・フム」と刻んだ石が多く積み上げられています。これは、チベットの人々が経文をいれたマニ車を回しながら唱える、観世音菩薩のマントラ(真言=神に対する呼びかけ)です。元はサンスクリット語で、意味は「ああ、蓮華の上にある宝珠よ、幸いあれ」です。


注②:たん茶(お茶の葉を板状に乾燥して固めたもの)を削って煮出し、塩・ヤクのバターを入れてかき混ぜて作るお茶のこと(攪拌器を「ドンモ」といいます)。一日に何杯も飲むことがあります。


注③:多羅菩薩、別名ドルマ(ターラー菩薩)。チベットの人々に人気のある菩薩さま。白と緑のターラーがあります。


注④:ツァンパ、伝統的な主食。


注⑤:チベットの民族服(チュバ)。上衣あるいは外套。ゆったりした筒袖があり、腰を帯で締めて裾丈を調節します。アムド(東北チベット)、ウ=ツァン(中部)、カム(東部)、ンガリ(西部)で少しずつ形が異なり、着物風の胸元の打ち合わせをアムバク(物入れ=懐)といいます。


注⑥:祭りや宴会の場で、娘を気に入った若者は、彼女の帯や他の装身具を取り、相手が夜に彼と会ってくれれば返してやると約束する風習があります。(この物語では、若者は妻帯者ですので、関係ありません。娘達が噂しているだけです。)


注⑦:魔法を使う不思議な動物が「皮を脱いで」人間になるという話は、チベットに多くある民話のパターンです。動物は「白い雄鶏」であったり「犬」だったりしますが、共通するのは、祭りの日に人間の姿になって現われ、正体を見破られた配偶者(人間)に動物の皮を燃やされて、以後は人として暮らす、というところです。こういう物語は、「完全な人間」への転換を求める人の精神的な苦悩を表すとも、本文にあるように、「すべての生き物は皮(姿)が違うだけで、みな同じ本質を持っている」という仏陀の教えを表しているとも言われています。

 蛙や蛇は、再生や復活の象徴・精霊(ナーガ)だとされています。



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