第6話 鬼の城 (日本・中国地方)

1.

    スズメよ、スズメ  私の畑に寄らないでおくれ

    あの方のために育てたきびを ついばむのはやめておくれ

    スズメ、スズメよ……


「よい声だな」

「…………!」

 突然声をかけられて、アソメは息を呑んだ。黍の穂を摘んでいた彼女は、慌ててその場に跪いた。

 道の上から、二人の若者が、微笑みながら彼女を見下ろしていた。一人は、大和風に髪をみずらにした若者で、もう一人は、アソメの氏族の者だ。

 彼女は、恐る恐る視線をあげた。

『イサセリヒコ様……』

 大和からやって来た客人は、涼やかに笑った。

「はは、驚かせてすまない。続けておくれ。私達は、もう行くから」

「…………」

 声を発することすら出来ない彼女に、イサセリの隣にいた族長・ウラは、頷いて見せた。

 仲良く肩を並べて去っていく二人の影が視界から消えるのを待って、アソメは立ち上がり、ほっと息をついた。それから、黍の穂を入れた籠を抱いて走り出す。

 村に近づくにつれ、カンコンカンと、鉄を打つ音が聞こえてきた。家々からは、煙が幾筋も立ち昇っている。

 からりと晴れた秋空に、少女の声が響いた。

ととさま父さんかかさま母さん。イサセリヒコ様が、いらっしゃったわ」

 かやで屋根を葺いた家の前で、黍の穂を叩いていた彼女の母親は、顔を上げた。父親は、黙って刀を研いでいる。

 アソメは、母に向かって話し続けた。

「ウラと一緒だったわ」

「ああ、喪が明けたからねえ。ご挨拶にいらっしゃったのだろうよ。……ここへ並べておくれ」

「はい」

 母の指示に従って、アソメは、イグサを編んで作ったゴザを、日の当たる場所へ敷き直した。その上に、摘み取って来た黍の穂を並べる。

 父親が、研ぎ終えた刃を眼を細めて眺めながら、彼女を窘めた。

冠者かじゃ(ここでは王=ウラのこと)のお名前を、軽々しくお呼びするのはやめろ。いつまでも、童子気分ではいかん」

「……はい」

 アソメは、頬をわずかに染めた。ウラは、彼女の乳兄妹だ。長になる以前は、よく遊んでもらっていた。

 母が、微笑んで言った。

「これが終わったら、お屋敷へ行ってみようね。さぞ、忙しくしているだろう。お手伝いしなければ」

「ええ、そうね」

 アソメは、我意を得て肯いた。



2.

 アソメの一族は、遠い昔、海を越えてこの地へやって来た。山から鉄を含んだ石を削り出し、鍬や刀を鋳造する技術を持つ彼等は、土地の者が育てる米やきび・魚と鉄器を交換して暮らしていた。

