第19話
33
「あほか! 左、右、ローや! お前、右と左もわからんのか!」
市民道場に目黒の声が響き渡った。十人ほどの小学生が向かい合い、一人はミットを構え、向かい側の子供は手と膝に防具を付けている。
左正拳突き、右正拳突き、下段蹴りのコンビネーションを練習していた。しかしまだ体の使い方が覚えられず、手の順番が逆になる生徒もいる。
「周太郎! お前の右手はどっちや!」
いがぐり頭の少年が、右手を上げかけ、自信なさそうに下ろし、おずおずと左手を上げた。
「あほ! 右と左ぐらいお母ちゃんに教えてもらって来い! 空手以前の問題やぞ」
道場の壁際で子供たちを見守っている父兄からくすくすと笑い声が漏れた。二、三人の子供も釣られて白い歯を見せたので、「笑うなぁ! 周太郎は真剣や」で、さらに笑いが起こった。周太郎もおどけて見せる。
近づいて行って拳骨を見舞うと、目黒は道場の真中に立ち、もう一度指導を繰り返す。
左門師範から新たな道場を開く許可を貰えたのは半年前。もちろんまだ自分の道場を持つことなどできないので、毎回市民道場を借りている。
子供の生徒はまだ十名程度、大人にも教えているが、そちらの生徒はまだ四人と少ない。
駅や繁華街でチラシを配り宣伝をした。チラシ配りは好美が手伝ってくれた。石塚のばあさんも手伝うと言い出したが、しわくちゃのばあさんが空手のチラシを配っても効果がないだろうと言って断った。もちろん、えらく怒鳴られた。
道場生からの月謝だけでは、まだまだまともな暮らしはできそうにない。これから地道に生徒を増やし、実績を積んでいくしかない。
目黒は選手としても復帰していた。全日本大会で好成績を残せば、道場の名前は上がるし宣伝にもつながる。それに今は、空手をやることが楽しかった。まだまだ体は動く。これから鍛えなおせば、どんどん強くなるだろう。
あの日、香取新平に同行して警察へと出頭した。すぐに香取と離され、個別に事情聴取を受けた。香取がどういう状態にあるのか気になった。事情聴取に当たった若い刑事が、病院で手当てを受けているから心配するなと教えてくれた。不覚にも涙が出そうになった。
張真組の組長を襲撃した事件は、香取が一人でやったことだと早い段階で警察も確証を得ていたのか、目黒に対する追及はそれほど厳しいものではなかったが、覚せい剤については、最近も扱っているのではないかと何度も尋問を受けた。
一通り取り調べが終わり、翌日の夜になって、一人の刑事が尋問室に入ってきた。
「やぁ、目黒くん」と刑事は言い、その口調からどこかで会ったことがあるなと首をかしげ、ゲームセンターで財布を取り返しにきた男だと気付いた。あのとき、近藤が財布を奪った青年を追い返すと、警察バッチを突き付け財布を取り上げていった男だ。
「君はもう帰っていいよ」
と言って、押収されていた車の鍵や、携帯電話、財布などをビニール袋から出して机の上に並べた。
「車はもうスクラップ同然だけどね」
「香取さんは」
「彼は帰れない。それに帰るとやばいだろう。張真組の構成員の中には、組長の仇を打って名を上げたがっている奴もいるだろうし」
男は目黒の携帯電話を取り上げ、電源のボタンを押した。
「何するんや」
「まぁ、一応。証拠隠滅だ。君の携帯電話に私の携帯の着信履歴があるのはよろしくない。もちろんこんなものを消しても調べようはいくらでもあるが、着信履歴さえなければ誰も調べないからね。それとも記念にアドレス帳に登録しておくかな」
「あんたからの着信履歴?」
と問いかけて思い当たる節があった。
《組長の家の前で待機していろ。香取が出てくれば連れて逃げろ》
公園で理香を問い詰めているとき、男の声で電話がかかってきた。目の前の刑事を睨みつける。この男だ。男は屈託のない笑みを浮かべた。
「なんで俺の携帯電話を」
「妹の関係者は全員調べている」
「妹? なんだよそれ」
「ちっちゃいことは気にするな」
容姿に似合わない男のセリフに目黒は顔をしかめた。
