第5話 イッカクと少年 (デンマーク・グリーンランド)
1.
大昔の話だ。
一人の老婆が、二人の孫と一緒に暮らしていた。孫は少年と少女で、兄の方は、生まれつき目が見えなかった。このため、老婆は少年を『手のかかる厄介者』だと思い、ことあるごとに苛めていた。
ある時、狩りに出た三人は、吹雪に遭い、イグルー(ドーム型の半地下式の家、土や氷で作る)に閉じ込められた。吹雪は何日も吹き荒れて、彼等は飢えに苦しんだ。
吹雪がようやく晴れた朝、イグルーの側を、一頭のクマが通りがかった。少年は目が見えなかったが、クマの匂いと、フンフン鼻を鳴らして辺りを嗅ぐ音で、そうと知った。
老婆は、早速弓と矢を取り出して、孫息子に持たせた。
「さあ。わたしが狙ってやるから、お前、射ってごらん」
少年が躊躇うと、急かして言った。
「早く、早く。きっと仕留めるんだ」
そこで、少年は弓弦を引き絞り、気配のする方向へ矢を放った。
途端に、老婆は大声で怒鳴った。
「なんてことだ! ぐずぐずしているから、逃げてしまったじゃないか! ああもう、馬鹿だね、お前は。矢を無駄にして、本当に馬鹿だ!」
「…………」
実際は、少年の矢は、ずばりクマの心臓を射抜いており、老婆は嘘をついていた。少年は、クマの倒れる音を聞き、血の匂いを嗅いで、そのことを察した。
妹も、祖母の嫌がらせを承知していたのだが、彼女を恐れて黙っていた。
老婆は、孫娘の耳に口を寄せ、早口に囁いた。
「さあ。お前は、クマを運ぶのを手伝っておくれ。この子には食べさせず、二人で食べてしまおう」
老婆と少女は、少年をその場に残して、クマをイグルーの中へ運び込んだ。少年は黙っていたが、何が行われているかは知っていた。
女たちはクマの毛皮を剥ぎ、肉を切って料理を始めた。肉の煮える匂いも、少年は嗅ぎ取った。口の中に唾が溢れたが、彼は黙っていた。
兄を気の毒に思った少女は、肉を食べるふりをして、片っ端から自分の懐の中へ落としいれた。
孫娘の食べる勢いに、老婆は、つい笑って言った。
「何とまあ、お前は、よく食べる子だねえ」
「だって、お腹が空いているんだもの。こんなに空いたのは、初めてよ。まだまだ、全然足りないわ」
言いながら、少女は襟の中に肉を入れたが、老婆は気づかなかった。
勿論、少年には、この会話も聞こえていたのだ。
祖母が眠ってしまうのを待って、イグルーから出た少女は、戸外にぽつんと佇んでいた兄に駆け寄った。
「お兄さん、ごめんなさい。ごめんなさい」
彼女は、懐の中に入れておいた肉を取り出して、彼の手に握らせた。ほっとした少年は、大急ぎでそれを口に運んだ。
その様子を見守っていた妹は、こんなことがずっと続くのかと思うと、情けなくなって泣き出した。
食べ終えた少年は、しばらく妹の嗚咽を聞いていたが、彼女の肩に手を置いて頼んだ。
「喉が凄く渇いているんだ。どこか、水が飲めるところへ連れて行っておくれ」
妹は、しゃくりあげながら、兄と手を繋いで歩き出した。小さな手の温もりに導かれて歩きながら、少年は、これからどうしようかと考えた。
妹は、彼を湖の辺へ連れて行った。
「着いたわ、お兄さん」
少女は、水で濡らした手を兄の頬にあてて報せた。少年は、まだ考えが纏まっていなかったが、妹にこう言った。
「ありがとう。おばあさんが起きるといけないから、お前はもうお帰り」
「…………」
彼女の不安を察した彼は、付け加えた。
「ただし、帰る途中の道に、石を置いていっておくれ。僕が足で探って判るような、大きな石をだよ」
「分かったわ、お兄さん」
妹は、兄の言葉に従って、イグルーへ帰った。
2.