 族長の住む館を中心に、鉱山の麓に集落を作っている。その長を、冠者かじゃと呼ぶ。

 ウラは、まだ若い長だった。

 先代の長が昨年亡くなった為、息子の彼が跡を継ぐことになったのだ。喪が明けるのを待って訪れた大和国の使者・イサセリヒコとは、旧知の間柄だ。

 先代の墓に礼拝を済ませ、ウラと共に屋敷に戻ったイサセリは、途端にくだけた口調になった。

「変わった形の墓だな。ああいうのは、初めて見た」

 貴重な米の酒を勧めながら、ウラは微笑んだ。

「我らは仏教徒だからな。父は、特に信仰が篤かった」

「ホトケとは、百済の神か?」

「似たようなものだ」

 外国とつくにの文化に興味を寄せるイサセリに、ウラはさらりと答えた。イサセリの方も、運ばれてきた料理に気をとられ、それ以上尋ねなかった。

「ああ、よい匂いだな」

 この日のために、処女をとめ達が噛んで発酵させた、赤米の濁り酒。きびを蒸し、搗き固めて作った団子。釣って来たばかりの鮎の塩焼き。

 鯛のなます、新鮮なはまぐりの蒸しもの。しし肉と若菜のあつもの……

 女達の心づくしの料理を、イサセリは、若者らしい旺盛な食欲で、次々と平らげた。

「これが楽しみで、ここへ来るのだ。海が近いからであろう、何と言っても、魚が美味い。大和では、こうはいかん」

 褒められて、女達は、嬉しそうに笑った。その中にはアソメも居たが、彼女は、イサセリと目を合わせないよう顔を伏せた。

「…………」

 酒を口へ運びながら、ウラはふっと哂った。友の表情が冴えないのを見て、イサセリは首を傾げた。

「どうした? 何かあったか」

「改めて、貴方に言うほどのことではないが――」

 はきはきと闊達なイサセリとは対照的に、温和なウラは、口数が少ない。声も低く、常にくぐもって聞こえるので、ともすると聞き逃しそうになる。

 今日のウラは、いつもより更に無口だった。溜息を呑んで、続けた。

「――我らは、鋳造を生業なりわいとしている。鉄を打つ為には、山を崩し、木を伐らなければならない。勿論、必要があってそうしているのだが……里の者の中には、快く思わない者もいる」

「…………」

 イサセリは笑いを収め、真剣な眼差しを、幼馴染の顔に当てた。部族の長老たちと給仕をする女達も、手を止めて話を聞いた。

 ウラは、淡々と続けた。

「山を崩せば、土砂が川に流れ込む。鉄を鍛えるには、水が沢山必要だ。それが水を汚し、稲を枯らし、魚を遠ざけてしまうというのだ」

「……もっともな話だな」

 イサセリは低く呟いて、酒を口に運んだ。先刻までは美味いだけだった濁り酒に、別の味が含まれているように感じた。その水面を見詰め、彼はしばし考えた。

 ウラは苦笑して、客に詫びた。

「すまない。楽しみを減らすようなことを言って」

「いや。大切なことだ」

 イサセリは微笑んだが、黒い瞳に笑みはなかった。ねぎらいをこめて、彼は言った。

「同盟国の内情は、我が国にも影響を与える……。とにかく、一国を統べるのは、大変なことだな。改めて、教えられた」

「……どうした?」

 珍しく殊勝な友の言葉に、今度は、ウラが首を傾げる番だった。

「貴方こそ、言いたいことがあったのだろうに」

「うむ、うむ。実はな――」

 器の酒を揺らし、イサセリは、迷いながら言った。

出雲いずもの国が、不穏なのだ」

「出雲……」

 ウラは、眉根を寄せた。

 出雲は、この国の北方、山を越えたところにある。海に面し、鉄を産するところは吉備と同じだが、その勢力は、大和と同じくらい古く、大きい。

「フルネという者が、神宝かんたからを擁し、刀を集めているというのだ。大王おおきみは、不快に思し召している」

「…………」

「それで、貴国に、刀を千本用意しては貰えまいか。と……」

 全てを聞き終える前に、ウラは眼を閉じていた。大和の大王が何を意図しているのかは、考えずとも理解出来た。

 いくさが始まろうとしている。

 鉄と、青銅や石の刀とでは、強さも切れ味もまるで異なる。この時代、鉄を制する者が敵を制すると言って過言ではない。しかし……。

 長老たちが顔を見合わせ、ひそひそ囁き始めた。イサセリは、首を横に振った。

「いや、悪かった。無理を言ってすまない」

「イサセリ……」

「まず、国内の問題を片付けるのが先だ。そういう事情では、仕方がない。大王に伝えよう」

「…………」

 ウラの表情は晴れなかった。今度は友が窮地に立たされると、知っているのだ。

 そんなに簡単に、話が片付くはずがない。

 イサセリは、強気に笑って見せた。

「大丈夫だ、何とかなる。私も、美味い酒が飲めなくなるのは嫌だからな。大王に、申し上げてみよう」

「…………」

「さあ、今宵は月も良い。女達、歌っておくれ。私も、もう少し、酒を貰おう」

 そこで、ようやく気を取り直したウラが酒を注ぎ、女達が歌い始めた。男達が火を焚いて座を明るくし、宴は夜更けまで続けられた。


 仮の宮へ戻るイサセリヒコの一行を、ウラ達は、門へ出て見送った。一族の男が松明を掲げ、先導する。

「アソメ」

 ふいに、ウラは、傍らの少女に話しかけた。

「はい?」

「イサセリが、好きか?」

「…………」

 少女は項垂れた。否定も肯定も出来なかったが、仕草が物語っていた。

 ウラは、穏やかに微笑んだ。

「私も、イサセリは好きだ。彼となら、上手くやっていけると思う。……問題は、出雲と大王おおきみが、解って下さるかどうかだな……」

 呟く若長の横顔を、アソメは見上げた。彼の背後にひろがる群青色の夜空には、金色の満月が浮かび、その顔を照らしていた。



3.

