あの日泣いたのは君だった。

斉木 緋冴。

「無理しない自分」

「なーんか、お前って、いつも暗いんだよな」


小学校五年生のころ好きだった、クラスで一番足の速い鈴木隼人という少年は、彼女のことをこう評した。

なので、彼女は長く自分のことを、「暗い女」だと思い込んでいた。


橋本美月が、絵本を自力で読めるようになったのは、彼女が幼稚園に入園した、ニ歳と十カ月の頃だった。

木山佳菜子ちゃんという同じクラスの女の子と友達になり、その子に字を教えてもらったからだった。

佳菜子ちゃんは、上にきょうだいが二人いて、お母さんも教育ママだったことから、入園した頃にはすでに、ひらがなが読めていた。

佳菜子ちゃんがひらがなを一つずつ、指差して絵本を読むのを見て、美月も自然と覚えて、ある日家に帰って絵本を開き、「あ、い、う……」と読み始めた時には、美月の母も驚いたそうだ。

後に、「うちの子天才かもしれない! なーんて、当時は思ったわよ?」と、大きく勘違いされていたのを知った美月は、穴があったらさらに深く掘って入って、自ら埋まってしまいたいと思ったのだった。


美月はどんどん、絵本や物語、児童書、成長してからは長編小説を、のめり込むようにして読むようになった。

小学校に入学しても読書好きは変わらず、高学年にもなると、長編のSF小説まで読んだ。

休み時間になれば、少ないお小遣いを数か月貯めて買った、アイザック・アシモフの文庫を取り出して、時間いっぱいまで読みふけるような少女だった。

だから、小学校五年生の時に、同じクラスで一番モテていた鈴木隼人に言われた「なーんか、お前って、暗いんだよな」という一言には、ショックも受けたのだった。

「わたしって、暗い女なんだなぁ……」

美月は、自分のことを評した他人の言葉を、鵜呑みにしてしたのだった。

中学校に入学しても、マイペースに読書ばかりしていた美月だったが、いじめられるほど大人しくもなく、かと言って友達を支配するほど高飛車で高圧的でもなかったので、教室の片隅で、比較的平穏に学校生活を送っていた。

