第2話 はんざき明神 (日本・中国山地)

1.

 さらさらと、水が流れる。

 山間の村では、夜が早い。昼間照りつけていた太陽は、うっそうと茂った森の向こうに姿を隠し、谷は急速に夜に沈もうとしていた。

 紫の宵闇が、ものの輪郭をにじませる。木々や家の間にうずくまっていた影が、光の縛めを離れ、空へと立ち昇る。

 村人たちは、その中をゆっくり歩いて、川原へと向かっていた。ざりっざりっと、草履が砂利を踏む音が響く。

 今日は、盆の終わりの日だ。

 故郷へ戻っていた祖先の霊を、あの世へと送り返す。送り火が、一つ、また一つと点された。

 絶えることのない川の流れに、金色の明かりが揺らめく。水音とともに、去っていく。

 その光景を、母に手を引かれた彦四郎は、ぼんやり眺めていた。

「こんばんは」

「こんばんは」

 すれ違うたびに、大人達の間で、やわらかな挨拶が交わされる。しかし、見上げる彦四郎の目には、どの顔も闇に融けて判然としない。

 途方に暮れてあたりを見回した目に、白い衣が映った。

「…………」

 衣には、藍染めで朝顔が描かれていた。濃くなっていく闇の中、そこだけ染まらずに、ぼうと浮かび上がって見える。

 着ているのは、まだ幼い少女だった。供えものの野菜を入れた藁の船を、胸元に捧げ持っている。

 しゃがんで川に流す仕草を、彦四郎は見守った。

「庄屋さまだね」

 大人達の囁きが聞こえる。

「ときさんだ。おおきゅう大きくなって」

「…………」

 母に促されて川原を離れながら、彦四郎は、少女を振り向いた。

 白い衣が、瞼に残った。



2.

 さらさらと、水は流れる。

 谷を貫いて流れる川の上流には、滝があり、その下には淵があった。龍頭ヶ淵りゅうずがふちという。

 いつからか、そこにはヌシがいると言われていた。

 淵は深く、底に棲むヌシの姿をはっきり見た者はいない。大きな魚か蛇かと噂されていた。通りがかる旅人や、水を飲みに来た鹿や牛を、太い尾で叩いて引き摺り込み、頭から呑んでしまうのだという。

 村人は、恐れて近づかなかった。

 だから、ときと彦四郎の二人には都合が良かった。

 庄屋の娘と貧しい農家の四男では、つり合わないことは明らかだ。逢えば辛くなることも解っていたが、幼い頃からの想いは絶ち難く、逢瀬を重ねていた。

 他の者にとっては恐ろしいヌシも、二人には、静かに見守ってくれる理解者だと感じられた。

うちら私たち、いつまでこうして居られるんじゃろうね」

「…………」

 いつものように、淵を見下ろす大岩の上に並んで腰を下ろし、ときの呟きを聞きながら、彦四郎も考えた。

『いつまで?』

 出会いから四年。ときは十五になる。娘を溺愛している庄屋が手放そうとしないだけで、縁談が来てもいい頃だ。もしかしたら、既に許婚がいるのかもしれない。

 彼女の言葉は、彦四郎を焦らせた。どうすることも出来ない不甲斐なさを、責められている気持ちにもなった。

『いつまでも、このままでは居られない……』

 一羽の白鷺が、二人の前に舞い降り、小魚を捕らえて飛び去った。ぱしゃりと水の跳ねる音が、森に響く。

 ときと別れ、家に向かいながら、彦四郎の頭の中には、その光景が鮮やかに描かれていた。

『いっそ、二人で何処かへ逃げようか……』

 だが、何処へ? 村を捨て、田畑を捨てて、どうやって生きていくのだ。


 家に戻ると、母は腰を屈めて、庭に落ちた稲穂を拾っていた。兄達は田に出ているのだろう。

 瓦はなく、朽ちかけた屋根と板塀が、いっそう惨めに見える。

 彦四郎は顔を伏せ、足早に通り過ぎようとした。

「どこに行っとったん行っていたの、お前。はよう終わらせんと早く終わらせないとおえりゃあせんがいけないよ

「うん……」

 叱責する母に生返事をしながら、彦四郎は、放り出していた斧を拾い、薪を割り始めた。そうしながら、ときの言葉を考える。

 夫婦めおとになんて、どうすればなれるのだろう……。

 そんな息子の横顔を、母は不安げに見詰めていた。



3.

