第18話

31


「兄貴! どうなってるんすか」

 目黒は車を走らせながら、助手席の香取を問いただした。香取は額に汗をかき、肩口を抑えている。抑えた指の間から赤黒い血が溢れていた。血の気が失せた顔。唇でさえ赤みが残っていない。

 シーマは配車寸前の状態だった。ボンネットはひしゃげ、盛り上がっている。その隙間から微かに白い煙が棚引いていた。ラジエーターを破損したのかもしれない。長くは走れないだろう。とにかく、もう少し走ってくれと祈った。

「すまんな目黒。世話をかける」

「そんなことはいいです。いったい何があったんすか」

「組長を殺そうとした。しかし失敗してこのざまだ」

 耳を疑った。香取はなんと言ったのか。香取の言葉は理解の外にあった。とりあえず前を睨みつける。赤色の信号をぶっちぎっていた。後方からクラクションの音が聞こえた。

「お前はどうしてここに来たんだ」

「なんですか?」

 脳ミソの考える容量を振り切ったように言葉が頭に入ってこない。

「なぜこんな時間に、組長の家の前にいたんだ」

「変な電話があったんです。香取さんが組長宅から飛び出してくるかもしれないから、そのときは助けてやれって」

 相手は誰だったのか、詮索する暇もなくすっ飛んできた。胸騒ぎがしたからだ。

香取がふっと笑った。そうかと呟いた。電話の主に思い当たる人物がいるらしい。

「兄貴、一体何なんですか。俺にはさっぱり」

「追っ手はかかっているか」

 バックミラーを確認する。後をついてきている車もない。進路をでたらめに変えていたから、簡単にはみつからないだろう。

「いえ。今のところは」

 香取が小さくうめき声をあげ、腰をずらしてシートに体を押し付けた。

「大丈夫すか」

「あぁ。すまんな。お前には世話になった。事情を話しておかなければならないな」

「事情……」

「十二年前」香取は静かに口を開いた。目黒は言葉を呑みこんで次の言葉を待った。「俺の弟が張真組に罪を押し付けられて殺された。おれはその敵討ちのために張真組に潜入していたんだ」

「何ですって……」

 香取は手に握ったビニール袋を目黒に見えるように差し出した。小さな袋の中に白い粉が入っている。

「麻薬だ。張真組がタイムカプセルに入れて学校の校庭に隠していたものだ。当時、張真組は薬の売買で潤っていた。今よりずっと勢いがあったからな。この辺り一帯の売人を牛耳っていた。しかし警察に目を付けられた。そこで準構成員だった俺の弟が独自に売買をやっていたように見せかけ、罪をなすりつけ殺害した」

「……」

「組長が、さっきそれを認めた。だから殺そうとした。しかしできなかった」

 目黒は何度も唇をなめた。香取の言葉が止まる。そっと様子をうかがった。香取はじっと前方に視線を据えていた。思いのほか穏やかな表情を浮かべていた。

「俺はずっと麻薬のありかを探していた。まさか学校の校庭に埋まっていたとはな」

「そんなこと、できるんですか」

 自分でもあきれるほど間抜けな問いかけだった。どうでもいいことだったが、他に何をしゃべればいいのかわからなかった。

「学校の先生といえども人間だ。金を積まれれば少々のことには目をつぶろうってやつもいる。先代は小学校の先生を抱きこみ、タイムカプセルの納入業者に金を積んで埋めさせたんだ」

 車は対向二車線の国道に入った。当てもなくまっすぐに直進する。目黒の車は組員に知られている。香取に追手がかかっているのであれば、できるだけ遠くに逃げるしかない。その後のことは……どうすればいいのか。

「健……」

「え?」

 香取が何か呟いたが聞き取れなかった。静かに目を閉じている。肩から溢れる血は止まっていない。このままでは危険だと思った。

「香取さん。病院に行きましょう。もう少し頑張ってください!」

「いや」

 香取は目を開いた。上体を起こし目黒を覗き込むように姿勢を変える。

「いいか目黒。お前は俺と会ってないことにするんだ。そしてこのまま姿を消せ」

「兄貴は? 兄貴はどうするんです。一緒に逃げましょうよ」

「俺は警察に行く」

「警察?」

「そうだ。こいつを警察に届けて、それで終わりにする」

 クラクションの激しい音が鳴り響く。ハンドルを切り、横合いから走ってきたセダンをよける。車体が揺れ、香取がうめき声を上げた。車の水温計が徐々に上がり始めている。オーバーヒート寸前だ。