夜の湖の岸辺に残った少年は、膝をつき、両手で水をすくって飲もうとした。ところが、何故か飲むことが出来なかった。水を口に含むことは出来ても、飲み込むことが出来ないのだ。
いったいどうしたことだろうと思い、困っていると、突然、甲高い
バササササ……と音を立てて、一羽の鳥が、彼の傍らに舞い降りた。
「私の
と、澄んだ声が言った。
「さあ、早く!」
有無を言わせない口調に驚き、恐れながらも、少年は、その声に従った。
彼が掴まると、鳥は、ざんぶと湖に飛び込んだ。凍るように冷たい水に包まれて、少年は、心臓が止まるかと思った。盲目の少年を連れたまま、鳥は、水に潜り、水面に顔を出し、また潜ることを繰り返した。
水の中で、少年は息をすることが出来なかった。鳥は、水中にいる時間をだんだん永くしていったので、彼は、どんどん苦しくなった。
しかし、別のことも起きていた。彼の周囲の闇が沸き立ち、渦を巻き、光の飛沫を散らし始めたのだ。
「どう?」
と、鳥が訊いた。
少年は、興奮して叫んだ。
「すごい……凄い! 見えるようになってきたぞ!」
四度目に水から飛び出たとき、少年は言った。
「見える! 見えるぞ!」
彼の頭上の空には、星のひしゃくと、上弦の月が掛かっていた。鳥と一緒に舞い上がった彼は、そこに吸い込まれそうな気持ちがした。
やがて、鳥は彼をもとの場所に降ろした。静けさを取り戻した湖面は、磨いた黒曜石のように輝いて、対岸の森まで、くっきりと浮かび上がって見えた。
「さあ、もう大丈夫だ」
呼びかけられて少年が振り返ると、銀色の鳥がいた。彼が想像していたよりも、ずっと小さな鳥だった。
鳥は、金色の瞳で彼を見詰めた。
「妹のところへお帰り。あとで、食べ物を持っていってやるからね」
そう言うと、少年を残して、銀の鳥は飛びたった。
鳥が夜空を横切ると、翼から、白い光の粉が降って来た。粉は、淡い光の幕になって星と月を覆い、緑から青に色を変えながら、ゆらゆらと揺れた。
少年は、茫然と、その様子を見詰めていた。
不思議なことに、彼の体は、全く濡れていなかった。
夜が明けるのを待って、少年は、イグルーへ戻った。妹は、ちゃんと彼のために道しるべの石を置いてくれていたが、今はもう、足で探る必要はなかった。
イグルーに近づいた少年は、ある物をみつけ、溜息をついた。
「やっぱり、僕はちゃんと仕留めていたんじゃないか……」
大きなクマの毛皮が、ぴんと張って干されていた。切った肉と脂の一部も、乾燥させてあった。
彼が家の中に入ると、祖母と妹は、大変驚いた。兄が無事で、しかも目が見えるようになったことを、妹は泣いて喜んだが、祖母はうろたえた。
「ああ、あれ!」
孫息子にクマの皮のことを言われると、老婆はこう言った。
「あれは、贈り物として貰ったんだよ。お前が留守にしていた間に、気前のいい連中が通りかかって、クマの肉をくれ、皮を張り伸ばして置いていってくれたんだ。お陰で、飢え死にしなくて済んだよ。運が良かったのさ。ねえ」
老婆は孫娘に同意を求めたが、少女は涙を拭うことに忙しく、応えなかった。
「そうか、それは良かった」
と、少年は呟いた。嘘だということは分かっていたが、それ以上、何も言う気になれなかった。
3.
