エピローグ

エピローグ


 キンと冷えた空気が気持ち良くて、ゆっくり大きく息を吸い込んだ。降り注ぐ太陽の光が肌を包む。さっきまでディーゼル音を立て、餌を漁る草食恐竜のようにのったりと動いていたシャベルカーが、役目を終え、校庭の隅で停止していた。

 優斗は校門に立つガードマンに声をかけ、校庭に入った。広場に穿たれた穴の周囲に、ヘルメットをかぶった作業員が数人。プラスチックケースに収まったタイムカプセルを恭しく取り出していた。

 土木作業員と話す父をみつけた。既にかなりの量のタイムカプセルが掘り出されていて、フェンス沿いにケースが積み上げられていた。

 年末に予定されていたタイムカプセル発掘のイベントは、あの事件の影響を受けて中止となった。優斗が在籍していた卒業年度のタイムカプセルは一度警察の手により全て掘り返され、中身を確認した後、また同じように埋め戻されていた。

 発掘イベントを延期する手もあったのだろうが、やっぱり事件が事件だけに、結局関係者だけで掘り出し、希望者は後日受け取りに来る方法に変更されていた。 

 発掘作業の指示をしているのは父だった。もともと事件の前から、タイムカプセルの納入業者だった父に依頼が来ていたらしい。

「大村さん。これで全部や」

 作業員の一人が父の名前を呼んでいる。父はバインダーに閉じた書類をチェックし、「あぁ、ごくろうさん」と返していた。父は肩にタオルをかけ、珍しく下駄ではなく安全靴を履いていた。

「先生! 全部体育館に運び込めばよかったっけ?」

 父が学校関係者に呼び掛け、駆け寄ってきた男が作業員に指示を始めた。

 優斗に気付いた父が手を上げた。優斗も手を上げ返す。作業員に一言二言指示を与えると、役目は終わったといわんばかりに、父はその場を離れ校庭の隅に設置された現場事務所に歩いていく。

 あの日から半年が経過していた。あの日というのは、沢木理香が川上幸子だとわかった日のことで、彼女の兄と三人で小学校の校庭にタイムカプセルを掘り出しに行き、同じ目的で現れた暴力団とカーチェイスをした日であり、そして沢木理香ではなく、川上幸子と付き合うことになった日である。

 理香は川上幸子と名前を戻して――といっても以前から彼女は川上幸子であって、つまり通称を戻したという意味だけど、あの邸宅で兄と二人で暮らしている。

 幸子の兄、川上秀和は今年の三月で警察を辞めた。理由は話してくれないけど、辞めざるを得ない理由があるとのことだった。

 辞めてからは毎日ぶらぶらしているけど、この前『Water Planet』を覗きに来たときには、もう一度大学にでも行ってみようかなぁと言っていた。類まれなる頭脳と、金銭的に余裕があるとは幸せな事だ。

「優斗」

 父が近づいてきた。肩にリュックサックをかけ、手に缶コーヒーを二つ持っていた。父はにたりと笑い、缶コーヒーを一つ、上から振りかぶって投げた。

「わっ」

 まるでラグビーボールのように回転しながら飛んできた缶コーヒーをどうにか受け止める。缶の熱さに、「あちっ!」と声をあげて取り落としそうになった。

「ナイスキャッチ!」

「投げないでよ」

 なははと笑って、優斗の傍らまで来ると、リュックサックを地面に降ろし、缶コーヒーのプルトップを押し上げ、一口煽った。

「差し入れ持ってきたのに」

 優斗は下げてきたビニール袋を示した。コンビニで缶ジュースを仕入れてきたのだ。

「おー、悪いな。みんなで飲むよ」

 父はビニール袋を受け取った。

「さっちゃんはどうした」

 と川上幸子のことを馴れ馴れしく呼ぶ。

「今日は仕事だよ」

「なんだ。残念だな。休めばいいのに」

「就職したてだからね」

 会いたかったのにと父は言った。お前の就職はどうなっているんだと質問しないところが父のいいところなのかもしれない。

 彼女はさっさと仕事を決めてしまった。臨時募集をしていたアパレルメーカーの面接に行き一発採用。大通りに面したガラス張りの店で販売員をしている。二度ほど優斗も顔を出したけど、颯爽と着こなすスーツ姿が板についていて、惚れ直してしまった。

 優斗は相変わらず『Water Planet』で働いている。

 大阪に初雪が降り始めた頃、急遽思い立って就職活動を始めたけど、残念ながら採用通知を受け取る事ができなかった。

 面接を受けたのは三社。第一志望は出版社だった。世界水景コンテストの協賛もしているし、アクアリウム関連の月刊誌も出版している。採用されれば東京勤務になることが予想されたけど、大阪には固執していないし、理香も、いや幸子もその時は東京での就職も考えていたから、二人して上京できればいいなと思っていた。

 しかし大学卒業後、アルバイトで食いつないでいたフリーターに世間の目は厳しく、あえなく落選。後の二社は関西でペットショップを経営している中堅企業だったけど、こちらも不採用。