「車を止めろ」

 香取は背広のポケットに手を入れ、財布を取り出した。そこから一枚のクレジットカードを抜き取る。

「暗証番号は、0823。二千ぐらいはある。こいつで新しい人生を始めるんだ」

 怒りが込み上げてきた。俺はこの街が好きなんだと叫びたかった。そして、あんたのことも。

「何言ってるんすか」

「すまん。お前の人生を変えちまった。女がいるんだったな。ほとぼりが冷めるまで会えなくなるかもしれんが」

「違いますよ!」

 目黒はハンドルを叩いた。

「兄貴、俺を信用して下さい。俺はヤクザです。兄貴を置いて一人で逃げたりしません」

「お前は何もやっていない。逃げる必要はないんだ。足を洗え。おまえにヤクザは向いていない」

 目黒は香取を睨みつけていた。香取の額に浮いた汗が彼の目に入り、片眼をつぶった。開かれた片目で香取は小さく笑った。

「お前を見ていると弟のことを思い出すんだ。どうしてヤクザなんかになるんだと叱ってやればよかった。そうすれば、あいつも死なずにすんだ」

「……」

「お前はヤクザなんかしなくても生きていける」

 目黒は急ブレーキを踏んだ。香取が反動で体を前に倒し、顔をしかめた。突き進んできた道をUターンする。

「どこへ行くんだ」

「警察です」

「ここでいい。一人で行く」

「俺も行きます」

「だめだ」

「行きます。警察に兄貴と一緒に出頭して、それで終わりにします」

 香取が黙りこむ番だった。目黒も無言で車を運転した。唇をかみしめていた。

二千万円も入ったクレジットカードを渡そうとして、何が才能で生きていけるだ。いい加減にしてくれ。そう思いながら、込み上げてくる熱いものに、硬く唇を閉じていなければ思いが口から飛び出してしまいそうだった。

「ばかやろう……」

 助手席で香取がつぶやき、背もたれに深く背中を預けた。

 車は路面の小さな凹凸にも反応して跳ねる。振動は香取の体力を徐々に奪っているはずだ。車を改造したことを、目黒は初めて悔やんだ。


32


「整形手術を受けてからは、信じられないくらい環境が変わったわ」

 理香は公園のベンチに腰を下ろし、視線を下に落とし、つま先で地面をなぞっていた。

「どうして整形なんかって思うかもしれないけど、あの頃、私の逃げ道はそこしかなかったの。できれば中学に上がるときに手術したかったけど両親は許してくれなかった。お前が苛められる理由と容姿は関係ないって、もっと社交的になれ、もっと明るくなれ、自分が思うほど周りは幸子のことをそんな風に思ってないんだとか。お父さんもお母さんも一生懸命励まそうとしてくれたんだと思う。でも、どの言葉も辛かった。もう自分の努力だけで抜け出せない場所に私はいたの」

 伏せていた顔を上げ、優斗と視線を合わせた。そして恥ずかしそうに笑った。あなたも知っているでしょう。私がどういう状態だったか。彼女は優斗にそう語りかけているのだ。

「ほんとに、毎日が辛かった」

 言葉が地面に落ちて、ゆっくりと崩れた。

「でもね。兄だけは整形手術を受けることに反対しなかったの。お兄ちゃんは変わった人だけど、優しい所があるし、たぶん私のことを一番見ていてくれたんだと思う」

「確かに、おもしろいお兄さんだね」

「そう、おもしろすぎて警察官には向いていないと思うけど」

 あれで刑事が務まるのだろうかと心配になる。あまり仕事をしているように思えなかったけど、そういえば店に背広で現れたこともあった。小説やドラマに出てくる刑事は、毎日深夜まで現場を歩きまわり、寝る暇さえないのにと考え、そりゃ刑事といえども事件が起こっていなければ定時で帰ることもできるのだろうと現実的に考える。

「両親が事故で死んだとき、まだ中学生だった私の面倒を見るために、兄は大学を中退してこっちに戻って来たの。でも、せっかく私のために大学を中退した兄から私は逃げだしたの。高校を卒業して広島の短大に進学した。お父さんが残してくれた遺産があるから、お金には困らなかったし、とにかく誰も知らないところで整形手術を受けて、新しい人生を歩みたかったから」

