ナメクジ少女

五条ダン

ナメクジ少女

「ナメクジってかわいいよね」

 少女は、風呂場に横たわる直径二メートルのナメクジを指でつんつん突きながら言った。


 そうだな、彼女の言うとおり、可愛いか可愛くないかで問われると、可愛い部類に入るのかもしれない。ナメクジを模したゆるきゃらが大ヒットしたとしても、おかしくはない世の中だ。


 少女は、突っつくのには飽きたらしく、今度はふよふよとしたナメクジの背中に飛び乗ってトランポリンのようにジャンプを始めた。楽しそうで何よりである。


「でもさ、ナメクジって名前で損してるよね」

 飛び跳ねながら少女は言う。幸いなことに、浴場の天井は十メートルほどと高く、彼女が頭をぶつけることはない。


「名前?」

 僕は聞き返す。ちなみに僕は、もう一匹のナメクジソファにゆったりと腰掛けて少女を観賞していた。


「うん。ほら、ダンゴムシって可愛いじゃない? デンデンムシも大人気じゃない? それに引き換え、ナメクジだよー、絶対名前で損してるよ」


 彼女の言う可愛いの基準は分からなかったが、ナメクジが嫌われる要因のひとつに名前が関係しているのは、分からなくもなかった。例えばもし、ナメクジがナメピーとかだったら、人気が出ていたかもしれない。


 そんな他愛もない話をして、少女と僕は十数匹の巨大ナメクジたちと戯れていた。正直、悪い気分ではなかった。しばらくすると、洗面台の壁に設置されていた電話のベルが鳴った。

 やれやれとナメクジソファから起き上がり、受話器を取る。


『お時間でございます。お楽しみいただけたでしょうか』

 機械的な音声が流れる。


「ええ、とても。売れると思いますよ、これは」

 一応、リップサービスをしておく。


『ありがとうございます。お喜びいただけて、大変嬉しく思います』

 相変わらずの棒読みである。しかしそれが彼(彼女?)らの感情表現なのだと思われる。


 こうして僕はナメクジ喫茶(銭湯付)を後にしたわけだが、先ほどの少女がひょこひょことついてきた。少女とは、知り合いではない。たまたまナメクジ喫茶で出会った赤の他人同士だ。まだオープンしたてのせいか、ナメクジ喫茶の客入りは悪く、そのため僕と少女の二人きりで貸切状態になってしまっていたのだ。


「どうした?」

 僕のそばから離れない少女に問う。


「んー、いやー、あなたのことが気になるなって」

 少女は言った。

 黒髪ショート。服装は白のブラウスに空色のロングスカート。年齢は、女子高生だとすると僕の社会的地位が危うくなるので、女子大生と仮定しておく。


「僕もある意味、君のことがとても気になるよ」


「わたしはただの少女Aだよ」


「それでも構わないが、名前が欲しいな」

 まるで口説き文句みたいだなと言ってから気づく。


「じゃあねー、……マイマイって呼んでほしいな」

 マイマイがなぜか顔を赤らめて言う。


「わかったよ、マイ」


「えーっ、マイマイがいいよー」


 彼女は駄々をこねたが、僕は知らんふりをする。

 マイマイなどと呼び合うのはバカップルのやることだ。


 大阪、新世界にナメクジ喫茶がオープンしたのは、三日前のことだった。ナメクジ喫茶はフランチャイズ式のチェーン店で、東京秋葉原にあるナメクジ喫茶本店のほうは、大繁盛しているらしい。『ナメクジ萌え~』という言葉が東京地方では流行っているという。


 ナメクジ喫茶は、地球に突如として現れたスラブ星人が経営している。彼(彼女?)らは、『ナメクジは我々の同胞である。ナメクジと人類は仲良く共生すべきである』と言って、ナメクジを巨大化させ、ナメクジ喫茶をオープンさせたのだ。スラブ星人にもナメクジにも人に対する害意はないらしく、今のところうまくやっていると思う。


 宇宙人と巨大ナメクジを規制する法律は存在せず、警察は手をこまねいている。国会では、ナメクジ法制定に関する法制審議会が、ナメクジのようにゆっくりとしたペースで進められていた。