少年は、あの夜の奇蹟について、詳しいことは誰にも、妹にも話さなかったが、銀の鳥の言葉を覚えていた。
鳥は、『食べ物を持っていってやる』と言った。どういう意味かは解らなかったが、目の奇蹟といい、夜空に広がった光の幕のことといい、信じた方がいいと思われた。
それで、三人は、しばらく同じところに留まっていた。
ある朝、海辺に出掛けた彼等は、沖にシロクジラ(ベルーガ)が群れているのを見つけた。少年は、早速、
少年は、銛につけた引き綱の端を、妹の脚に結びつけた。彼等の伝統では、これは『クジラの尾』と呼ばれており、この銛によって彼がクジラを仕留めれば、引き綱に結ばれた彼女は、彼と同じ量の肉を貰えることになっている。――要するに、狩の仲間にしたのだ。
「わたしにも、結んでおくれ」
と、老婆が言った。少年は、もう一本銛を用意して、綱を祖母の脚に括りつけた。
妹に繋がった銛を少年が投げると、小さなクジラに刺さった。クジラ達は驚き、波を蹴立てて逃げようとした。
老婆が叫んだ。
「急げ! もう一匹!」
少年が祖母の銛を投げると、今度は、大きなシロクジラに刺さった。
傷を負ったクジラは、ぐいぐい綱を引いて泳ぎ始めた。老婆は踏ん張って抵抗したが、クジラの力は強く、みるみる引き摺られた。彼女は慌て、孫娘の皮靴を掴んだが、手が滑って離れてしまった。
少年は、妹を抱き止めた。
老婆は、孫たちの目の前の氷の上を、ずずーっと滑って海へ落ち、沖へ引かれて波に沈んだ。と見ると、クジラと一緒に浮き上がり、喘いでは沈み、またザバッと浮き上がった。
彼女は、それこそクジラの潮吹きのように、しわがれ声で叫んだ。
「ウルー(ナイフ)を投げておくれ! 私のウルーを!」
彼女の体には、銛の引き綱が絡み付いていた。それを切って、クジラから離れたいと思ったのだろう。
「ウルー、ウルー、ウルー!」
暴れるクジラに振り回され、ぐるぐる巻きにされながら、老婆は繰り返し叫んだ。
少年が彼女のウルーを投げ渡そうとした、まさにその時、異様なことが起こった。引き綱に絡み、捻れた老婆の髪が攀じ合わされ、ぴんと立ったのだ。それを最後に、老婆の姿は、海中に消えた。
次に現れた時、彼女はクジラに変身していた。――口から突き出た牙を持つ、黒いイッカククジラに。これが、最初のイッカククジラだった。
残された兄と妹は、その後は飢えることなく、幸福に暮らしたという。
~第5話、了~
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『掌の宇宙』第5話 解説
《デンマーク、グリーンランド・イヌイット》
グリーンランドは、デンマークの自治領です。面積は217万5600km2。ほぼ全土が北極圏に位置しています。
オーロラは、「オーロラ帯」と呼ばれる北緯65~70度の地域で発生率が高く、グリーンランドの南部があたります。オーロラの語源はギリシャ神話の光の女神(アウロラ)、北欧神話ではワルキューレの甲冑の輝きだと言われています。アラスカやカナダのネイティヴ・ピープルは、ものを変える力をもつグレート・スピリット(神)だと考えています。
北極~亜北極圏に住む先住民族は、かつては「エスキモー」と呼ばれていました。(元はモンタニャ族の言葉に始まり、フランス語のEsquimauxを通じて、今日の言葉になったそうです。)これは、「生肉を喰らう人々」という侮蔑を含んだ言葉であり、土地の住人の間では、嫌われています。彼等が生のアザラシや魚を食べることには、ビタミンを摂取するという(医学的に証明された)重要な意義があり、その行為に敬意を払わない文化に暮らす人々の偏見を示唆していると考えられるからです。
今日では、東部カナダ北極圏のネイティヴ・ピープルのことは「イヌイット」、ベーリング海峡地域は「ヤップィク」、アラスカ北方斜面に住む人々は「イヌピアット」、マッケンジー・デルタ地域の人々は「イヌヴィアルイト」と呼ばれています。
言語は多様ですが、アラスカのシーウォード半島から北極圏・カナダを経てケベックとラブラドールの海岸からグリーンランドに至る地域では、イヌイット―イヌピアック語の方言が使われているそうです。
■イッカク Monodon monoceros
北極圏に住むクジラの一種です。体長は4~5m、雄は長さ3mにも達する捻れた一本の牙(左の切歯)を持つことで有名です。(まれに、二本の牙を持つ雄もいます。)5頭~10頭の群れをつくって生活します。体の色は青白く、茶色の斑点があり、首・頭・むなびれや尾の縁は黒くなっています。
グリーンランドのイヌイットは、銛を使った伝統的な狩猟を行います。イヌイットによる捕鯨は、法的に認められています。
(本作品は、イッカクの牙の由来を伝えるイヌイットの民話に基づきます。ここでは、老婆自身がイッカクとなり、攀じれた髪が牙になったということですが、銛に掴まった女性がベルーガに包まれ、銛が牙になった、などのバリエーションがあります。)
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