高校に進学して、図書委員に任命されるまでは。


図書委員は、当番制で図書館の管理をしたり、図書委員が小ネタを挟んで作成する会報の、ネタ探しをしたりと、一般の生徒が思っているよりも少し、忙しい。

美月が任命されたのは、いつも文庫本を片手にバス通学していて、休み時間にも続きを少しずつ読み進めていることを、クラスメイトがみんな知っていたからだった。

「そこまで本が好きなら、ぜひ!」とクラスメイトに持ち上げられ、美月も他に興味の惹かれる部活や、同好会などもなかったことから、割と乗り気で、引き受けた。


任命された初日、校舎の北側の最上階にある図書館に入っていくと、傾きかけた夕陽にあたためられた古い紙やインクのにおいが、立ち上るように満ちていた。

美月はこのにおいが好きで、まだ誰も来ていない図書館の窓側に歩み寄って、グラウンドで練習しているサッカー部や野球部の声を聴きながら、深呼吸した。

「いいにおい……」

思わず美月がつぶやくと、

「ホントだね」

と、知らない声が返事をした。

男子生徒だ。

美月が驚いて声のした方を振り向くと、眼鏡をかけた、背の高い、でも線の細い感じの男子生徒が、図書館の入り口で伸びをしているところだった。

眼鏡にもかかるくらい長めの若干茶色い髪に、濃紺のブレザー、赤いネクタイ。

細いあご、色白な肌に、透き通るようなアイスブルーの瞳……。

男子生徒が近付くにつれ見えてきた、自分とは違う特徴の数々に、美月はさらに驚いて、口を開けてしまった。

夕陽が、男子生徒の茶色の髪を燃えるような色に、変化させている。

「えっと……」

美月がうろたえていると、身長150cmと小柄の美月が見上げてしまうほどの男子生徒は、

「図書委員の人? 僕もなんだ。よろしくね」

と、眼鏡の奥の目を糸のように細めて、笑った。

冷静によく見ると端正な顔が、くしゃっと笑みの形に変わる。

「は、はいっ。よろしくお願いしますっ」

男子生徒と話すのが、それほど得意でない美月は、内心、ものすごく緊張して、声が裏返ってしまった。

男子生徒は、それに気付いて、微笑む。

「敬語じゃなくてもいいよ。僕もぴっかぴかの一年生だし」

両頬に指をぷにっと当てて、男子生徒はおどけて見せた。

美月の緊張を、ほぐしてくれようとしているようだ。

思わずふき出した美月を見て、

「僕、一年五組の林マシュー。見ての通り、生粋の日本人ではないけど、生まれも育ちも日本だよ」

と、林マシューと名乗った男子生徒は、突然しかめ面をした。

「嫌いな科目は、英語! 反対に、好きな科目は国語なんだ。……口に出すと、なんか変だね」

こんな見た目なのにね、と、付け加えるのを聞いて、美月はまた、ぷっとふき出してしまった。

くすくす笑う美月を見て、マシューは満足そうに笑って、

「名前を教えてくれる?」

と、自分の腰に手を当てて、美月の顔を覗き込んだ。

アイスブルーの瞳が、夕陽の光を、不思議に反射している。

美月は、顔が熱くなるのを感じた。

胸がドキドキするのが、顔に出ませんようにと必死に祈りながら、美月は、

「あ、あのっ、わたし橋本美月、です。一年二組。よろしく……、ね?」

と、自己紹介しながら、だんだん言葉と声に勢いがなくなるのを、自覚した。

美月は、小学生の時に「暗い女だ」と言われてから、笑顔や笑った声に、全く自信がなかったのだ。

「美月ちゃん。よろしく!」

マシューが手を差し出したので、美月も戸惑いながら手を差し出すと、マシューは美月の手を両手でぎゅっと握って、ぶんぶん振り回した。

「よ、よろしく」

線の細い見た目によらず、力強い握手に面食らったけれど、美月も手を握り返した。


図書委員の当番は、月交代で、ふたつのクラスが協力して業務を行うのだが、一年一組の委員は、図書委員の仕事をさぼりがちで、二組の美月がひとりで業務を回していることも多く、一組の委員のサボり癖に気付いたマシューが、時間がある時に、様子を見に来てくれるようになった。

反対に、一年六組の委員もサボり癖があり、マシューがひとりで貸借管理などをしている時は、美月が手伝った。

もともと、美月は図書館を利用する頻度が、一般の生徒よりもとても高いので、図書館司書と並んで「ヌシ」と呼ばれ、一目置かれるようにもなっていた。

地味で、人員確保の難しい図書委員を新たに選出するより、委員たちが、それぞれにフォローしあうことが暗黙の了解になっていたので、美月やマシューが、当番以外の日に管理室に出入りしていても、何の問題もなかった。


美月とマシューが図書委員として活動し始めてから、四カ月が経つ夏休み真っ只中に、ちょっとした事件が起こった。

一組の図書委員である田畑かなめが、珍しく真面目に、十日間も続けて、委員の仕事を手伝っていたのだ。

夏休み期間でも、三年生や文化部のために図書館は開放していて、その日は会報を作るため、ドアを半開きにした状態で、管理室に田畑かなめと美月が、二人でこもっていた。

読んでもらうための、導入部分に使う小ネタが浮かばないと、ふたりでうんうん頭を悩ませていた時に、ふと浮かんだ疑問を、美月は口にした。

「田畑くん、どんな心境の変化? ここ数日、真面目に業務してるね」

何気なく聞いたことに、田畑かなめは、大笑いした。

「はははっ、なんもねーし! 暇だから来てやってるんだよ」

田畑かなめは、少々荒っぽい噂があるけれど、弱い者には手出ししないという、筋の通った荒っぽさを持っていて、男女関係なく、人気のある生徒だった。

身長は少々低めだけれど、その分体格ががっちりしていて、眉も太く男らしい風貌だ。

上履きのかかとも踏みつけてはいているけれど、嫌な音をさせないで歩くところは、美月も好感を持っていた。

そのかなめに大笑いされてしまい、美月はちょっと恥ずかしくなって、下を向いた。

「はぁ、おもしれーな、橋本。……でもさ、お前、なんでそうやって、いつも下向いてんのな。なんで?」

何のためらいもなく、何の気遣いもなく、するっと出たかなめの疑問に、美月はどきっとした。

「し、下向いてるかな……?」

「うん、向いてる。なんかあんの?」

かなめは、見る間にしおしおと肩を落とした美月の様子に、慌てた。

「……なんか、悪いこと聞いた? オレ……」

声のトーンが、柔らかく落とされる。

気遣ってくれるのが分かって、美月は申し訳ないような気になった。

ますます小さくなる美月の肩を見て、かなめは、後ろ頭に両手を置いて、椅子の背をぐっとそらせて、天井を仰いだ。

安いパイプ椅子が、ぎしりと音を立てる。

「あのさ……、なんかあったんなら、人に話す方が良いぞ。心に溜めてると、ずーっとずーっとその嫌だったこと、心の中に住まわせてることになる。嫌だったことを、間借りさせてることと同じなんだってよ」