「あのナメクジたちってさー、なにを食べるのかな」


「さあ、それが一番の問題だろうね」


 ナメクジが害虫たる所以は、その外観の気持ち悪さだけでなく、園芸植物や農作物を彼らが食い荒らす点にあった。また、彼らは寄生虫や病原菌の運び手にもなる。あの巨大ナメクジが、キャベツやらカボチャやらを丸呑みする様は、できれば想像したくなかった。


「いざとなったら塩をかければいいんだよねー」

 マイは無邪気に言う。

 ナメクジ駆除といえば、今や農薬の方が主流で、つい最近も新しい農薬が開発されたところだった。




 少女、マイマイを連れて会社に戻ると、高崎編集長から今日はもう帰りなさいと言われた。


「え、しかし、ナメクジ喫茶のレビュー記事をこれから仕上げないと……」


「それどころじゃないんだよ」

 高崎編集長は、君は知らなかったのかね、と言ってテレビを指差す。


 ニュース速報番組だった。今から十五時間後に、地球に隕石が衝突し、人類は滅びるのだそうだ。チャンネルを変えると、『最後のときを大切に。家族の〈絆〉を確かめよう』といったテロップで安っぽいホームドラマが展開されていた。カウントダウンされる隕石衝突。『おかあさん、おとうさん、いままでありがとう』子役が涙を流す。抱きしめ合う家族。


 僕は溜息をついた。

「またですか。どうせ今回も落ちませんよ」


 隕石が地球に大接近するイベントは、およそ三ヶ月に一回の間隔で行われていた。その度に、人類滅亡のニュースが流れるのだが、今までに一度も隕石が落ちたことはなかった。衝突を予測していた科学者たちは、おかしいと言って首を傾げる。隕石の軌道が、地球に近づいたときに急に変わるのだそうだ。

 オオカミ少年みたいなケースが続き、隕石墜落のニュースは今では、国民の休日を知らせる予報となってしまっていた。


「そういうわけだから、今日は休みだ。ナメクジの件は明日でいいよ」

 高崎編集長はそう言うと、身支度を済まして出て行った。他の社員もみな帰宅したらしい。

 会社には僕とマイだけが取り残された。


「へえ、ナメ君は編集者さんだったんだ」

 マイは興味津々でデスクを探っていた。


「僕はそんなナメクジみたいな名前じゃない。それに、ただのフリーライターだよ」


「かっこいいじゃん。フリーライター」

 マイは目を輝かせて僕を見た。


 フリーライターは、決して自由な職業ではない。記事を採用してもらうためには、書きたくないことも書くし、ナメクジ喫茶に足を運びもする。ライターとして生き残るために、書くことに拒否権は与えられないのだ。


「マイは、いいのか。家に帰らなくて」


「わたしには、家も家族もないんだよ」


「……そうか」


 特段、珍しいことでもないし、同情することでもない。今や日本中に、マイと同じ境遇の若者はいるからだ。職を失った彼らはホームレスになるかネットカフェ難民になるかの二択を迫られる。

 マイの場合は後者で、日雇いバイトをしながらネットカフェで夜を明かす少女であるとのことだった。


「どうだ。ナメクジ喫茶の住み心地は」


「いいと思うよー。横になって寝られる場所なんて貴重だよー。あのナメクジベッドはきもちいいし」


「たしかにな」


 銭湯付、ベッド(ナメクジ)付で一時間二百円のナメクジ喫茶は、家を持たない者らの貴重な住処となるだろう。東京のナメクジ喫茶が繁盛したのにも、そういった背景がある。もちろんそんなことは、記事には書けない。



 そのあと、僕とマイは、当てもなく天王寺をぶらぶらと歩いていた。

 なお、僕の名前はナメ君になった模様。


「あれ見て!」

 マイは空の一点を指差す。


 隕石だろうか。

 白い光が、飛行機雲のようなものを伴って近づいてくる。といってもスピードはゆっくりで、隕石が落ちるのは明日になるだろう。


 夕方になっても、隕石のおかげで外は明るかった。


 帰る家のない者たちは皆、道に佇み、落ちる隕石を眺めていた。

 ふいに誰かが、「落ちろ! 落ちろ!」と声をあげた。

 やがてその場にいた者たちも賛同したのか「落ちろ! 落ちろ!」と叫びはじめる。天王寺駅周辺はちょっとした騒ぎになった。


「こんな世界、潰れてしまえ!!」「はやく俺たちを殺せ!!」

 若者、老人、中年、ルーザーズ(負け組)である誰もが隕石に向かって恨み言を叫ぶ。おそらく東京ではもっと大きな騒動が起こっているに違いないと思った。人々は社会に絶望していた。


