エピローグ 前編(LU3004年 159の日)




――エピローグ――  One more




朝を知らせる鳥のさえずりと共にアークライ・ケイネスは瞼の重さを感じ、体全体に気だるさを覚えながら、覚醒と睡眠の合間のまどろみの中にいた。

温かく、それでいて少し湿っぽい空気がアークライの顔を撫でるように吹き、それに心地良さを感じる。

この心地よさを糧に少し浅くなった意識をまた深く暗闇の底に沈めてしまいたい衝動に駆られるたのだが、先程から頭の奥で何かが悲鳴あげている。

危険だ、このまま、この危機から逃れる事が出来なければお前は人生最大の危機に陥ると……。

無視してしまいたい所だが、虫の知らせというものはアークライを何度も災難から救った事がある。

それがしこりになってアークライは知らせを無視する事は出来なかった。

アークライは内心毒を吐きながら、安らぎに抵抗するようにして、重い瞼を開く。

アークライは目の前に広がる光景にうんざりした。

目を瞑り、アヒルのように口を尖らせて、俺に唇を突き出す獣人マナがいた。

マナは俺が起きたことにはまだ気づいていないのか、鼻息を荒くして唇をゆっくり俺の唇へと近づけようとしている。。

俺は感じていた暖かな風の正体がどこから発せられていたのか?その真実を知った。


(――さっきの風……これかよ……。)


その光景と真実にアークライは頭痛を覚えながら、マナの額に向けてデコピンをした。


「あいて!!」


ミアはそう痛みに叫び、寝台から転げ落ちる。

それを眺めた後、俺は上半身を起こした。

体を起こす際に、先日の仕事で怪我をした腰と左腕が痛む。


「うう、酷いよ……アーちん。いきなり暴力を振るうなんて……。DVはダメなんだぞ!」


そう涙を目に浮かべながら、床に座り抗議するマナ。


「お前がやろうとしてた事のが暴力だろ。」


アークライは頭に手を当ててそう答えながら寝台から立つ。


「うう、ここ最近、アーちんのマナの扱いが酷い気がする……。どうせアーちんの頭の中ではマナはあんなことやこんなことをされてるっていうのに……!」

「――どんな被害妄想だ!」


アークライ自身、マナへの立ち位置や関わり方を変えた覚えは無い。

しかし、マナはこの三日間ぐらいで、どうも何か大きな不満を持ったらしく、度々後ろ向きな発言をするようになった。

これまでマナはアークライに露骨な好意を示し、あれやこれやとアタックを仕掛けた事はあったが、ここまで直接的なものはなかった。

その原因が何か……、まあ、それは予想に難くないのだが、考えると頭痛が酷くなる。


「お前、まだあの時のことを嫉妬してるのか?」


呆れたように言うアークライに対してマナは怒ったようにして言う。


「そりゃ、嫉妬するよ、アーちんの初めては全部マナのものだって決めてたのに…。」

「あのなぁ……俺はいつからお前のものになったんだよ。」

「え、それはぁ……初めてあった時からかな?逆にアーちんは何時からマナの魅力に取り憑かれたの?」

「お前はわかりきってる答えにどう答えて欲しいだ?」

「え、勿論、マナちゃんラブリー、アイラブユー。」


アークライは一度閉口した後、呆れた視線でマナを見つめて、


「……とりあえず、何処か病院に連れてってやるから、一度頭を開いておかしい所がないか見て貰ってこい…。」


そう言って、アークライに抱きつこうと迫るマナを片手で突き放し、寝台から立ち上がる。


「あー、そうだ、アーちん、お客さん来てるよー。」

「客?」

「うん、外で待ってるってー。起こしてきてと言われたからマナはアーちんを起こしに来たんだ。」


先日の仕事の報酬を受け取り少々余裕が出来たのと怪我の療養の為、今、交渉屋の仕事を受けつけてはいない。

当然マナも知っていて、依頼人が来たら追い返すように言いつけてある。


「マナ、どんな人だった?交渉屋への依頼って訳じゃないんだろ?」


本当にただの客なのか、それとももう一つの仕事の方の依頼に来た人間なのか?

