第11話『一人じゃない』

夜の小川に来たのは久しぶりだった。

静かに水が流れる音。風に揺れる草花の音。自然の囁きが奏でるメロディーに包まれながら俺は一人黄昏ていた。


手元のスマホに視線を落とす。待ち人との約束までまだだいぶ時間があった。

暇つぶしにネットサーフィンでもしていようかと思ったが、どうせならばこの自然の景色を楽しもうと思いスマホをポケットにしまい込んだ。


水面に映る夜空の星。それはまるで宝石を散りばめたようにキラキラと光っている。美しさの中に儚さがある天の川のようだった。

天の川というとやはり連想されるのは七夕物語だろう。一年に一度、七夕の日にしか巡り会うことのできない織姫と彦星のお話。

二人は会えない間何を思って過ごしているのだろうか? 自業自得とはいえども厳しい制限を立てられた二人を繋いでいるものは何なのだろうか?


「……愛か」


七夕物語は永遠の恋の物語。ならば二人を結んでいるのは愛に違いない。

けれど恋をしたことのない俺にとって、愛がどれほど強いものなのか分からなかった。


「――なぁ、愛って何なんだ?」


背後に人が立つ気配を感じ、挨拶代わりにそんな質問を投げかける。


「――ひよりには分かりません。だってひよりも愛を知りませんから」


待ち合わせの時間ぴったりに来たひよりはそんな唐突な俺の質問に戸惑うことなく答える。


「それで? どうしてそんなこと聞くんです?」


「川見てみろよ。星が水面に映って天の川みたいだろ?」


ひよりは俺の隣に腰を下ろし、一緒になってキラキラと輝く川を見つめる。


「ああ、愛ってもしかして七夕物語ですか? あの話ひより好きです」


「つまりひよりは彼氏が出来たら一年に一回だけ会えればいいと?」


「いやいや、それとこれとは話が別ですよ。話が好きってだけで憧れているわけじゃありません。好きになった人とは毎日でも会いたいですし、一緒にいたいですから」


「なら七夕物語のどこが好きなんだ? それ聞く限り好きになる要素皆無だろ」


「織姫も彦星も、お互いがお互いをきちんと愛しているじゃないですか。想い合っているって素敵なことだなって思うんですよ」


「まぁ確かにな。ひよりはそういう恋愛に憧れているのか?」


「ひよりというより、大体の人は同じことを考えているんじゃないです? 誰だって恋をするのなら両想いがいいに決まってます」


「片想いでいても辛いだけだよな」


そう口にすると、椛の顔が頭に浮かんできた。

椛はずっと俺のことを好きなままでいる。俺は返事を先延ばしにして了承もせず、断りもせずにいることが申し訳なくなってしまう。


静かな時間が流れる。

時折聞こえるひよりの息遣いだけが俺が今一人ではないということを実感させる。

一緒にいるという約束は果たしている。けどこれでひよりは満足なのかだろうか。そう思いながらひよりの方へ顔を向けると、偶然にもひよりも同時に俺の方へ顔を向け、見つめ合うような形になる。