「あんた、兄貴が組長を襲撃するって知ってたんか」
「知っていたよ。だから君に助けを頼んだ。もし彼がしくじって逃げ出してくれば、足がいるからね。でも予想が当たってよかったよ。おかげで彼は死なずにすんだ」
「あんた刑事だよな」
「あぁ。来年の三月まではね」
「なに?」
「友人としてなら、あいつの行動を見逃すことはできた。しかし刑事として判断するとなると、やはり厳しい。だから香取を見逃すにあたって警察を辞めることにしたんだ。昨日、上司に辞表を出したんだが、人事異動のある日まで欠員が出ると困るから来年の三月まではと頼まれた。それに張真組の麻薬についても方を付けたいしね。まあそういう意味では最良の選択だろう」
「あんた兄貴の友達なのか」
「同級生だ」
男は携帯の操作を終えると、目黒に差し出した。
「さぁ、もう行きなさい。お迎えが待っているよ」
と言って立ち上がった。
「そうだ言い忘れるところだった。君は以前から張真組の構成員として警察に目をつけられていた。組長襲撃事件が起こり、付近の住民から警察に通報があったとき、たまたま君は車で街を走っていることをパトカーに捕まり、事情聴取として連れてこられた。香取新平とは関係ない。そういうことになっている。いいね」
「そういうことって……」
「そういうことにしたんだ」
「警察って、そういうことするのか」
「警察だからするんだよ」
恐ろしいことを言う。とりあえず頷いた。香取新平の逃亡を手助けしたことを張真組みに知られれば、おそらく明日はない。目黒が身を置く世界は、そう言う世界だった。
「しかし兄貴を助けるとき、組長の家の門に車で突っ込んだんだ。それを覚えている奴がいるんじゃないか」
「いや、そう言う供述はないよ。全員興奮状態だったしね。突っ込んできた車が君のだとはわからなかったんだろう。まぁ、しばらくの辛抱だ。近いうちに張真組は機能を失うさ」
喪失感を抱えながら、男と肩を並べて警察の暗い廊下を歩いた。今後のことを考えると気分が滅入った。どう身の振り方を考えればいいのか全くわからなかった。
「香取からの伝言だ」
出口が近づいた時、男が言った。
「何か新しいことを始めろ。世話になった。そう伝えてくれと言っていた」
目黒は小さく頭を下げた。外に出た。少し雨が降っていた。冷たい雨だ。雨の街灯の下、二本の傘が見えた。二本の傘の上で水滴が白く跳ねている。傘の影になって顔はわからなかった。
目黒は警察署の数段の階段を降りた。雨が肩を濡らした。背の低い方の傘がさっと動き、中の人物の顔が見えた。目黒は思わず足を止めていた。怒ったように、傘を差した人物は強い足取りで近づいてきた。
「ばあちゃん、ど……」
石塚のばあさんが半ば飛び上がったように見えた。同時にぱしりっ、と音がして、頬に痛みが走った。
「何するんや! いきなり」
目黒は頬を抑え、石塚のばあさんに向きなおった。驚いたことにばあさんの目がうるんでいた。皺に埋もれた頬を、微かに震わせていた。
「いつまで心配かけるんや浩一」
ばあさんの二撃目が飛んできた。目黒はよけなかった。頬に痛みを感じながら、ぽろぽろと流れる涙を止めようとも思わなかった。もう一本の傘が近づいてきた。好美だった。泣き笑いのような表情を浮かばて、「お兄ちゃん」と言った。
泣いていることが恥ずかしかった。しかしどうにも止めることはできなかった。子供にようにしゃくりあげ、流れる涙に頬を濡らした。
「しっかりせぇ! 泣くな!」
怒鳴ったばあさんも泣いていた。殴られたのは頬っぺたなのに、目黒はなぜか尻を庇っていた。
※
事件以降、目黒に対して張真組からの追及はなかった。
多門一樹の自宅からは香取が残していった大量の覚せい剤が押収され、組事務所を始め、張真組の主だった幹部の自宅にも警察の捜査が及んでいた。一部のテレビや雑誌で、香取新平の弟が十二年前に自殺した事件について触れていた。