 さらさらと、川は流れる。涼やかな音は、木々の緑とともに、小さな村をそっと包みこむ。

 山肌にすがりつくように、人々は家を建てていた。狭い段々畑を耕し、米と麦を育て、渓流で魚を釣り、山向こうの村へ運んでいく。つつましい暮らしだ。

 庄屋の家は、やや下流にある。村の衆を束ね、年貢の徴収から、村の警備や道の修繕、近隣の村との交渉などを行っている。息子がいるので跡継ぎの心配はなかったが、ときは目の中に入れても痛くない愛娘だった。

 その娘に、最近、悪い噂が立った。

 相手は、貧しい村の若者だと言う。隣村の庄屋の息子との縁を考えていた父親にとっては、寝耳に水だった。

『さて。どうしよう……』

 傍らで食事をする娘を眺めながら、庄屋は考えた。噂が隣村に届けば、まずいことになる。娘の気持ちは憐れだが、騒ぎが大きくなる前に、縁談を進めた方がいいかもしれない。

 可愛い娘に、無駄な苦労はさせたくなかった。今は辛くとも、将来幸せになれる道を勧めるのが、親の務めだろう。

「とき……」

「はい」

 庄屋が、娘と向かい合って話そうとした時だった。

「だんな様」

 家事の手伝いに来ている女が、戸惑い顔で声をかけてきた。

 娘と顔を見合わせて立ち上がり、勝手口へ向かった庄屋は、土間に佇む青年を見て、立ち止まった。

 ときが、息を呑む。

 その意味を問うまでもなく、思いつめた表情で項垂れている彦四郎を見ただけで、庄屋は、彼の目的を理解した。

 彦四郎は――手ぬぐいを両手で持ち、不安げに視線を彷徨わせていたが。庄屋を認めると、深々と一礼した。

 庄屋は、彼を眺めすかした。

「…………」

 赤黒く日焼けした肌に、擦り切れた麻の着物。毎日田畑を耕している者らしく、手は節くれ立ち、腕と大腿は見惚れるほど太い。――典型的な、村の若い衆だ。

 だが、黒い瞳に宿る輝きは、こちらを怯ませるほど鋭かった。

 その瞳で庄屋を見詰め、彦四郎は、抑えた声で言った。

「……だんな様。ときさんと私を、夫婦にさせてください」

 そして、うなじの黒子が見えるほど、頭を下げた。

 呆れるほど、真っ直ぐな申し出だ。ときは、言葉を失った。

 庄屋は、眉間に皺を寄せた。苦いものが、口の中に溢れた。

「…………」

 腕組みをして、庄屋は彦四郎を見下ろしていたが、やがて、ぼそりと言った。

ヌシを倒してくれたなら、考えよう」

「…………!」

 彦四郎は、はっと顔を上げたが、すぐ項垂れた。

 四角張った顎を撫でて、庄屋は繰り返した。

「龍頭ヶ淵のヌシだ。お前も知っていよう。あのお陰で、伯耆ほうき(隣村)への道が出来ず、困っている。倒してくれたら、考えてやってもいい」

「…………」

 彦四郎は、自分の膝を見下ろしたまま、唇を噛んだ。

 村を包む水音が、一際大きく聞こえた。


 肩を落として去っていく若者の後姿を見送りながら、庄屋はほっとしていた。

 人々が恐れる化け物を倒せなど、無理に決まっている。これで、きっと諦めてくれるだろう。

 娘も、愛しい男の命を危険に晒してまで、添い遂げたいとは思うまい。

 自分一人が、恨まれれば良いのだ……。

「…………」

 しかし、目に涙をいっぱい溜めている娘の顔を見ると、胸が軋んだ。

 けれども、彦四郎は、諦めたわけではなかった。



4.