 やはり、ことはそう簡単には運ばなかった。

 大和の大王と出雲のフルネの交渉は決裂し、戦さの準備が始まった。イサセリヒコは、それでもウラの国の事情を慮ってくれたらしく、辞を低くして大王の意向を伝えてきた。

「千本とは言わぬ。五百、いや三百でいい。頼む、このとおりだ」

「…………」

 友の苦悩を思い、自国の立場を考えると、ウラに断ることは出来なかった。

 こうして、冠者の命で、鉄剣の製造が始められた。

 鉄を含む山は次々に切り崩され、木は伐り倒された。炉には昼夜をおかず火が焚かれ、冬でも、家々の中にはむっとする熱気が立ち込めた。

 川の水は汲み上げられ、人々は、不安げに川床の石を眺めるようになった。降り積もった雪さえ、集めて融かし、使われた。

 石から鉄を取り出していたのでは、効率が悪い。既にあるくわや鎌を鋳溶かして使おう、という案が出ると、流石に危惧する声があがった。

「今は冬だからよい。田植えの時期になったら、どうするのだ」

 そう、男達は顔を見合わせて呟いた。

「栗や椎の木まで伐り倒してしまっては、来年から食糧に困るぞ」

 間もなく、被害は身近に起こり始めた。

「森をなくしたししが、里に下りて、蓄えていた芋を全部食べてしまった」

「うちは、鹿にやられた。きびどころか、家の柱の皮まで齧って行ったぞ」

「先日の雨で、山が崩れた。川に土砂が流れ込んで、漁場が埋もれてしまった」

冠者かじゃは、どういうおつもりか」

 男達は屋敷へ集まり、ウラに迫った。

「我らは、大和の属国ではないのですぞ」

「そうだ。だが、盟約を結んでいる」

 ウラの声に苦渋が滲んだ。干し柿を届けに来たアソメは、悲しい気持ちでそれを聞いた。

 親子ほど年の違う長老達を説き伏せるのは、容易なことではない。ウラのこめかみを、汗が伝った。

「出雲と大和にいくさが起これば、間に位置する我が国は、間違いなく戦場になる。沢山の兵が死に、地が荒れる。大和に背を向けて出雲に着こうと、大和に着こうと、同じことだ」

 何人かの男達が、長の言葉に肯いた。しかし、何人かは、不審そうに彼を見詰めた。

 誰かが呟いた。

「中立は出来ないのか?」

「そんな力が、今の我らにあるのか」

 うんざりした口調で、ウラは言った。彼のそういう物言いを耳にするのは初めてだったので、アソメは驚いた。

「考えてみてくれ……。イサセリヒコは、我が親友で、先々代の大王おおきみ(孝霊天皇)の王子に当たる。彼が間に立ってくれていれば、大和は我らを同盟国として扱ってくれる。……だが、出雲とは、そんな繋がりはない。我らが大和を裏切ってあちらへ着いても、属国として扱われるだけだ」

「…………」

「……私は、民を奴婢ぬひにしたくない」

 ぽつりと、ウラは呟いた。

「戦で国を荒らされるのも嫌だ……。出来るなら、人を殺す刀ではなく、田畑を耕すすきや鍬だけを造っていたい」

「…………」

「だが、今は、そんなことを言っていられる場合ではないのだ」

 膝の下に敷いていた毛皮を外し、ウラは、ふかぶかと頭を下げた。

「皆が苦しんでいることは分かっている……私も、苦しい。どうか、もうしばらく、我慢して貰えぬだろうか。この戦が終わるまで……いや、その前に、何とか大王とは話をつけるから。私を信じて欲しい……」