 そばにいたマイも、そんな彼らに混じり「落ちろ! 落ちろ!」と声を張り上げた。

 僕は苦い心境で、彼らを傍観していた。


「ナメ君もいっしょにやろうよ。ストレス発散になるよ?」

 マイが言った。


「そうだな……。僕はもう少し、隕石には待っていて欲しいな」


「どうして?」

 その瞳には、非難の色があった。


「書きかけの小説があるんだよ。完成させて、誰かに読んでもらうまでは、できれば死にたくない」


「ふーん、今から書けばいいじゃん。わたしが読者になるよ」

 マイの言葉に僕は、はっとさせられた。


 そうだ、僕は何をやっていたんだ。金のために書きたくもない記事を書いて、フリーライターという肩書きに満足をして、僕は大馬鹿者だった。

 人類最後の日に、本当にやりたかったこと、それは物語を書くことだった。


「ありがとう、マイ」

 彼女の両肩に手を置き、大げさに言ってみせると、彼女は微笑んで「うん」と返した。


 僕は公園のベンチに腰掛けると、鞄からノートパソコンを取り出し、小説を書き始める。

 ジャンルは長編ファンタジー。いつか文学賞に応募しようと、書き溜めていたものだった。

 現在、六万文字まで書いてある。プロット通りなら、あと必要なのは四万文字。

 地球滅亡まであと十四時間。マイが原稿を読む二時間を差し引いて、〆切は十二時間後。時速三千五百文字で書けば、ぎりぎり間に合う。


 僕は周囲の喧騒のなか、一心不乱にキーボードをタイプし続けた。


 どうせ今回も、謎の軌道転換が起こり、隕石は落ちないだろう。どうせいつもどおりに、明日がやってくるだろう。どうせ社会はなにも変わらないだろう。

 僕を――、僕らを駄目にしてしまったのは、そんな「どうせ」という諦めだったのだ。隕石は、それを気づかせてくれた。


 午後七時、あたりは少し薄暗くなるも、頭上の隕石は輝きを増して大きくなっていた。僕は手を止めない。公園の街灯が、僕を照らしていた。


 マイは群集に混じり、まだ「落ちろ!」のシュプレヒコールを続けていた。それが彼女ら救いのない者たちの、唯一の生き方なのだ。


 隕石衝突まであと十二時間、〆切まで十時間。六万五千文字。まずい、ペースを上げなくては。


 午後九時、日本、いや、世界中はパニックに覆われた。パトカー、救急車のサイレン、人々の悲鳴が聞こえる。

 隕石の軌道の変わる気配のないことをラジオ局のニュースキャスターは伝えていた。

『緊急速報です。たった今、スラブ星人からの犯行声明が届きました。それによりますと、えー、これまでの隕石の大接近はすべてスラブ星人の仕業であり、隕石を落として人類に報復するとのことです。今日に至るまで、害虫としてナメクジを迫害してきた人間に恨みを晴らすのだと、スラブ星人は主張しています』


 ラジオのニュースに内心動揺しながらも原稿を書き進めていると、マイが戻ってきた。

 彼女は嬉しそうに「大変なことになったね」と言った。


「原稿の調子はどう?」


「手首が痛いよ。でも慣れたかな」

 僕は笑った。

 物語を紡ぐ指先はもはや自動化されて、思考よりも速いスピードで文字を生成していた。


「それよりマイ、頼みがあるんだが」


「ビールなら買ってきたよ」

 マイは冷えた缶ビールを僕の頬に押し付けた。今ならコンビニで取り放題なのだという。そりゃそうだろう。誰が人類最後の日にコンビニバイトをするのだ。


「気が利くじゃないか……って、そうじゃない。さっきのナメクジ喫茶を調査してきてほしいんだ」


「え……」

 彼女は不安そうに僕を見る。


「ニュースで言っていることは嘘だよ。スラブ星人が、隕石を落として、同胞であるナメクジまでをも皆殺しにするとは思えない。むしろ、彼らは隕石から地球を守っていたんじゃないのかな」