美月は、顔を上げてかなめを見た。

かなめは、天井を睨み付けるような顔をして、美月の方は見なかった。

美月は、かなめと視線が合わなかったこと自体が、かなめの優しさなのだと突然気が付いて、美月は目に涙が盛り上がってくるのを、感じた。

そして、ぽつりと、

「暗い女だって、言われたの」

と、唇を震わせた。

「小学校の時、好きだった男の子に、『お前暗いよな』って言われて、わたし、暗い女なんだなって、思って」

かなめは動かなかった。

何も言わず、天井を睨み付けていた。

「ほ、本ばかり読んでて。休み時間も外に遊びに行かなくて。本読むのが大好きだから。でも、……でも小学生くらいだと、活発で明るい子が選ばれて、それで……」

言葉に詰まると、美月の目に盛り上がってきた涙が、勢いよくぽとぽと、机の上に落ちた。

慌てて手の甲で目をこする美月に、かなめは無言で自分のタオルハンカチを、差し出した。

美月はそれをそっと受け取って、でも汚すのがなんだか申し訳なくて、手の中に握りこんでしまった。

「自分が嫌いだと思ったり、……本を読むのをやめて、みんなと遊べばいいのかなって、思ったこともあったの。でも……、でも、苦しかったの。みんなと遊んでる自分が、ものすごく疲れちゃって、苦しくて、辛くて……」

ぽとぽと、ぽと……。

美月の涙は、拭われずに机の上に落ちて、水たまりを作り始めた。

「ノリが悪いとか、真面目すぎるだろとか言われて、……読むのが速すぎたのを見つかった時、先生のご機嫌取りだって言われたこともあって。自分を作ってみたけど、やっぱりダメで。……ダメな子なんだなって、思って」

美月が、とうとうかなめのタオルハンカチで顔を拭いた時、かなめが体ごと向き直って、美月を見た。

「なんでダメなのよ? 本が好きだからダメなのか? みんなと遊ばないからダメなのか? 橋本は、ちゃんと持ってるじゃんよ、『無理しない自分』をさ」

美月が顔を上げた。

何を言っているのか、分からないという風情だ。

「オレさぁ、橋本? 橋本が、楽しそうに図書委員の仕事してるの、この数日だけど、近くで見てんだよ。その時の橋本の顔、自分で見たことねーだろ? な、林?」

かなめは、半開きになっていた管理室のドアの向こうに、声をかけた。

一瞬の間があって、そっとドアが開かれる。

現れたのは、かなめに名を呼ばれた、長身の林マシューだった。

事態が飲み込めず、かなめとマシューの顔を交互に見ている美月に、かなめはにかっと笑って、

「林がどんだけ、橋本が真剣に貸借管理をしてくれるかとか、橋本がどんだけ真面目に蔵書の手入れをしてるかとか、教えてやろうか? 林は俺と同じ予備校だけど、橋本の魅力をどんだけ熱く俺に説いてきたか、今ここで説明しても良いんだぜ?」

と言って、何だか企んでいそうな顔をした。

「田畑くん!」

マシューが、顔を真っ赤にして自分の口をふさごうとするのをすり抜けて、かなめはさっと立ち上がり、

「んじゃ、オレはこれで! あとは何とかしろよ、林!」

と言って、驚くような速さで、管理室を出て行った。

「田畑くん!? 何とかって何!?」

あたふたしているマシューが、普段、ふわふわした感じのマシューのイメージと違って、美月は思わずふき出した。

「あ! 泣いたからすがもう笑った!」

笑った美月を見て、マシューも笑う。

マシューが笑うのを見て、美月も自分が笑っていることに、気付いた。

「林くん……? 田畑くん、もしかしてこのために……?」

所在なく立っているマシューを見上げた。

美月の頬を、最後の涙が滑り落ちる。

「美月ちゃん、ごめんね!」

マシューは、かなめが座っていた椅子に腰を下ろし、いきなり頭を下げた。

勢いに押されて、美月が何も言えずにいると、

「美月ちゃんが下向いてるの、気になったのは僕だ。心配してたのも、僕。でも……、何か理由がありそうだって、気付いてくれたのは、田畑くんなんだ。田畑くんは悪くないよ。僕がどうしても聞けなくて、苦しい思いをしていたのを、田畑くんが変わってくれたんだ。……辛いこと、思い出させてごめんね、美月ちゃん……」

と、マシューの言葉は、最後に行くにつれ力がなくなっていく。

マシューは、机の端に手をそろえて乗せて、その上にうんと猫背になって、細いあごを乗せた。

「ごめんね、美月ちゃん……」

力なく繰り返すマシューを、猫みたいだと、美月は思った。

体は大きいのに、何だかかわいく見えてくる。

「よしよし」

思わず、美月がマシューの頭を撫でてしまった。

普段の身長差だと、絶対に出来ないことだ。

「!?」

マシューは、目を見開いて、美月をこれでもかというほど驚いた顔で、見た。

「心配してくれたんでしょう? 林くんも、田畑くんも。ありがとう。わたし、ずっと前に他人に言われたことにとらわれて、『今の自分』を自分で見てなかった。林くんと田畑くんが見ててくれたわたしが、『わたし』で『無理しない自分』だったんだね」

満足したような顔の美月を見て、マシューは、本当に、心の底から、輝くような笑顔を見せた。


「美月ちゃん、僕、美月ちゃんが大好きだよ」

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あの日泣いたのは君だった。 斉木 緋冴。 @hisae712

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