「…………」

 男達の顔は不満げだったが、長にこうまで言われては、声を荒げるわけにいかないと判断したのだろう。否とも応ともつかぬ言葉をもごもごと呟くと、引き下がった。

 屋敷を去っていく男達の声が、ウラの耳に届いた。

「どう思う?」

冠者かじゃの言われることも、分からなくはない。だが、こう苦しくてはなあ……」

「長は、あの大和の男を随分信用しておられるようだが……いざとなったら、分からんぞ」

「ああ。わし等が出雲から攻められた時に、助けてくれるとは限らんからなあ」

「そんなの、見捨てられるに決まっておるわ。所詮、他人の国だからのう」

「それなのに、何故ここまでしなければならないんじゃ? まったく、人が良すぎるのも、困りものじゃ」

「…………」

 ウラは溜息を呑んで、家に入った。囲炉裏の灰の中から火を起こし、新しい薪をくべる。明るく輝く炎を見詰め、考えた。

『何故?』

 頭の中を、問いが駆け巡った。

『何故、フルネと大王は戦う? いったい、何が欲しいのだ……』

 彼の手元には、やっとの思いで鍛えた三百本の刀剣と引き換えに、イサセリヒコからの木簡が届いていた。

『出雲との戦さが始まった。本当に済まないが、もう三百本、刀を鍛えて欲しい。』と――

「……無理だ」

 がっくり肩を落として、ウラは呟いた。情けなさのあまり、血が滲むほど、唇を噛んだ。

「とても、無理だ。イサセリ……」

 しかし、彼は気づき始めていた。

 大王の欲するものが、この国にもある以上……もはや、断ることは出来ないということに。


 柱の影に立って一部始終を見ていたアソメは、結局、木の葉に乗せた干し果を渡せぬまま、家に戻った。

 彼女の父は、黙々と、鉄の刀を鍛えていた。



4.

 冬が過ぎ、新しい春が来た。大和では、イサセリヒコが、別の闘いを強いられていた。

吉備冠者きびのかじゃに、謀反の志などありませぬ」

 そう繰り返す彼に、大王おおきみの言葉を伝える使者は冷たかった。

「左様か? 兵を出さず、代わりに課した鉄剣の貢納も、満足な本数を揃えられぬなど、謀反を行っているのと同じではないのか」

「それは――」

『吉備国の事情を申し上げ、大王は了解の上、数を減免なされたはず。もとより、兵を出せなどという話はなかったのに、何を仰せられるのか。』

 喰って掛かりそうになる彼の袖を、異母弟のワカヒコが引いたので、イサセリは、何とか言葉を呑み込んだ。しかし、使者とその向こうの大王に対する不審は、消しようがなかった。

 瞳を燃やす彼を、侮蔑をこめた視線で見下ろして、使者は続けた。

「ともかく……出雲の地にいる我が軍は、苦戦しておる。早急に援軍を派遣し、かつ鉄剣を五百整えよと、大王は仰せだ。吉備国主を誅してでも、これをなせ、と」

「…………!」

「イサセリヒコ、ワカヒコタケル兄弟に命ずる」

 驚きに目を瞠るイサセリの上に、雷鳴のごとく、使者の声は響いた。

「印綬を授け、これを四道将軍に任ずる。直ちに兵を率い、西海を平定せよ。――これは、勅命である」


 使者が去った後、自失したように佇む兄に、ワカヒコが声をかけた。

「どうするのだ、兄上」

「どうするって……どうすることも、出来ないだろう」

 勅命を拒むことは出来ない。イサセリの声は、灰汁のように濁っていた。ころころと変わる大王の意向に、己の信義が砕かれた心地がして、彼は奥歯を噛み鳴らした。

 そんな兄から視線を逸らし、周囲をうかがいながら、ワカヒコはそっと呟いた。

「……大王も、焦っておられるのだろう」

 狂おしい表情で振り返る兄に、肯いて見せる。

「戦が長引けば長引くほど、民の苦しみは増し、不満は高まる。早く決着をつけたいと、考えておられるのではないか」

「だからと言って、盟約を結んでいる国を攻めてよいという、道理があるのか?」

 声を荒げる兄の肩に手を置いてなだめ、ワカヒコは、殆ど息だけで囁いた。

「同盟国なればこそ、だ」

「…………」

「他国に、大王の威信は及ばない。我々を裏切って敵方に着こうとどうしようと、自由だ。――吉備は、大和より出雲に近い。裏切られずとも、かの地の鉄を奪われては、こちらが不利になる」