警察を放免になった翌朝、目黒は組事務所に行ってみた。中はがらんとしていた。大藪だけがいて、ソファに腰を下ろし新聞を読んでいた。挨拶をする目黒に大藪は眠い目をよこした。
「サツが全部持って行きやがった。きれいなもんや」
大藪はふっと笑った。まるで抜け殻になったように気力が失せていた。
目黒は、「おれ、足を洗おうかと思っているんです」と打ち明けた。覚悟を決めての相談だったが、大藪はちらりと目黒を見て溜息をついただけだった。
「だろうな。好きにしろ。親父さんも当分塀の中だ。総務部長もいないし、慎治も当分それどころじゃないだろう。それにあいつが戻ってきても組をまとめられんだろうしな」
大藪は新聞を投げ出し、ガラステーブルの上に靴を履いたまま足を投げ出した。
「目黒はもういやだとビビッて足を洗いたいと言ってました。そう伝えといてやるよ。機会があればだけどな。あとは自分で始末しろ」
大藪はそう言うと、興味を失ったように大あくびをして目を閉じた。
あの日以来、組事務所には足を向けていない。この前、新しく購入した中古の軽自動車で前を通りかかったら、カーテンが閉められたままになっていた。
近藤やコウタにもヤクザから足を洗いたいと思っていることを伝えた。二人の事だ。必死になって引きとめるだろうと思っていたが、近藤はどこか吹っ切れたような顔をして、俺もそろそろ田舎に帰って実家を手伝おうかと思っているんだと告白した。父親が脳卒中で倒れ、母親から帰ってきてくれないかと言われているとのことだった。
コウタは少しさびしそうな顔をした後、俺も結婚を考えているんだと言った。相手の親から、まっとうな仕事に就かなければ娘との結婚は許さないと言われていて、その父親が造園業を営んでいることから、うちで働けと誘われているとのことだった。
三人で酒を浴びるほど飲んだ。はじめは沈んだ酒になった。馬鹿も終わりだと近藤が言い、お前の馬鹿は一生治らないよと目黒は頭を叩き、最後には三人で笑いあい、肩を叩きあった。
香取新平、いや内藤新平のことは連日テレビや雑誌で取り上げられていた。弟の仇打ちのためにとった彼の行動は、同情的な意見と、やはり復讐はだめだという意見にわかれていた。あの川上という刑事から一度だけ連絡があった。今日で警察を辞めると言い、香取にはおそらく執行猶予がつくだろうと教えてくれた。
この週末、石塚のばあさんを連れて白浜へ温泉旅行に行く予定だ。好美も同行するという。ハワイに比べれば随分しけた旅行だが、たぶん、楽しい旅行になるだろう。
あれから一度だけ目黒から理香に電話をかけた。今の状況を説明し、もう会わない方がいいだろうと告げた。未練がないと言えばうそになる。しかし不思議と固執する気にはなれなかった。彼女が整形手術を受けていたことは関係ない。ヤクザを辞めると決めた以上、理香の望むような生活はできないからだ。でもそのことをうまく彼女に伝わったかどうかわからなかった。
「よし! 全員正座して! ありがとうございました!」
目黒の前に居並ぶ子どもたちが頭を下げる。さっと立ち上がると全員が一人ずつ目黒の前に来て、「押忍! ありがとうございました!」とあいさつをし、十字を切って帰って行く。
父兄と連れだって道場を去っていく生徒たちに、「信也。おまえ下段蹴りうまなったなぁ」「浩介、お前ちゃんと飯食ってからこいよ」と声をかけていく。
「黄色先生」
佐門道場からこちらに移ってきた西島エリカが目黒の足にまとわり付いてきた。佐門道場にいれば自転車で通えたのに、ここに来るには車で来なければならない。どうしても目黒に習いたいと駄々をこね、毎回母親が車で送り迎えをしている。
「おぉ、エリカ」
頭をくしゃくしゃと撫でる。
「エリカもうまくなった?」
と腰の据わらない中断蹴りを披露して見せた。
「あぁ。ずっとよくなったぞ。毎日ご飯を一杯食べて、一杯寝ればもっと強くなる」
エリカは満面の笑みをたたえ、こくりと頷いた。
「ねぇ、黄色先生。あの絵を見せて」