後者だとするならば、体に鞭を打ってでも働きたい所ではあるが、前者だと正直、気が進まない。


「うん、そうだね。顔がしわしわのお婆ちゃんでね、この間の仕事の依頼に来てた貧乳女の母親だって名乗ってたよ。どう見ても年が離れてたし胡散臭かったから、一応、部屋の外に追い出したけど……。ただ、アーちんを呼んで来いってしつこいし、そうしないとアーちんが後悔する事になるって脅されたから、ちょっと怖くなってアーちん起こしに来たの。」

「ふーん、そうか…。」


聞き流すように答えるアークライ。

その後、アークライの額からだらりと汗が流れた。

――今、何か聞くべきでない言葉を聞かなかったか?

ふと、右手で頬を抓る。

右頬が痛い。

夢ではないようだ。

となると、マナ曰く貧乳女の母親とは誰なのか?

アークライの脳裏をとある老婆の顔がかすめていく。

いやいやいや、それは無い。

絶対に無い。

あってはならない。

ならば、検証しよう。

訪問者が彼女では無いという証明を行おう。

まず、しわしわの老婆とマナが言っている事は女性であり、老齢であるという事なのだろう。

アークライとしてはそういった知り合いは多くは無いが、仕事の伝手で関わる事がある。

つまり、それがアークライの脳裏に一瞬よぎった老婆であるとは限らない。

次に、この間の仕事の依頼に来ていた貧乳の女性の母親だと名乗っていたのだという。

ああ、これは難題だ。

まず、この間の仕事に来ていたという貧乳女という時点で相手はかなり限定される。

昨今、あまりいい仕事が入らずに請け負った仕事は、アテルラナから請け負った集金の交渉と騎士団から請け負った少女の奪取ぐらいのものだ。

アテルラナから自分に依頼に来たのは女性であったが、それはもうふくよかな胸の持ち主でとてもでは無いが、貧乳などでは無かった。

となると、貧乳に該当するのは騎士団の依頼者であるクレア・ローゼンという事になる。

これは逃れようがない事実だ。

となると、今回ここで、この帝都の下層区でも辺境と呼ばれるこの場所までやってきたのはクレア・ローゼンの母親という事だ。

クレア・ローゼンの母親となると、まあ、脳裏をかすめるのはやはりあの奇天烈老婆ぐらいのものだが……とりあえずそれは気のせいだから忘れることにしよう。

さて、ここで重要なのはクレア・ローゼンは本来、ローゼン家の血筋の人間では無いという事である。

何処からかはわからないが、現在のクレアの養母が孤児であった彼女を拾ってきたのだという。

つまり、この筋、クレア・ローゼンの実の母であるというラインがあるのではないだろうか?