「……」


「……」


改めて思う。ひよりは相当可愛い女の子だ。おまけに明るくて元気で、誰にでも好かれる才能と周りを笑顔をする力を持ち合わせている。

そんな彼女ならば俺でなくても一緒にいる人は選べたはずだ。クラスメイトである小夏でもいいし、巡たちでもいい。けれどひよりは他の誰でもない俺を選んだ。


「どうして俺なのか。修平さん、今そう思ってませんか?」


「……よく分かったな」


「はい。分かりますよ」


真っ直ぐに俺の瞳を捉えているひより。

まるで考えている事が見透かされてるような気がして思わず目を逸らす。

ひよりは苦笑しながら空を見上げ、星の輝きを焼き付けるように目を閉じる。


静かに吹いていた風が止んだ。

訪れる静寂にひよりの息を吸い込む音が重なり、ゆっくりと舞台の幕が開ける。


「昼間に言った通りです。頼りたかったんですよ、誰かに。けど、誰でもいいわけではなかった」


そうしてひよりは語り出す。

もしかしたらひよりの心の奥の部分に触れる話になるかもしれない。だから俺はきちんと話す姿勢を取って耳を傾ける。


「結論から言ってしまうとですね、修平さんはひよりの心の隙間を埋めてくれる人なんです。友達とも家族とも違う特別な存在。それが修平さんなんです」


特別――その言葉は雪のようにゆっくりと俺の胸に溶け込んでくる。


「ひよりは一人が嫌いです。学校にいる間は常に誰かがいてくれます。けど家に帰ればひよりは一人ぼっちです。それがたまらなく嫌……。だって一人って寂しいじゃないですか。誰もいない空間に一人。まるで世界に一人取り残されたみたいで……怖い」


身体が震えていた。その振動は無意識のうちに重ねられた小さな手からはっきりと伝わってくる。

握り返してあげれば震えを止めることができるのかもしれない。でも俺は重ねられた手を受け入れるだけでそれ以上のことはしなかった。


「……ふふっ。修平さんは意地悪ですね」


乾いた笑い声が川辺に響き渡った。

重ねただけの手を見ながらひよりは寂しそうに笑っている。良心が痛んだが、それでも俺が手を握り返すことはなかった。


再びやってくる無言の時間。耳が痛いほどの静寂が俺たちを包んでいた。

二人でいるはずなのに一人でいるような感覚。近づいていた心が再び離れていくようだった。


でも俺とひよりは手を通して繋がっている。

小さくな鼓動が。手のあたたかさが。それらが確かな繋がりを示してくれていた。

心が離れていくなんて嘘だ。そう思っているならこの繋がりを今すぐ振り払えばいい。そうしないのは純粋に俺にひよりを想う気持ちがあるからだ。


想うと言ってもそれは恋ではない。

保護欲とでも言うのだろうか。それに似たようなものだ。

放っておけないから一緒にいる。ひよりが一人が寂しいと言うのなら側にいたい。頼ってくれるのなら期待に応えてあげたい。ただそれだけなのだから。

そして、そういう理由があるからこそ知りたいと思った。どうして俺なのか。俺じゃないといけないのか。


「さてさて、最初の質問に戻りましょうか。何故、修平さんなのか」


俺が訊ねる前にひよりがタイミングよく話を始める。


「特別な存在だからって結論から話してなかったか?」


「これからするのはその結論に至った過程の話です。気になってますよね? 修平さんの心がそう言っている。ひよりにはバレバレですよ?」


「……お前、本当にひよりなのか?」


笑顔の裏に隠された影を垣間見た気がして、俺はひよりにそう訊ねていた。

ひよりは笑顔を浮かべて俺を見ている。いつもと何一つ変わらない真っ直ぐな笑顔のはずなのに、胸のざわめきが静まることはなかった。


「ひよりはひよりですよ。修平さんの可愛い後輩の一人です」


「俺の周りの女の子はどうしてこうも自分に絶対の自信を持っていたり、よく分からないところがあるんだろうな?」


「女の子は常に努力しているからですよ。修平さんも乙女心を学べばきっと理解出来るはずです。女の子は常に一番の自分を見て欲しいと思っていますし、秘密があれば相手に興味を持たせることが出来るんです」


「小夏にもそれ言ってあげてくれないか?」


切実にそう思った。あいつが女の子らしくしている所なんて全く見たことがない。

休日は昼過ぎまでぐーたら寝てるし、起きたと思ったらソファーでぐーたら。風呂上がりは俺がいることお構い無しにバスタオル一枚の姿でリビングに現れるわで女の子らしいところなんて一つもない。