 熟した柿の実を思わせる秋の夕空に、煙がたなびく。稲刈りを終えた村人たちが、首にかけた手ぬぐいで汗を拭いながら、龍頭ヶ淵のほとりに集まった。

 普段は全く人気の無い場所なのだが、この日は特別だった。

 事情を知る者もそうでない者も、固唾を飲んで見守っていた。

 人々の視線の先に、彦四郎はいた。腰布だけを残し、裸だ。漁に使う小刀を一本、口に咥えている。

 彼の後ろには、母と ときが不安げに佇んでいたが、若者は振りかえろうとはしなかった。

 庄屋も、無言で見詰めている。

「なんだ。何をする気だ?」

「ヌシを殺すって? きょうてえ恐ろしいことを……」

「バチが当たるんじゃないか」

 村の衆の囁きを振り切って、彦四郎は、一度庄屋を見据えると、どんぶと淵に飛び込んだ。

 深緑色の水面に広がる波紋を、ときと母は、息を呑んで見下ろした。

 彦四郎の姿は、水の中で白く淡く揺らめいて、見えなくなった。

 後には、静寂が残った。


 夕暮れの空は、すぐに藍に染まり始めた。暗い森の影が、音もなく人々に近づいて、視野を狭める。東の空に昇った満月が、水に姿を映した。

 男たちは、松明に火を点けた。あまりにも永い間、彦四郎が上がって来ないので、人々は顔を見合わせた。

「こりゃあ、おえんいけないのじゃないか……」

「ああ。全然、息継ぎしとらんぞ」

「喰われてしもうたんじゃなかろうか……」

 彦四郎の母の顔は、青ざめるのを通り過ぎ、土気色になっていた。庄屋を見て、あわあわと口を動かしたが、何も言えず、その場に座り込んでしまった。

 ときは、彼女の肩に手を置き、父を顧みた。

 娘の視線に胸をえぐられるのを感じたが、庄屋にも、どうすることも出来なかった。

 対岸の森で、鳥が飛び立つ羽音がした。

 と――

 ゆらり。と、水面に映った月が揺れ、金色の環の中にひとすじ、黒い線が現れた。それは、見る間に滲んで光を覆った。

 それから、ぐうっと水が盛り上がり、派手な音を立てて、何かが岸へ飛び出した。

 ザザーッと、滝のように水が流れ落ち、ツンとくる匂いが、人々の鼻を刺激した。

「はんざき(オオサンショウウオ)だ!」

 男の一人が叫び、村人たちは、一斉に後ずさりした。庄屋と ときも、例外ではない。

「はんざき!」

 悲鳴があがる。女たちは子どもを抱いて逃げ出し、男たちは松明を掲げ、目を見開いた。

 炎を反射してぬらぬらと光る体は褐色で、大きな牛ほどもあった。長さは庄屋の屋敷の塀を上回る。樽のような胴に、ちいさな手足がついている。

 頭は大きく、扁平で、ぶつぶつとした突起に覆われていた。そこからあの、山椒に似た匂いがする。頂上に小さな目玉がついていた。

 その『はんざき』が――

 ぎゅるん、と尻尾を振り、同時に腹を上向けたので、村人達は、また恐れて後ずさりした。ヌシは、苦しげに尾を振り、手足をばたつかせて、しきりに何かを吐き出そうとする。巨大な口が開いたり閉じたりするので、人々は巻き込まれないようするのに必死だった。

 ときは――肩をしっかり父に掴まれていたが――震えながら、その様子を見守った。

 彦四郎はどうなったのだろう? 呑まれてしまったのだろうか。自分達も皆、喰われてしまうのだろうか。

 などと考えていると、

「……おい!」

 目ざとい者が声をあげ、ヌシの喉元を指差した。そこがぷつっと破れ、黒いものが噴出した。

 松明の明かりの中、黒い液体は、どっと溢れて化け物の喉を伝い、胸から腹を滴り落ちて、血溜まりを作った。ヌシは、その中に倒れ、動かなくなった。

 ヌシの腹から、一本の腕が飛び出した。

「…………!」

 ぎょっとする人々の視線の先で、化け物の腹を裂いて現れたのは、彦四郎だった。片手に小刀を持ち、全身、血に濡れている。

 凄惨な姿に、人々は思わず息を呑んだが、月光に照らし出された彦四郎の顔が死人さながら真っ青で、がたがた震えていることに気づくと、どんどんと駆け寄った。

 息絶えた大はんざきの傍らに、彦四郎は、ばったり倒れこんだ。



5.