クレアの実年齢が20前後ぐらいで、その母親が老婆だというのは色々無理がある話だと思うが、この際は忘れる。

そもそも、なんでそんな人物が俺を訪ねてくれるのか疑問ではあるのだが、それもこの際は忘れる。

考えるだけ無駄だ、現実は小説より奇なり、この先人が残した偉大な言葉を信じよう。

つまりは、客というのはクレア・ローゼンの実の母という事か……。

くそ、流石に無理があるか――――考えろ、アークライ・ケイネス、ここで現実逃避をしなくてなんとする――


そうしてそんな思考を始めたほんの1秒後にマナはアークライの抵抗の努力など知らずに口を開く。


「そのお婆ちゃんはカレン・ローゼンだって名乗ってたよー。」

「この糞馬鹿!!俺が全力の抵抗を試みてるのにその名前言うんじゃねぇ!!!!!!」


アークライは頭を抱えて絶叫した。

マナの言葉は死の宣告に等しい、これ以上ない絶望だった。

アークライの心は既に打ちひしがれ、動悸が激しくなるのを感じる。

それと同時に汗がたらりと頬を流れ、体中の細胞という細胞が悲鳴をあげはじめる。

それは一重に恐怖。

心の奥底に刻まれた絶対者への恐怖。

そんなものがアークライの胸中を跋扈ばっこする。


「どうしたの?アーちん、凄い汗……。」


豹変したアークライにマナは心配そうに声をかける。


「お前、その婆さんをこの部屋から追い出したんだよな……。」


マナは頷く。


「すんなりと出ていったか?」


マナは頷く。


「笑っていなかったか?」


マナは頷く。


「……うん、って、さっきからアーちん、何そんな重苦しそうな顔してるの?」


不思議そうに聞くマナ。

アークライは経験から、逆算して現在の状況を推し量る。

そしてアークライの顔が真っ青になる。

カレン・ローゼンが自分から他所へと足を運ぶというケースは稀である。

基本的に、「お前に会いたいから、お前が来い」と呼びつけるような人柄であり、自分から誰かを尋ねるという事はまずしない。

稀に、自分から足を運んで誰かを尋ねるのだが、その時、その労力が徒労に終わった時、彼女はそうしてきた相手を凄惨なる目に合わせてきた。

カレンが笑うというのはどう落とし前を付けてやろうかと考えているという事であり、その邪悪な思考に笑みが漏れてしまうという事である。


「くそ、時間が惜しい。」


カレンを待たせているというのならば、時間が経てば経つほど彼女の悪巧みは進化するという事である。

アークライはすぐに着替えを済ませ愛用のジャケットを羽織った。


「カレンは何処で待ってるか言ってたか?」

「うん、18番区の喫茶店ラムールで待ってるって……。」

「そうか……行ってくる。」


そう言って、幽鬼のように生気を失った顔をしてアークライは玄関の戸を開けた。








カレン・ローゼン。

クレア・ローゼンの養母にして、帝国騎士団団長。

齢80を超える老齢でありながら、未だその強さは衰えるどころかさらに常軌を逸し、名実ともに帝国最強騎士。

たった一人で一軍に匹敵するとすらされる生きる伝説である。

過去二度の共和国との戦争に置いて、大きな戦果をもたらし、彼女がいなければ帝国は勝てなかったとされるほどの英傑である。

そんな彼女を誰もが畏怖と尊敬の眼差しで『薔薇の淑女』と呼ぶ。

もはや生きながら伝説と化した彼女であるが、彼女自身の性格はその英雄譚に相応しい性格であるというには少々、いやかなり憚れるところがある。

というのもカレン・ローゼンという人物を一言で形容するならば愉快犯であるという事だ。

気分屋かつ自己中心的、それでいて博愛主義者であり破壊魔。

そう矛盾した要素が混在するのがカレン・ローゼンという人物であった。

アークライ自身も騎士団に在籍していた時に彼女には幾度も胃に穴が空く経験をさせられている。

戦闘訓練だと称して、帝国近郊に根付く山賊に悪友ウォルフ・サンダーエッジと共に武器を持たされずに送り込まれたり、サバイバル訓練だと称して雪山に全裸で10日放置されたり、勉学だと言って、団長の書類関係の仕事を全部押し付けられたりと毎日そんな目にあっていた。

彼女はそのような苦行を前ふりもなく、おそらくは思いつきでやるのだ。

おかげで高い精神力や危機対応能力、認識能力がついたのは事実ではあるのだが、アークライからしてみれば、思い出すだけで全身が震え出すトラウマに等しい経験だったと言える。