「敵に奪われるくらいなら、この手で……と、いうことか」

「…………」

 ワカヒコは、黙って肯いた。

 イサセリは天を仰ぎ、はっと息を吐き出した。虚しさが、胸に迫った。

『いっそ、ウラと共に、外国とつくにへ逃げようか……。』

 それも、今となっては無理だった。勅命に背いて逃げ出すことは謀反に等しく、一族が誅殺されてしまう。

 周囲を死に囲まれた彼は、嗤うことしか出来なかった。

「兄上……」

 不安げに、弟が呼ぶ。構わず、イサセリは眼を閉じて、かの地のことを考えた。

 ――雲ひとつない青空に、輝く太陽。光を反射して銀色に煌く小川を、泳ぐ魚の群れ。ハスの田に舞い降りる、白鷺の優美な姿。栃の葉の濃い緑。

 椀を伏せたように丸い山々に、響く鎚の音。風にそよぐ黄金の稲穂と、それを摘む少女の歌声。

 そして、常に穏やかで、どこか寂しげな、友の笑顔を。


    スズメよ、スズメ 

    あの方のために育てたきびを 啄ばむのはやめておくれ――


「……行くぞ、ワカヒコ」

 イサセリは、頭に纏わりつく絶望を振り払い、太刀を身に着けた。

『この上は、ウラに事の次第を説明し、裏切り者として戦に臨もう。たとえ、討たれることになるとしても。』

 身を浸す悲しみに、ふと足を止めた。

『お前に殺されるなら、本望だ。ウラよ……。』



5.

 季節が春から夏に変わっても、吉備国に緑が萌えることはなかった。度重なる土砂災害と飢えに苦しめられた里の者の間では、不満が高まっていた。

 そして、遂に事件が起きた。田に水を引けないことに苛々した村人の一人が、堰を切り、流れ出した泥水が、田畑を流したのだ。

 人々は、手に手に鎌や鍬を持ち、ウラの屋敷へ押しかけた。麓の村に住んでいた一族の者は、急いで長の屋敷へ逃げ込んだ。その中には、アソメと家族もいた。

 ウラは、一つ溜息をつくと、無言で立ち上がった。いつか、こうなると思っていたのだ。諦めて静かに立つ彼に気圧されたかのように、一瞬、人々は押し黙った。

「この鬼!」

 飢え死んだ赤子を抱いた女が、彼を指差して叫んだ。

「鬼! あんたがこの子を殺したんだ……!」

 それを合図としたように、村人達は口々に、彼を罵倒し始めた。押しとどめようとする一族の者の頭の上を、石や棒切れが飛んだ。

 喧騒の中で、ウラは、ぼんやり考えた。

『そうだ。鬼かもしれない。』

 友を思い、民を思いつつ、自分のしたことは、結局、民を苦しめることにしかならなかった。山を崩し、田畑を荒らし、人と獣を飢えさせて、遂には幼い子どもまで殺してしまった。

 これを、鬼と言わず何と言おう?

『私は、鬼だ……。』

「ウラ様!」

 立ち尽くすウラを見て、アソメが叫んだ。振りかえろうとした彼の左目を、一本の矢が貫いた。

「…………」

 人々は、一斉に黙り込んだ。

 沈黙と驚愕の中、ウラはゆっくりと、その場に崩れ落ちた。それを見た村人は、我先に屋敷を逃げ出した。

 ウラに駆け寄ろうとしたアソメは、どくどくと溢れ出る血を見ているうちに、気を失った……。


           *


『これは、どうしたことだ?』

 軍を率いてたどり着いたイサセリとワカヒコが目にしたのは、荒れた田畑と、うちすてられた家々だった。

 緑だった山々は、まろやかな稜線をえぐられて、赤茶けた地面を剥き出している。夏だというのに、田に水はなく、木陰もない。腹をすかせた野良犬が、残飯をあさっている。

 割れた桶や破れたゴザが、風に吹かれて転がっていた。飢え死んだ者の遺体も……。

 まるで戦の跡のような村を通り、友の屋敷へ向かったイサセリは、息を呑んだ。

 門は破られ、壁は衝き崩されている。倉や炊事場に蓄えられていた食糧は、殆ど奪われていた。傷ついた者は地面に横たわり、女達が、頬を泥と涙で汚したまま、手当てをしている。

 槍や弓を手にした男達が数人、壁に寄りかかっていたが、イサセリ達を迎える気力はないようだ。

 誰かのすすり泣きが聞こえる。

「出雲に攻められたのだろうか?」

 ワカヒコが呟く。イサセリには、答えられなかった。

「…………」

 茫然と辺りを見渡しながら、イサセリの中で、何かが組み立てられていった。ゆっくりと……後悔が……自責の念と共にこみ上げ、彼は片手で口を覆った。

「兄上?」

 弟が声をかけてきたが、首を横に振ることしか出来なかった。わずか一年の間に、この国で起きたことを想像すると、胃の腑がぎりぎりと痛んだ。

『ウラは、何処だ?』

 吐き気を堪えて、イサセリは、屋敷の中を見回した。

『ウラ……。』

 謝らなければならなかった。何としても。彼を捜し出し、この事態を招いた責任を詫びなければ、死んでも死に切れない。

 地獄の業火で焼かれるような感情に、叫び出したかった。

「イサセリヒコ様……」

 か細い声に名を呼ばれたイサセリは、薄暗い屋敷の片隅にうずくまる少女を見つけた。傍には、母親らしい年配の女性が座っている。頬が欠け、憔悴しきった少女の顔から、過日の面影を読み取るのは、容易ではなかった。