 広島に引っ越してから、理香は自分の容姿を変えるために必死に努力をした。食事に気を使い、毎日スイミングに通い、エステにも行った。自分を改善できることは何でもやった。そして短大の卒業を前にして、彼女は整形手術を受けた。

 改めて理香の顔を見た。公園の街灯の光が彼女の大きな瞳に反射していた。まっすぐ延びた鼻、薄く小さな口元。以前の面影があるとすれば少し秀でたおでこぐらい。しかしそれさえも、今や彼女の容姿を引き立てる役に回っている。

「はじめは向こうで遊んでた。ほんと、生まれ変わったような気分だった。私が話せば、誰もが身を乗り出して聞いてくれるし、じっと黙っていれば大丈夫かいと気を使ってくれるし」

「大阪には、いつ?」

 付き合い始めて半年経過した彼女に投げかける質問ではないなと自覚する。

「二年前よ。こっちに戻ってくるには勇気が必要だった。新大阪の駅に降り立った瞬間、魔法が解けて、以前の私に戻ってしまうんじゃないかって真剣に考えてたわ。でも戻る必要があった。広島で楽しい生活を送っていても、昔の自分に縛られてたの。恋人や友達が少し固い態度をとっただけで私は怯えてた。ねたみや嫉妬からちょっと意地悪されるだけで、過去の記憶が呼び覚まされて震えるの。だから全て終わりにするために大阪に戻ってきたの」

「終わりにする」

「えぇ。この街で楽しい生活を送れば、辛い過去も消えるんじゃないかって思ったの」

 理香の顔が一瞬だけ歪んだ。恨みや惨めさが噴き出したような感じだった。

「この街に来ても楽しかったわ。昔のことが嘘みたいに。でも、だんだんむなしくなってきたの。名前も偽っていたし、長くはいられないなぁって……そんなときに優斗と出会った」

 理香が顔を上げた。懇願するように額に皺をよせ、すがりつくような視線だった。そして、「優斗は、私の安らぎだった」とつぶやいた。「優斗は、唯一私をいじめなかった人だから……私のシャルル」

「シャルル? さっきもそんなことを」

「うん。シンデレラに出てくる王子様の名前。優斗は私の王子様だったの」

 両方の肩からすっと力が抜けて、地面に吸い込まれていくような感覚を味わった。ずっと恐れていた。理香が優斗に近づいてきたのも、昔との決別、過去への復讐だと言われたら、おそらくどれだけ言い訳を並べても理解してもらえないだろうと思っていた。しかし彼女は、不甲斐なくも彼女を見捨てて何もできなかった優斗のことを安らぎだと表現し、王子様だと言ってくれた。

「ありがとう」

 思わず呟いていた。優斗はタイムカプセルから取り出した自分のビニール袋の封を切った。袋の中の物を取り出し、ベンチに並べていく。大好きだった恐竜のフィギア。Tレックス。ステゴザウルス、ブロントザウルス、トリケラトプス、プテラノドン……。

 そして一冊の文庫本を取り出し、理香に差し出した。

「これ。君に借りていた本。やっと返せる」

 小学校六年生で同じクラスになった日に、理香に、いや川上幸子に借りた「ボッコちゃん」という本だった。この本、すっごくおもしろいよと言って貸してくれた彼女の顔を覚えている。屈託の無い笑みを浮かべていた。その後、まったく笑わなくなった彼女。

「これ……」

「うん。延滞料は払えないけど」

「どうしてタイムカプセルに」

「逃げたんだ」

「え?」

「僕は逃げた。君を助けることから逃げていた。周りの目が怖くて、自分の気持ちを押さえ込んでいたんだ。その本も、君に返すことができなかった。だからタイムカプセルに入れたんだ。二十年後の自分への戒めとしてね」

 理香は本の表紙を撫でた。借りたときから随分読み込まれていた。しかしタイムカプセルの中で、本はそれ以上の劣化を防がれていた。

「あの写真」理香が口を開いた。「アクマたちがタイムカプセルに入れたの」

「悪魔?」

「多門慎治のこと」

「あぁ」

 クラスで一番嫌なやつだった。苛めの首謀者でクラスの生徒を牛耳っていた。自分の父親がヤクザであることを自慢していた。

「私がタイムカプセルに入れたのは手紙だけ」

「手紙?」

「二十年後の自分に読んでもらうために書いたの。『美人に生まれ変わっていますか? 幸せに生きてますか?』って。でも学校に提出した後、あいつらに中身を入れ替えられたの。さっきの写真がそう。同じ写真と私が書いた手紙がびりびりに破られて机の中に入っていたの。すごくショックでくやしかった。あいつらは未来の私まで苦しめようとしているんだって思った。