「うん、わかった」

 マイは、疑問を差し挟むことも、拒否することもせず、僕にさよならを告げて行ってしまった。そのあとの彼女のことは知らない。

 僕はひたすら、原稿を書き続けた。



***** *****



 ナメ君に言われて、わたしはナメクジ喫茶に行ってみた。

 天王寺駅から新世界へは、歩いて三十分とかからない。喫茶店の周囲には、黄色いテープが張り巡らされていて、窓ガラスはすべて割られていた。

 ナメクジ喫茶のまわりには人だかりができていて、警官と群集がおしくらまんじゅうをしていた。それ以上は近づけそうもなかった。


 調査しろとは言われたものの、どうしたらよいのかわからず、わたしは人気の無い路地裏に入り込みしゃがみこんだ。光の届かない路地裏は暗くて狭くてじめじめとしていて、ナメクジみたいなわたしにはお似合いの場所だなと思った。


 世界なんて、滅びてしまえばいいのに。


 粘土みたいな土をいじくりまわしてぼーっとしていたら、土の中から一匹のふつうのナメクジが這い出てきた。もちろんふつうのナメクジとは、直径二メートルではなく二センチくらいの大きさのナメクジだ。


「ナメクジさんこんにちは」と挨拶すると、ナメクジはわたしを見上げて、ぺこりと頭をさげた。


「ナメクジさんは、いままで地球を守ってくれていたんだよね」


 わたしが言うと、ナメクジはぺこりぺこりと二回頷いた。


 ナメ君の推測は当たっていたようだった。ナメクジはいままで不思議な力で、隕石を遠ざけてきたのだ。もちろん、人間のためなんかじゃない。地球に住む同胞を守るためだ。ナメクジにとっては、人間の方が侵略者のようなものだ。ナメクジよりもずっと醜く、自然を破壊し続けてきた人間の方が――。


「わたしねー、将来は生物学者になりたかったんだー。馬鹿だから大学に行けなかったけど。今こうして、ナメクジさんとお話できるなんて、夢みたい」


 ナメクジ相手に自分語りしているわたしに笑ってしまう。本当に、どうしてこうなったのだろう。子どもの頃は、夢だけを見ていればよかった、のに。


「ねえ、どうして今回は、ナメクジさんは地球を救ってくれないの?」


 すると、ナメクジは触覚をくるくると回しながら。近づいてきた。

 わたしはナメクジを指でつまんで、手のひらに乗っけた。ナメクジはじっとこちらの顔を見て(ナメクジに目があるのかは知らないけれど)触角をくるくると回し続ける。

 しばらくすると、頭の中に声が聞こえてきた。テレパシーのようだ。


『今回、わたくしたちが隕石の軌道を変えなかったのは、種の保存のためでございます』


「種の保存?」


『はい。近年、人類が開発した農薬は、わたくしたちナメクジの種族を百パーセント絶滅に追いやることが、研究の結果、判明いたしました。そこで種の生存のため、わたくしたちは苦渋の覚悟で、今回の隕石を静観することに決定した次第です』

 なるほど、ナメクジにはナメクジの政治的事情があるのだろう。

 彼らも生きるのに必死なんだなと思った。


「でも、隕石が落ちたら、ナメクジさんも死んじゃうんだよ?」


『はい。心苦しい限りでございますが、多くの同胞を失うこととなりましょう。しかし、わたくしたちは元々、スラブ星より飛来した生命体でございます。ここ数億年はスラブ星との連絡が途絶えていたのですが、つい先日、スラブ星人がマイクロ宇宙艇でわたくしたちの元を訪れ、わたくしたちの種族の一部をスラブ星にて保護すると伝令しました。つまり、人類が絶滅し、数千年が経ったのち、わたくしたちナメクジ種は再び地球を訪れ、繁栄することが可能となるのでございます』