 こうして、ときと彦四郎は、夫婦になることが出来た。

 庄屋はしぶったが、命懸けで化け物を倒した若者の行為に、見どころをみつけたのだろう。約束どおり、娘を嫁にさせてやった。

 二人の間には、すぐに子どもが産まれ、修太郎と名付けられた。

 孫が出来たことで、舅の気持ちもほぐれたのであろう。両家の間に行き来が始まり、いよいよ栄えるかに見えた。

 ところが。

 ……いつ頃からであろうか。夜な夜な村を歩き回り、家の戸を叩くものが現れた。

 川上から、一夜に一軒ずつ、順に訪れるのだ。勇気を出して外を覗く者がいても、姿は見えず、翌朝には、周囲はびっしょり濡れている始末だった。

 人々は、恐れおののいた。

 やがて、それは彦四郎の家に達すると、毎晩通って来るようになった。

 他の家には目もくれず、真っ直ぐやって来て、泣きながら戸を叩くのだ。

 声は、日に日に激しくなり、村中に響き渡った。


『なぜ、こんなことになったのだろう……。』

 ときは、幼い修太郎を抱きしめて考えた。

 表では、ずるずると、何か重いものを引き摺る音が聞こえる。ぴしゃんぴしゃんと、水の滴る音も。

 聞き間違いであってほしいと願ったが、音は、真っ直ぐこの家へ向かっている。近所は皆、固く戸を閉め、息を殺していた。

『どうして、こんな――。』

 どんどんどんと、乱暴に戸を叩かれ、修太郎が泣き出した。ぎゅっとしがみついてくる我が子に覆い被さり、ときは眼を閉じた。

 それでも、音は止んではくれない。

 おーん、おおーんと……男とも女とも、人とも獣ともつかない泣き声が、夜のしじまに響いた。

 奥の部屋では、もう寝たきりになってしまった夫の彦四郎が、布団を握り締めて、じっと耐えている。


 おーん、おおーん……



          ***


 その後、彦四郎は死に、一家は死に絶えた。

 祟りを畏れた村人が、「はんざき大明神」の祠を建てて祀ったところ、泣き声はようやく止んだという。


 今も、川はさらさらと流れ続けている。





~第2話、了~


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『掌の宇宙』第2話 解説


《伝記:はんざき物語》 岡山県湯原町


 昔、今から四百年ほど前(文禄の初め)。龍頭が淵(現 鯢(はんざき)大明神の前面の旭川)に、長さ三丈六尺 (10.9メートル)、 胴回り一丈八尺(5.5メートル)の大「はんざき」がすんでいて、付近 を通る人や牛馬を捕らえ、呑んでいました。村人達は怖れ、近付く者はいませんでした。


 ある時、三井彦四郎という向湯原村の若者がこれを捕らえようと 短刀を口に淵に飛び込みました。しばら くすると、水底から血がふき上がり、巨大な「はんざき」が浮かび、腹を内側から引き裂いて、彦四郎が這い出てきました。


 村は助かりましたが、その後、彦四郎の家では夜な夜な戸をたたいて号泣する声が聞こえ、ついに一家は 死滅してしまいました。


 村人たちは、鯢(はんざき)大明神の祠を建て、このヌシを祀る ようにしました。


 この伝説に由来し、毎年八月八日には「はんざき祭り」が行われています。伝説の大「はんざき」を模したオオサンショウオを乗せた山車が、湯本を中心に町を巡ります。



■『はんざき』 とは、日本特産の有尾両生類・オオサンショウウオ(Andrias japonicus)のことです。


 世界最大級(全長150センチになる)に成長します。1952年(昭和27年)、特別天然記念物に指定されました。(オオサンショウウオ科に属するのは、日本のものと チュウゴクオオサンショウオ(中国産)、ヘルベンダー(米国産)の三種しか世界にいません。)


 中国山地が主な生息地で、標高400メートル前後にある河川上・中流域に住んでいます。


 『はんざき』の名の由来は諸説あり、岡山~広島県南では「獲物を半分に裂いて呑みこむから」といわれ、湯原町(岡山県北部)では「身体を半分に裂かれても生きているほど、生命力が強いから」といわれます。島根県では『はんざけ』ともいい、「口が大きく、開けると身体が半分に裂けているように見えるから」だそうです。――こういう地方名・方言には、民俗動物学的な関心があります。


 生物学的には、いくら生命力の強い両生類とはいえ、身体を半分に裂かれても生きていられるということはありません(プラナリアなら出来ます)。幼生のちぎれた外鰓や指が再生するところや、長命な(飼育記録は51年。百歳以上になるといわれます)ところから、昔の人の『白髪三千丈』的な誇張表現と思われます。


 実際、オオサンショウウオの再生力は、あまり高くなく、指などが完全に再生するのは稀だそうです。


 湯原町のオオサンショウウオ保護センターには、飼育例で世界最大の、体長130センチのオオサンショウウオの標本が展示されています。


 (本作品は、上の伝記に基づきます。彦四郎が龍頭ヶ淵に潜った理由が明らかにされていないので、ときの話を創作しました。ところで……オオサンショウオは、鳴きません。念のため。)



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