 店長はいつまでもこの店にいてくれていいと言ってくれているけど、また今年も就職活動をするつもりだ。

 優斗も父と並んで缶コーヒーを飲んだ。温かく甘ったるい味が喉を流れていく。一口飲んでほっと息を吐きだした。

 そう、父の事を語らなければならない。

 父も警察の事情聴取を受けた。事件の夜、張真組と一緒に学校の敷地に不法侵入していたわけだし、十二年前のタイムカプセルへの麻薬隠蔽に関与していたのではないかと疑われたのだろう。実際の所、父は関与していた。本人が言うのだから間違いない。

 十二年前、当時の張真組の組長から電話がかかってきて、タイムカプセルを二つ持ってきて欲しいと頼まれたのだそうだ。

 どうして暴力団の組長が父の連絡先を知っていたのかと尋ねたら、そりゃご近所さんだから連絡先ぐらい知っているだろうと、答えになっていない言い訳を父はしれっと口にした。

 組長から連絡のあった翌日、父は組長の自宅にタイムカプセルを二本届けた。少しの間待たされた後、封印されたタイムカプセルを渡され、学校の卒業記念のときに、ほかのタイムカプセルと一緒に埋めてほしいとの依頼を受けた。もちろんそれなりの報酬はあったらしい。

 怪しいと思った父は、タイムカプセルは指示通りに埋めたが、埋めた場所を偽って組長に報告した。そうすれば掘り返す時に必ず父に連絡があると思ったのだそうだ。思惑は的中。父の目論見通り張真組から連絡があった。

 今回の事件で、父も何らかの処分を受けるだろうと半ば覚悟していたけど、結局事情聴取を受けただけで、何のお咎めもなかった。

 川上さんの言うところでは、「警察も過去の失態には蓋をしたいからね。どうしても追及は緩くなる」とのことだ。そして、「私も事情聴取に同席したが、君のお父さんはなかなか立派な変人だね」と評していた。変人に認められた変人なのだから、父は変人の中の変人だ。

「ねぇ。父さん」

「なんだ」

 父は缶コーヒーを飲みほし、煙草をくわえていた。

「僕たちがタイムカプセルを持ち出さなければどうしてたの。中身が麻薬だとわかったら通報していた?」

「そのつもりだった。それなのにお前たちが横取りしたからな。ヒーローになり損ねたんだ」

「だったら」

 と言って優斗は唇を舐めた。父の横顔に視線を送る。煙草をくわえたまま父は優斗と視線を合わせた。子供の頃、優斗の心身をがんじがらめにした父の目線を、今は少しの緊張を伴うだけで受け止めることができた。それでも優斗は、一つ唾を飲み込み、「十二年前、中身が何かわからなくても、怪しいと思ったんだったら、すぐに警察に通報すべきだったんじゃないの」と尋ねた。

 父さんだって逃げることがあるじゃないかと問いただしたつもりだった。

 父は眉をしかめ、頭をゆっくりと振ってため息をついた。そして、

「逃げなければならない時もある。自分の力を過信して何でもかんでも立ち向かっていく奴は、ただのバカだ」

 と言ってのけた。

「え?」

 目を見開いて父の顔を見た。

「あの頃の張真組は絶大な力を持っていたからな。あそこで逆らえばコンクリート詰めで淀川に放り込まれて、知らぬ間に太平洋だったな」

 父は空を仰ぎ見て、太陽が目に入ったらしく盛大にくしゃみをした。煙草がぽとりと落ちて、鼻水がちょっと出て、それを啜って、優斗と視線を合わせると無邪気に笑って見せた。

「逃げなければならない時もある……」

 予想外の答えだった。だから意味を理解するために、繰り返していた。

「そうなの? 逃げてもいいの?」

 優斗の問いかけに、父は驚いた表情を浮かべ、「そりゃそうだろう。猪突猛進はイノシシだけに任せておけばいい」と言った。

 優斗の肩からストンと力が抜けた。もっと昔に尋ねていればよかったと思った。そうすれば、これだけ長い間、父の言葉にうなされることもなかっただろうし、父のことをもう少し理解することができたのかもしれない。まぁ結局、優斗が強い父を恐れ、問いただす勇気がなくて、逃げていただけなのだ。

 父は落ちた煙草を拾い上げると、また口にくわえた。そして、「静かだな」と言った。

 土曜日だというのに、学校を取り囲む住宅街は静かなものだった。フェンスの向こうの道路を、自転車のかごに買い物袋を乗せた主婦が、一人通り過ぎていく。東山小学校の校舎の回りには波打った銀色の仮囲いが張り巡らされている。もうすぐ撤去工事が始まるのだ。学校がなくなり、住宅地にでもなれば、またこの街にも活気が戻ってくるのかもしれない。