 二人の前に敷かれたゴザの上に横たわる男を見た時、彼は、殴られたような衝撃を感じた。

「ウラ!」

 イサセリは、泣きながら友の枕元に駆け寄って、その頭をかき抱いた。左目を射られたウラは、残された右目で彼を見上げ、微笑もうとした。

「イサセリ……。会いたかった……」

「何があった?」

 兄の代わりに、ワカヒコが問うた。

「出雲が攻めて来たのか?」

「…………」

 アソメの母が、首を横に振り、嗚咽まじりに答えた。

冠者かじゃ様は……大王の仰せに、従おうとなさったのです。けれども、その為には山を崩し、田から水を取り上げねばなりませんでした……。皆が飢え、苦しみ……怒った里の人々が、とうとう……」

 目を瞠って話を聞いていたイサセリは、鋭く息を吸い込んだ。やりきれない思いが、喉を破った。

「何ということをしたのだ、お前達は。自分達の王に!」

「…………」

 その場にいた者は、項垂れるしかなかった。

 イサセリは、血に塗れた彼の髪を撫で、掠れた声で囁いた。

「ウラよ、ウラ……。私は、お前を討たなければならない……」

 全てを承知しているかのように、ウラは、眼を閉じて告げた。

「これより……御名を、キビツヒコノミコトと申し上げる……。吉備の冠者に代わり、国を治められよ……」

 頷く友の肩ごしに、泣いているアソメを見つけ、ふと微笑んだ。

「……アソメを、巫女として、お側に……。私は、ゆうれいとなって、貴方をお守りしよう……」

「承知した。ウラよ。……すまない」

 啼きながら、キビツヒコは剣を抜き、彼に止めを刺した。その首を門に晒し、人々への見せしめとした。

 こうして吉備国の内乱を鎮め、刀剣を手に入れたキビツヒコは、出雲のフルネを倒した後、この国を治めたという。


          **


 備中びっちゅうの国、一品いっぽんの宮・吉備津きびつ神社に、大吉備津彦命オオキビツヒコノミコトが祀られている。

 その奥の御釜殿おかまでんにある大釜の下に、温羅ウラの首が眠っている。鳴釜神事なるかましんじによって、彼の声を聞くことが出来る。

 世の中に幸あれば豊かに鳴り、禍が訪れるときには荒々しく鳴って、人々に報せるという。

 その神事を行う巫女を、阿曽女アソメといい、温羅が住んだとされる城跡を、鬼の城きのじょうと呼ぶ。


 吉備津彦と温羅の物語は、『桃太郎』の伝説となって、今に伝えられている。





~第6話、了~


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『掌の宇宙』第6話 解説


■吉備津神社 (岡山県岡山市吉備津)


<主祭神> 大吉備津彦命(オオキビツヒコノミコト)、若日子建吉備津日子命、吉備武彦命(キビタケヒコノミコト)等


<由緒>

 第十代崇神天皇は、地方を平定するため、東海・北陸・丹波・西海の四道に『四道将軍』を派遣しました。西海(山陽道)に派遣された五十狭芹彦命(イサセリヒコノミコト、後の吉備津彦命)は、第七代孝霊天皇の皇子です。


 当時、吉備には、温羅(うら)と呼ばれる鬼が住んでいました。命(ミコト)と異母弟・若日子建吉備津日子命は、苦戦の末にこれを倒しました(→鬼退治伝説)。その後、命は、崇神紀六十年に出雲の振根(ふるね)を倒し、吉備国を統治して、二百八十一歳で亡くなったといわれています。


 神社は、若日子建吉備津日子命らが建てたとも、吉備津彦命の五世孫の加夜臣奈留美命(カヤオミナルミ)が、祖神として命を祀ったとも。仁徳天皇がこの地に行幸した際に命の功績を聞き、建てたのだとも伝えられています。