その時のトラウマを思い出しながらアークライは帝国下層区18番区にたどり着いた。

ここは帝都の東端になる地区であり、下層区屈指の商店街がある区域であった。

帝都下層区の中でも、かなり豊かな地区であり、騎士団による治安維持が行われている為、治安もかなり良い。

商人達が自分の店の前に立ち、道を歩く人々に声をかけ、自身の商品を売り込もうとアピールしている。

アークライは、その商店街の出口端にある少し古風な喫茶店に入る。

扉をくぐると奥にある席に一人、鼻歌混じりに紅茶を飲んでいる老婆がいた。

老婆は枯れ枝のような腕でティーカップを持ち黄金色のした液体を口に含み満足そうな笑みを挙げている。

アークライは少し深く呼吸をして、覚悟を決めた後、老婆に声をかけた。


「カレン、一体、俺に何のようだ?」


老婆はアークライを見てにっと笑って答える。


「あらあらぁ、師が弟子を心配して訪ねてきたというのに、その言いようはなんだい?」

「―――嘘つけ。」


アークライもそういって老婆カレン・ローゼンの正面の席に座り、メニューを手にとった。

ウェイトレスが席に来て、アークライはアイスティーを頼む。


「今日は別に熱くもないだろうに……相変わらず子供みたいな猫舌なんだねぇ。」

「ほっとけ……。」


そうぶっきらぼうに言うアークライを眺めながらカレンはティーポットからカップにお茶を注いだ後、その香りを楽しんだ後、口に含める。


「ここは、みずぼらしい作りだけど出すものは上等でね。この間遊びに来た時に見つけたんだど、それ以来下層に来てはここに通う毎日さ……。」

「六家のあんたなら別に茶なんて何処からでも取り寄せて飲むことが出来るだろうに、なんて無駄な……。」

「嫌だね、風情がない。物事雰囲気が大切なのさ、あたしの家なんて無駄に装飾多すぎて、いるだけで辛くなるよ。」


ローゼンを含む六家は帝家から旧帝宅を授与されている。

それはもう下層の人間が見たら妬むような豪華絢爛な家で言ってしまえば無駄に大きい屋敷であった。

通常貴族はその邸宅にて、自身の力を示そうとし無駄に作りこんだ豪邸を建てるのが通常である。

しかし、カレンの価値観というのは貴族でありながらそういったものからはズレていて、そういった綺羅びやかな豪邸を嫌う傾向にある。

本人曰く、小さくわびさびの効いた家の方が落ち着くとのことである。

それもあって、カレンは家で寝泊まりすることはほとんど無いらしい。

アークライからしてみれば、理解不能なこと、この上ない話ではあるのだが……この老婆はそういう人物なのだ。

ウェイトレスがアークライに氷の入ったコップにお茶を入れて持ち運んでくる。

コップが机に置かれた時、コップのガラスと氷がぶつかりカランと音を鳴らした。


「で、何のようなんだ?あんたが人を尋ねるという事は相当な事だと俺は認識している訳だが……。」

「いやねぇ、前にあんたに頼んだ件で何か聞きたい事があるんじゃないかと思って、こちらから顔を出してやったんだけど、特別聞きたい事は無い?」

「それは……まぁ、あるが……。」


アークライとしては先日の件は虚属性獲得者という奪取という件だけでも色々問題だらけだったのに、その他にも気になる事は多かった。

とはいえ、気が引けるところではある。

この老婆、ただで情報をくれるような人間では無い。

代償としてまた無理難題を押し付けられては溜まったものではない。


「先に言っておくけど、あんたには無理難題押し付けるからね、これ決定事項。」


アークライは驚きのあまり口に含んでいたアイスティーを吹きこぼした。

既にそっちが決定事項かよ!!


「いやだねぇ、汚い。飲み物粗末にしたらダメって教えなかったっけ?」


アークライは手ぬぐいでこぼした後を拭く。


「いや、無いな。」


アークライは記憶の限り振り返るがまるでそんな記憶は無かった。


「あら、そうだっけ……?」


言ってないことまで教えたというこのまるで変わらない口調に悪夢を思い出す。


「まあ、あんたに押し付けるもんの事だけど、強引に押し付けたらあんまりも可哀想なんでねぇ、ここで老婆心って奴だよ。質問に色々答えてやろうって判断さ。あんたの師匠の優しさに感謝しなよ。」

「――――拒否権は?」

「無い。聞くまでもないだろう?」


―――それは命令って奴じゃないかなぁ?

アークライはそう心で涙混じりに嘆く。

本当ならそんな理不尽な話はあるかと言ってしまいたい所ではあるのだが、カレンがこのように言ってくるという事は既に根回しも終わっているという事をアークライは察する。

この老婆は狡猾かつ用意周到なのだ。

おそらくは既に自分に逃げは無いのだろう……。

アークライはそう確信めいた予感を持った。


「それで、何を押し付ける気なんだ……。」

「それは後のお楽しみさ、まあ、まずはあの件であんたの気になることをなんでも答えてやるよ。」


老婆は楽しそうに笑った。

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