「あぁ。ちょっとだけだぞ」
目黒はしゃがみこみ、肩の高さをエリカに遭わせてやると、道着を下げてタトゥーを見せてやった。トライバルのタトゥーの下に、「Aloha `Oe」と刻まれている。自分の道場を持ってからは隠さないようにしていた。これから長く続けるつもりだから、ずっと隠し続けるわけにはいかない。タトゥーを入れている空手家は、子供たちの親にも意外とすんなり受け入れられ、案外宣伝にもなっていた。
エリカは禍々しい縁取りをした神様の絵に興味しんしんで、「この字、何て読むの?」と聞いてきた。
「アロハオエや」
「どういう意味?」
「意味? 意味な……押忍、と同じようなもんや」
エリカは胸の前で両手をクロスさせ、「アロハオエ!」と嬉しそうに言った。
子供たちが帰ると、大人の部が始まるまで一時間ばかり時間があった。型の練習を始めようと道場の真ん中に移動する。廊下から足音が聞こえた。
「兄ちゃん」
好美が顔を出した。リュックを肩にかけ、日焼けした顔に白い歯を浮かべている。
「私も練習していいでしょう。平安その二、来週までに覚えないと」
「昇級試験、受かるつもりでいるのか」
「当たり前やん。ぜーんぶ一発合格で、早く段を取りたいもん」
好美は浅黒く、よく引き締まった腕で正拳突きをして見せた。小さいころから運動神経がよかった。口にするつもりはないけど、素質はある。
「まぁ、お前は重心が低いからな。空手には向いてるかもしれん」
「失礼ね。兄ちゃんより脚長いし」
「早く着替えてこい」
はーいと返事をして更衣室に走り去る好美の背中に、「それとな、道場では兄ちゃんはだめや。先生と呼べ。わかったな」
「わかったよ、兄ちゃん」
好美は走りながら片手を突き上げ了解のサインを送ってきた。
「いつまで兄ちゃんと呼ぶ気や」
今度は好美に聞こえないよう、小さく呟く。
目黒はすっと意識を集中し、前屈立ちの姿勢を取った。
ふっと息を吐き、目の前の空間に思い突きを繰り出す。全てを吹っ切るように。
34
「川上幸子さん」
面接室から顔を出した女性が、バインダーに目を落とし、幸子の名前を呼んだ。
「はい」
幸子は鞄を椅子に置き、前へと進む。待合室は面接の順番を待つ女性たちの熱気で満ちていた。みんなが一様に黒のスーツに身を包み、背筋を伸ばし、足を少し斜め前に並べて慎ましやかに座っているけど、心の中は穏やかではいられないはずだ。
市街の一角に自社ビルを構える、イタリアのファッションブランド『パリンジェネジイ』が臨時雇いの求人広告を出した。採用されるのは一名か二名。一次試験で簡単なペーパーテストがあり、それをクリアした約五十名の女性が待合室で緊張をたぎらせている。
ウエストがぎゅっと締まったグレーのスーツに身を包んだ女性に案内されて、幸子は面接室に入った。面接官が三人、長テーブルの向こうに座っていて、その前に椅子が一つ置かれていた。
壁にはトーマスマックナイトのシルクスクリーンが窓代わりに飾られていて、室内に微かに香水の匂いが立ち込めていた。
幸子は椅子の横に立ち、「川上幸子と申します。よろしくお願いします」と軽く頭を下げた。
「着席下さい」
長テーブルのセンターに座る男が、笑みを浮かべながら低いけどよく通る声で言った。ブランドまではわからないけど、仕立てのいいブラウン系のスーツに、オリーブ色のネクタイを合わせている。笑うと目元と口元に皺が走る。日本人離れした容姿の持ち主だった。
気質もイタリアンナイズされているのか、幸子をあからさまに見定めるように上から下へと視線を這わせたが、不思議と不快感はなかった。
両隣はどちらも女性だった。一人は五十代、もう一人は三十代といったところか。二人ともできる女の匂いをぷんぷんさせていた。中央の男はこの店のマネージャーで、市谷(いちがや)と名乗った。面接は終始市谷の質問で進んだ。彼の所作から、幸子はこの人は私のことを気に入っていると確信を持った。