「まぁそんな話はどうでもいいんです。今は関係の無い話ですからね」


ひよりは再び俺の瞳を見据え、そして語り始める。

俺は何故かひよりの瞳から逃げることが出来なかった。縛り付けられているみたいに眉一つ動かせない。


「誰かと一緒にいてもひよりは一人。空白……とでも表現してみましょうか?」


「……空白、ね」


「寂しさは紛らわせても満たされないんです。誰もひよりの白い隙間を埋めることはできない。ひよりの周りは常に空白なんです。書き込むことは簡単なのに何も残らない――修正液をぶっかけたみたいに真っ白に戻ってしまいます」


どんな人とでも仲良くなることができる。

でもそれ以上の関係に進むことができない。

ならば俺は何なのか。考えるまでもなく答えはひよりが初めに言っていた。

俺が特別だから。そういう事なのだろう。


「――その通りです」


「……え?」


どくんと、心臓が跳ねた。

思い返せば不思議に思うところは今日だけで幾つもあった。

俺が何も言わずとも会話を繋げてくる。知りたいと思ったことをピンポイントで話してくる。ひょっとしてひよりは俺の心を読んでいるのではないか……?


雫となって胸に落ちた動揺が波紋のように広がる。

もし本当にひよりが俺の心を読んでいるのであればこの動揺も手に取るように伝わってしまっているに違いない。


……落ち着け、俺。

漫画やアニメの世界じゃないんだ。人の心を読めるなんて中ニ病の考えること。これは単に偶然が連続しているだけに違いない。


「俺はひよりの空白を埋められる。だから特別ってことなのか」


平然を振る舞ったつもりだったがほんの少しだけ声が上擦ってしまう。

隠しきれない動揺はやはりひよりにも伝わってしまったらしく、困ったようにひよりは頬を掻いていた。


「……やっぱり重すぎましたかね?」


その言葉は逆に俺の気持ちを軽くしてくれた。

……そうだよ。こういう話をしているのならある程度は相手の思考を読むことができる。ひよりは人よりその才能が飛び抜けているだけのこと。そうに違いない。


深呼吸を一つ。新鮮な空気を胸いっぱいに取り込み、不安や疑いを吐き出すことによってだいぶ落ち着きを取り戻せた。


「あはは……。ひより何言ってるんでしょうね。こんなの……全然ひよりらしくない」


「そうだな。普段のお前らしくない。まるで別人みたいだ」


「別人、ですか。そうですよね……。明るさだけが取り柄のひよりにこんなの――」


「でも――」


最後まで言い切る前に俺は言葉を遮った。

驚いたひよりは俺を見上げた。目尻に浮かんでいた涙が頬を伝って零れ落ちる。


「それでもひよりはひよりだ」


ひよりの頬を伝う涙を指先で拭いながら俺ははっきりと告げる。


「お前の良いところは明るくて元気なところ。けどだからってなんだ? 弱いところを見せちゃいけないのか? それは違うだろ。どんな形であれひよりはひより。強い部分も弱い部分も全部全部ひっくるめてお前なんだよ」


「修平さん……」


「俺はどんなひよりでも受け入れてやる。それにさ、俺が特別ってのは分かったけど、小夏や巡、椛に葵雪もいる。あいつらも馬鹿みたいにお人好しなんだ。必ずひよりの力になってくれるはずだぜ? 例え時間が掛かろうともな」