「あのマンションか?」

 父が道路向こうのマンションを指差した。赤レンガ貼りの、十階建てのマンション。優斗たち卒業生が、タイムカプセルを校庭に埋めた前日に青年が自殺した場所だった。

「うん」

 自殺した青年が所持していた麻薬と、タイムカプセルに隠されていた麻薬が同じものだと判明した。十二年もの間小学校の校庭に末端価格で数億円の麻薬が埋まっていたという事実は、マスコミの興味をそそるのに十分な内容だった。

 マスコミはこぞって、『青年は果たして自殺だったのか。』『警察の捜査は適正だったのか。』と騒ぎ立てたが、結局、記者会見を開いた警察が、当時の捜査に落ち度はなく、青年が自殺であったことは間違いないと明言したことで、騒ぎは少しずつ沈静化していった。

 川上秀和は、この発表に珍しく怒っていたから、警察を辞めた理由はその辺りにあったのかもしれない。

 優斗の家で幸子と二人、テレビのワイドショーを観ていたとき、廃校寸前の東山小学校が映し出され、警備員の三宅さんが固い表情でインタビューを受けていた。

 まだ警備員を続けていた事に驚き、その温和な表情に刻まれた皺に、十二年の歳月を感じた。インタビュアーの「事件の夜は数人の男が校庭にいたわけですが、お気づきにならなかったのですか」という慇懃無礼な問いかけにも、「こらこら花壇に入ったらだめやぞ。お花が泣いとる」と小学生を注意していた時と同じ笑みを浮かべ、「まったく、気づきませんでした」と応えていた。

 そして、「今年で定年を迎えるのに、えらいことですわ」とちっともえらいことではなさそうな口調で続ける三宅さんに、優斗と幸子はテレビの前で頭を下げた。

 あの日、優斗と幸子はタイムカプセルから自分たちの思い出の品だけを取り出すと、校庭に埋め戻しに行った。ほかの同級生の思い出が詰まっていたからだ。

でも、どれくらいの人たちが、掘り出された過去を受け取りに来るのだろうか。優斗の過去は今では部屋の片隅に、ビニール袋に入ったまま放置されている。やっぱり過去のものは過去のもの。思い出とは、心の中にだけ残っているから、飽きずに繰り返し思い出しては感慨に浸れるものなのかもしれない。

 先日、世界水槽コンテストに応募していた作品の結果が郵送されてきた。目指していた百位以内の入賞はならず、百二十三位。雑誌には切手ぐらいの大きさで写真が掲載されていた。残念ながら白黒だけど。

 幸子に報告したら、「うん、すごい……っていったらいいの。それとも残念って言えばいいの」と聞かれたので、「目標まで二十三位だったんだ」と説明すると、「うーん。微妙だね」と言われてしまった。

 でもやる気を失ったわけではない。既に次の作品の制作に取り掛かっているし、次こそは絶対に入賞するつもりだ。

 そのことを決意表明としてブログにアップしたら、あの名古屋在住の青年。そう、黄色頭にからまれた青年を助けようとして、逆に青年に殴られてしまった日に遭っていた彼だ。彼からコメントが付いていた。

『今度また大阪に行きます。お会いできることを楽しみにしています。』

 さすがに、『お会いしたくないです。』とは書けないので返信を付けずに放置している。

父がしゃがみ込み、足もとのリュックサックから何かを取り出していた。

「なにそれ?」

「昔流行った物をな、カプセルの中に入れといたんだ。流行は繰り返されるからな」

「卒業生でもないのに」

「納入業者だからな。特権だ」

 父は箱に入ったおもちゃや、怪しげなガラクタを幾つか取り出し、矯めつ眇めつチェックしている。

「まさか昔みたいな仕事を再開したいとか」

 父は優斗に日焼けした顔を向けた。

「いや」と言って、ガラクタをリュックサックに戻した。

「おれはもう農業従事者になった。大地の子だ」

 と白い歯を見せた。

「じゃぁ。どうしてタイムカプセルにそんなものを」

 父は珍しく困ったような、それでいて照れたような顔をして、「まぁ、思い出だ」と似合わないことを言った。

 黙っていると、父は指先で額を掻き笑みを見せ、「そうだ優斗。子供ができたら岡山へ来い。俺がみっちり鍛えてやる」と何とも気の早いことを言った。

「なんだよ。まだそんなんじゃないよ」

「まさかお前」父が顔を向けてきた。「逃げているんじゃないよな」

 優斗は、父を見返した。

「逃げるなよ。優斗」

 父の強い視線に、笑い返すことができた。

「逃げないよ。こればかりは、イノシシに任せてはおけないからね」

 父がくしゃっと表情を崩し、煙草をふっと吹かすと、「生意気言うんじゃねぇよ」と呟いた。

 煙草の煙が風に持ち去られ、空気に消えた。

 青空の下に、取り壊されるのを静かに待つ校舎が泰然と横たわっていた。

 優斗は、飲み干した缶コーヒーを、ぐっと握りしめた。


 

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Cinderella time(シンデレラタイム) いちうま @kazuma-naga

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