「ふーん、それなら仕方ないか」

 スケールが大きすぎて、実感が湧かない。

 ナメクジは『恐縮です』と言ったきり、黙り込んでしまった。


 見上げると、空が明るい。隕石がすぐ近くなのだ。

 それはナメクジのようにゆっくりと接近してきて、人々を絶望に追い詰めるだろう。


「ところでさ、ナメクジ喫茶なんて、どうしてやっていたの。ナメクジと人類の共生なんて、無理だってわかってるのに」


 質問すると、手のひらのうえのナメクジは、体を小刻みに震わせた。

 わたしにはそれが、くっくっくと笑っているように見えた。


『わたくしたちは、本当のことを申しますと、あなたのような人間を好いていました。ゆえに、最後の思い出作りがしたかったのですよ』


「なあんだ、そうだったんだ」

 彼らも可愛いところがあるではないか。わたしは思わず笑ってしまった。


 ナメクジはぴょーんとジャンプして手のひらから飛び降りると、一瞬にして路地裏を覆うくらいに大きく膨らんだ。それはナメクジ喫茶で見たジャンボナメクジと同じだった。

 もしかしたら、このナメクジは、ナメクジ喫茶から逃げ出してきたスーパーナメクジなのかもしれない。


『これも最後の記念です。わたくしのうえで、お休みになられてください』


「ありがと」


 彼(彼女?)の言葉に甘えて、わたしはナメクジに飛び乗った。

 ナメクジベッドは、すべすべしていて気持ちがよかった。疲れた体を癒すように、ナメクジベッドはわたしを優しく受け止め、母に抱かれる赤子のように、わたしは眠りに落ちていった。


 もう、明日は目を覚まさなくてもいいんだ。すごく、安心した。



 ゆらゆらと揺れる。

 夢を追いかけていた頃のわたし。お昼はバイトをして、夜はネットカフェで参考書を読んで、大学に行くために勉強をして、お金も貯めた。でもあの親父は、わたしの銀行口座からお金を盗って、姿をくらませてしまった。母は証券取引で貯金を溶かし、多額の借金を残したまま首を吊った。


 この世界に神様なんていないと気がついたとき、わたしはもう、どうでもよくなってしまった。


 夢も、希望も、この世界にはなかったんだ。


 大学を諦めたわたしは、ネットカフェを転々とし、生きるために生きるだけの毎日を過ごした。


 わたしの人生は、なんだったのだろう。



 ふと、真っ暗な世界に、灯りがついた。

 灯りの下には、男が座っている。男はノートパソコンを広げ、ピアニストのように指を躍らせていた。

 なぜだろう、モニターを見つめる彼の瞳には、希望が満ちていた。


 ――約束――


 そうだ!! ナメ君との約束!!



***** *****



 僕は、ページの最後に『完』の一文字を入れた。ついに、小説は完成したのだ。


 手は痙攣して、もはや使い物になりそうになかった。

 人類は、絶滅する気になればなんでもできるのだなと思った。


 午前五時、人類滅亡まであと二時間。街から喧騒は消え、人々は静かに終わりのときを待っていた。

 空が、冗談のように白く光輝いている。


「おまたせー」

 声が聞こえた。

 マイが帰ってきたのだ。


 彼女が生きていたことに、僕はほっとした。

 もっとも、これから全人類は死ぬわけだが。


「やあ、待ったよ」

 僕は答えた。長時間の執筆のせいか、声がしわがれてうまくしゃべれなかった。


「あの、ごめん。ナメクジさんと話したけど、人間はもうダメだって」


「そうか、なら仕方が無いな」

 僕は、マイがナメクジと交渉をして、人類を滅亡から救う可能性に少しは懸けていた。

 しかし、世の中はご都合主義的には動かないようだ。


「もう、時間がない。原稿を……読んでもらえるかな」


「うん」


 マイはとなりに座ると、ノートパソコンを受け取って、徹夜で書いた僕の小説を読み始めた。


 人間は、死を迎えるそのときまで物語を紡ぎ、読み続けるのだろう。

 僕はこの瞬間、この一時のために、生きてきたのかもしれない。


 幸せだと、心の底からそう思えた。


 人は、何のために小説を書くのだろう。

 人は、何のために小説を読むのだろう。


 生きるという喜びも、悲しみも、物語はすべてを抱擁し、人々に伝え、受け継ぐ。


 人類の生存本能が小説という産物を作り出したのだとすれば、それは素晴らしいことだ。



 耳を澄ますと、誰かが歌をうたっているのが聞こえた。ピアノの音色も聞こえるではないか。



 午前七時十七分、僕たちは、隕石の光に呑み込まれた。



 マイは、僕をぎゅっとハグすると、耳元で言った。


「ナメ君の小説、面白かったよ。でもちょっとオチが弱かったかな」


「ははは、また頑張るよ。ありがとう」


 

 そうだ、次は無いのだった。


 光のなかで、僕たちは希望を抱き、夢を語り合った。


 そして――、




 ――光と共に、人類は絶滅した――





 (完)

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ナメクジ少女 五条ダン @tokimaki

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