涙を拭った手でそのままひよりの頭をわしゃわしゃと撫でる。


「ふ、ふええ……」


「おいおい泣くなって。涙なんて似合わないぞ?」


「うるさいですよぉ……修平さんのバカぁ……」


「はいはい。俺はバカですよ」


「どうして……どうしてそんなに優しいんですかぁ……。修平さんがそんなんだからひよりは……ひよりはぁ……」


涙を耐えるひよりの頭をそっと自分の胸に押し当てる。


「うあ、あぁ……うぁぁぁ……!!」


そのせいで必死になって堪えていたものが崩壊したのだろう。ひよりは堰を切ったように泣き出した。


「ひよりは子供だな」


「修平さんだって、ひよりと……同じ、子ども、じゃあないですかぁ……」


「ははっ。そうだな。俺たちはまだまだ子供だ。大人なんて近くて遠い未来の話だ」


「未来……」


「……ひより?」


「あ……ごめんなさい、何でもないです。あの、もう少しの間だけでいいので胸を借りててもいいですか……?」


「? ああ、構わないぞ。こんな胸でよけりゃいつでも貸してやる」


「ありがとう……ございます」


それからしばらくの間ひよりは俺の胸で泣き続けた。ひよりがさっきの一瞬何を気にしたのかは分からなかったが、深く考える事でもないと思い記憶の片隅に追いやった。



「――修平くん」


ひよりと別れた帰り道。待ってましたと言わんばかりに帰路に佇んでいた巡は俺の名を呼んでやんわりと微笑んだ。


「女の子がこんな時間に一人で外出とは見過ごせないな」


「ひよりちゃんは良くて、私はダメなんだ? 女の子を泣かせるなんて修平くんも隅に置けないなぁ」


「……お前見てたのか? 葵雪の時といい、あまりいい趣味とは言えないな」


「褒めたって何も出ないよ?」


「褒めてねーよ。それで? 覗き見までして俺に何の用だ? まさかまた偶然見かけただけなんて言わないよな?」


葵雪の時のあの一件。後から椛に詳しく聞いてみたところ、巡に面白いものが見れるかもしれないよと言われて着いて行った結果、あの現場に居合わせたらしい。


巡は表情一つ変えずにじっと俺のことを見ている。

まるで人形のようだった。感情の無いガラス玉の瞳に吸い込まれるようで気分が落ち着かない。


「――修平くんに聞きたいことがあるんだ」


一体どれだけの時間見つめ合っていただろうか。人形だった巡が人間に戻る。心の呪縛から解放された安堵感から俺はゆったりと息を吐いた。






「――今、好きな人いる?」






落ち着く暇などなかった。

巡から紡がれた言葉は俺の思考をめちゃくちゃに掻き回す。


「いるならいると答えて、いないならいないって答えてくれればいいんだよ。それ以上のことは聞くつもりはないからね」


「……お前はそれを知ってどうしたいんだ」


俺の質問に巡は微笑を返した。

戸惑う俺の表情を楽しみ、それからゆっくりと口を動かす。


「それは修平くんの答えによるかな?」


カツンカツン――。

巡がこちらへ歩いてくる。靴が奏でる規則正しい音がやけに大きく聞こえる。

巡が一歩一歩足を進める度に俺の中の焦りが加速していく。


「さぁ答えて。今好きな人はいる?」


頭の中でいつものメンバーの顔がシャボン玉のように浮かんでくる。

みんな良い子だ。悪いところなんて一つもない。好きか嫌いかならみんな好きと答えてしまいたい。けどその解答は許されないだろう。巡が聞きたいのはそういう事ではないのだから。


「……いない」


シャボン玉は全部割れた。

今の俺には好きな人はいない。みんなの事は友達としては好きだが、今の俺の気持ちでは恋愛には発展しないと判断した。


「そっか。分かった、ありがとう、修平くん」


巡は身を翻して夜の闇の中へ溶けていく。

その姿が完全に闇と同化する前に俺は背中に向かって声を投げる。


「そういう巡はいるのかよ。好きな人」


「――いるよ」


間髪入れずに巡は答えた。


「ずっと、ずっと前から好きな人がいる。私はその人の為なら何だってできる。ううん、やらなきゃいけないんだ」


「……やるって、何をやるんだ」


「そんなの、決まってるよ――」


振り向く動作と共に巡の長い黒髪が踊る。

綺麗だった。夜空を舞うクロアゲハのように儚くも美しい。

振り返った巡はたった一言だけ、俺に告げるのだった。






「――改変だよ」






to be continued

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Life -刻の吹く丘にて- 心音 @rewrite2232

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