冬に桜を売る少女
五条ダン
冬に桜を売る少女
ネットカフェ難民となって六回目の冬を迎える。その日は競馬の帰りだった。
もっとも、帰りといっても、向かう先はネットカフェなのだが。
今日は運良く三万円ほど当てたので、俺は気分が良かった。
「あの……」
人気のない夕暮れの路地を歩いていると、不意に声をかけられた。
小学生くらいの女の子だった。
これはいけない。下手に目をあわすと警察に通報される。
近所で『不審な男が児童に声をかけられる事案が発生』などと騒がれるのがオチだ。
俺は少女に背中を向け立ち去ろうと
「待ってください」
時はすでに遅かった。
少女は俺の服の袖を掴んで離そうとはしない。
きっと明日には『不審な男が児童に服を掴まれる事案が発生』とニュースが流れるのだ。
「桜を買ってくれませんか」
少女が落ち着いた口調で言った。
桜? 何を言っているのだろう。今は十二月だぞ。
しかし、少女のもう片方の手には桜の木の枝が握られていた。
それも、立派な花をつけて。
「ほう、面白い」
俺は少女に興味を持った。
冬に桜の花を手に入れるなど、そこいらの子供にできる芸当ではない。
「どうやって手に入れたんだ」
「買ってくれたら教えます」
「ぐう……」
やはりそういう魂胆か。
たしかに桜の花が冬に見られるのは珍しいが、わざわざ買って水挿にするほど欲しい代物でもない。
どのみちこの寒さでは、一日も持たずに花は落ちてしまうだろう。
しかし、冬に桜を手に入れる方法は知りたい。
少女はつまり、桜ではなく情報を売るつもりなのだ。
「わかったよ。いくらだ?」
「三万円です」
こいつ、俺が一発当てたのを知っているのか。
だが、俺が競馬で手に入れた諭吉三枚にどれ程の価値があるだろう。
どうせ数日と待たずに消える金だ。
目の前の少女が手にした方が、ずっと有意義にこれを使ってくれるのはたしかだ。
「しゃーねえな、くれてやるよ」
「ありがとうございます」
こうして俺は、少女の桜を三万円で購入した。
「じゃあ、教えてもらおうか。どうやってこれを手に入れたんだ」
「ふふ、どうやったと思います?」
少女はそう言って無邪気に笑った。
こいつ、俺をからかっているのか。しかし暇なので、付き合ってやらないこともなかった。
「別に珍しくもねえよ。冷え込んだあとに、また少し暖かくなったら勘違いして冬に開花する桜もひとつやふたつあるだろうに。最近は温暖化でそういうのが増えているんだろう?」
格好付けて幼い少女に難しいことを言ってしまった俺はちっとも格好良くなかったが、少女もまた大人びた様子で話すのだ。
「そうですね。私がいた頃は、雪が積もっていましたから。ここも随分と気候が狂ったものです」
それは明らかに、小学生の女の子が言うような台詞ではなかった。
「お前は、誰だ?」
「ふふ、私、タイムトラベラーなんですよ」
なあんだ、それなら話は簡単だ。
彼女は桜を少し未来から持ってきたのだ。
どうせ二十二世紀からタイムマシンか何かに乗ってやってきた未来人なんだろ。
「そうか、それはいい話だ。そんなら、明日騰がる株を教えてくれよ」
言ったあと、自分の証券口座はとっくに解約されていたことを思い出し、急に虚しくなった。
「それはできません。私は、未来から過去へは行けないのです」
「ん、それならこの桜は……」
「はい、それは六年前の春から持ってきたものです」
「……六年前」
少女は、一方通行のタイムトラベラーなのだった。
過去から未来へ時間を跳躍できる代わりに、二度と過去へは戻れない。
それならば彼女は一体何のために、孤独な時間旅行をしているのだろうか。
六年前といえば、俺がまだ希望ある若者だった頃だ。
当時、二〇〇六年は起業ブームで、俺も友人と共に事業を起こした。
まったく馬鹿な話だ。
会社法が改正され、資本金が一円から株式会社が設立できると知り、それなら俺たちもと浮き足立っていた六年前の春。
子供じみた事業計画を元に俺らは一攫千金を夢見た。
目標は、株式上場だった。
わずか百万円の資本金で始めた事業はすぐに破綻し、連帯保証人になっていた俺は借金に追われた。
自己破産を申請し派遣社員として再スタートを切ったものの、二〇〇八年にリーマンショックが社会を襲い、末端で働いていた俺はすぐに首を切られた。
そして今では、ネットカフェ難民として当てもなく暮らす毎日だ。
水仕事で手の皮はぼろぼろになっていたし、何日も買い換えてない下着からは悪臭が放っている。
それでも生き続けているのは、かつての高い志を持っていた頃の俺がそれなりに愛おしかったからでもあった。
「なあ、お前はなんで未来へ行くんだ? 未来に希望なんてないぞ」
「はい、そのとおりです。人間は、希望を過去に遺していきますから」
「答えになってないが……」
「つまり私は、過去の希望を、未来に届ける仕事をしているのです」
「なるほど」
少女から買った桜を見てみる。
なるほどたしかに、これは希望なのかもしれない。
木の枝から花びらが、はらりと落ちた。
「じつは、六年前のあなたから、お届けものがあるのです」
「え」
「憶えていませんか。六年前の春、あなたは私に会っているのです。あなたは、未来の自分に渡して欲しいものがあると言って、私にこれを預けたのです」
少女は、ポケットから封筒を取り出して、俺に手渡した。
ふん、まったく記憶にないが、俺のことだ。どうせ『未来の俺へ、将来は東証1部上場企業のCEOかな。まあうまくやっていることを祈るよ』とか嫌味なことを書いたに違いない。
封筒の中身はしかし、手紙ではなかった。
「こ、これは……」
それは、一枚の株券だった。今では株式はすべて電子化されてお目にかかれないのだが、六年前にはまだ形として残っていたのだ。
《株式会社 夢見桜》株券 壱〇〇株也
俺の作った、会社の株券だった――。
「あははははは、こんなんただの紙切れだよ。何が希望だ。何が未来だ。こんなもの、こんなもの」
しかし俺は、それを捨てることができなかった。
「なあ、頼みがあるんだが」
「なんでしょうか」
「こいつは、今の俺には受け取れないんだ。五年後の俺に、渡してやってくれないかな」
「構いませんが、いいのですか。今のあなたには、希望が必要なんでしょう?」
「ああ、もう十分だ。もし五年後も俺が生きていられるのだとしたら、そのこと自体が希望だよ」
株券を封筒に戻し、少女に返した。
「そうですか。ではせめて、利息をお支払いしましょう」
「利息?」
「はい。目を閉じていただけませんか」
言われるままに、目を閉じる。
「ちゅっ」
頬に暖かい感触、それは少女の口付けだった。
大変な事態だ。『不審な男が児童にキスされる事案が発生』俺は終身刑に処せられるであろう。
「お、おい!」
目を開けたときにはもう、少女の姿はなかった。
少女から貰った桜の枝に花はなく、ただの木の棒と大差ない。
俺は、夢でも見ていたのだろうか。
空を見上げると、薄桃色の花びらが冬の空を舞い、どこか遠くへと飛んでいった。
希望、か――。
希望など、ないのかもしれない。
それでも俺は、五年後にまた少女に会うために、生きていようと決めたのであった。
(了)
冬に桜を売る少女 五条ダン @tokimaki
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