 優斗は理香に気づかれないよう溜息をついた。酷い話だ。そして、その酷い状況を見過ごしてきた自分のことを深く悔やんだ。

「父がね。あのモノレールの駅で会った」

 理香がこくりとうなずき、笑みを浮かべて「下駄の王様」と言った。

「下駄の王様?」

「うん。残念ながら白馬にも乗っていなかったし、ちょっと年をとってたけど、私の中ではずっと下駄の王様。ひどいいじめに遭っていた私を助けてくれたの。あの写真もその時に撮られたの。優斗のお父さんが助けてくれなければ、もっと酷い目に遭ってた」

「その下駄の王様に罵倒されたんだ。お前は自分のクラスの女の子が苛められているのを見過ごしているのかって。女を苛める奴は最悪、それを見過ごすやつは最低だって。それが父の持論だった」

 優斗はベンチに並ぶ恐竜のフィギアを取り上げ街灯の光に翳した。大事にしていたから汚れていない。懐かしい思い出が蘇る。

「二十年後なら、逃げない自分になっているんじゃないかって期待してたんだ。そうなるんだって誓ってもいたしね。でも十二年後の僕は、やっぱり逃げている」

 自嘲気味に笑う。

「そうね。すごく派手になったけど。女の子の手を引いてモノレールの線路を走って逃げたり」

 二人して笑った。

「正直よくわからないけど。小学校の時、君のことが好きだったんだと思う」

 理香の大きな瞳が一層大きくなって潤んだ。

「ありがとう」

 理香は唇をかみしめ、頬をゆっくりと涙が流れる。

「でも今は昔の私じゃないわ。私、変わったから」

「でも、君の本質は変わってないよ」

「本質?」

「読書が好きで、小さな生き物が好き」

「あぁ」

「椅子に座るときはきっちりと膝をそろえて座るし、立っているときは少し内股で。そして右ひじのホクロ」

「それ、本質?」

「そうそう。本質」

 違うかなと言って優斗は笑った。

 確かに理香の容姿にひかれて好きになったのは事実だった。でも、それはきっかけに過ぎなかった。

 彼女といれば落ち着く。自己中心的になり、わがままになったかもしれないけど、彼女の本質は失われていない。

「それと。あの時君は僕を必要としていた」

「……」

「でも、僕はそれにこたえることができなかった」

「仕方ないよ。あの状況だもん。私を助ければ優斗も苛められていた。おそらく状況は何も変わらなかった」

「でも、助けるべきだった」

 助けることができなかったことで、後悔と懺悔の思いがずっと付いて回った。彼女と会わなくなっても、文庫本をタイムカプセルに埋めてしまった後でも、ときおり、夢に見たり思いだしたりしては悔いてきた。たとえ自分も苛めの対象になろうとも、彼女を助ける努力をすれば、こんなことにもならなかっただろう。

「理香」

優斗はベンチで腰をずらし、彼女に近づいた。

「いまの君も、僕の助けを必要としているのかな?」

 口の中がカラカラに乾いていた。今、彼女は恵まれた環境にいる。一時的に安らぎを求めて優斗との再会を望んでいたとしても、彼女にはたくさんの友人や、そしてほかにも付き合っている男がいる。

 理香は小さく頷いた。

「でも、僕は弱い人間だから君を助けることができないかもしれない」

「……」

「でも、逃げないよ」

「優斗……」

「もう、逃げない。だから」

「……だから?」

「他に付き合っている男がいるなら、縁を切ってほしい」

 理香の顔を見た。理香はゆっくりと、でもしっかりと頷いた。そして小さく、「ごめんなさい」と謝った。

 理香を引きよせ、思いっきり抱きしめていた。理香の細い手が優斗の背中で結ばれるのがわかった。

「優斗って、そういうこと言える人だったんだ」

 理香が耳元で囁いた。

「僕は以前の僕と違うよ。進化したんだ」

「さっきの、本質の話と矛盾しない」

「しないよ。本質は本質。進化はするんだ」

「うん」

 理香の息が耳にあたり、こそばゆかった。

「今からは、幸子って呼んでね」

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