 現在の比翼入母屋造り(吉備津造り)の本殿は、拝殿とともに応永三十二年〈1425年)に建築され、国宝に指定されています。延文二年(1357年)に再建された南随神門と、天文十二年〈1543年)再建の北随神門は、国の重要文化財。鳴釜神事の行われる御釜殿は、慶長十七年〈1612年)の建築で、県重要文化財に指定されています。


 天慶三年(940年)に、神社は一品の神階(最高位)とされました。(近所に吉備津彦神社があり、こちらも主祭神は大吉備津彦命ですが、別の神社です。)



<鬼退治伝説>

 『吉備津宮縁起』などによると、以下のような内容です(概略)。


 むかし、吉備の国に、百済の王子で温羅(うら)という者がやってきた。吉備冠者(きびのかじゃ)とも呼ばれ、目は爛々と輝き、髪は赤く、身長は一丈四尺(四メートル)もあり、性格は凶悪であった。新山(総社市)に鬼の城(きのじょう)を築いて人々を苦しめたため、朝廷は、五十狭芹彦命(イサセリヒコノミコト)を派遣した。


 命は吉備の中山に陣を敷いて温羅と戦ったが、命が矢を射ると、温羅は石を投げてこれを落としてしまった。そこで命が一度に二本の矢を射たところ、一本の矢は石に落とされたが、もう一本は温羅の左目に突き刺さった。傷ついた温羅は雉に姿を変えて山に逃げ込み、命は鷹となって追いかけた。温羅の左目から流れ出た血は、血吸川になった。命に捕まりそうになった温羅は、今度は鯉になってその川に逃げ込んだ。命は鵜に変身して、やっと温羅を捕まえることが出来た。命に降参した温羅は、自分の名を命に献上し、以後、命は吉備津彦命と名乗るようになった。


 温羅は、首だけになっても唸り続けた。命は犬に齧らせて骨にしたが、それでも首は唸り続けた。ある日、命の夢に温羅が現れ、「我が妻・阿曽姫(アソメ)に、命の御饌を炊かせて下さい。世の中に幸いあれば、釜を裕に鳴らし、禍があれば荒らかに鳴らしましょう。」と告げた。命がその通りにしたところ、首は唸るのを止めたという(→鳴釜神事の由来)。


 現在も、神社では吉凶を占う鳴釜神事が行われています。命の矢と温羅の石がぶつかって落ちた処には矢喰宮があり、その傍の川を血吸川といいます。命が鯉となった温羅を捕まえた所には鯉喰神社があり、他にも、この伝説に関連した地名が沢山あります。


 民話『桃太郎』は、この伝説が起源だと言われていますが、中国文化(道教)の影響が強い話です。



■温羅と、鬼の城


 上述の伝説は、大和朝廷が地方勢力を併合していく過程で生じた侵略戦争を美化した話ではないかと言われています。


 また、温羅は百済から製鉄技術をもってやってきた技術者集団(阿曽氏)の長であり、吉備国内で彼等と農耕民に争いが生じた際、大和朝廷が介入して、この地の王権を手に入れた過程を表しているのではないか、という説もあります。


 一方、吉備中地域にいた上道臣氏の勢力が、東部にいた勢力(下道臣・笠臣氏)を追い出して地方全体を統一した、弥生時代末期の吉備王国創建史を土台にしているのではないか、という説もあり(しかし、『古事記』によると、上道臣氏は大吉備津彦命の子孫。下道臣・笠臣氏は若日子建吉備津日子命の子孫ということになっています)、研究が行われています。



<鬼の城(きのじょう)>


 温羅の居城であったと伝えられる遺跡です。地名も、鬼退治伝説に由来しています。


 標高400mほどの岩山に築かれた山城で、石垣や貯水池、排水施設などを持ち、朝鮮の築城方式と似ています。


 しかし、これは、百済を支配していた大和朝廷が、白村江の戦い(663年)で唐・新羅連合軍に破れ、その報復を恐れて七世紀後半に西日本各地に築いた山城の一つではないかと言われています。吉備津彦命が温羅を討伐した第十代崇神天皇の時代は、三~四世紀と推定され、白村江の戦い(第三十七代斉明・第三十八代天智)とは、一致していません。後世の人が混同したものと思われます。



(本作品は、上述の複数の伝説や学説・遺跡資料に基づく創作です。ウラとイサセリヒコとアソメが親しかったという歴史的根拠は全くなく、作者の勝手な想像です……。)



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