予想通り、翌日採用の電話が来た。電話をかけてきたのは市谷本人だった。一ヶ月の研修期間を経て幸子は『パリンジェネジイ』の店頭に立った。覚える事は山ほどあって、一日の立ち仕事は想像以上に体に応えたけど、総じてやりがいもあり楽しかった。
困ったのは市谷のことで、他の店員がいようとまったく気にする風もなく幸子に言い寄ってきた。
「マネージャーはああいう人だから」
同僚達は不快感を表すでも嫉妬するでもなく市谷の事をそう評した。あのマネージャーなら仕方がないと思っているらしい。
市谷は女性に対する奔放な性格と、仕事に対する厳しさをあわせ持っていた。ただし店員を叱り飛ばしたり、愚痴をぶつけたりすることは一切ない。自分に厳しく人には優しい人で、自分が仕事をこなすことで、店員のやる気を促すタイプだった。そして彼は店中の女性陣に愛されていた。
「今夜フランス料理を食べに行こう。君のために最高のディナーを予約したんだよ」
ある日、閉店後の片づけをしているとき市谷が誘ってきた。幸子はにっこりと微笑み、
「今日はデートです。すいません」と断った。
市谷はまるで外国人のように肩を竦め、残念だと応え悲しそうに眉をひそめた。それでもすぐに気持ちを持ち直したように、「幸子ちゃんの彼氏なら、素敵な人だろうね」と言った。
「えぇ」と応えると、市谷は心底嬉しそうに微笑んだ。
今、付き合っているのは優斗だけだった。これからも優斗以外の誰とも付き合うつもりはない。これまで付き合っていた男性とは全て別れた。フィットネスクラブの店長をしている西川も、歯科医院のドクターとも幸子から連絡をいれ、会って別れ話を切り出した。
一番揉めたのは西川だった。喫茶店に電話で呼び出し、別れを切り出した。好きな人ができた。ゆくゆくは結婚したいと思っていると説明すると、西川は笑って、じゃぁ結婚式を挙げるまではこのままの関係を続けようよと言った。そのつもりはないと伝え、フィットネスクラブもできれば今月末には辞めたいと告げると、だんだん不機嫌になった。幸子の意志が固いことに気づくと、愚痴を並べ、これまでプレゼントしたものを返してくれと言った。最後には喫茶店のお茶代も払わずに拗ねたように背中をみせ、先に出て行った。
歯科医院のドクターは、別れ話に衝撃を受け、たっぷり一分ほど押し黙っていた。そして、本気で結婚して欲しいと思っていたのだと言い、目に涙をためていた。でも最後は、幸せになってくださいと言葉を残して去っていった。
目黒浩一とはなかなか連絡が取れなかったけど、先日、浩一の方から電話がかかってきた。
《信じてくれないかもしれんけど、写真を見たからじゃないんや。俺、ヤクザやめるしな。理香にいい暮らしさせられそうにないしな。俺の子供を産めなんてことまで言っといて恥ずかしいけどな》
先に別れを切り出したのは目黒だった。
「わたしのほうこそ、ごめんなさい。ずっと騙してた」
《気にするな。まぁ、俺が理香の容姿に惚れこんでいたことは間違いないけど、それだけやないで。お前は、ええ女や》
「ありがとう」
そして最後に、ちょっとためらった後、《小さいとき、いじめられてたんやな》と聞いてきた。
「うん……」
いじめられていた頃の記憶が呼び覚まされた。でも、もうそれほど辛いとは感じなかった。過去は過去として、向き合う気持ちができていた。
《小さい時に出会ってたら、いじめっ子をまとめてしばきあげたったのにな》
と電話の向こうで目黒が笑った。
幸子もつられて笑う。目黒の言葉が嬉しかった。
「うそ。絶対一緒になって苛めてたと思うよ」
《いや。女を虐める男は最低や。女はかわいがるもんや》
じゃあなと言って目黒は電話を切った。
沢木理香としての人生が終わった事を実感した。そしてこれからは川上幸子として、まっすぐ生きようと決意していた。もう何も偽ることはない。自分は自分なのだから。
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